デイブレイク・ムーン


 次の日、プラチナを受け取りに店へ向かうと外でリィンさんが待っていた。
 朝早くにクラネスさんの家から帰っていたらしいけれど、全く気づかなかった。

 「ほらよ、約束の品だ」

 確認すると袋には少量のプラチナが入っていた。

 「それと昨日は悪かったな。あんまり記憶がなくて、起きたら"早く帰れ"ってメモがあったから、またやらかしたのかと」

 そう話す顔は落ち込んでいるようにも見えた。昨日のことを覚えてないくらい疲れていたのだろうか。

 「昨日のは十分やらかしていると思うが」

 クラネスさんの目は冷たかった。
 それに昨日からリィンさんに対する視線がちょっと怖いんだよな。私のせいなんだろうけど。

 「別に気にしてないですから!」

 全く気にしてないわけではないけれど、ここはそういうことにしておこう。リィンさんだって悪気があったわけじゃないんだし。今回はたまたまだったと信じたい。


 そこへ聞き覚えのある声が響いた。

 「あれ?アカリだ!」

 前から走ってくるのはピンクのワンピースを着た可愛らしい女の子。

 「モモさん!」

 駆け寄ってきたモモさんは、私とリィンさんの顔を交互に見ていた。

 「リィンと知り合いだったの?」

 知り合いというか雑用係というか。

 「実は昨日会ったばかりで」

 そう言うとリィンさんに引き寄せられた。

 「知り合いよりも深い関係だよな」

 「何言って……」

 顔を上げると、長いまつ毛に空色の瞳、艶やかな唇がすぐそこにあった。文句なしの整った顔立ち。サラサラの髪が視界をくすぐる。
 近い……。
 
 さっきまで落ち込んでいたのは芝居だったのか、晴れやかな顔をしていた。
 絶対今の状況を楽しんでる。お願いだから変なこと言わないで。

 「……」

 モモさんが分かりやすくショックを受けている。これは早く誤解を解かないと。

 「モモさんこれは」

 「あんたなんかとアカリがそんな関係なわけないでしょ!どう見てもアカリ困ってるじゃない!」

 それは、リィンさんのことを知っているような口ぶりだった。
 クラネスさんの話をしていた時よりも勢いがすごい。
 するとモモさんに右腕を掴まれた。

 「アカリ!こんなやつ放っておいて今から家に来ない?新しい紅茶が入ったの」

 えぇ……。

 「悪いが俺はこいつに用がある。お子さまは引っ込んでろ」

 あぁ……大変なことになってしまった。
 二人に挟まれて、完全に”私のために喧嘩をしないで”というシチュエーションだ。

 そして、この様子を何も言わずに眺めている人がいた。

 「あのクラネスさん、突っ立ってないで助けてください」

 まじまじとこちらを観察しているクラネスさん。

 「なかなか面白い絵だな」

 面白がるところじゃないです。

 「ではこうしよう、灯は今から俺の実験の手伝いをしてもらう」

 「なんでそうなる!」
 「なんでそうなるの!」

 二人は口を揃えて言ったけれど、私は助かった。


 モモさんはリィンさんの店の常連で、私のバレッタについているオパールもそこで購入したものだという。
 以前ある人に依頼され、服のデザインを一緒に考えたことがあったらしい。仕事以外での相性は最悪だけれど、お互い妥協を許さない人たちなので、その仕上がりは素晴らしく後に依頼が殺到したそうだ。しかし二人とも共同作業はもうやりたくないと、依頼は受けていないという話を聞いた。




 家に着いて早々、クラネスさんは作業部屋にこもってしまった。
 私は買い出しに行ったり、部屋の掃除をしたり、ほとんど動き回っていた。
 そして一通り終えて休憩していた時、ある異変を感じた。

