その温厚な生徒会長は、眉根を寄せて机上の書類をせっせと崩していた。
 私はそっと背後に回り込み、隙を突いて彼の制服を思い切りめくり上げる。一拍遅れて、生徒会室に素っ頓狂な悲鳴が響いた。
「うわあああ!?」
 室内で作業をしていた役員たちが、一斉に手を止めた。
 その辺の女子生徒より白くてきめ細やかな皮膚が目の前に広がる。目的のものではなかったので、私は舌打ちをして手を下ろした。
「ちょっ……、三澄(みすみ)さん!? さすがに痴漢で訴えるよ!?」
 生徒会室には私と会長、そして数人の女子役員がいた。彼女たちはそろって顔を赤らめ、私たち二人をちらちらと見やる。
「か……、会長の、ハダカ……」
「……会長と副会長って、やっぱそういう関係だったんだ……」
「違います」
 会長は服の乱れを直しながら、端正な顔をゆがめて言った。
「遊んでいる場合じゃないよ。次の会議まで、あまり時間がないんだから」
 私以外の役員はみな、顔を引き締めて手元の資料に視線を戻した。
 我ら生徒会の目下の仕事は、各部の後期予算の調整である。
 どの部にとっても予算の獲得は重要事項だ。雀の涙ほどの予算しか与えられていない弱小部はもちろん、優秀な成績を収めている強豪部にとっても、部費の増減は一大事なのである。
 実際、先日の予算会議はかなり紛糾し、物別れに終わってしまった。そのため、次回は必ず決着が着くよう、役員達で手分けして根回しをすることになったのだ。ここにいない他の役員たちは、直接各部へ交渉に行っているはずである。
 だが私は、先ほどから別の資料を探して室内をうろつきまわっている。会長の言葉は、主に、いや、完全に私一人に向けて放たれたものだろう。
「私は遊んでいるわけではありませんが」
「でも、バスケ部の予算交渉について考えているわけではないでしょう?」
 バスケ部は部長である鈴城(すずしろ)先輩の人気が高い、地区大会で何度も入賞している強豪部だ。予算の引き下げ交渉は難航を極めると予想され、それ故に、会長は私にそこを担当させたがっている。
「何度も申し上げますが、私の割り当て分は先週終わりました。それに、バスケ部はじゃんけんで海野(うみの)が担当に決まったはずです。今更覆されても困ります」
「そうだけど、あいつは話し合いが苦手でしょう。この間も一触即発みたいな雰囲気になっちゃって、話し合いは一歩も進んでいないんだ」
「で、あれば、そこは責任者である生・徒・会・長の出番では?」
「僕は、君に頼んでるんだよ、副・会・長」
 一触即発の状態は今もである。「副」を強調して嫌みったらしくほほえんだ会長をにらみつける。天使のようだと評される笑顔が、私には空々しい作りものにしか見えない。
 お願いという名の命令だが、私は言いなりになるつもりはなかった。第一、ここは会長に泥をかぶってもらわねば、私の計画がつぶれてしまう。
 無視して応接用のテーブルをひっくり返していると、会長は意味ありげな流し目を寄越した。
「わかってると思うけど、バスケ部の部長は鈴城先輩だよ。あこがれの君にお近づきになれるチャンスなんじゃない?」
 私はいったん動きを止めて、大きく息を吸う。
「……なんのことかわかりませんが、バスケ部を説得できるのは会長だけだと思います。何しろ、あなたはあの演劇部を黙らせたんですから」
 演劇部もバスケ部に負けず劣らず人気のある部活であり、部員数だけでいえばトップを誇る。定期的に公演も行っているため、衣装や舞台設営にかかる金額は半端でなく、部費の獲得に命を懸けているといっても過言ではない。
 だから、私としてもどうやって説得したのか疑問だったのだが、
「そうそう! 聞きたかったんですよ、会長!」
「なんで納得してくれたんですか?」
 私の代わりに役員達が目を輝かせて会長に詰め寄ってくれた。
 すると、珍しいことに、ああ言えばこう言う性質の会長が一瞬押し黙った。それから、ごまかすときのうさんくさい笑みを顔に貼り付ける。
「さあ……、僕にもわからないな。でも、基本的にはみんなと同じだと思うよ。今回の政策の趣旨を丁寧に説明したら、最終的には誠意をくみ取ってくれたというか」
「えー、それだけですか?」
「なんか、特別なコツとか話術とかあるのかと思ったのに」
 みんな、がっかりして肩を落とす。その中の一人が、フォローのつもりなのか説明を付け加えた。
「うーん……、そういえば、演劇部って前から会長に熱烈アピールしてましたよね。ゲストとして公演に出て欲しいって。だから、会長に頼まれたら断れないのかも」
 考察してくれた彼女には悪いが、いくら会長ファンが演劇部に多かろうと、そんな簡単に了承するはずがない。
 腹黒な会長のことだ。きっと、何か裏取引を用いたのだろう。その証拠をつかんでおけば、後で何かに使えるかもしれない――。
 会長はその後、急に演劇部の話が聞こえなくなったようで、手元の資料に没頭していたが、役員達のおしゃべりは続いていた。
「演劇部といえば、副会長も誘われたって聞きましたよ! 氷のような美人の役なんて、副会長にぴったりですね! 冬の公演、出るんならぜひ見に――って、そういえば、さっきから何してるんですか?」
 怪訝そうな顔をされたので、私は冷蔵庫の扉を閉めて立ち上がった。
「先日、先生方から何か協力を頼まれたでしょう。その資料はどこにあるのかと思いまして」
 実際に書類を渡されていたのは、会長だ。だから、彼が隠しそうな所を探し回っているのだ。
「え? 副会長、聞いてないんですか?」
 役員の一人が、きょとんとして周囲を見渡す。
 私もつられて見回して気がついた。肝心のバスケ部担当の海野はもちろん、他の男子が全員いないのはあまりにも不自然だ。
「あっちとこっちは完全分業でしょう。あっちのグループは今日から現地集合で――」
 そのとき突然、会長がバタンと大きな音を立ててノートを閉じた。不穏な空気が漂い、生徒会室が水を打ったように静まりかえる。
 私は鋭い視線を生徒会長へ向け、ゆっくりと歩を進めた。彼は気づかぬふりをしているのか、こちらを一瞥もしない。
「……会長……」
 地を這うような声が生徒会室にとどろく。しかし憎たらしいことに、会長の笑顔は崩れない。
「私は、最低限の義務は果たしたはずです。他に業務があるのなら、そちらをさせて下さい」
「いや、まだ終わってないよ。三澄さんにはバスケ部と、あと二、三カ所追加で担当してもらいたくて――」
「生・徒・会・長?」
「内緒にしていたのは悪いけど、適材適所って言葉があるでしょ? あっちは女性向けの仕事じゃないんだ。今回くらいは大人しく――」
「あの秘密、ばらしますよ」
「秘密なんてないけど、外で話そうか」
 笑みを浮かべたまま、会長は廊下へ私を(いざな)った。
 会長を脅すために蓄えていたカードを一枚切る。大した秘密ではなかったので、大まかなことしか聞き出せなかった。はやく、退任させうるだけの大きな弱みを握ることができればいいのだが。
 しかし、概要だけでもわかれば十分だ。会長の引き留める声も聞かず、私は急いで生徒会室を後にした。