◇
――がんっ、がらがらがしゃんっ。
鈍い音とともに、強烈な痛みが頬と背中に同時に走る。
玄関の扉を開け、敷居を跨いで家に上がろうとした瞬間、頬を張り飛ばされた。
目の前には体の前で両腕を組みまるで汚物に向けるような眼差しで私を見下ろす義母と、その背中に隠れるようにして口元を歪めている陽菜の姿がある。
張り飛ばしたのはもちろん、叔母である義理の母。
その衝撃で玄関脇にある傘立てまでふっ飛ばされ床に転がった私は、じんじん痛む頬を両手で抑え、早まる心音と恐怖心を必死に押し隠しながら叔母さんを見上げた。
「よくもまあ、おめおめと帰って来れたもんだねぇ、この汚い溝鼠が!」
耳を覆いたくなるような罵声が頭上に降ってくる。
この口調、そして声のトーン。
今の叔母さんは間違いなく激昂モードだ。
「聞いたわよ全部。あんた、うちの陽菜を長時間待たせた挙句、彼氏を取られた腹いせに暴言吐いて祭りを台無しにしてばっくれたんだって? なんっっっって恩知らずな娘なのかしらねぇ! あんたのせいで泣きながら帰ってきたんだよ陽菜は! しかもわざわざ厚意で貸した大事な浴衣をそんな泥だらけのびしょびしょにして……カビ臭いったらありゃしない! 弁償だけで済むと思ったら大間違いよ。土下座しようが何しようが今日という今日は許さないからね!」
身に覚えのない筋書きに絶句した。
叔母さんの後ろでぺろりと舌を出している陽菜に気がつき、またかと唇を噛み締める。
思えば叔母さんは稀に、手がつけられないほど暴力的になることがあった。
陽菜と私に確執が生じた時、私が叔母さんの指示通りに動けなかった時、陽菜が学校のテストで悪い点をとった時、単に虫の居所が悪い時……など。
きっかけは様々だがその大半はなんらかの形で陽菜が絡んでいる。
腹いせ、もしくは叔母さんの怒りの矛先を自分から逸らす目的で標的にされているのだろう。
幼少の頃はよくあったものの、高校生になった今では口外されるのを警戒してか折檻よりも口撃が主だったため、久しぶりに味わう苦い感触だった。
「さあてどうしてくれようかしら。まずは土下座からかしらね」
叔母さんが姿勢を解き、こちらに詰め寄るように足を出す。
いつもならこのまま叔母さんの小言と暴力に歯を食いしばって耐えるしか選択肢がないのだが、今日の私は違った。
「早く立ちなさ――」
「いっ……いい加減にしてくださいっ!」
「……っ⁉」
恐怖心をかなぐり捨てると、私の腕を掴んで立ち上がらせようとした叔母さんの手を振り払い、自らの足で立ち上がる。
「ちょ、な……」
「……」
正直、ものすごく怖かった。足だって震えてる。
でも、大丈夫。わたしには神様がついてる。
自分自身を鼓舞するよう心の中で何度もそう暗示をかけて腹を括ると、驚いたようにこちらを見る叔母さんと、その後ろにいる陽菜をきっと睨みつけた。
「な、なによあんた……」
「約束の時間に遅刻したり大事な浴衣を濡らしたことなら謝ります。で、でも、それならなぜあの時に掃除や洗濯など無理難題を仰ったんでしょうか」
「な……」
拭い切れなかった恐怖心に声が震えたが、胸の閊えを吐き出せた興奮で僅かに溜飲が下がる。
今までにない剣幕に驚き、唖然と口を開けている叔母さんに私はさらに畳み掛けた。
「そ、それに……お借りしたこちらの浴衣ははじめから染みや匂いがひどい状態でした。確かに雨や泥で汚してしまった部分もあると思うのでその点は弁償しますが、私のお金は叔母さまが管理されていて自由に使えませんし、貯めているアルバイト代もまだ学生でそんなに多くはないので、相場を調べてから相応の支払いをするってことで良いでしょうか?」
「ちょ、な、な……」
口を挟む隙を与えないように一気にそう捲し立てると、口籠る叔母さんに「では、着替えてくるので……」と断ってから部屋に向かおうとした。
――が、もちろん、その途中で我に返った叔母さんに浴衣の裾を引っ張られ壁に叩きつけられた。
がしゃん、がらがら!
