クロムが自らを透明人間だと理解したのは、目が覚めたのと同時だった。生まれてすぐの記憶はないため、自分が自分であると認識した二つの時。他の者たちと自分は何かが違うのだと悟った。
自分には世界が見えているのに、周りに自分は認知されていない。それは自分が透明人間であるからだと本で初めて知った。
鏡に映らない、水溜まりに映らない、ガラスに映らない、誰の目にも映らない。この世にいても、いない存在。
自分が触れたものは透明にならないが、身につけたものは透明になってしまう。だから服も帽子もメガネも、周りからは見えない。
体があって顔がある。目もあって口もあるのに、声は届かない。それが透明人間だ。
何をしても気づかれない。犯罪まがいなことをしようがバレない。そんなことする気は毛頭ないが、誰かのために何かをしても気づかれないということ。
クロムは子どもの頃から科学に興味があった。実験、研究、発明。気になることは何でも調べた。
町の灯や噴水は彼が作ったものだ。などと言ったところで誰が信じるのだろう。皆口を揃えて言うのが、気づいたらそこにあった。誰が作ったかなんて気に留めない。その程度のことだ。
そんな彼が十の時。いつものように町を歩いていた。たまに空なんか見上げながら。当然誰とも目は合わないし、話しかけられもしない。そのはずだった。
「お兄さんそこで何してるの?」
立ち止まっていたところを、見知らぬ少年に声をかけられた。
辺りを見渡しても自分以外誰もいない。彼が声をかけたのは紛れもなく自分だった。
「君、僕が見えるの?」
そう聞くと彼は喜んでいた。
「えぇ!?じゃあ本当に成功したんだ!」
何をそんなに嬉しそうにしているのか訊ねると、それは彼が持っていた万華鏡のようなものに理由があった。
「これは見えないものを映す鏡なんだ。初めて作ったんだけど、成功してた」
見えないもの。ここしばらく自分が透明であることを忘れていた。見えないことが当たり前だったから。
「でもどうしてお兄さんは鏡越しじゃないと見えないんだろう」
彼は不思議そうに万華鏡を覗いたり外したりして、クロムの方を何度も見ていた。どうやら透明人間を知らないらしい。
「僕は透明人間で、普通の人には見えないんだよ。君、凄いね。こんなもの作れるんだ」
「実験とか発明が好きでやってたらできたんだ。俺ってすごくね?」
もしも本当に彼が作ったのだとしたら。自分のことが見えているのだとしたら。
クロムの中に微かな希望が生まれた。
「良ければ作り方を教えてくれないか?」
「いいよ!」
その日、クロムは生まれて初めて人と会話をした。
クロムが住居として借りていたのは図書館の一室だった。どうせ姿が見えないのだからと、使われていなかった部屋を借りていた。万が一のことを考えて、ドアには関係者以外立ち入り禁止のプレートをかけている。
「お兄さんの部屋すごいね。何でもあるじゃん」
発明に興味があるというのなら、自分に対してすぐに心を開いてくれるだろうと部屋に招いたが予想通りだった。
「君、名前は?」
「クラネス。お兄さんは?」
「クロムだ。よろしくねクラネス」
それからクラネスが作った鏡の仕組みを説明してもらい、自分も同じように作っていった。
「これだと手が塞がってしまったり、落としてしまうと大変だから、メガネ型にするのはどうかな?」
「確かにそうだな。でもメガネだと分厚くなるかもしれない」
「それならこの材料を……」
気がつけば何時間も作業をしていた。試行錯誤し、ようやく完成させたのが見えないものを映すメガネ。
しかしそれはクロムには必要のないもの。なぜなら彼自身が見えないものだから。
「これは僕には必要ない。だからクラネスが持っていてくれ。そしてこれに代わるものができたら返してくれないか?」
そのお願いにクラネスは頷いてくれた。
「それじゃあ次はメガネがなくても、みんながクロムのことが見えるようになるものを作るよ」
その日からクラネスは時々クロムの部屋を訪ねてくるようになった。
新しいものを生み出した時、発明のヒントが欲しい時、遊びたい時。
些細なことでも「クロムー!」と名前を呼んでくれた。
当時クラネスは六歳だった。育ち盛りで活発な子が自分なんかと一緒にいて楽しいのかとクロムは思っていた。
「クラネス、僕といるより友達といた方が楽しいんじゃない?」
「誰かといるより、俺はクロムといる方が楽しい」
その言葉が何よりも嬉しかった。こんな人とは、もう二度と出会うことはないと思った。
「そうだ。今度みんなにクロムのこと紹介したいんだ。町にこんなすごい人がいるんだって」
「それはやめておいた方がいい」
彼は初めて出会えた見える人で、自分と一緒にいることを選んでくれた人。だからクラネスにも自分はいないものと思ってほしかった。
「どうして?」
「僕は透明だから。周りの人には見えない」
「だけどこのメガネを使えば……」
「クラネス。僕には君がいてくれるだけで十分なんだ。だから僕のことは誰にも言わないでくれる?」
透明人間は見えないのが普通。それなのに周囲に気づかれてしまえば、それはもう透明人間ではなくなる。自分の存在価値がなくなってしまう。そうなると本当に消えてしまう。それを恐れたクロムは、自分の存在は隠すべきだと思っていた。
納得できないと不満気な表情を浮かべるも、クラネスは分かったと言ってくれた。
――
それからしばらくして、クロムはあるものを作った。
「コンパス?」
「ただのコンパスじゃない。過去と未来が見えるコンパスだ」
「何それかっこいい!」
名目ばかりは洒落ているが、見た目は針一つ入っているだけの丸い物体。中には特殊な歯車が入っているが、外からは見えない。
「とは言ってもまだ形だけで、昨日試したけど上手く作動しなかったんだ」
「えぇ。じゃあ上手くいったら見せて!」
「あぁ」
だが、このコンパスをクラネスに見せることはなかった。
昨日試した時点で、ちゃんと作動していた。問題はそこに映っていたものだ。
クロムはコンパスと同時進行で、あることを調べていた。
この世界は何のために存在しているのか。ここで生活している者たちなら一度は考えるであろうことだ。
人の夢に入り、集めたカケラがなければ町が成り立たない、そんな世界の在り方が理解できなかった。
町の者たちは皆、嫌われ役だと言っている。なぜ自らの存在を否定してまで生き続けなければならないのか、その理由はどこにあるのかを考えた時に歴史を遡ればいいと思った。そして生まれたのがこのコンパスだ。
コンパスを覗いて見えた過去の世界。それは何十年、何百年遡っても全て同じ光景だった。
図書館には鏡の部屋があり、そこから人間の夢へと入る。その繰り返し。
初めは失敗したのだと思っていた。
そこで試しに未来も覗いた。何十年、何百年先の未来。……何も変わっていなかった。
「本……この世界に関する本は……」
ここは図書館。クロムは隅々まで歩き回って本を探した。
そしてたった一冊だけ、この世界に関することが記されていた本を見つけた。著者も書かれていない、たった数ページの本。
そこに書かれていたのは《この世界は人間の誕生と共に始まり、人間が生き続ける限り終わらない》。
それ以外は当時の写真が貼られているだけだった。町の形も今とほとんど変わらない。
クロムはこの本を誰にも見つからないように、鍵のついた引き出しに閉まった。
もしも誰かが自分と同じようなことを考えた時、絶望しないように。