あれ、あそこに見えるのは……。
待って、私を置いていかないで。
何もない真っ白な空間。どこまで続いているのか分からない。
目の前には黒い影がいる。
近づこうと足を動かしても一向に距離が縮まらない。あの影は全く動いていないのに。
あなたはいつも遠くにいる。
どうして?なぜ届かないの?
こんな必死に手を伸ばしているのに。
その影は人のような形をしていた。
あ、待って!
影が動き出したのと同時に自分の足も軽くなった。
――届け。
その願いが通じたのか、手が影に触れた。
逃すまいと何かをギュッと掴んだ瞬間、
ものすごいスピードで離れていった。
「待って!」
もう、一人にしないで……お母さん。
✾
久しぶりに夢を見た。それも体調を崩した時に見る夢。あの夢を見ると決まって熱が出る。
四月一日。時刻は午前四時。
カーテンの向こうは真っ暗で起き上がる気にすらならない。
……熱い。三十八度……は無さそうだけど。
手の甲を額にあて、気怠げに呟いた。
引っ越しの片づけをしただけで体調崩すとか弱すぎでしょ。それにまだ半分も終わっていないのに。
こんなんじゃお母さんに心配かける……とりあえず寝て、また朝になってから考えよう。
私は昼過ぎまで一度も目を覚ますことなく眠り続けた。
父親の記憶はなく、母親も中学生の時に事故で亡くして一人になった私は、しばらく従姉妹の家に居た。しかし、いつまでも世話になり続けるわけにもいかない。高校進学と同時に一人暮らしを決意した私は、従姉妹の知り合いに頼んでアパートの一室を借りることになった。
母親との別れから立ち直るのに一年かかったけれど、いずれ自立することには変わりない。思い立ったが吉日という言葉に背中を押され、春休みが終わる一週間前に引っ越し作業を終わらせる予定だった。
確かに引っ越しはした。大きな荷物は運んでもらったし、寝床も確保した。私がやったことは軽めのダンボールの運搬と中身の確認。その後、必要な家具を配置。
そう、それだけしかしていない。
昔から体が弱いせいで、普段しないことをすると大抵熱が出ていた。
ここ数年風邪を引いていなかったのに一人になった途端気が抜けて、溜まった疲労が出てしまったのだろうか。
思えば従姉妹の家で世話になり始めた日からずっと気を張っていて、迷惑をかけないよう必死だった。
どんなに辛くても、悲しくても、人と距離を置けば気づかれない。笑って誤魔化せば何とかなることを知っている。ちゃんと自分の気持ちに蓋もできていた。
私の抱える辛さや悲しみを誰かに話しても、相手に迷惑をかけるだけだ。
私は、はぁ、とため息をついた。
眠っている間に嫌なことを思い出してしまった。
それを紛らわすために布団から起き上がる。
熱も下がったし、買い物行こうかな。
冷蔵庫には水が一本あるだけだった。食欲はないけれど、後のことを考えると何かあった方がいい気もする。
片づけの続きは帰ってからやればいいか。
軽く髪を整えて上着を羽織り、私は家の外に出た。
午後二時。天気が良すぎて日差しに目をつぶりたくなる。
春休みということもあって商店街には学生がうじゃうじゃいた。
この光景を嫌味ったらしく思うのには理由があって、私はあのキラキラした雰囲気とノリでなんでもこなす学生が苦手だ。
体育祭やら文化祭やら学生が青春と言って盛り上がるような行事も嫌い。
基本的に目の前にある面倒事にはマイナス思考が働く。
初めから期待している方が馬鹿らしいし、誰かといると考えなくていいことまで背負わなければならないから、他人と関わるのは面倒だ。
だから一人が楽。
こんな人間だから学生生活は楽しいと思えなかった。
「若いんだから今を楽しまないと、もったいないよ!」
母親に相談すると、太陽のような笑顔でそう言われた。
太陽と正反対の私は、ただただ暑苦しいと思っていたけれど、母親なりに背中を押してくれていたのかもしれない。
休日は部屋に籠っていたいんだけどな。
インドア派の私は用事がない限り家から一歩も出ない。学生という肩書きがなければニートと変わらない生活をしていた。
しかし今、家には私しかいない。
これも自立のためだと言い聞かせて重たい足を動かした。
パーカーのフードを被り、視線は足元。
どこからどう見ても陰キャの行進にしか見えない。
そのせいだ。私がちゃんと前を向いて歩いていなかったから、ぶつかるまで気づけなかった。
目の前にいた不審者に。