◇
バスを乗り継ぎ約一時間ほどをかけて到着したそこは、ショッピングセンターというには心許ない街角の小さな商店街だった。
古びた写真館、独特な香りが漂うクリーニング屋さんに、小さな喫茶店。それから年季の入った駄菓子屋さんに、『マーケット』と名のついた個人商店と、修理がメインと思われる自転車屋さん、そして年配向けの洋服やフォーマルドレスを店先に並べている昔ながらの洋品店。
ところどころ閉店してしまっているお店を挟んで、より人気の少ない道の外れに母が記した『月華亭』はあった。
スライド式のガラスドアに『営業中』と書かれた札がかけられており、その奥には旧式のレジと注文口と思しきカウンターが見える。
壁にはこのお店の常連さんと思しき地元住民と月華亭のお弁当が写ったイベント写真がたくさん飾られていて、お店の中央にはお弁当を入れるワゴンのような棚も置いてあるが、上から大きな布がかけられていて普段は使われていないような印象を受ける。
厨房からは小気味よい包丁の音が漏れ聞こえ、柵がはめられた窓からは香ばしい焼き魚の匂いが漂ってきた。
(あそこだ……)
ごくりと喉を鳴らす。
店内には明かりが灯っていないものの、厨房の明かりが注文口から溢れていて、あの奥に母と繋がりのある人物がいるのかと思うと、思い出したように心臓がばくばくと音を立て始めた。
(どうしよう。いきなり入って行ったら迷惑かな。まずは電話してみた方がいいかな)
ここに来るまでは勢いもあって強い意志が漲っていたのに、今さらおたおたするだなんてなんて情けないことだろう。
考えれば考えるほど雑念がよぎって足が出せなくなってしまいそうだったので、気持ちを切り替えるよう大きく深呼吸をすると、無の状態でお店に向かって突進し、古びたガラス扉をスライドさせる。
「す、すみません」
蚊が鳴くような声をあげ、一歩、店内に足を踏み入れる。しばらくは様子見で一般客を装って店主と接触しようと思っていたのだが、生憎返事はなく、厨房からは中華鍋をおたまで叩くような調理音しか返ってこない。
(忙しいのかな?)
首を傾げながらもう一歩踏み込んで、調理場を覗き込もうとする。
「すみません。あのー……」
「おわっ⁉」
「きゃっ」
身を屈めて注文口に首を突っ込んだ瞬間、おたまを持ったおじさんが中から顔を突き出してきたので、危うく衝突しかける。
「びっくりした! お客さん、いつからいたんです⁉」
「ごめんなさい、その、今来たばかりで……」
驚いたように首を引っ込めるおじさん。年は四十代ぐらいだろうか。中肉中背で頭にタオルを巻き、人が良さそうな顔つきに丸眼鏡をかけているんだけれど、調理していたためかレンズが白く曇っている。
おじさんは首元にかけた手ぬぐいで眼鏡を拭いながら、わざわざ店内まで出てきてくれた。
「すみません。せっかくなんですけどね、実はうち、だいぶ前から企業さん向けの商品しか作ってないんですよ〜。稀に余裕がある時なんかは一般販売もするんですがね、一人だとどうしてもそこまで手が回らなく……」
「あ、えっと。そ、そうなんですね。美味しそうだったからつい入ってきてしまったんですが……」
「……」
「……? あの?」
眼鏡を掛け直したおじさんと目があった。
澄んだ色の瞳がまっすぐにこちらを見ている。
首を傾げて見せると、ようやくおじさんはハッとしたように頭を振った。
「あ、すみません。ちょっと、知り合いによく似ていたもので……」
どきりとする。きっと母のことに間違いない。
『知り合いとは、七瀬月華のことでしょうか?』
そう聞きたかったけれど、臆する気持ちが邪魔をして咄嗟には聞けなかった。
何も言えず無言で突っ立っていると、おじさんは慌てて場を取りなすように尋ねてきた。
「あー……えっと。お腹空いてるのかな?」
「あ、はい」
「そうかー。普段は一般販売していないんだけどね、今日は偶然いつもより少し多く作りすぎちゃったから、うちの名物『月華弁当』でよければ一つだけお出しできるよ」
優しく目を細めてそう提案してくれるおじさん。
その温厚な雰囲気と親切な口ぶりが嬉しくて、
