◇
その日は成外町が一年に一度だけ大々的に催す『成外内商店街祭り』の日で、町中の人が浮き足立つように派手な衣装を身に纏って町内の至る所を往来していた。
時折聞こえてくる祭り囃子の音。
私は、毎年一度だけ訪れるこの地元ならではの独特な空気が嫌いなわけではない。
祭りといえば母と行った懐かしい思い出もあるし、屋台で売っている甘酸っぱいあんず飴も割と好きな方。
じゃあなぜ今日の祭りの約束がこんなにも憂鬱なのかといえば、それはやはり、一緒にいく相手が陽菜だということ。それから地元で有名な商店街祭りに行けばいやでも学校中の生徒に出くわすことが必然だからだ。
陽菜と並んで歩くことは拷問に近い。明るく社交的で容姿も可愛い彼女と、陰気で愛想も可愛げもない私じゃ差がありすぎて毎回必ずと言っていいほど笑いのネタにされる。
おまけに今日は夕方から大雨になると天気予報で言っていて、私は雨の日の事故で母を失ってから雨というものが大の苦手だった。
やはり急に体調が悪くなったことにして断ろうか、なんて薄情なことを考えていると、突然目の前に黄色いラベルのペットボトルが差し出された。
「七瀬さん。それ、並べる段違ってる」
「え? あっ。ごめんなさい」
バックヤードでペットボトルの品出しを行っていた私にそう声をかけたのは、同じ高校に通う一つ年上の設楽先輩だ。
「先輩、しっかり」
「設楽先輩の方が年上じゃないですか」
「このコンビニじゃ七瀬さんの方が先輩っしょ」
「それはそうですけど……って、設楽先輩、何を」
「並べ直してんの」
「悪いです、自分で直しますから。先輩はもう上がる時間ですよね? 気にせずタイムカード押してください」
「タイムカード押したら残業代出ない」
「いやいや、先輩を残業させるわけには」
「お客さん待ってるし、二人でやったほうが早いでしょ。いいからほら早く、そのペットボトルとって」
「……ありがとうございます」
なんていい人なんだろう、この人は。
ペットボトルを差し出しながら設楽先輩の横顔をチラ見する。
サラサラの黒髪にさりげなくつけられた控えめなシルバーピアス。色白で小顔、整った顔立ちに高い身長。いつも眠そうで口数は少ないけれど、どんな相手にも親切に接してくれる優しい人柄だから、当然のことながらバイト先だけでなく学校でも男女問わず人気がある。
かくいう私も中学の頃から――先輩とは小学校から同じ学校に通っている――ひっそり先輩に憧れており、何を血迷ったか今年のバレンタインにはうっかり告白してしまうというハプニングまであったもののあっさりフラれている。
『ごめん、七瀬さんとは付き合えない』
今思い出しても火を噴きたくなるほど恥ずかしい過去だけれど、設楽先輩はそれからも変わりなく接してくれているし、むしろその日を境に会話する機会が増えたように思う。
未練は残るが後悔はない。
今日もこうやってそばにいられることが私のささやかな幸せだった。
「――そもそも七瀬さん、今日シフト入ってなかったと思うけど、新人の山川さんと代わったの?」
そんなことを考えながら二人で商品の陳列をし直していると、ふと思い出したように設楽先輩が言った。
「あ、はい。急用が入ったとかで……」
「彼氏とデートのどこが急用なの」
「……」
「こないだ彼女がバックヤードで自慢してたの、七瀬さんも後ろの方で聞いてたよね」
はい、聞いていました、とはもちろん言えなかった。
それを知ってか知らないでか、新人の山川さんは基本、私のことを都合の良い従業員ぐらいにしか思っていない。
「いいんです。私、特に予定ないですし」
「うそ。今日はあんず飴の日でしょ」
「え?」
「昼から一人で商店街祭りに行って縁日であんず飴買うのを楽しみにしてるんだって、前に言ってたじゃん」
「よ、よく覚えてますね」
そう言えば確かに、以前先輩と商店街祭りの話をしていて、そんなことを言った気がする。その時はまだ陽菜との約束がなかったから、人気の少ない昼時に一人で行ってあんず飴だけ買って帰ろうとしていた。
「俺、記憶力いいから」
どことなく得意げに言う設楽先輩の顔は、あまりにも格好良すぎて直視できない。でも、
「気にしないでください。祭りなら夕方から従姉妹と行くことになりましたので……」
現実を思い出して微妙に暗いトーンになってしまった。
