好きな人の好きな人

 郊外学習当日の朝は、私服での現地集合になっていた。

私は時間よりも少し早めに指定の駅へ向かう。

「おはよー」

 いつもとは別の路線、違う駅だ。

構内に先生の姿を見つけてホッとする。

「彩亜の服、かわいー!」

「ほんとだぁ~」

 だって、今日のために新しく買いに行ったもんね。

チェックの膝上グレーの巻きスカートに、白いキャンディースリーブのブラウス。

黒のショートブーツはまだ履ける季節。

「ありがとう。栄美ちゃんと慧ちゃんもかわいいよ」

「ふふ」

 2人は顔を見合わせた。

耳元でささやく。

「彩亜、気合い入ってるね」

「頑張れ。応援してるよ」

 そんな言葉に、耳まで赤くなる。

「あ、ありがとう。気合い入り過ぎて、ヘンとかじゃないかな? バレすぎ?」

「大丈夫!」

「しっかり!」

 改札から出てくる直央くんの姿が見えた。

黒めのスキニーに白シャツ、ベージュのマウンテンパーカーを羽織っている。

黒髪のままのスポーツ刈りを合わせて、清涼感がハンパない。

「か、カッコいい……」

「ほら、行っといで!」

 友人二人に背中を押され、よろよろと前に出る。

「お、おはよう……」

「あぁ、彩亜ちゃん? わー、私服だと随分感じが違うね」

「え? そ、そうかな……」

「うん。似合ってる。可愛い可愛い」

 そんなコト言われたらもうダメ、倒れそう。

ありがとうございました。

今日はまだ始まったばかりだけど、いい一日だったよ。

京也くんと隆史くんも合流して、メンバーが揃った。

「じゃあ、行って来ます」

 先生のチェックを受け、いざ出発! 