「ぜひ、お願いします!」
そう答えると、おじさんはにっこり笑って「ちょっと待っててね」と言い残し、再び厨房へ戻っていった。
注文口から中にいるおじさんをじっと見つめる。
おじさんはたくさん並んだ作りかけのお弁当の一つに白いご飯を装い、おかかと海苔をかぶせると、さらにその上から脂の乗った鮭の切り身をのせる。付け合わせはポテトサラダにきんぴらごぼう、卵焼き、それからはんぺんチーズ揚げまでついていた。
どれもこれも私の大好物だし、はんぺんチーズ揚げは母がよく保育園のお弁当に入れてくれたおかずで、母自身の大好物でもあった。
「お嬢ちゃんは高校生ぐらいかな?」
詰められていくお弁当の中身とおじさんの動きをぼうっと眺めていると、ふいにそんな質問が飛んできた。
「へ? あ、はい」
「そうかそうか。まだまだ食べ盛りな時期だよね。こっちの唐揚げもサービスしちゃおうかな。あ、でも女の子だもんね、もしカロリーを気にしてるとかだったら無理に食べなくてもいいからね」
穏やかな口調でそう言って、おじさんは手際よくお弁当に唐揚げを詰めてくれる。
「嬉しいです、ありがとうございます」
「……」
素直に礼を述べると、おじさんは嬉しそうに目を細めてから手元に目線を落とし、しばしの沈黙を作る。
時折こちらをちらりと見ては物憂いげな表情をしているので、何か話題を提供して空気を変えようと、思い切って口を開いた。
「あの」
「あ、はい?」
「このお店の『月華亭』っていう名前、素敵ですよね」
本当はそんな勿体ぶった聞き方をしたいわけではないのに、真実を知るのが怖くてつい遠回りしてしまう。するとおじさんは、
「ありがとう。おじさんもすごく気に入っている店名なんだけど、本当はね、最初は全然違う名前で全く別のお店を起業する予定だったんだ」
と、そう親切にそう教えてくれた。
「そっ、そうなんですか?」
「ああ。でもこんな話しても面白くないよね」
「そんなことないです! その、えっと、私……じ、実は学校で新聞部に入っていて」
「新聞部?」
「は、はい。今月のテーマが『街角の気になるお店』で、いろんなところでお店のルーツを取材させてもらってるんです。もしよかったら、このお店についても詳しく聞かせてくれませんかっ」
咄嗟に思いついた割には我ながら良い設定だと思ったし、珍しく自然に演技もできたように思う。
でもその一方で、もしかしたら父かもしれない相手にこんな嘘をつくだなんてと申し訳なく思う気持ちもあった。
良心は痛むけれど、おじさんと私の母の関係、そしておじさんにとっての私が一体どういう立ち位置なのかを把握するまでは正体を明かさない方が得策だろうとそう判断する。
場合によっては迷惑になってしまうかもしれないのだし。
「店のルーツ……か。わかった、いいよ。お店の仕込みもちょうど一段落ついたところだし、少しなら時間あるから」
私が気持ちを切り替えている間にも、おじさんは真摯に向き合うような表情を見せつつ快くそう返事をしてくれた。
「本当ですか! ありがとうございますっ」
「立ち話もなんだし、そこのベンチでもいいかな」
「はい」
再び厨房から出てきた彼の手には出来上がったばかりのお弁当が携えられていて、注文口の脇にある木製ベンチへ促され、二人で並んで腰をかける。
店内には控えめなボリュームに設定された音楽が流れていて、お互いが無言であっても沈黙が苦にならない程度の居心地の良さが満ちていた。
「えっと。このお店の成り立ちから話せばいいのかな?」
出来立てのお弁当を大切そうに膝の上に置き、柔らかい口調でそう切り出してくるおじさん。
「はい。どういう経緯でお店を立ち上げ、『月華亭』っていう名前になったのか、その辺りを詳しく聞かせてもらえれば嬉しいのですが……」
「わかった。少し入り組んだ話になってしまうけど、隠してはいないし、むしろ少しでも多くの人にこの店名の由来が広まってくれればいいなとすら思っているから、正直に話すね」
とても含みのある前置きをしてから、おじさんはお店の成り立ちについて静かに語り始めた。