転がっていた傘立てに足があたり、床に散らばった傘がさらにばらばらになる。
「……っ!」
「あたしに口答えしようなんていい度胸じゃないの! しかもその生意気な口ぶり、小利口な言い草……死んだ姉さんにそっくりすぎて胸糞悪いったらありゃしない! あんた、これ以上身体に傷つけられたくなけりゃ今すぐこの家から出――」
「い……言われなくても出て行きますっ」
ぎゅっと拳を握って、間髪入れずそう答える。
叔母さんはもう、驚きを通り越して愕然とするように私を見た。
予想外の展開に、叔母さんの後ろにいる陽菜でさえ狼狽しているのがわかる。
「ちょ、ちょっと待ってよ月乃、ほ、本気で言ってんの⁉ どうせ行くあてなんか……」
「行くあてなんてない……。でも、ここにいて延々と厄介者扱いされたり理不尽な思いを強いられるぐらいなら、どこかで自由に生きて野垂れ死んだ方がましだから……」
「な……」
今まで大人しく従うしかなかった私が急に手のひらを返したものだから、慌てて仲裁に入ろうとした陽菜はもちろん、叔母さんなんか口をぱくぱくさせて言葉に詰まっていた。
「……」
「じ、冗談でしょ……」
私は絶句する二人の脇を無言ですり抜けると、自分の部屋――とは名ばかりの単なる納戸――まで駆け上がり大急ぎで荷造りをする。
ずぶ濡れの浴衣を脱ぎ、私服に着替える。学校とバイト先の制服、教科書や母の形見、その他の必需品をボストンバックに素早く詰め込んで肩にかけると意を決して部屋を飛び出した。
玄関先にはいまだに呆然と突っ立つ陽菜と叔母さんの姿があり、陽菜は予想外の展開におろおろしながら慌てて叔母さんの服の裾を引っ張った。
「ち、ちょっとママ! 月乃が本気で……」
「放っておきなさいっ! どうせ何もできやしないしすぐ戻ってくるわよ!」
「で、でもっ、もしこのことが街で噂にでもなったら……」
「そ、それは……」
陽菜の指摘にギリっと唇を噛み締める叔母さん。
何か物言いたげにこちらを睨んでいるけれど構わない。
「今まで色々ありがとうございました。浴衣は後日お返しいたします」
「ちょ、ちょっと月――」
――バタン。
陽菜の制止を振り切るように玄関扉を閉める。
抱えていた鬱憤を全てその場に置き去りにするよう踵を返すと、雨上がりの夜道を風を切って走った。
「……」
――怖かった。
でも……すっきりした。
これからのことを考えると頭の中は不安でいっぱいだけれど、全くと言っていいほど後悔はなかった。
立ち止まり夜空を見上げると、いつの間にか満点の星空が優しく包み込むように広がっていて、その壮大な眺めになぜだか少し泣きそうになった。
(もうあの家には帰らなくていいんだ)
そう思うと不安よりも安堵の方が大きく胸の中に広がって、溜まっていた涙が無意識にぼろりと溢れる。
(泣くな私。こんなところをお巡りさんに見つかりでもしたら連れ戻されちゃうかもしれないし、早いところどこかに身を寄せよう)
強く握りしめた拳でごしごし目元を拭う。
未知なる経験にまだしっかり順応しきれていない頭で一番最初に思い浮かべたのは、さほど遠くない場所にある町外れの図書館だった。
あそこなら確か夜の二十一時半まで開館していたはずだから、ひとまずはそこで呼吸を整え、今後について考えよう。
(――きっと大丈夫。私には神様がついている)
呪文のように心の中でそう繰り返して。
顔を上げると町外れにある図書館を目指し、力一杯駆け出した。
――がんっ、がらがらがしゃんっ。
鈍い音とともに、強烈な痛みが頬と背中に同時に走る。
玄関の扉を開け、敷居を跨いで家に上がろうとした瞬間、頬を張り飛ばされた。