慌てて愛想笑いを張り付けると、先輩は顎に手をあてて私の顔をまじまじ見つめてきた。
「そう」
「はい……」
「楽しみじゃないの?」
「えっ? どうしてです?」
「顔が沈んでる」
「あ、いや、き、気のせいですよ。一人でいくより誰かと一緒に行った方がきっと楽しいと思いますし」
本当は陽菜と行くくらいなら一人で行った方が断然気が楽なのだけれど、寂しい人間だと思われたくないし、優しい先輩に心配をかけたくないから咄嗟に取り繕った。すると先輩は、
「そう。女子はそういうの気にするよね。俺は気楽だし一人でいるのも好きだけど」
見栄を張らず周りも気にせず、そうあっさり言ってのけた。
「設楽先輩らしいですね」
「そう? 俺のことはともかく、自分の幸せを犠牲にしてまで相手に気を遣う必要はないと思うよ。七瀬さん自身もそうだけど、山川さんのためにもならないし」
的を射た言葉が心のど真ん中に突き刺さる。
「先輩……」
「まぁ、俺も人のこと言える立場じゃないんだけど。七瀬さんっていつも貧乏くじ引いてばっかで色々損してそうだし、もっと我儘に生きていいと思う」
図星としか言いようがない的確な言葉でそうくくり、設楽先輩は再び陳列棚に向き直ってペットボトルの並び替えを再開した。
「……」
やはりこの人は格好良い。
こうやって控えめでもスマートに相手を気遣えるような人間に、私もなりたい。
「あの」
「ん?」
「そうですよね。ありがとうございます」
相変わらず気の利く言葉も言えない私は精一杯の感謝の気持ちを込めてぺこりと会釈する。設楽先輩はなんてことはない顔で「別に」と言って最後の一本となるペットボトルを私に手渡した。
「じゃ、お先」
「はい。お疲れ様でした」
タイムカードを切る先輩を目で見送ると、バックヤードには私だけが残った。
バイト終了まであと一時間。外から聞こえてくる囃子の音が望まない約束を思い出させるようにボリュームを増していく。
このまま時が止まってしまえばいいのにと心の中でため息をつきながら、私は手の中に残る硬いペットボトルの感触と、耳に残る設楽先輩の優しい声を、いつまでも心の中に刻み続けていた。
その日は成外町が一年に一度だけ大々的に催す『成外内商店街祭り』の日で、町中の人が浮き足立つように派手な衣装を身に纏って町内の至る所を往来していた。
時折聞こえてくる祭り囃子の音。
私は、毎年一度だけ訪れるこの地元ならではの独特な空気が嫌いなわけではない。
祭りといえば母と行った懐かしい思い出もあるし、屋台で売っている甘酸っぱいあんず飴も割と好きな方。
じゃあなぜ今日の祭りの約束がこんなにも憂鬱なのかといえば、それはやはり、一緒にいく相手が陽菜だということ。それから地元で有名な商店街祭りに行けばいやでも学校中の生徒に出くわすことが必然だからだ。
陽菜と並んで歩くことは拷問に近い。明るく社交的で容姿も可愛い彼女と、陰気で愛想も可愛げもない私じゃ差がありすぎて毎回必ずと言っていいほど笑いのネタにされる。
おまけに今日は夕方から大雨になると天気予報で言っていて、私は雨の日の事故で母を失ってから雨というものが大の苦手だった。
やはり急に体調が悪くなったことにして断ろうか、なんて薄情なことを考えていると、突然目の前に黄色いラベルのペットボトルが差し出された。
「七瀬さん。それ、並べる段違ってる」
「え? あっ。ごめんなさい」
バックヤードでペットボトルの品出しを行っていた私にそう声をかけたのは、同じ高校に通う一つ年上の設楽先輩だ。
「先輩、しっかり」
「設楽先輩の方が年上じゃないですか」
「このコンビニじゃ七瀬さんの方が先輩っしょ」
「それはそうですけど……って、設楽先輩、何を」
「並べ直してんの」
「悪いです、自分で直しますから。先輩はもう上がる時間ですよね? 気にせずタイムカード押してください」
「タイムカード押したら残業代出ない」
「いやいや、先輩を残業させるわけには」
「お客さん待ってるし、二人でやったほうが早いでしょ。いいからほら早く、そのペットボトルとって」
「……ありがとうございます」
なんていい人なんだろう、この人は。
ペットボトルを差し出しながら設楽先輩の横顔をチラ見する。