バスを乗り継ぎ約一時間ほどをかけて到着したそこは、ショッピングセンターというには心許ない街角の小さな商店街だった。
古びた写真館、独特な香りが漂うクリーニング屋さんに、小さな喫茶店。それから年季の入った駄菓子屋さんに、『マーケット』と名のついた個人商店と、修理がメインと思われる自転車屋さん、そして年配向けの洋服やフォーマルドレスを店先に並べている昔ながらの洋品店。
ところどころ閉店してしまっているお店を挟んで、より人気の少ない道の外れに母が記した『月華亭』はあった。
スライド式のガラスドアに『営業中』と書かれた札がかけられており、その奥には旧式のレジと注文口と思しきカウンターが見える。
壁にはこのお店の常連さんと思しき地元住民と月華亭のお弁当が写ったイベント写真がたくさん飾られていて、お店の中央にはお弁当を入れるワゴンのような棚も置いてあるが、上から大きな布がかけられていて普段は使われていないような印象を受ける。
厨房からは小気味よい包丁の音が漏れ聞こえ、柵がはめられた窓からは香ばしい焼き魚の匂いが漂ってきた。
(あそこだ……)
ごくりと喉を鳴らす。
店内には明かりが灯っていないものの、厨房の明かりが注文口から溢れていて、あの奥に母と繋がりのある人物がいるのかと思うと、思い出したように心臓がばくばくと音を立て始めた。
(どうしよう。いきなり入って行ったら迷惑かな。まずは電話してみた方がいいかな)
ここに来るまでは勢いもあって強い意志が漲っていたのに、今さらおたおたするだなんてなんて情けないことだろう。
考えれば考えるほど雑念がよぎって足が出せなくなってしまいそうだったので、気持ちを切り替えるよう大きく深呼吸をすると、無の状態でお店に向かって突進し、古びたガラス扉をスライドさせる。
「す、すみません」
蚊が鳴くような声をあげ、一歩、店内に足を踏み入れる。しばらくは様子見で一般客を装って店主と接触しようと思っていたのだが、生憎返事はなく、厨房からは中華鍋をおたまで叩くような調理音しか返ってこない。
(忙しいのかな?)
首を傾げながらもう一歩踏み込んで、調理場を覗き込もうとする。
「すみません。あのー……」
「おわっ⁉」
「きゃっ」
身を屈めて注文口に首を突っ込んだ瞬間、おたまを持ったおじさんが中から顔を突き出してきたので、危うく衝突しかける。
「びっくりした! お客さん、いつからいたんです⁉」
「ごめんなさい、その、今来たばかりで……」
驚いたように首を引っ込めるおじさん。年は四十代ぐらいだろうか。中肉中背で頭にタオルを巻き、人が良さそうな顔つきに丸眼鏡をかけているんだけれど、調理していたためかレンズが白く曇っている。
おじさんは首元にかけた手ぬぐいで眼鏡を拭いながら、わざわざ店内まで出てきてくれた。
「すみません。せっかくなんですけどね、実はうち、だいぶ前から企業さん向けの商品しか作ってないんですよ〜。稀に余裕がある時なんかは一般販売もするんですがね、一人だとどうしてもそこまで手が回らなく……」
「あ、えっと。そ、そうなんですね。美味しそうだったからつい入ってきてしまったんですが……」
「……」
「……? あの?」
眼鏡を掛け直したおじさんと目があった。
澄んだ色の瞳がまっすぐにこちらを見ている。
首を傾げて見せると、ようやくおじさんはハッとしたように頭を振った。
「あ、すみません。ちょっと、知り合いによく似ていたもので……」
どきりとする。きっと母のことに間違いない。
『知り合いとは、七瀬月華のことでしょうか?』
そう聞きたかったけれど、臆する気持ちが邪魔をして咄嗟には聞けなかった。
何も言えず無言で突っ立っていると、おじさんは慌てて場を取りなすように尋ねてきた。
「あー……えっと。お腹空いてるのかな?」
「あ、はい」
「そうかー。普段は一般販売していないんだけどね、今日は偶然いつもより少し多く作りすぎちゃったから、うちの名物『月華弁当』でよければ一つだけお出しできるよ」
優しく目を細めてそう提案してくれるおじさん。
その温厚な雰囲気と親切な口ぶりが嬉しくて、