目の前には体の前で両腕を組みまるで汚物に向けるような眼差しで私を見下ろす義母と、その背中に隠れるようにして口元を歪めている陽菜の姿がある。
張り飛ばしたのはもちろん、叔母である義理の母。
その衝撃で玄関脇にある傘立てまでふっ飛ばされ床に転がった私は、じんじん痛む頬を両手で抑え、早まる心音と恐怖心を必死に押し隠しながら叔母さんを見上げた。
「よくもまあ、おめおめと帰って来れたもんだねぇ、この汚い溝鼠が!」
耳を覆いたくなるような罵声が頭上に降ってくる。
この口調、そして声のトーン。
今の叔母さんは間違いなく激昂モードだ。
「聞いたわよ全部。あんた、うちの陽菜を長時間待たせた挙句、彼氏を取られた腹いせに暴言吐いて祭りを台無しにしてばっくれたんだって? なんっっっって恩知らずな娘なのかしらねぇ! あんたのせいで泣きながら帰ってきたんだよ陽菜は! しかもわざわざ厚意で貸した大事な浴衣をそんな泥だらけのびしょびしょにして……カビ臭いったらありゃしない! 弁償だけで済むと思ったら大間違いよ。土下座しようが何しようが今日という今日は許さないからね!」
身に覚えのない筋書きに絶句した。
叔母さんの後ろでぺろりと舌を出している陽菜に気がつき、またかと唇を噛み締める。
思えば叔母さんは稀に、手がつけられないほど暴力的になることがあった。
陽菜と私に確執が生じた時、私が叔母さんの指示通りに動けなかった時、陽菜が学校のテストで悪い点をとった時、単に虫の居所が悪い時……など。
きっかけは様々だがその大半はなんらかの形で陽菜が絡んでいる。
腹いせ、もしくは叔母さんの怒りの矛先を自分から逸らす目的で標的にされているのだろう。
幼少の頃はよくあったものの、高校生になった今では口外されるのを警戒してか折檻よりも口撃が主だったため、久しぶりに味わう苦い感触だった。
「さあてどうしてくれようかしら。まずは土下座からかしらね」
叔母さんが姿勢を解き、こちらに詰め寄るように足を出す。
いつもならこのまま叔母さんの小言と暴力に歯を食いしばって耐えるしか選択肢がないのだが、今日の私は違った。
「早く立ちなさ――」
「いっ……いい加減にしてくださいっ!」
「……っ⁉」
恐怖心をかなぐり捨てると、私の腕を掴んで立ち上がらせようとした叔母さんの手を振り払い、自らの足で立ち上がる。
「ちょ、な……」
「……」
正直、ものすごく怖かった。足だって震えてる。
でも、大丈夫。わたしには神様がついてる。
自分自身を鼓舞するよう心の中で何度もそう暗示をかけて腹を括ると、驚いたようにこちらを見る叔母さんと、その後ろにいる陽菜をきっと睨みつけた。
「な、なによあんた……」
「約束の時間に遅刻したり大事な浴衣を濡らしたことなら謝ります。で、でも、それならなぜあの時に掃除や洗濯など無理難題を仰ったんでしょうか」
「な……」
拭い切れなかった恐怖心に声が震えたが、胸の閊えを吐き出せた興奮で僅かに溜飲が下がる。
今までにない剣幕に驚き、唖然と口を開けている叔母さんに私はさらに畳み掛けた。
「そ、それに……お借りしたこちらの浴衣ははじめから染みや匂いがひどい状態でした。確かに雨や泥で汚してしまった部分もあると思うのでその点は弁償しますが、私のお金は叔母さまが管理されていて自由に使えませんし、貯めているアルバイト代もまだ学生でそんなに多くはないので、相場を調べてから相応の支払いをするってことで良いでしょうか?」
「ちょ、な、な……」
口を挟む隙を与えないように一気にそう捲し立てると、口籠る叔母さんに「では、着替えてくるので……」と断ってから部屋に向かおうとした。
――が、もちろん、その途中で我に返った叔母さんに浴衣の裾を引っ張られ壁に叩きつけられた。
がしゃん、がらがら!
