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「今から二十年近く前の話になるかな。おじさんがサラリーマンとして働いていたある春の日、町で偶然再会した大学時代の友人から、とある会社を共同経営しないかっていうビジネスの話しを持ちかけられたんだ」

 そうして始まった『月華亭』の成り立ち。

 おじさんは遠くを見つめるようお店の外の景色を眺めたまま、過去の記憶を丁寧に辿る。

「当時の僕は、色々あって会社勤めに嫌気がさしていてね。脱サラして小さくてもいいから何か自分の店を持ちたいという夢を抱き始めていた時期だったから、その話は天から降ってきた好機に違いないと思って二つ返事で了承したんだ。……もちろん、友人への信頼があってこその結論だったんだけど」

「……はい」

「それからまもなく会社を辞めて、少ないけど退職金も手に入れて、それを出資金に回して入念に準備を進めて開店までは万事順調に進んでいたんだけど……」

 言葉の終わりに苦笑を滲ませたおじさんは、当時を思い返してやるせなさを噛み締めるようにその先を続ける。

「あっさり騙されてしまったんだ。支度金はもちろん、貯めていたお金までほとんど持ってかれて逃げられたうえ、身に覚えのない借金だけは全て押し付けられてしまって。当然警察にも相談したけどやり口が巧妙だったから窓口でつき返されてしまってね。悔しかったけどそもそも僕自身にも甘くて未熟な部分があったから、高い勉強代を払わされたと思って無一文の状態から借金を返していくしかなかった」

 思いのほか衝撃的な出発点に、思わず生唾を飲み込む。

 いつどこで母が出てくるんだろうとはやる気持ちもあったが、それ以上におじさんがそんなどん底からどのようにしてこのお店を軌道に乗せたのだろうかと純粋に気になった。

 相槌を打ちつつメモを取るふりをしていると、おじさんはさらに続けた。

「あいにくその頃は就職氷河期とも重なってね。サラリーマンに戻るのは難しかったから、何とか自分にできる仕事を起業して片っ端から挑戦したけど、なかなか生活は安定しなかった。毎日膨れ上がっていく借金を見るのは辛かったし、自分の愚かさを心から悔いたよ。本来なら――騙されてさえいなかったら、心に決めていた女性と結婚する約束だってあったはずだからね」

 その言葉は鋭い槍のように、私の胸を突き刺した。

 不審に思われないよう。過剰なリアクションと思われないよう。ゆっくりとおじさんの顔を見上げると、彼は静かに微笑んで言った。

「その心に決めていた女性の名前が『月華』さん。銀行の窓口で働いていて、人当たりがよく手際のいい優秀な銀行員さんだって巷の地元民……特におじいちゃんおばあちゃんには大人気の女性だったんだ」

「……」

 間違いない、私の母だ。

 私の母は元銀行員で、人伝で聞いた話だけれど親切な窓口業務には定評があり、おじいちゃんおばあちゃんにファンが多く、業務中に何度も振り込め詐欺を阻止したといったような逸話まで耳にしたことがある。

 ただ名前が出てきただけだというのに、ずっと探していたパズルのピースを見つけた時のような感動がどっと押し寄せ、感極まって涙腺が緩みそうになるのをぐっと堪える。

 おじさんはその続きを滔々と語り続けた。

「彼女は僕が店を持つことを応援してくれていたし、共同経営の話がうまくいってさえいれば、生活が安定したところで籍を入れようって話にもなってた。だけど、僕が騙されて借金を作ってしまったばっかりに距離を置かざるを得なくなったんだ」

「なんで……」

「おじさんはガラの悪い借金取りに追われるようになってしまったし、そいつらはお金のためなら手段を選ばなかったからね。彼女にまで被害が及ぶかもしれなかったし、もし何かあらぬ噂でも立ってしまったら、お金を扱う仕事をしている彼女の信用にまで関わる致命的な問題だったんだ」

「……」

「だから、すみやかに彼女の前から姿を消した。居所を伝えればきっと彼女は危険を冒してでも僕を手助けしにきてしまうだろうから、行き先も告げずにね」

「そんな……」

「ひどい話だろう? でもね、自分なりに彼女を守ろうと必死だったんだ。辛いけど何年かたって身の回りの清算ができた時、彼女にまだ特定の人間がいなければその時はまた一からやり直させてほしいってそう伝えようと固く決意して、後ろ髪を引かれる思いで家を出た」

 辛そうにそう語るおじさんの瞳には、幾重にも重ねた後悔の色が滲み出ているようだった。

 偽りのない真実――彼の表情からはそう感じてとれたし、それが事実であるならばやはり叔母から伝えられた『女を作って突発した』という話は偽りだったのかという憤りを覚える同時に、悲運を辿ったおじさんと母の経緯になんとも言えない感情がわいた。

「そんなことが……あったんですね……」

「ああ。どうしようもない未熟な人間だったんだよ、おじさんは。……でもやっぱり気になって仕方がなかったから、念のため、後になって新しい電話番号だけを書いた手紙を『もし何か困ったことがあればここにかけてくれ』って、彼女の元に送りつけたりもしたけど、きっと怒っていただろうし、彼女がそれを読んだかどうかすら分からない」