改札口には、同じ学年の見知った顔であふれていた。

「結局、全員で同じ場所回る感じか」

「まぁ時間指定場所していだから、そうなっちゃうよねー」

 博物館もギャラリーも、まだ開店時間になっていない。

観光横町に入り、チェックポイントになっているお寺までゆっくり歩く。

狭い路地に、小さな商店が建ち並んでいた。

店先にならぶショーケースには、焼きたての餅や団子、土産物が並ぶ。

「あ、この招き猫かわいい」

「あっちで、でっかい海老せんべい売ってるよ」

 駄菓子屋に入った。

店頭に設置された鉄板に卵が落とされる。

大きなおせんべいにソースを塗って、目玉焼きを挟んだ。

他クラスの生徒たちも見え始める。

「うまいな」

「やだ、おせんべいが変な割れ方したー」

 パリパリとした食感が楽しい。

路地の隅っこで立ち止まり、同じものを食べている。

直央くんのすぐ真横に居られるだけで幸せ。

ふと彼を見上げると、その人の視線は私とは全く違うものを探していた。

「あー、とりあえずさっさとお寺行っちゃう? それから海の方へ回ってみようよ」

 早くここから離れたい。

もうきっと私より先に、見つけてしまっている。

カノジョはいつも下ろしている真っ直ぐな長い黒髪を、ふんわりと編み込んでいた。

デニムの上にシンプルな白シャツ、白スニーカー。

黒の柔らかなスプリングコートで、カジュアルだけど大人っぽい雰囲気。

こんなコーデ、スラリとした背の高い美人じゃないと出来ないヤツじゃん。

「お寺に行っちゃえばさ、あとはお昼まで比較的自由に過ごせるし。ちょっと遠回りしてみてもいいんじゃないのかな」

 通りの向こうから近づいてくるカノジョを、直央くんに見つけてほしくない。

そう願っているのに、彼の足は動いた。

「ちょっと、あっち見てきてもいい?」

 私より背の高い、ベージュのマウンテンパーカーが離れてゆく。

見たくもないのに、どうしても視線は彼を追う。

カノジョと目が合った。

「わー、こんなところにいたー」

 その視界を塞いだのは、広太くんだった。

天パだという緩やかな明るい髪色が、私をのぞき込む。

「え、何食ってんの? 玉せん?」

 すぐに京也くんや隆史くんと絡み始める。

落ち着いた赤のフライトジャケットに黒いワイドパンツ。

広太くんのところの班は、すでに崩壊して完全な自由行動になっているみたいだ。

「みんなから離れちゃっていいの?」

 直央くんの後を追いかけたい。

カッコ悪いとかみっともないとか、そんなこと分かってる。

恥ずかしいし、なんで私がこんなことをって、誰よりも自分でそう思ってる。

だけど、そうせずにはいられない。

「そういう自分だって、離れていってますけど」

「小学生じゃあるまいし、もういいでしょ」

 人混みの中に、直央くんの背中が見える。

その向こうにはカノジョがいるのかと思うと、やってらんない。

「私もあっち見に行ってみようかなぁ」

「あ、待って待って」

 広太くんは、スマホのカメラをこっちに向けた。

「ね、みんなで写真撮ろ」

 彼のくわえたえびせんが、いまにも口から落っこちそう。

それでもレンズを向けられたら、みんなで集まるより仕方がない。

「はーい。おっけー」

 彼は楽しそうに笑った。

「俺も撮ってよ」

「ちょっと小山くん、なにやってんのー!」

 そんなことをいいながら、彼のグループだった男女も混ざり込んできた。

もうぐちゃぐちゃだ。

「さっさとお寺行って、チェック受けて解放されようぜ」

「それいい」

「行こう、行こう!」

 全員で歩き出す。

私は背後のカレとカノジョが気になって仕方がない。

集団から徐々に遅れ始めた。

「はい。お茶」

 そんな私に、広太くんはペットボトルのお茶を差し出した。

「飲んだら?」

「え、なんで」

「こないだジュースもらったから、そのお返し」

 そんなこと、気にしなくてもよかったのに……。

「いいよ。自分の持ってるから」

「いやいや。そういうワケには……。ね、一緒に回ろ」

 そう言って彼は横顔を向けた。

何だか少し照れてるみたいだ。

 私の班は直央くんが抜け、混ざってきた広太くんの班の半分、さらにまた別の班も合流して、なんだかんだの団体行動になってしまっている。

人数多い方が楽しいし、これは自然現象ってやつで、仕方ないのかな。

お土産横町を歩きながら、私はあの人の姿を探している。

だけど、どこにも見当たらない。

完全に見失ってしまった。

「あ~ぁ……」

「うん? どうした?」

 仲間とはしゃいでいた広太くんが笑った。

彼はとても人懐っこい性格で、誰とでもすぐに打ち解け合う。

「なんでもない!」

 直央くんとは離れてしまったけど、せっかくの郊外学習を楽しまないのはもったいない。

「ね、私も写真撮るー」

 広太くんが自分のスマホを掲げた。

ソフトクリームを持った私は、そのフレームの中に収まる。

ツーショットだ。

「後で送って」

「んー」

 食べ終わったお団子の串をくわえたまま、広太くんは笑った。

お寺で先生のチェックを受け、近くの海岸へ移動する。

砂浜で一通りはしゃいだ後、地元で人気だというハンバーガーをみんなで買って、並んで食べた。

学校名入りの腕章をつけたカメラマンがやって来て、何枚か写真を撮る。

先生がやって来て「固まるな、散れ!」とか言ってきたけど、あんまり意味ないよね。

 突然始まった「高鬼」に、夢中になってる。

流木とか小石の上でもOKなんて、ひどくない? 