転がっていた傘立てに足があたり、床に散らばった傘がさらにばらばらになる。
「……っ!」
「あたしに口答えしようなんていい度胸じゃないの! しかもその生意気な口ぶり、小利口な言い草……死んだ姉さんにそっくりすぎて胸糞悪いったらありゃしない! あんた、これ以上身体に傷つけられたくなけりゃ今すぐこの家から出――」
「い……言われなくても出て行きますっ」
ぎゅっと拳を握って、間髪入れずそう答える。
叔母さんはもう、驚きを通り越して愕然とするように私を見た。
予想外の展開に、叔母さんの後ろにいる陽菜でさえ狼狽しているのがわかる。
「ちょ、ちょっと待ってよ月乃、ほ、本気で言ってんの⁉ どうせ行くあてなんか……」
「行くあてなんてない……。でも、ここにいて延々と厄介者扱いされたり理不尽な思いを強いられるぐらいなら、どこかで自由に生きて野垂れ死んだ方がましだから……」
「な……」
今まで大人しく従うしかなかった私が急に手のひらを返したものだから、慌てて仲裁に入ろうとした陽菜はもちろん、叔母さんなんか口をぱくぱくさせて言葉に詰まっていた。
「……」
「じ、冗談でしょ……」
私は絶句する二人の脇を無言ですり抜けると、自分の部屋――とは名ばかりの単なる納戸――まで駆け上がり大急ぎで荷造りをする。
ずぶ濡れの浴衣を脱ぎ、私服に着替える。学校とバイト先の制服、教科書や母の形見、その他の必需品をボストンバックに素早く詰め込んで肩にかけると意を決して部屋を飛び出した。
玄関先にはいまだに呆然と突っ立つ陽菜と叔母さんの姿があり、陽菜は予想外の展開におろおろしながら慌てて叔母さんの服の裾を引っ張った。
「ち、ちょっとママ! 月乃が本気で……」
「放っておきなさいっ! どうせ何もできやしないしすぐ戻ってくるわよ!」
「で、でもっ、もしこのことが街で噂にでもなったら……」
「そ、それは……」
陽菜の指摘にギリっと唇を噛み締める叔母さん。
何か物言いたげにこちらを睨んでいるけれど構わない。
「今まで色々ありがとうございました。浴衣は後日お返しいたします」
「ちょ、ちょっと月――」
――バタン。
陽菜の制止を振り切るように玄関扉を閉める。
抱えていた鬱憤を全てその場に置き去りにするよう踵を返すと、雨上がりの夜道を風を切って走った。
「……」
――怖かった。
でも……すっきりした。
これからのことを考えると頭の中は不安でいっぱいだけれど、全くと言っていいほど後悔はなかった。
立ち止まり夜空を見上げると、いつの間にか満点の星空が優しく包み込むように広がっていて、その壮大な眺めになぜだか少し泣きそうになった。
(もうあの家には帰らなくていいんだ)
そう思うと不安よりも安堵の方が大きく胸の中に広がって、溜まっていた涙が無意識にぼろりと溢れる。
(泣くな私。こんなところをお巡りさんに見つかりでもしたら連れ戻されちゃうかもしれないし、早いところどこかに身を寄せよう)
強く握りしめた拳でごしごし目元を拭う。
未知なる経験にまだしっかり順応しきれていない頭で一番最初に思い浮かべたのは、さほど遠くない場所にある町外れの図書館だった。
あそこなら確か夜の二十一時半まで開館していたはずだから、ひとまずはそこで呼吸を整え、今後について考えよう。
(――きっと大丈夫。私には神様がついている)
呪文のように心の中でそう繰り返して。
顔を上げると町外れにある図書館を目指し、力一杯駆け出した。