「……」

 母は間違いなく読んでいた。

 怒っていたかどうかまでは分からないが、信じて彼の帰りを待ち続けていたからこそ、手帳にその番号を記し、後生大事に持ち続けていた。

 だから今、私がここにいるのだ。

「――その後、弁護士の先生に相談したりしながら長い年月をかけてようやく借金は返済できたんだけど、結局彼女からは一度も連絡がこなくてね。それでもおじさんは一日だって彼女を忘れたことがなかったから、返済の目処がたった頃に彼女の元を訪れたりもしたんだが……」

 そこまで言って、おじさんは言葉を詰まらせた。

 束の間、重い沈黙が流れたがすぐに気を取りなすよう小さく深呼吸をして、おじさんは真剣な眼差しで言葉を紡ぐ。

「住んでいたアパートの部屋は引き払われ影も形もなかった。長い年月が経っていたしそれは仕方のないことだと思ったが、偶然隣室の人に話を聞くことができて、そこで初めて、彼女が何年か前に交通事故で亡くなったっていう話を知ったんだ」

「……っ」

 ――そう。それは十数年前におきた、あの事故のこと。

「しかも彼女には小さな子どもがいて未婚の母だったっていうのを聞いて…… 。いてもたってもいられずすぐに行方を追ったけど全く足取りは掴めなかった。唯一、その後の調べでわかったことといえば、その子の名前が――『ツキノ』ということぐらいで……」

「……」

 言葉が、出ない。

「これは完全におじさんのエゴイズムで推測なんだけど、子どもの年齢や時期的なものを考えても、そのツキノっていう子は、僕と月華さんの子だとしか思えないんだ。……いや、単なる勘違いかもしれないけど、それならそれでもいい。彼女は早くに両親を亡くしていて唯一の姉妹である妹とも不仲だと聞いていたから遺されたその子が無事に暮らしているかどうか心配で、可能ならもちろん引き取りたいと思ってるし、拒否されたなら付き纏うようなことはしない。でも、せめてその子が不自由なく暮らせるよう資金援助だけでもさせてもらいたいと思ってるんだ」

「……」

「血が繋がっていてもいなくても、大切な人の子どもはおじさんにとっても大切な宝だからね。だから――その時、ようやく軌道に乗り出していた弁当屋の名前を、思い切って『月華亭』に変えたんだ。いつかその子がこの店名に気を留めて、おじさんの存在に気づいてくれたらいいなって、そう思って」

 そう言って、おじさんは首に下げていたボロボロの手作りお守り――『商売繁盛! 大吉&月華』と刺繍されている――を慈しむよう見つめた。

 ああ、やっぱり。

 きっとこの人は、間違いなく私のお父さんだ。

 いつか叔母さんが言っていた父の名前は『大吉』だったし、きっと母は父の蒸発後に妊娠に気がつき、父に負担をかけないよう未婚を選んで一人で産んで育てていたのだろう。

 私の母親はそういう人だった。

「もしその子が無事に成長していたとしたら、ちょうど君と同じくらいの年頃じゃないかな。だから、よかったら君にもこのお弁当をたくさん周りのお友達に広めて欲しいんだ」

「……」

「弁当の中身はどれも月華――その子の母親が好物だったものばかりだから、きっと、何かを感じ取ってくれるとそう信じてる」

 おじさんは……いや、父は。

 膝の上に乗せていたお弁当を、そっと私の手の上に託した。

 父の優しさと愛情がたっぷり込められたお弁当はまだ温かく、冷え切った私の心を十二分に満たしてくれた気がした。

「……さてと、これがうちのお店の成り立ちなんだけど、長くなっちゃったね。記事にするかどうかは別として、これも何かのご縁だしお弁当の中身が口に合えばまたいつでもおいで。普段は一般販売していないけど、一つや二つぐらい特別に作ってあげるから」