 ……寒い。

 この世界に四季はなく、年中春のような暖かい日差しが降り注いでいるため寒さとは無縁の環境だ。

 やってしまったかもしれない。

 それは時間が経つにつれてひどくなっていった。
 頭が上手く働かない。背中がゾワゾワする。指先の感覚が敏感になって、体がだるく熱っぽい。


 「風邪だな」

 リビングで丸まっているところをクラネスさんに発見され、部屋で寝るように言われた。

 慣れない生活が続いたからだろう。環境の変化や溜まった疲労が体に負担をかけていた。今日までなんともなかったのが不思議なくらいだ。

 「飲み物とタオルは置いてある。他に何か必要なものはあるか?」

 クラネスさんに迷惑をかけるわけにはいかない。早く治さなければ。

 「すみません、ありがとうございます。とりあえず今は寝ます」

 クラネスさんが部屋を出たのを確認した後、私は目を閉じた。


 何もない真っ白な空間。どこまで続いているのか分からない。そんな場所に立っていた。

 ――♪

 あれ、何か聞こえる。
 私の耳には聞いたことのある歌声が微かに届いていた。

 私は声のする方へ近づいた。

 ……お母さんだ。この歌は、お母さんが昔歌ってくれていたもの。

 そこには小学生かそれより前の頃の私とお母さんが映っている写真が落ちていた。
 こんなの撮った覚えないんだけどな。

 当時、家には私とお母さんの二人だけしかいなかった。それなのに、ここには二人とも映っている。誰かが撮ったものになるんだろうけど、こんな場面はさすがに他人に見せられるようなものではない。
 その写真にはお母さんの膝の上で頭を丸め、体を縮こませて泣きじゃくる私がいた。
 嫌な記憶は頭から離れないもので私は昔、雷が怖かった。今でも苦手なのには変わりない。

 私が初めて雷を見た時。あの大きな音と言い、カーテンを閉めた窓越しにも見える稲妻と言い、本当に怖かった。
 そんな私を落ち着かせるために、お母さんは歌を歌ってくれた。

 綺麗で優しい、忘れもしない歌声が聞こえてくる。今ではもう聞くことのできない歌声が、鮮明に。


 ――これ、夢だな。


 中学の卒業式の日、私の母親は来なかった。来なかったというか来られなかった。途中事故に遭って。
 私は卒業証書を受け取らずに病院へ走った。だけどそこに、いつもの母親はいなかった。
 あまりに突然のことで、ただ立ちすくむことしかできなかった。
 その日は雨だった。遠くには雷雲。

 私は一年間何もできずに抜け殻のようになっていた。一時期は部屋にこもって、歩くことも、食べることも、話すこともなかった。だから同級生と一緒に高校へ進学できなかった。

 この歌は死んだ母親を思い出してしまうものだ。歌えば雷が、もう会えない母親が、死んだ記憶が蘇る。私は、歌が嫌いになった。
 いや、それは違うか。
 私は好きだったものの記憶を自らの手で思い出したくない記憶に塗り替えていた。本当は母親の歌声が好きで、私は歌うことが好き。だけどそれを嫌うことで逃げ道を作っていた。向き合うことが、怖かったんだ。


 「あ」

 ――……またこれか。
 私の前には見覚えのある黒い影がいた。
 私を置いていこうとする影。追いかけても距離が縮まらない、手の届かない影。

 ――今回は熱が出てからなんだね。
 影は何も喋らない。

 ――あなたは誰なの?
 影は動かない。
 そして静かに消えていく。

 ――また、いなくなっちゃうんだね。
 一人にしないで。

 ……。

 「おいて、いかないで」

 ・

 ・

 ゆっくり目を開ける。

 「あかり」

 意識がはっきりしない中、聞こえてきたのは私の名前。それは聞くと安心してしまう声。だけどその表情は不安気だった。

 「クラネスさん?」

 私が名前を呼ぶとその人は安堵の笑みを浮かべた。
 どうしてクラネスさんが私の部屋に。

 「様子を見に来たら、うなされていたようだったから」

 うなされていた?
 あぁ、思い出した。夢を見ていたんだ。

 心配になって起こしてくれたのはありがたいけど……。

 「近くないですか?」

 気になったのはその距離感。ベッドで寝ている女の子をそう覗き込むかな普通。
 それに目を開けた時、手を添えられていたのか、頬に温かい感触があった。

 「目が覚めて二言目にそれか」

 どうしてだろう。あんな夢を見たせいだろうか。今、すごく安心している自分がいる。また眠ってしまいそう。
 だけど目をつぶれば置いていかれる。
 もう、一人になりたくないな。
 そう思って、私は手を伸ばした。