平たくて丸い石の上に、広太くんと一緒に乗っかった。

落ちそうになって、彼のフライトジャケットを掴む。

支えてくれようとしてたけど、広太くんの方が落ちて鬼にタッチされちゃった。

「きゃー。広太くん、ごめ~ん!」

「くっそ、あいつ許さん!」

 鬼になった彼は、タッチしていった大樹くんをそのまま追いかけてる。

大樹くんは別の男の子の乗っていた流木に無理矢理上った。

押し出された京也くんは、文句言いながら逃げ出して、それを見てまたみんなで笑っている。

「逃げろ、逃げろ!」

「うっそ、やだ来ないでー」

「京也、こっち!」

「あはは」

 楽しい。

もしここに直央くんがいたら、こんなにも素直には楽しめなかったかもしれないな。

色々気にしちゃうから。

砂浜の向こうに、キラキラと海が光る。

なんだか色んなことから、解放されたみたいだ。

帰宅時間が近づいて、その場に残っていたメンバーで多数決をとる。

博物館はスルーして、ギャラリーで開催されている地元写真家の作品だけは見て帰ろうということになった。

ぞろぞろと移動を始めたところで、広太くんが隣に並ぶ。

「お茶あげる」

「まだ言ってたの?」

 つい可笑しくなって、笑ってしまった。

「いいよ、気にしなくて」

「気にする」

「じゃあ、それを広太くんにあげるよ」

「……。わかった。後でなんかおごる」

「はは、やったね」

 駅近くの大通り沿いに、そのギャラリーはあった。

雑居ビルの一階がガラス張りになっていて、専用の展示場になっている。

「こういう雰囲気のところ、初めてかも……」

 受付を済ませ、迷路のように真っ白く細い通路に従って歩く。

突然、大きな空間に出た。

ところどころにパネルが立てられ、ベンチも置かれている。

外光とは違う柔らかなライティングが部屋全体を覆い、真っ白な空間にモノクロの写真が飾られていた。

「わー。なんか、かっこいい……」

 砂浜からやって来たメンバーの輪がほぐれる。

会場にいるのは、ほとんどがうちの生徒だ。

さっきまで、みんなではしゃいでいた海岸からの風景がモノクロの画像に変換され、全く違った風景に見えている。

「凄いね。こんな風に世界が変わって見えるものな……」

 パネルの向こうに、直央くんとカノジョの姿を見つけた。

楽しそうに笑いながら話すカノジョの隣に、当たり前のように彼が立つ。

赤いフライトジャケットが視界を遮った。

「これ、さっきまで遊んでたとこ?」

「あ、あぁ。そうみたいだね」

 広太くんが何かをしゃべっている。

だけど、私の頭はもう何にも理解出来なくなっていて、白と黒のパネルがぐるぐると渦をまいている。

広太くんは私に身を寄せた。

それに気づいて顔を上げる。

「あっちも見に行こう」

「う、うん」

 促され、歩き出す。

やっぱり私の耳には、彼が何を言っているのか聞き取れない。

ふと我に返って顔だけを上に向けた。

「……。くち、半開きだけど……」

 恥ずかしくなって、口元を拭う。

「ね、見終わったらさ、外出ようよ。おごるって言ってたの、今朝見てた招き猫でもいいし。後でちょっと戻って……」

「広太! やっと見つけたぁ~」

 カノジョだ。

広太くんに駆け寄り、赤いフライトジャケットの袖をつかむ。

「もう。ずっとどこ行ってたの? 探しても見つからなくて、すっごい心配してたんだから」

「は? 誰が?」

「わたしが!」

 もの凄く親しげな雰囲気に、その場を離れる。

直央くんがいる。

ここで合流した他のメンバーも一緒だ。

フラフラとそっちに身が引き寄せられる。

ようやく声が出せた。

「やっと会えたね」

「え? なにが」

「……朝ぶり」

「なにそれ」

 そう言って直央くんは笑う。

あぁ、そうか。

1年の時に仲良かった男子メンバーが、今はみんなカノジョと同じクラスだもんね。

そっちと合流したってことだったんだ。

「色々、見て回れた?」

「うん。それなりに楽しかったよ」

 そっか。ならよかった。

そうだよね、私は私で楽しんでたように、直央くんは直央くんで楽しんでたんだ。

そんなの当たり前だ。

「班がバラバラになっちゃったから、帰りのチェックどうするんだろうって、思ってた」

「そんなこと心配してたの?」

 直央くんは何でもないことのように笑う。

「自由解散でしょ。途中で消えても朝だけ確認出来てたら、問題ないよ」

 今日のイベントは終わり。

もうお終いだ。

せっかくのおしゃれも、このためだったのにな。

直央くんは、合流した京也くんや隆史くんと、どこで何食べたとか、そんな話しをしている。

「直央はもう、ここの写真全部見たの?」

「うん。もう帰る」

「あ、じゃあ俺らも帰ろうか」

 なぜだかカノジョが気になって、視線を向ける。

このまま直央くんはカノジョを誘って、一緒に帰るのかな……。

「わ、私はまだ、全部見てないから、残るね」

「そう?」

「う、うん」

「じゃ、お先に」

 男子軍団と一緒に、直央くんは出て行く。

広太くんがカノジョと話している横をチラリと見てから、通り過ぎて行った。

私はモノクロの写真に視線を移す。

もう何が写っているのかも分からなかった。

どうしよう。追いかけていっても……、ムリだよね。

泣きそうになって、鼻水をすする。

だけど、こんな所で泣くわけにはいかない。

大きく息を吸って吐き出す。

もう一度展示写真を見上げた。

「あー、彩亜ちゃん。もう全部見ちゃった?」

 広太くんが戻ってきた。

隣にはカノジョがいる。

「こんにちは!」

「こんにちは」

 挨拶され、私も笑顔で返す。

「見終わったんなら、一緒に出よー」

「なにそれ! じゃあ私も出る」

 カノジョは広太くんに絡みながら、無邪気にそう答える。

すっごいフクザツ。

すっごいイヤ。

こんな状況でそんな普通の顔してカノジョに見られても、行けるわけないし……。

「いや、いいよ。私はもうちょっと、ゆっくり見てから帰るから」

「じゃ、俺も」

「私も」

 何なの? 

とは思うけど、どうすることも出来ないから、3人で見ているフリをしながら、さりげなく栄美ちゃんと慧ちゃんのところへ合流した。

結局5人で最後まで見て回る。

「楽しかったねー」

「うん」

 ギャラリーを出て、駅までの道をやっぱり5人で歩く。

カノジョの名前は和泉千香ちゃん。

広太くんとは、小学校の時からの幼なじみなんだって。

「千香ちゃんは、今日はどの辺りを回ってたの?」

「えっと、最初に横町通りに入って、それから博物館に行ってた」

「そうなんだ」

「彩亜ちゃんたちは、博物館へはこなかったんだね」

「うん。もういいよねって話になって……」

 そっか。

直央くんは、あれから博物館の方へ行ったんだ。

「そっからお寺でチェック受けて、カフェでずっとお茶してた」

「あー。そういうのでもよかったかも」

「限定スイーツ美味しかったよ」

「あはは、いーなぁ~」

 早くこの場から離れたい。

自分は何でこんなところでこんなヒトとしゃべってるんだろう。

ようやく改札が見えた。

「じゃあね~」

 私は広太くんと千香ちゃんに向かって手を振る。

「いや、私たちも同じ電車だから」

「あ、そっか」

 カノジョは呆れたような顔をこっちに向けた。

その何気ない表情にすら、何かをえぐり取られる。

あー、本当に私ってバカだ。

だからダメなんだ。

 電車に乗ってから、ようやく女の子3人と広太くん千香ちゃんの2人に別れた。

帰宅ラッシュが始まっている車内で、私は栄美ちゃんたちと今日の楽しかった思い出を振り返る。

広太くんはつり革につかまったまま横を向いていて、こっちの話しを聞いているのか聞いていないのか分からない。

ずっと窓の上辺りを見てる。

初対面のカノジョは私たちの会話に入ってこれるはずもなくて、だけどあえて話題を振ることもしなくて、申し訳ないなとは思うけど、こんなところに来たアンタも悪いしとか思ってる。