サラサラの黒髪にさりげなくつけられた控えめなシルバーピアス。色白で小顔、整った顔立ちに高い身長。いつも眠そうで口数は少ないけれど、どんな相手にも親切に接してくれる優しい人柄だから、当然のことながらバイト先だけでなく学校でも男女問わず人気がある。
かくいう私も中学の頃から――先輩とは小学校から同じ学校に通っている――ひっそり先輩に憧れており、何を血迷ったか今年のバレンタインにはうっかり告白してしまうというハプニングまであったもののあっさりフラれている。
『ごめん、七瀬さんとは付き合えない』
今思い出しても火を噴きたくなるほど恥ずかしい過去だけれど、設楽先輩はそれからも変わりなく接してくれているし、むしろその日を境に会話する機会が増えたように思う。
未練は残るが後悔はない。
今日もこうやってそばにいられることが私のささやかな幸せだった。
「――そもそも七瀬さん、今日シフト入ってなかったと思うけど、新人の山川さんと代わったの?」
そんなことを考えながら二人で商品の陳列をし直していると、ふと思い出したように設楽先輩が言った。
「あ、はい。急用が入ったとかで……」
「彼氏とデートのどこが急用なの」
「……」
「こないだ彼女がバックヤードで自慢してたの、七瀬さんも後ろの方で聞いてたよね」
はい、聞いていました、とはもちろん言えなかった。
それを知ってか知らないでか、新人の山川さんは基本、私のことを都合の良い従業員ぐらいにしか思っていない。
「いいんです。私、特に予定ないですし」
「うそ。今日はあんず飴の日でしょ」
「え?」
「昼から一人で商店街祭りに行って縁日であんず飴買うのを楽しみにしてるんだって、前に言ってたじゃん」
「よ、よく覚えてますね」
そう言えば確かに、以前先輩と商店街祭りの話をしていて、そんなことを言った気がする。その時はまだ陽菜との約束がなかったから、人気の少ない昼時に一人で行ってあんず飴だけ買って帰ろうとしていた。
「俺、記憶力いいから」
どことなく得意げに言う設楽先輩の顔は、あまりにも格好良すぎて直視できない。でも、
「気にしないでください。祭りなら夕方から従姉妹と行くことになりましたので……」
現実を思い出して微妙に暗いトーンになってしまった。
慌てて愛想笑いを張り付けると、先輩は顎に手をあてて私の顔をまじまじ見つめてきた。
「そう」
「はい……」
「楽しみじゃないの?」
「えっ? どうしてです?」
「顔が沈んでる」
「あ、いや、き、気のせいですよ。一人でいくより誰かと一緒に行った方がきっと楽しいと思いますし」
本当は陽菜と行くくらいなら一人で行った方が断然気が楽なのだけれど、寂しい人間だと思われたくないし、優しい先輩に心配をかけたくないから咄嗟に取り繕った。すると先輩は、
「そう。女子はそういうの気にするよね。俺は気楽だし一人でいるのも好きだけど」
見栄を張らず周りも気にせず、そうあっさり言ってのけた。
「設楽先輩らしいですね」
「そう? 俺のことはともかく、自分の幸せを犠牲にしてまで相手に気を遣う必要はないと思うよ。七瀬さん自身もそうだけど、山川さんのためにもならないし」
的を射た言葉が心のど真ん中に突き刺さる。
「先輩……」
「まぁ、俺も人のこと言える立場じゃないんだけど。七瀬さんっていつも貧乏くじ引いてばっかで色々損してそうだし、もっと我儘に生きていいと思う」
図星としか言いようがない的確な言葉でそうくくり、設楽先輩は再び陳列棚に向き直ってペットボトルの並び替えを再開した。
「……」
やはりこの人は格好良い。
こうやって控えめでもスマートに相手を気遣えるような人間に、私もなりたい。
「あの」
「ん?」
「そうですよね。ありがとうございます」
相変わらず気の利く言葉も言えない私は精一杯の感謝の気持ちを込めてぺこりと会釈する。設楽先輩はなんてことはない顔で「別に」と言って最後の一本となるペットボトルを私に手渡した。
「じゃ、お先」
「はい。お疲れ様でした」
タイムカードを切る先輩を目で見送ると、バックヤードには私だけが残った。
バイト終了まであと一時間。外から聞こえてくる囃子の音が望まない約束を思い出させるようにボリュームを増していく。
このまま時が止まってしまえばいいのにと心の中でため息をつきながら、私は手の中に残る硬いペットボトルの感触と、耳に残る設楽先輩の優しい声を、いつまでも心の中に刻み続けていた。