 「おいて、いかないで」

 その手を、ぎゅっと握り返してくれる人がいた。
 そのまま段々と意識が薄れ、私は再び眠りについた。



 朝、太陽の光で目が覚めた。そしてなぜか右手に違和感があった。が、見てもなんともない。
 気のせいだろうと、とりあえず体を起こした。
 眠ったおかげで疲れは取れ、熱は下がっていた。
 よかったと安心したところで、ある気配に気づいた。
 部屋の端に目をやると、なぜかイスに座ったまま眠っているクラネスさんがいた。

 ……え、なんで?

 いつから?全く記憶がない。昨日部屋を出たのは見ていたはず。ということはその後?
 一人焦って必死に思い出そうと頭を抱える。

 するとクラネスさんが目を覚ました。
 それを見た私は反射的に布団をばっと顔まで引き寄せた。

 「な、なんでいるんですか」

 不審がる私にクラネスさんは当然のように答えた。

 「お前が置いていくなと言ったからだ」

 ……。

 嘘だと信じたい。だけれどそんなことを言ったような気もする。
 そう思ったのは、昨夜見た夢を覚えていたから。



 「居心地の悪い夢でも見ていたのか?」

 置いていくなと言った記憶は完全に抜け落ちているけれど、言い訳をするには夢の話をするしかない。


 「よく見る夢があるんです」

 普通の夢ならすぐに忘れてしまうけれど、あの夢だけは何度も見てきたからはっきりと思い出せる。

 「何もない空間に、一つの影が現れるんです。その影は話しかけても答えないし動かない。だけど私が手を伸ばそうとすると逃げる。追いかけても追いつけない、そんな夢」

 私はその影を母親だと思っていた。
 熱を出すと無性に不安になって寂しくなるから、あんな夢を見る。
 子どもの頃はそれだけだったけれど、本当に失ってしまった今は、もう会えないから、届かないから追うのは諦めろと言われているみたいで嫌だった。

 「つまりですね、夢が原因で」

 「前に、夢で会ったという話をしたのを覚えているか?」

 突然話を遮られた。

 「……私は会った記憶ないですけど」

 最近の夢ですら覚えていないのに、それが小さい頃だったら尚更。

 「覚えていなくて当然だ。夢で会った時はこの姿でも、吸血鬼の姿でもなかったからな」

 真剣に話す姿勢に嘘は見えない。

 「お前は影の夢をよく見ると言ったな。その夢は嫌いか?」

 昔は、目が覚めると熱が出ていたから嫌いと答えたかもしれない。
 でも今は違う。自分が何に対してどう思っているのか、ちゃんと分かっているから。

 「嫌いというか、怖かったです。影が怖いというより、置いていかれるのが怖かった」

 必死に手を伸ばすほど、あの影を必要としていた。一人になるのが怖かったんだと思う。

 私の言葉に表情を変えることなくクラネスさんは告げた。

 「ではその影が俺だと言ったら、信じるか?」

 「えっ」

 あの影が、クラネスさん?
 疑問符を浮かべる私にクラネスさんは「面白い話をしてやろう」と言った。
 「夢のカケラを集める際、一人の人間につき一度しか夢に入れないという法則がある。つまり俺が灯の夢に入ると、今後俺を含め誰も灯の夢には入れないということだ」

 けれど、私が見た影は一度じゃない。

 「初めて夢に入ったのは灯がまだ小学生の時。俺を見ても灯は怖がったり泣いたりせず、ただじっとこちらを見つめていた。それからしばらく経って鏡は再び灯の夢へと繋がった」