そんな自分もイヤ。

 家に帰ったら、広太くんからスマホへ写真が送られて来ていた。

私はお礼を打ってから、その画像を削除した。
 6月に入り、長かった梅雨も明けた。

長袖だった制服のシャツがポロシャツに替わる。

蒸し暑さが一気に増した。

「外、暑っついね~」

「もうムリ。教室の外から出れない」

 昼休み、エアコンの効いた教室で、私は栄美ちゃんたちとおにぎりをかじりながら、スマホゲームをしていた。

直央くんとの繋がりを持つために始めたゲームだったけど、純粋に自分がハマってしまっている。

フレンド登録している広太くんがプレイを始めると、通知が飛んでくる。

添付のURLからログインすれば、すぐに同じチームで協力プレイが可能だ。

私は教室の隅っこで栄美ちゃんたちとランチをしていて、広太くんもやっぱり仲間の輪の中にいながらパンにかぶりつき、スマホをいじっている。

「あ~、うっ……。やった!」

「なに、彩亜はまたあのゲームやってんの」

「そ」

「好きだよね」

「ハマったね」

 ギリギリのところで、広太くんの一撃が決まった。

チラリと彼をのぞき見る。

うれしそうに笑っているけど、教室で実際にしゃべることはほとんどなかった。

チャットの定型文で『お疲れさまでした! またフレンドバトルよろしくお願いします!』と送っておく。

彼からも同じ定型文が送られてきたのを見てから、アプリを飛ばした。

チャイムが鳴る。

 席替えがあって、私は教室のど真ん中の席になった。

広太くんは廊下側の後ろの方で、直央くんは窓際の列の中央付近。

私の真横。

配置が悪い。

おかげで授業中に彼をチラ見することすら出来なくなってしまった。

 クラスメイトたちが戻ってきて、それぞれの席につく。

窓際最後尾になった慧ちゃんの席に集まっていた私たちの横を、どこからか戻ってきた直央くんが通り過ぎた。

直央くんとも、しゃべることはほとんどない。

掃除の班も係も委員会も日直も、全ての繋がりがなくなってしまった。

退屈な授業が始まって、先生は延々と何かを話し続けている。

「じゃ、次。長谷部さん読んで」

「はい。……。しばらくして海の中で起き上がるように姿勢を改めた先生は、もう帰りま……」

 直央くんのけだるそうな声が、静かな教室に響く。

「……これが私の口を出た先生という言葉の始まりである」

「はい。ありがとう」

 私はもうずっと、このままでいいの? 

直央くんと色違いのシャーペンを握りしめる。

カノジョとはどうなっているんだろう。

 放課後になった。

ホームルームも掃除も終わった教室で、直央くんは教科書とノートを広げる。

期末試験が近いから、勉強してるのかな。

それまでは教室の外で出待ちしてたけど、そんなことすら出来なくなっていた。

私はそんな彼を横目にしながら廊下に出る。

さすがの私でも、勉強の邪魔はしにくいな。

昇降口から外にでると、すぐ目の前に一本の木が立っている。

その周囲は円形の花壇のようになって保護されていて、いつもそこに広太くんが座っていた。

誰を待ってるんだろう。

スマホをいじっているか、どこかをぼーっと眺めていて、話しかけてもいいんだけど、特に用もないから素通りする。

今日は直央くんの声が聞けたな。

国語の本読み当てられたのだけだけど。

 教室を見上げる。

窓際に座る直央くんの姿が見えた。

ちょうど広太くんの座っているくらいの位置からなら、もっとよく見えるだろうな。

なんとなく、その彼を振り返る。

広太くんと目が合った。

あまり長く見つめ合うのも失礼だから、サッと視線をそらす。

今日はもう帰ろう。

明日からは、もうちょっと何とか考えないとな……。

 一晩考えて、今の私に出来る精一杯の作戦を思いついた。

こんなにも放課後の来るのが待ち遠しくも恐ろしいなんて、初めてかも。

いつものように、直央くんは自分の席で教科書を広げる。

私は机の中を整理するフリをしながら、教室から人がいなくなるのを待っていた。

窓から差し込む光に、彼の姿が浮かび上がる。

胸の鼓動はずっとバクバクしていて、このままいつ倒れても不思議じゃない。

自分の全身が心臓になったみたい。

教室に残っている人数が、4人にまで減った。

私は立ち上がる。

どんなに変に思われたって、ウザがられたって、不自然でカッコ悪くたって、これだけは声をかけて逃げだそう。

そう覚悟を決めていた。

「なんの勉強してるの?」

 精一杯の演技で、彼のノートに視線を動かす。

「私も中間あんまりよくなかったから、勉強しなくちゃなーって思ってて……」

 直央くんの視線が、私を追っている。

ガチガチの関節を無理矢理動かして、前の席に座った。

視線がぶつかる。

「……。あっ、ゴメン、『私も』って、『私は』だよね。直央くんの成績は関係なか……」

「いや、いいよ」

 彼は恥ずかしそうに横を向いた。

頬杖をついた手で口元を隠し、照れるその姿にきゅんとする。

「大丈夫。そんなんじゃないから……」

 直央くんの視線の先を追いかけた。

裏門前の広場と靴箱前の植木、部活棟とグランドの一部が見える。

また広太くんが座ってる。

私は机に視線を戻した。

「なにやってんの? あ、数学かぁ~!」

「今日はね、たまたま……」

 直央くんに嫌がる様子はみられない。

私はもうちょっと、ここに居ていいのかな。

「私もやんないとなー」

「宿題くらい学校で済ませてから帰ろうかなーって。家帰るとやる気なくなるし……」

 彼は教科書のページをはらりとめくった。

そんな呑気なこと言ってると、もっと欲を出しちゃうよ?

「あー、分かるそれ。私も学校でやって行こうかな」

「一緒にやる?」

「……。え、いいの?」

「いいよ」

 本気で言ってる? 

マジで? 