「ぜひ、お願いします!」
そう答えると、おじさんはにっこり笑って「ちょっと待っててね」と言い残し、再び厨房へ戻っていった。
注文口から中にいるおじさんをじっと見つめる。
おじさんはたくさん並んだ作りかけのお弁当の一つに白いご飯を装い、おかかと海苔をかぶせると、さらにその上から脂の乗った鮭の切り身をのせる。付け合わせはポテトサラダにきんぴらごぼう、卵焼き、それからはんぺんチーズ揚げまでついていた。
どれもこれも私の大好物だし、はんぺんチーズ揚げは母がよく保育園のお弁当に入れてくれたおかずで、母自身の大好物でもあった。
「お嬢ちゃんは高校生ぐらいかな?」
詰められていくお弁当の中身とおじさんの動きをぼうっと眺めていると、ふいにそんな質問が飛んできた。
「へ? あ、はい」
「そうかそうか。まだまだ食べ盛りな時期だよね。こっちの唐揚げもサービスしちゃおうかな。あ、でも女の子だもんね、もしカロリーを気にしてるとかだったら無理に食べなくてもいいからね」
穏やかな口調でそう言って、おじさんは手際よくお弁当に唐揚げを詰めてくれる。
「嬉しいです、ありがとうございます」
「……」
素直に礼を述べると、おじさんは嬉しそうに目を細めてから手元に目線を落とし、しばしの沈黙を作る。
時折こちらをちらりと見ては物憂いげな表情をしているので、何か話題を提供して空気を変えようと、思い切って口を開いた。
「あの」
「あ、はい?」
「このお店の『月華亭』っていう名前、素敵ですよね」
本当はそんな勿体ぶった聞き方をしたいわけではないのに、真実を知るのが怖くてつい遠回りしてしまう。するとおじさんは、
「ありがとう。おじさんもすごく気に入っている店名なんだけど、本当はね、最初は全然違う名前で全く別のお店を起業する予定だったんだ」
と、そう親切にそう教えてくれた。
「そっ、そうなんですか?」
「ああ。でもこんな話しても面白くないよね」
「そんなことないです! その、えっと、私……じ、実は学校で新聞部に入っていて」
「新聞部?」
「は、はい。今月のテーマが『街角の気になるお店』で、いろんなところでお店のルーツを取材させてもらってるんです。もしよかったら、このお店についても詳しく聞かせてくれませんかっ」
咄嗟に思いついた割には我ながら良い設定だと思ったし、珍しく自然に演技もできたように思う。
でもその一方で、もしかしたら父かもしれない相手にこんな嘘をつくだなんてと申し訳なく思う気持ちもあった。
良心は痛むけれど、おじさんと私の母の関係、そしておじさんにとっての私が一体どういう立ち位置なのかを把握するまでは正体を明かさない方が得策だろうとそう判断する。
場合によっては迷惑になってしまうかもしれないのだし。
「店のルーツ……か。わかった、いいよ。お店の仕込みもちょうど一段落ついたところだし、少しなら時間あるから」
私が気持ちを切り替えている間にも、おじさんは真摯に向き合うような表情を見せつつ快くそう返事をしてくれた。
「本当ですか! ありがとうございますっ」
「立ち話もなんだし、そこのベンチでもいいかな」
「はい」
再び厨房から出てきた彼の手には出来上がったばかりのお弁当が携えられていて、注文口の脇にある木製ベンチへ促され、二人で並んで腰をかける。
店内には控えめなボリュームに設定された音楽が流れていて、お互いが無言であっても沈黙が苦にならない程度の居心地の良さが満ちていた。
「えっと。このお店の成り立ちから話せばいいのかな?」
出来立てのお弁当を大切そうに膝の上に置き、柔らかい口調でそう切り出してくるおじさん。
「はい。どういう経緯でお店を立ち上げ、『月華亭』っていう名前になったのか、その辺りを詳しく聞かせてもらえれば嬉しいのですが……」
「わかった。少し入り組んだ話になってしまうけど、隠してはいないし、むしろ少しでも多くの人にこの店名の由来が広まってくれればいいなとすら思っているから、正直に話すね」
とても含みのある前置きをしてから、おじさんはお店の成り立ちについて静かに語り始めた。