 本来なら絶対に有り得ないことで、初めは鏡の不調を疑ったらしい。しかしそれは二度、三度と続いた。

 「これは何かあると思って、夢の中にあったものを持ち帰った」

 「持ち帰ることに何か意味があるんですか?」

 「夢の中にあるものを持ち帰れば、図書館の鏡を使わずとも灯に会える手段が作れるのではないかと思ったからだ」

 発想がクラネスさんらしいな。
 私の夢から持ち帰ったものは勿忘草。その夢のことなんて当然私は覚えていないけれど、持っていたものが勿忘草であるというのが何とも言えない。だって花言葉は。

 「私を忘れないで」

 「寂しかったんだろうな。夢はその人の隠したい思いを映すこともある」

 私は誰かの記憶に残りたいと思うほど寂しかったのだろうか。


 そしてクラネスさんは私の家にある鏡と繋がる鏡を作り出し、時々様子を見ていたのだという。

 私が表に出していない隠したかった感情を彼が知っていたのは、一人だと思って呟いていた独り言や泣き言を聞いていたから。
 やっていることはストーカーと変わりないけれど、今回は目をつぶろう。


 「どうして私のことを見てたんですか?」

 「夢で何度も会っていたから単純に気になっていた。母親が亡くなってからは"心配"の方が強かったが」

 この瞬間確信した。私はこの人に自分の母親が亡くなっていることを話していない。それなのに知っているということは、クラネスさんは本当に私のことを知っている。


 「どうして影なんですか?」

 「影に見えていたのは俺が黒いローブを被っていたせいだろう」


 「どうして、逃げるんですか?」

 「……」

 影は私が手を伸ばそうとすると逃げていた。それがクラネスさんだったなら、私のことを気にかけてくれていた人だったなら、寂しいと気づいていたのなら、なぜ。

 ――応えてくれなかったの?


 その問いに彼は静かに答えた。

 「本当は伸ばしてくれた手を取りたかった。何度も呼んでくれる声に応えたかった。だが、人間に触れてはならないという決まりがあったんだ。触れてしまうと灯は、その夢から覚めることができなくなる」

 「え……」

 それに「あの姿を見せると怖がらせてしまうだろ」とクラネスさんは辛そうに笑っていた。

 あの日以来、クラネスさんは吸血鬼として私の前に現れていない。
 彼は夜にならなければ本来の姿になれないと話していた。しかし夜になると部屋にこもってしまう。
 私と会わないようにしていたんだ。
 私を、怖がらせないために。

 怖かったら言えと言ったのはクラネスさんなのに、やっぱり気にしていたんだ。
 どんなに辛くても、悲しくても、人と距離を置けば気づかれない。笑って誤魔化せば何とかなることを知っている。ちゃんと自分の気持ちに蓋もできていた。
 そんな私の過去を知っていて、声をかけようとしてくれた。私の手を取ろうとしてくれた。
 でも、私が夢の中に閉じ込められてしまうから、触れられないように逃げるしかなかった。何も言わないまま、顔も見せないで。

 「だから、初めて手を握れたんだ」

 目が覚めた時、右手にはまだ温もりが残っていた。
 彼はずっと触れられなかったその手を、離さないでいてくれた。

 「あ……」

 ギュッと胸が締めつけられる。そのまま俯いて、手を胸の前で握りしめた。
 どうしよう……。
 これは、親を亡くした子どもが心配で見守ってくれていただけのこと。そこに深い意味はない。
 こんなの、ただの夢物語だ。
 だけど私にとっては、やっと手の届いた人で、やっと顔を見て話すことができた人。置いていかないでと言ったら、そばで手を握ってくれる人。
 そんな人のことを、夢物語で終わらせたくない。

 この感情は、なんと言うのだろう。



 「だが昨夜は夢に入っていない」

 「そうなんですか?」

 涙を隠し、俯く私にクラネスさんが言った。
 確かにいつもは熱が出る前に見ていたのに、今回は熱が出た後だった。
 それなら昨日見たあの影は、歌声が聞こえていた母親だったりするのだろうか。