どうしよう。

どんな顔をしていいのか分からない。

「あ、イヤ、別に……。彩亜ちゃんが嫌なら、俺なんかとか全然一緒じゃなくても……」

「ううん。いいよ! 一緒にやる! てゆーか、本当に私と一緒でいいの?」

「え? なんで? 俺は全然いいよ。迷惑じゃなかったら……」

「一緒にやる」

 すぐに机を動かした。

直央くんの前の机を動かして、向かい合わせにくっつける。

鞄を置くと、同じ教科書を広げた。

「今日の宿題、これだけだったっけ……」

 そんなことを言いながら、さりげなく色違いのシャーペンを出してみる。

「あ、同じの使ってる。ほら」

 彼はそのシャーペンを私に見せた。

「ホントだ。凄いね」

「うん。このシャーペン、いいよね」

「いい」

 顔を見合わせる。

私たちは同時にくすくすと笑った。

「数学の河野さ、滑舌悪すぎてたまになに言ってんのか分かんないよね」

「そうそう。だけどまぁ可愛いから許せるけどね」

「あ、女子もそんな感じ」

「うん。私は好きだよ」

「俺も」

 夢みたい。

勇気を出して声かけてよかった。

「ここってさ、どうしてこうなんの?」

「あー、ここは……」

 直央くんの声が、私にだけ向かって発せられている。

説明してるペン先の動きまでかわいい。

「あ、なるほど。そういうことか」

「分かった?」

「分かった分かった。直央くん教えるの上手だね」

 帰る頃には、すっかり日が傾いていた。

昇降口から出ると、まだ広太くんが座っていて、それに直央くんも気づいたみたいだけど、あえて声はかけずに通り過ぎる。

「広太は、誰か待ってんのかな」

「さぁ……」

 なんで直央くんがそんなこと気にするんだろ。

お友達だったのかな。

そんなに仲いい印象はなかったけど……。

「ね、明日も一緒に宿題やっていい?」

 彼の横顔をそっと見上げる。

「俺は別にいいけど……」

「ホント? やったね。助かる~」

 よかった。

強引だったかもしれないけど、そうとは思われないように笑顔を向ける。

その日の夜は誰からも邪魔されることなく、すんなりベッドに入って眠れた。

 直央くんは毎日のように、放課後の窓際で宿題をする。

私はそれに便乗して、だけど邪魔はしないように、そこに座らせてもらう。

彼には嫌がる素振りは全くなくて、むしろ「今日も一緒にやる?」とか聞いてきてくれるようになった。

自然と会話も増え、今では普通にしゃべれる。

きっと「友達」にはなれたんだと思う。

「今日はどうする? 日本史の小テスト対策する?」

「あぁ、暗記物だもんな。問題の出し合いとかする?」

「いいねー」

 ホームルームが終わったら、私はすぐに彼の元に駆け寄る。

最近は他のクラスメイトも気にしてないみたい。

だけど「付き合ってんの?」とかは聞かれたりしないから、そういうことなんだと思う。

日本史の教科書を広げた。

「室町時代ねー。北山文化と、東山文化……」

「能と、書院造……。雪舟か。この辺り覚えとけば大丈夫?」

「じゃあ、制限時間10分で覚えよう」

「OK。じゃあタイマーセットするね」

 直央くんがスマホを取り出す。

彼のロック画面が解かれた。

その画像は人気ボカロPのサムネ画像配布でもらったもの。

もちろん私もチャンネル登録した。

 澄み切った放課後の、その特有の喧噪が聞こえる。

サッカー部のかけ声と吹奏楽部のトランペット。

ランニングのかけ声は、文化部でも運動部でも同じなのがちょっと面白い。

「今の日本文化がさ、この時代から受け継がれてるのって、ちょっとすご……い、よね……」

 直央くんの視線が、校庭を彷徨う。

時々そうしていることには気づいていた。

彼は教科書を広げ、私がこうやって見ていることにも気づいていない。

その視線の先を追いかけ、窓の外をのぞき込んだ。

「……。千香ちゃんたちか……」

 靴箱を出たすぐの植え込みに、千香ちゃんと広太くんがいる。

だらっと座っている広太くんの横で、カノジョはピカピカのフルートを練習していた。

「千香ちゃん、フルートやってたんだ。すごいね」

「あ……、いや。別に、ずっと見てたわけじゃないよ……」

「かっこいい。背も高いし、似合うよね」

「……。うん。似合う。かっこいい……」

 頬杖をついた彼は、真っ赤な顔をしてカノジョを見下ろす。

そっか。

私からは振り向くようにしないと見えないから、気づかなかった。

目の前に私がいるのに、視線が合わないのはただの常識的なものかと思ってた。

いつかその視線の角度が、ほんのわずかでもこちらに傾いたらいいのになんて、そんなことは起こるはずもなかったんだ。

「かわいいもんね。あ、カッコいいか。直央くん、千香ちゃん好きなんだ」

 ムカついて、ついそんなことを口走る。

それは絶対言っちゃダメって、分かってるのに。

「うん。好き。やっぱ分かる?」

「はは。うん、分かるよ」

 誰よりも直央くんを見てきたって、自信がある。

だから彼が誰を見ているかも、私にはよく分かる。

「いつからだっけ? 去年辺りからだよね」

「え? なんで?」

「体育祭の時、委員やってたでしょ、一緒に。千香ちゃんは隣のクラスだったけど」

「そう! その時に知って……って、なんで知ってんの?」

「私も手伝ってあげてたのに、全然覚えてないの?」

 怒ったような顔をして、わざとらしく声のトーンを上げてみる。

彼は慌てて否定を始めた。

「いやいや、それはちゃんと覚えてるって!」

「本当に? うわ~、ショックだわー」

「覚えてるってば」

 テントを組み立てる彼の体操服姿に、私は一目惚れしたんだ。

体育係でもないのに、椅子を並べたりポンポン運んだりして手伝った。

体育祭当日も、ずっとずっと追いかけて話しかけ、笑顔を振りまいて……。

「楽しかったよね、体育祭」

「うん。高校の体育祭って、中学までと全然違ってて。大変だったけど、楽しかった」

 私は泣きそうになっているのを、教科書で隠す。

彼はそんなことに気がつきもしないで、窓の外のカノジョを見つめる。

「あれから、『友達』にはなれたと思うんだ」

 告白してフラれたのに? 

「そっか。じゃあこれからだね」

「うー……ん……。そうなんだけどね……」

「なになに、どうした?」

 頬を赤らめ、恥ずかしそうにしている彼の顔をのぞき込む。

「その『友達以上』ってのが、難しいよね」

「あ~。そうだよねぇ……」

 ため息をついた彼の視線が、また窓の外に向けられる。

私は意を決して振り返った。

植木の縁に、広太くんとアノ子が並んでいる。

立ったまま演奏しているカノジョは、隣でのんびり座っている広太くんに、何かを話しかけていた。

フルートを下ろしたカノジョが、こっちを見上げる。

これだけ距離が離れているのに、なんだか目があったような気がした。

ふいに、私たちに気づいた広太くんが、こっちに向かって手を振った。

思わず振り返した私に、カノジョも手を振る。なんだコレ。

「あは。千香ちゃん、手を振ってくれたよ」

「それは彩亜ちゃんがいたからだと思う」

 セットしていた携帯のアラームが鳴る。

10分の暗記時間なんて、どんな意味がある?