 にっこりと微笑んだ顔に刻まれる皺と愛嬌。

 人が良さそうなその笑顔の裏にはきっと数々の苦難があったのだろう。ふさふさとした頭髪に入り混じる白髪を見て、そんなことを思った。

 口を結んだまま小さく頷き、手の中のお弁当をじっと見つめる。

「ありがとう……ございます。あの、お金……」

「今日はいいよ。特別にご馳走してあげる」

「でも……」

「作りすぎちゃったやつだしね。気にしないで」

「……」

 ぺこりと頭を下げる。本当はそれ以外に言いたいこと、聞きたいことがたくさんあったのに、何一つ口から出てこなかった。

 長い間、『父』という存在から疎遠に暮らしていたためか、甘えるすべを知らずに生きてきたからなのか。

「よし、じゃあ店先までお送りするよ。あー、えっと。そういえば名前聞いてなかったね、なんて呼べばいいかな?」

 たった一言、『私が月乃です』といえば済む話なのに。

 それなのに、どうしてもその一言すら言い出せずに――。

「……です……」

「……うん?」

「つき……」

「……?」

「つき……、あ、いえ。み……つき……です」

 相手の反応を知るのが怖くて、また一つ、どうしようもない嘘をつく。

「……そっか。ミツキちゃんか……」

 おじさんは噛み締めるようにその偽名を反芻すると、しばし私の顔をじっと見つめた。

「……」

「……」

 今ならまだ訂正できる。

 やっぱり嘘です。私が『月乃』です。月華は私の母です。

 それだけの台詞なのにどうしてなんだろう。

 長い空白の年月があまりにも重く肩にのしかかって、どうしたって言葉が出てこなかった。

「じゃあ、そこまで見送らせてね」

「……はい」

 情けない自分に嫌気がさして、俯き唇を噛み締めながら立ち上がる。

 施設に入ったら自由に外出ができなくなってしまう。

 施設に入らずとも、万一、一時保護の対象にならず叔母の家に連れ戻されるようなことになれば、報復から外出を制限されてもう二度と会えなくなってしまうかもしれないし、そもそも――。私は生まれ変わることを希望していて、神様との約束が果たされれば二度とここへは来られなくなってしまうかもしれない。

 だからこそ、もっとおじさんと話がしていたかったし、ここを離れたくなかった。

「……」

 それなのに、今さらなんて名乗り出たらいいのかわからなくて。

 今回ばかりは『どうせ最後だから』なんて軽い気持ちで名乗りを上げることはできなかった。

「ありがとう……ございました」

「……気をつけてね」

 背を向けたまま、俯いたまま、挨拶を交わしてゆっくりと歩き出す。

 おじさんの見守るような視線が背中にささるけれど、振り返ることさえできずにお店から遠ざかっていく。

 手の中のお弁当の温かさが身に染みて、自分の弱さに、不甲斐なさに、無性に情けなくなって目に熱いものが込み上げてくる。

 溜め込んだ涙が落ちないよう、必死に歯を食いしばったその時――。

「あのっ!」

 精一杯振り絞ったようなおじさんの声が耳に届く。

 今振り返ったら、泣きそうな顔を見られてしまう。

 だから振り返りはしなかったけど、足を止めて耳を傾けた。

 おじさんは、「あ、えっと」とか、「その」とか。

 まるで優柔不断な私みたいにもじもじ二言目を探していたけれど、やがて踏ん切りをつけるようにその先の言葉を続けた。

「あの、その、もし間違ってたらごめん。君……本当は、ツキノちゃんじゃないのかな」

「……っ」

 さわりと吹いた爽やかな夏風に乗って、おじさんの柔らかな声が届いた。

「あ、本当にさ、間違いだったり、もし仮にそうだとしてもおじさんのこと許せないとか、今の生活が幸せだからぶち壊さないでほしいとか、そういう理由があるならこのまま無視してくれて構わないんだけど……その……」

「……」

「もし、本当にもし、君がツキノちゃんなら、どうか心から謝らせて欲しい」

 私の背中に向かって、おじさんは切願するように訴える。

「今まで一人にしてごめん。君を、君のお母さんを、幸せにしてあげられなくて……本当にごめん」

「……」

「許して欲しいなんて言わない。でも、もし君に少しでもその気があるなら、いつでもおじさんのところに来てほしい。街角のしがない弁当屋だし質素な暮らししかさせてあげられないけど……今までできなかった分、精一杯、毎日を笑顔にしてあげられるようおじさん死ぬ気で頑張るから」

「……」

「だからっ……」

 弾かれたように踵を返す。

 私はこれでも一応年頃の高校生で、相手はいわば初対面に近いおじさんだ。

 だからみっともない姿なんて見せるつもりはなかったし、年相応の言動ができると思ってた。それなのに、この時は本能で体が動いてしまったというか。後にも先にもこの時だけは世間体だとか恥じらいだとか見栄だとかそういった余計な感情から解き放たれて、自然とおじさんに……いや、父に向かって駆け出していた。

「お……とうさん!」

「……っ!」

 両手を広げた父の胸元に飛び込む。

 ずっとずっと探し続けていた父の大きな懐。

 父は何も言わず全力で受け止めてくれたし、嗚咽を漏らす私の背中を宥めるように優しく撫で続けてくれた。

「ごめん……ごめん、本当にごめん……僕の……父さんのせいで寂しい思いさせて本当にごめんな……」

 十七年間。ずっと抱えてきた父への想い。

 誰にも聞けなくて、不安に脅かされながらも信じることを諦めずに閉じ込め続けてきたその膨大な思いは、幾重もの大粒の涙となって眦から溢れ地面に落ちていった。

 父の謝罪は長らく続き、私は何度でも首を横に振る。

 もう一人じゃない。

 自分を必要としてくれている人が今確かにここに存在している。

 その事実が、私を暗闇の淵から掬い上げる。

 柔らかなひだまりのなか――そうして私と父は、悲願だった念願の対面を、しばし無言で噛み締め続けたのだった。