 歌か。
 歌も母親も本当は大好きだったということをあの夢は思い出させてくれた。

 いつまでも逃げていては、お母さんに追いつけない。

 「――♪」

 耳に馴染んでいるメロディー。
 この歌に歌詞はなく、ハミングだけが部屋に響く。


 「灯の歌声はいいな」

 歌い終わった後、聞いてくれていたクラネスさんが言った。

 「それは好きってことですか?」

 調子に乗った私も普段なら絶対に聞かないようなことを聞いた。

 「そうだな」

 初めて母親以外に歌を褒められた。照れくさいけど、すごく嬉しい。
 それは彼だからだろうか。
 クラネスさんがここにいてくれる。それが嬉しくて、心地良くて、安心する。

 私は「ありがとう」を小さな声で呟いた。


 一日休んで体力も回復し、元気になったところで三つ目の材料の持ち主の元へ向かうことになった。

 「体調が悪くなったら早めに言えよ?」

 「分かってますよ」

 この道を通るのは三度目。太陽の日差しに包まれて優しく光る町並みも好きだけれど、緑に囲まれる静かな場所も好きだ。

 「お久しぶりです、エイトさん」

 「いらっしゃい。おや?以前来た時よりも二人の距離が近い気がするね」

 私たちの方を見て彼は笑顔で言った。

 「ほう」

 満更でもなさそうなクラネスさん。

 「ちが、気のせいです!」

 その横で私は必死に否定した。
 物理的な距離は変わっていないはずだし、もし仮に本当に距離が近くなっていたとしても、それは一緒に過ごした時間が増えたからで……などと心の中で言い聞かせた。

 「それじゃあ、行こうか」

 材料は家から離れた場所にあるらしい。
 私はエイトさんの後ろをついて歩く。

 しばらくすると、堂々と立っている桜の木が見えた。

 「ここって四季がないのに桜がありますよね?」

 「そうだよ。私は桜が好きだからね」

 そういう意味じゃなかったんだけど……柔らかい笑顔が向けられて、本当に好きなのが伝わってきたからまぁいいか。

 「灯が聞きたいのは、なぜここに桜の木があるのかということだと思うんだが」

 「あぁ、そうか」

 エイトさんはクラネスさんに指摘され、静かに驚いていた。本当に気づいていなかったんだ。

 「あれはクラネスに作ってもらった、まがいものだよ」

 その言葉に私はクラネスさんの方を見た。

 「この世界に桜は存在しないが、こいつが珍しく好きだと言っていたのでな」

 桜は条件が揃わないと育たないため、世界中どこにでも咲いているわけではない。そんな桜がたった一本だけ、この場所にある。
 偽物でも、小さくて可愛らしい花びらや風に吹かれて散っていく儚さまで再現されていた。

 「桜の知識はどうやって?」

 「日本の文化に興味があって、関連のある書物を読んでいたら出会ったのですよ。新しいものの始まりを意味する花であると知った時、この場所に在ってほしいと思ったから」

 「全く……文字の情報だけで仕上げるのは、なかなか苦労したぞ」

 花びらの形や色がどれも同じというわけではなく、それぞれちゃんと違っていた。細部まで丁寧に作り込まれていて、よく見ても偽物だとは気づかない。


 「さぁ、着いたよ」

 案内された場所は蔵だった。
 私が住んでいるアパートの部屋よりも広い。

 扉を開け、エイトさんは入口近くの棚から何かを取り出した。

 「これは?」

 彼が手のひらに乗せていたのは赤い紐。

 「唐打紐(からうちひも)。日本ではお守りに使われる紐のことです」

 見たことはあるけれど名前までは知らなかった。
 リボンのような結び目は"二重叶結び(にじゅうかのうむすび)"と呼ばれ、願いごとが叶うようにという意味が込められているらしい。

 「これが三つ目の材料ですか」

 「そうだ。エイトが持っていてくれてよかった」

 「私が持っていたというより、この家を受け継いだ時から蔵に仕舞われていたのですよ」

 受け継いだ?では以前は誰がいたのだろう。そもそも受け継ぐって何を?
 考え込んでいる私を見たエイトさんが微笑んだ。

 「家に戻って一休みしましょうか。そこでお話ししますよ」

 あ……。
 その時、囁かれた儚い彼の声を思い出した。

 「灯さんは、私の本来の姿を知っていますか?」

 縁側でお茶を飲みながらエイトさんの話を聞くことになった。
 エイトさんと会うのは鏡の部屋へ行った翌日以来。

 知らないと答えた私に、エイトさんは自身のことについて話してくれた。

 「私は伝説族の龍です。町で暮らすには体が大きすぎて不便なため、先代から譲り受けたこの家に住んでいます。ですが普段から彼の香水をつけているので、龍の姿になることは滅多にありません」