「ね、勉強やめて、下行ってみる?」

「え、それはいいよ」

「どうして?」

「なんか、邪魔しちゃ悪いし……」

 誰が? カノジョが? 

今でも十分、邪魔されてるんですけど。

「でもなんか、もう勉強っていう気分でもなくない?」

 私は開いていた日本史の教科書を閉じた。

とてもじゃないけど、そんな気分じゃない。

「千香ちゃんは、広太が……」

「なに?」

「いや、何でもない」

 直央くんはもう一度、教科書を開き直す。

「ねぇ、真面目にテスト勉強しよ! 俺はこっちも本気だから」

 そんなの照れ隠しだって、ちゃんと分かってるのに、私だって自分の本音を悟られたくはない。

「分かった、分かった。ちゃんと勉強しよ」

 そんな彼に、精一杯の笑顔で応える。

それが今の私に出来る限界だ。

日本史の問題を何回か直央くんと出し合って、教室を出た。

昇降口を出た植え込みに、広太くんたちが待ってるかなって思ったけど、薄暗くなったその円形の縁には、もう誰もいなかった。

「待ってなかったね」

「そんなもんだよ」

「そっか」

 よかった。

いなくって。

私は歩き始めた彼の背を追いかけた。
 その日の夜、珍しく広太くんから電話があった。

「わぁ、久しぶり。どうしたの?」

 お風呂上がり、自分の部屋で濡れた髪をタオルで拭いている。

「……。最近、直央と勉強してんの?」

「うん」

「そっか……」

 本当なら「一緒にどう?」とか社交辞令でも誘うのが正解なんだろうけど、そこでもし「やる」って言われちゃったら、カノジョも一緒についてきそうだから言えない。

スマホの向こうで、ガサゴソという衣ずれが聞こえる。

「広太くんも寝てんの?」

「うん。ベッド」

「あ、私も」

 ゴソゴソと、自分のお気に入りの体勢を整える。

「なにしてんの?」

「ん? いや、別に……」

 ごそごそ、ごそごそ。

「あ、もういいよ。大丈夫」

「だから何がだよ……」

 そんなこと言われても、私から特に話すことはない。

スマホはすっかり静かになった。

「今日さ……」

「うん」

「……。なんで手ぇ振ったの?」

「は? それはこっちのセリフでしょ、最初に振ってきたのそっちだったし」

「そうだっけ」

「そうだよ」

 だってカノジョも手を振ってきたから……。

ちょっとイラッとしたし。

「いつも誰待ってんの?」

「は?」

「だって待ってるでしょ。あ、千香ちゃん?」

「なんの勉強してたの? 今日」

「え? 日本史」

「もしかして小テスト?」

「そう」

 ヤだな。

あんまりここから深入りしてほしくない。

「俺も勉強しないとヤバいな」

「はは。そうだね」

 今日の、直央くんとの会話を思い出す。

どうしてこんなにも、何もかもが上手くいかないんだろう。

自分が可愛くないのは分かってる。

だから努力してる。

必死に話しかけてるし、わずかな可能性だけにすがりついてる。

気分はもう限界に近いのに、何一つ自分の思い通りにはならない。

「……。なんか、さ……」

「うん」

 広太くんの低い声が、耳に響く。

「私ね、直央くんが好きなの」

 そうやって打ち明けてしまえば、急に何もかもが軽くなって、思ってもみなかった涙が流れてくる。

「な、なんかさ、1年の時から気になってて……。だけど話しかけられなくて……。グスッ……。ちょっと頑張ってみたんだけど……。なかなかさぁ~……」

 こんなこと、広太くんに話してもしょうがないのにな。

「泣いてんの? なんで?」

「分かんない。涙が出てきた」

 それからしばらく、私は何にも話せなくなって、しばらくグズグズ泣いていて、それでも広太くんは電話を切らずにいてくれた。

「……。ゴメンね」

「なにが?」

「変な電話に、付き合わせちゃって」

「……。別にいいよ」

 彼の口からため息が漏れる。

「で、明日も一緒に勉強すんの?」

「多分……」

「それでもやるんだ」

「だってやめたくない……」

「あっそ。じゃあもう好きにしろよ」

「うん」

 すぐに切られると思った通話は、すぐには切れなかった。

なんとなくこっちから切るのも申し訳ない気がして、もうしばらく待つ。

「……。切るよ」

「おう。さっさと切れ」

「……。じゃ、おやすみ……」

「おやすみ」

 私から電話を切った。

ベッドに潜り込む。

朝起きたら、顔が腫れてるかな? 

そしたら、駅で直央くんの出待ち出来ないな。

明日はやめとこうかなぁ……なんて、そんなことを考えていたら、いつの間にか眠っていた。
 顔のむくみは何とかごまかせる程度だったけど、直央くんとは顔を合わしにくい。

きっとそんなこと、向こうは一切気にしてないんだろうけど……。

朝の来待ちも、放課後一緒に勉強するようになってから意味あるのかなーとか、「おはよう」の一言のためだけに、こんなに頑張る必要なくない? とか、今までの自分の努力が全部無駄だったってことに、なんとなく気づいてるけど気づきたくない。

「おいっす」

 広太くんだ。

いつも私が直央くんを待っていた柱の陰から顔を出す。

「あぁ、おはよう。どうしたの?」

「一緒に学校行こう」

「う、うん」

 えぇ~っと……。

私はここで、直央くんを待つつもりだったんだけど、そんなこと広太くんは知らないし、そんなことやってたなんて知られるのも昨日の今日でなおさら恥ずかしいし、そもそも私が今日は待ちたくない。