 私が読んだ本の中に、龍の存在は稀であると書かれていた。他にもこの世界を支配する者、天地を操る神など様々な異名があった。それが事実か聞いてみると、「そんな力はありませんよ」と笑っていた。

 「やっているのは、この町をまとめることくらいですかね。天や地を操る力はなくとも継ぐ資格のあった私が、町長という肩書きを借りています」

 継ぐ資格。肩書き。町長がエイトさんでなければならない理由。今の一言が胸に引っかかる。

 「町長と言っても、主な仕事は鏡の部屋の管理」

 「あ、だから鍵を……」

 部外者の私が鏡の部屋に入れたのは、エイトさんから預かった鍵があったから。
 彼は私の言葉に頷いた。

 「町長はこの町に必要な存在なので、今いる誰かが引き受けなければならなかった」


 それから全てを聞いた。
 町長になれるのは伝説族であることが条件で、引き継がれる時期は先代の町長が亡くなってから。
 鏡の部屋にある鏡が一つ壊れたら町長は亡くなってしまうという。
 鏡が壊れない限り死ねないし、それがいつになるか分からない。一年後か、十年後か、もっと先か。


 「可能性として、いつか町長一人になってしまう未来が来るかもしれない。町を置いて鏡が消えることはありませんから……こんな思いを他の者には背負わせたくありませんでした」

 その可能性を理解した上で、エイトさんは町長になることを選んだ。
 そして、思いを語る瞳が前を向くことはなかった。

 「ですが、いつかは散りゆく命。いずれ誰かに役目を引き継がなければならない時が来る。それだけは避けたかった。ですから、クラネスに頼んだのです」

 そう言ってエイトさんは内ポケットから桜の花びらを取り出した。

 「この桜には、私の時を止める力があります。町長は鏡と繋がることで役目が始まり、その鏡が壊れることで命が終わります。ならば自らの時間を止めてしまえば、鏡が壊れることはないだろう。終わりが来ることはないと、思ったのです」

 「あれはもう十年ほど前になるのか。懐かしいな、俺がエイトに追いついてしまった」

 クラネスさんはエイトさんと同い年だと言っていた。それはエイトさんが、クラネスさんに桜の木を依頼した歳で止まっているということ。あの桜にそんな力があったなんて。

 「どうして、そこまでして」

 聞かずにはいられなかった。
 そんな悲しい顔をしているのに、どうして……。


 「彼を信じたからです」

 クラネスさんを信じる。
 その目は真っ直ぐに彼を見据えていた。

 「あれはまだクラネスが幼かった頃、突然言い出したのです。「この町を変えてやる」と。初めは何を馬鹿げたことを言っているのかと思いました。ですが、彼が作り出す品はどれも素晴らしく、常に新しいものを生み出していた。そんな彼ならば、やってのけるだろうと信じてみたくなりました。私もそうなればいいと思っていたから」

 鏡がなくとも、人の夢がなくとも、成り立つ町。
 夜が来れば朝が来るように、日が昇れば明るくなるように、この町に存在している当たり前を彼は終わらせようとしている。そこにどれほどの思いや覚悟があったのか、私には計り知れない。

 でも確かに、この町の人たちの信頼も笑顔も全てクラネスさんが築き上げてきたものだ。


 そして桜が全て散った時、時間を止める効果は消えることも聞いた。


 「前にも言ったが、このやり方に賛成してくれている者もいれば、そうでない者もいる。これは俺のエゴなんだ」

 今やろうとしていることが正しいか分からない。だけど彼を信じている人もいて、力を貸してくれる人もいる。

 「それでもそちらが当たり前となれば、いずれは馴染むものです。少なくとも今よりは良き町になると、私は信じていますよ」

 新しいものの始まりを意味する桜を選んだというのは、新しい始まりを待ち望んでいるというエイトさんの願いからなのだろうか。


 「エイトさんにとって、この町はどんな場所ですか?」

 「存在しているものは、常に変わりゆく。それはこの町も同じだ。いつかは変わらなければならないものだと思っている」

 そう語る視線は、遠くの空を見つめていた。


 家に帰ると、一通の手紙が届いていた。
 差出人はリィンさん。内容は、[明日の夕方から付き合え] とのこと。場所は酒場でそれ以上のことは書かれていなかった。

 「酒場って……私まだ飲めないんですけど」

 「この世界では十六から飲酒可能だ。だから問題ない」

 郷に入っては郷に従えということか。

 「それに、この酒場はシュベルトが経営しているから大丈夫だ」

 シュベルトさんって酒場のマスターだったんだ。それならまぁ、行ってもいいかな。



 そして約束の日。

 「なんでクラネスまでいるんだよ」

 「別に一人で来いなんて書いてなかったじゃないですか」

 さすがに一人では不安だった。そもそも私一人を呼ぶ理由が分からない。クラネスさんには先日のお詫びではないかと言われたけれど。

 「リィンの扱いがクラネスと似てきたな」

 シュベルトさんが声をかけてくれた。

 「素直に応じたことを褒めていただきたいくらいです」

 なんて口では言っているけれど、レンガの壁にオレンジ色のライト、木製のテーブルとイス、陽気なBGMが似合う店内。賑わう声と一緒にお酒の匂いが鼻腔をくすぐる。
 ファンタジー世界の酒場……本当にこんな場所があるんだ。
 中には自分とあまり歳の離れていなさそうな人もいる。


 「お嬢さんにはアルコール度数の低い果実酒を用意しておいた。初めてだから無理はするなよ」

 「ありがとうございます」

 シュベルトさんからグラスを受け取った。

 「冷たっ。……いただいきます」

 そっとグラスに口をつける。

 「……ん!」

 含んだ瞬間、口の中に爽やかな香りが広がった。甘くて飲みやすい。これマスカットだ。あとから少し苦味がくる。これがお酒……。
 初めての味に戸惑いながら、もう一口飲んだ。

 「美味いか?」

 隣に座るクラネスさんが聞いてきた。
 無理に行かなくてもいいと一度は引き止められていたけれど、興味があった私は行きますと言った。

 「はい。美味しいです!」

 そう笑顔で答えたので、結果ここに来てよかったのだと思う。



 三人の手元にグラスが行き渡ったところでリィンさんに訊ねた。

 「というか、今日は何か用があって呼び出したんじゃないんですか?」

 特に重要な話もなく、ただ雑談をしている時間が続いていた。

 「いや、特には」

 お酒を一気に飲み干したリィンさんは、あっさりと言った。

 「え」

 その正直すぎる答えに思わず気の抜けた声が出てしまった。

 「そういやこういうやつだったな。前にも突然声をかけられて何事かと思ったら、ただ飲みに付き合わされた」

 彼の寝ること以外のストレス発散方法がこれだという。
 確かに仕事終わりに飲みに行く大人もいるくらいだから、納得できなくもない。

 「それならモモさんも呼びましょうよ」

 私はリィンさんに言った。

 「あいつは酒飲めねぇよ」

 「そうなんですか?」

 「一応アルコール以外もあるが、モモはこういう席苦手だからな」

 おつまみを持ってきてくれたシュベルトさんが教えてくれた。
 言われてみれば酒場にいるモモさん、イメージないかも。上品な子だしアフタヌーンティーの方が似合うだろうな。