しばらくモジモジしていると、彼の方が先に動き出した。

「ちょ、待ってよ」

 彼の背中を追いかける。

夏が近づき、強さを増してゆく朝の光が視界を照りつける。

広太くんは手をかざし目を細めた。

「暑くなるかなー」

「これからが本番だよね」

 こちらを見下ろして、ふっと微笑む。

直央くんより少し背が高い。

柔らかな茶色い髪が日に透けている。

昨晩のことを謝った方がいいのか、お礼を言った方がいいのか。

だけど彼からは何も言ってこないし、こっちから振るのもなんか違うっていうか恥ずかしいし……。

 もう一度広太くんを見上げる。

一緒に行こうと誘ってくれたわりには、なんにもしゃべらないんだな。

これだとただ偶然に並んで歩いてるだけで、全然友達にもクラスメイトにも見えなさそう。

「昨日は、ゴメンね」

「なにが?」

「電話」

「……」

 返事がない。

そっか、特に興味もなかったよね。

もしかして覚えてもない? 

それもゴメン。

靴箱に着いた。

先に着いた彼はその扉を開ける。

「今日さ……」

 私は自分の靴を拾い上げた。

「放課後、待ってる」

「え?」

「勉強終わったら、一緒に帰ろう」

 階段を上がってゆく彼の背を、呆然と眺めている。

え? どういうこと? 

放課後の直央くんとの勉強は、続けたいんだけどな……。

だって、その繋がりまでなくなってしまったら、本当に私は何でもない「ただのクラスメイト」になってしまう……。

 昼休み、久しぶりに広太くんからゲームのお誘いが入った。

すっかり忘れていた。

広太くんは、ゲーム仲間が欲しかったのかな? 

イベントも何もない時期みたいだけど、よっぽどこのゲームが好きなんだな。

『今日、待ってなくていいよ』

 チャット欄にそう送る。

すぐに返事が返ってきた。

『勉強の邪魔はしないから。終わるまで下で待ってる』

 賑やかな教室の向こう、彼を振り返った。

何でもない素振りでスマホをいじっている。

だから、なんで待つ? 

本気で待ってなくていいんだけど……。

『遅くなっても知らないよ。先帰ってて全然いいから』

 返事が返ってくるよりも先に、チャイムが鳴った。

画面を閉じる。

教室の広太くんを振り返った。

彼は私には見向きもしないで、自分の席へと向かう。

私はその背中にため息をついて、午後からの教科書を広げた。

 放課後を知らせるチャイムが鳴り、すぐにSNSで広太くんに『先帰ってていいよ』と、もう一度メッセージを打つ。

直央くんとの時間を邪魔されたくないってのも、正直なところ。広太くんはすでに教室から出ていた。

廊下の向こうへ消える横顔を見送る。

何考えてるか分かんないけど、私はもう知らないからね。

「あーお待たせ。今日はいっぱい宿題出てるね」

「うん。ちょうどよかった」

「え?」

 そんなに長い間、ここで過ごすのが嬉しい? 

彼はごそごそと机にプリントを並べる。

今日は化学のプリントと漢字テスト、英単語の小テスト対策と、数学の大問が3つある。

学校の宿題って、真面目に一人でやろうと思えば、結構なボリュームがあるよね。

私は彼の前の席を動かそうと、机に手をかけた。

窓の外に、校舎から出てくる広太くんが見える。

そのまま帰ってくれると思っていたのに、本当にいつもの木の下に腰を下ろした。

「全部やって帰れるかな」

「途中で切り上げないといけないかもね」

「うん」

 直央くんの視線が、窓の外へ向いている。

私も後ろを振り返った。

広太くんの元へ、通学用のリュックを背負ったカノジョが駆け寄る。

何かを話していた。

「なんだ、やっぱり付き合ってんだ」

 だとしたら、広太くんが待っているのは千香ちゃん? 

「いや、違うと思うよ。あの二人、仲はいいけど、そんなんじゃないって……」

 直央くんは化学のプリントを広げる。

私はその顔をのぞき込んだ。

「あ、いや。彼女が自分で、そうやって言ってたから……」

 彼の顔は赤くなる。

学校でほとんど顔を合わせてない二人が、どうして? 

いつ連絡取り合ってんの? 