 「リィンさんの仕事ってそんなに大変なんですか?」

 「あの店にいることだけが俺の仕事じゃねぇからな」

 「そういえば昔、裏で怪しい取引してるって噂もあったな」

 「え……」

 シュベルトさん、軽い口調で言ってますけど全然笑えないです。この人ならやりかねない。

 「それはただの噂だ。お前も何でもかんでも鵜呑みにすんじゃねぇよ」

 「すみません」

 「でもまぁ公にできることをしてるわけじゃねぇし、あながち間違いでもないのか」

 リィンさん、やはり只者じゃない……。

 「生きてる限り願うだけじゃ何も変わんねぇから、有限の時間の中では強欲なくらいがちょうどいいんだよ」

 「確かにそうかもしれませんけど、さすがに闇取引はちょっと…… 」

 「だから違ぇよ」

 知ってる。今のはわざとからかってみた。

 お酒を片手にこんな風に話ができる日が来るなんて思ってなかった。
 これは、思った以上に楽しいかもしれない。



 「クラネスさんはお酒強いんですか?」

 リィンさんは見ての通り楽しそうに二杯目を飲んでいるから聞かなかった。

 「強いというわけではないが、それなりには飲める」

 普段家にいる時はお酒飲まないし、冷蔵庫にも入っていない。この人のことだから、私がいるから飲まないようにしているのかもしれないけれど。


 「そういやクラネス。頼まれていたものが用意できたから、また明日にでも取りに来てくれ」

 「ありがとう。明日の午前は予定があるから灯、頼めるか?」

 「もちろんです!」

 すると、私の顔を見たシュベルトさんが心配そうにしていた。

 「お嬢さん、顔赤くないか?」

 「え?そうですかね」

 まだ半分くらいしか飲んでいないし、特に異変は感じていなかった。

 「私、顔に出ちゃうタイプなんですかね?初めてだから分かんなくて」

 「それならいいが……」

 でも顔が赤いと言われてから何となくふわふわした感覚になっているような気もした。



 酒場に来てしばらく経った頃、リィンさんが眠ってしまった。この光景はお決まりらしく、飲みに誘うのもこれが目的らしい。

 「悪い大人だ。灯はこうなるなよ」

 リィンさんが眠ったのを確認したクラネスさんが言った。
 そう、言われた気がした。

 「あー、はい。努力はしたいんですけど……すみません。なんかさっきからクラネスさんが二人見えるんですけど、これ幻覚ですか?」

 ぼんやりとした意識の中、呂律の回らない声で話す。

 「……嘘だろ」

 それから先は記憶がない。



 「これは、やばいな」

 灯の様子を見たシュベルトが水を持って来たが、手遅れだった。

 「クラネス。今日はお嬢さん連れて帰れ。リィンは俺が送る」

 「悪いな、任せる」

 クラネスは眠ってしまった灯を背中に乗せて帰った。


 外は日が落ちて、いつの間にか夜になっていた。店にいると、いつまでも明るい時間が続いている感覚になるため、時が経つのを忘れてしまう。
 灯はクラネスの背中でスヤスヤと眠っている。夜風に当たると目が覚めるだろうと思っていたが、そうでもないらしい。

 「いくらなんでも無防備すぎないか」

 その声が灯に届くことはなかった。


 無事家に着き、部屋へ入ると灯が目を覚ました。

 「クラネスさん……」

 その声はまだ寝ぼけている。またすぐに眠ってしまうだろう。
 そっとベッドへ運ぶと、蕩けそうな目でこちらを見ていた。

 「気分は悪くないか?」

 念の為、持ってきた水を飲ませる。やはりまだ酒は早かったかと、行かせたことを後悔していた。
 明日に響かなければいいが、と心配していると袖を引っ張られた。
 その顔は俯いていて表情は見えない。

 「クラネスさんは、優しいです。優しすぎます」

 零れる言葉をただ聴くことしかできない。

 「どうして怖いと言えと、言ったんですか。気にしてるなら言ってください。辛いなら、そう言ってください。……私だって、クラネスさんの、こと……」

 それ以上言葉が続くことはなく、灯は眠ってしまった。

 「……」

 ただ何もない、静かな時間が流れる。

 今のは寝言であってほしい。寝ていたとしても、どんな夢を見ていたらそんなことが言えるのか。

 ……。

 今のことは覚えていなくていい。

 服の袖を掴んでいた灯の手をそっと離し、クラネスは部屋を出た。