直央くんがスマホを取り出す。

ホーム画面に、あのゲームアプリのアイコンが見えた。

「あ、そのゲーム、私もやってるよ」

「え? そうなの?」

 直央くんに教えてもらってアプリ入れたのに、覚えてないんだ。

私の中で何かの勘が働く。

「それ、千香ちゃんもやってるの?」

「え、本当に?」

 驚いた直央くんの目が、私をみつめる。

「あ、いや。千香ちゃんがやってるから、直央くんもやってるのかなーって……」

「あぁ……。それは違うんだけど……。そっか、じゃあ今度聞いてみようかな……」

「普段、学校じゃしゃべらないけど、連絡とかはしてるんだ」

「スマホでね。そこはしっかり……」

「はは。じゃあやることはやってんだ」

「やることって……。まぁ、できる限りの努力はしてますよ」

 なんだ。

やっぱり、そういうところでちゃんとどっかでは繋がってんだ。

「私も同じゲーム入れたんだけど……」

 そう言うと、彼はそのアプリを起動させた。

「いや、俺も気まぐれで落としただけで、最近はあんまりやってなかったし」

 私もそのアイコンをタップし、起動させる。

「ねぇ、ちょっとだけ今、ゲームやらない?」

 SNSから彼にゲーム内チームへの招待状を送る。

それを開いた彼が言った。

「あぁ。同じチームに登録するのはいいけど、これじゃ一緒にイベントバトルには出られないよ。同じ火属性だから、タッグは組めない」

 アプリを起動させたから、私がゲームを始めたことを知らせる通知が広太くんに飛んで、広太くんのキャラが私のホームに入ってくる。

直央くんがそれに気づいた。

「あれ? 誰コレ。広太?」

 私は窓の外をのぞき込む。

確かに彼は、スマホ画面を見ていた。

『勉強してんじゃないの?』チャット欄にコメントが入る。

「なになに。彩亜ちゃん広太と仲良かったんだ」

 私が火属性で、広太くんが水で、アプリを起動させたとたん、時々手伝ってくれる雷属性の男の子キャラの子が入った。

「なに、本当に好きなんだね。ゲーム仲間だったんだ」

『なんでゲーム? いつもここで待ってて、ゲームで時間潰してたの?』

『お前は来んな』

『なんでよ、こないだのイベントも手伝ってあげたのに』

『つーかなんでチャット? 普通にしゃべれよ』

『普通に話しかけても、あんたが答えないからでしょ』

 私は背後を振り返る。

広太くんの隣にいる、カノジョもスマホを操作していた。

『私、これから部活なんだけど』

『さっさと行け』

『私が抜けたら、3種バトルのタッグが成立しないよ?』

「どうかした?」

 直央くんの声に、ゲームアプリを飛ばした。

「ううん。直央くんと一緒にゲーム出来ないなら、もういいや」

「なにそれ」

 そう言って彼は笑う。

「そりゃ3種類のタッグバトルは出来ないけど、火属性だけの3人でやる人たちもいるし……」

「弱いじゃん」

「まぁね」

「勝てないよね」

「属性的に相手は選ぶよね。イベントとかじゃなくて、普通のレギュラーバトルになるけど」

「あんま意味ないし」

「それで勝つのが楽しいんじゃないの?」

 私は、直央くんと一緒じゃないと意味がないのに……。

「ま、ゲームやってる場合じゃないし」

「それな」

 彼もアプリを閉じた。

私たちは、宿題を済ませなければならない。

彼の視線は窓の外を彷徨う。

「……。広太があのゲームやってんのなら、千香ちゃんもやってんのかな……」

「あんまり、ゲームとかするイメージないよね」

「確かに」

「やってないでしょ」

「……。だといいな……」

 私は化学のプリントを開く。

外で待ってる? 

カノジョも待ってんじゃないの?

「あ……」

 私はようやく、そのことに気づいた。

「ん? どうした?」

「いや。なんでもない」

 アノ子は、広太くんが好きなんだ。

そのことを、直央くんは知ってるんだ。

「今日は帰るの、遅くなりそうだね」

「うん。頑張ろう」

 なんだ。

そうか。

そうだったんだ。

だから直央くんは、ここでカノジョが広太くんを待っているのを、ずっと見てたんだ。

広太くんがいるから、カノジョはここに来て、ここでわざわざフルート吹いて、それを直央くんが……。

だったらそのまま、広太くんがカノジョと付き合ってくれればいいのに……。

「直央くんは、化学得意?」

「まぁ、普通くらいには……」

「私、苦手なんだよね。よかったら教えて」

 彼と向き合う時間を、誰にも邪魔されたくない。

このままずっと、ここに居られればいいのに。

そう思えば思うほど時間はあっという間に過ぎて、完全下校時刻を知らせるチャイムが鳴る。

「もう帰らないと」

「そうだね」

 机を戻すタイミングで、下をのぞき込んだ。

木のところには誰もいない。

よかった。

先に帰ったんだ。

ほっと胸をなで下ろす。

これで今日も安心して、直央くんと一緒に駅まで帰れる。

「行こう」

 2人並んで教室を出る。

「ね、コンビニの新作アイス食べた?」

「は? 何それ」

「季節限定のソフトクリーム。前のは逃したって言ってたでしょ」

「あぁ、あれか」

「食べに行こう。ちょっと寄ってみていい?」

「えー……、俺は別に……」

「いいからちょっと付き合ってってば」

 先に靴箱に駆け寄る。

それを約束してくれないと、ここから出られない。

「別にアイスって、そんな食いたいもんでもないし……」

「えー。そこは食べとこうよ。期間限定アイスだよ?」

 ふいに靴箱の影を横切った人影が、直央くんの後ろから顔を出した。

広太くんだ。

「あー。終わった?」

「うわっ、びっくりした。どこに居たの?」

「トイレ。もう帰るでしょ」

 驚いた直央くんも、広太くんに声をかける。

「なんで居んの?」

「いちゃ悪いかよ」

 広太くんは靴を履き替える。

「俺もアイス食う」

 流れのまま3人で外に出る。

広太くんは私の隣に並んだ。

「おべんきょ、終わった?」

「今日の宿題はね」

「夜電話する。後で教えて」

「あー!」

 突然の大きな声に振り返る。

「なにしてんの?」

 カノジョだ。

長い黒髪が揺れる。

「待ってくれてたんじゃないの?」

 その手は、広太くんの腕に触れた。

「一緒に帰るんだと思ってた」

「は?」

 広太くんは眉をしかめる。

幼なじみだという二人の距離感が、何となく私をそこから遠ざける。

二人は言い争いをしているつもりなのかもしれないけど、外から見るとカップルがいちゃついてるようにしか見えない。

ふと見上げた直央くんの視線は、じっとカノジョに注がれていた。

「あ、私、やっぱり先帰るね」

 こんなところになんて、居られない。

「じゃ、お先に……」

「俺も帰る」

 そう言ったのは、直央くんだった。

じっと私を見下ろす。

「一緒に帰ろう」

「う、うん」

 その言葉に、並んで歩き出す。

私は直央くんに連れられて、校門を出た。

「あの二人、仲いいもんね。ちょっと入りにくいよね」

 直央くんの足取りは、私が追いつけないほど速くって、その横顔を見上げることも出来ない。

「あぁいうの、他の人がいるところではやめて欲しいよね。迷惑っていうか、一緒にいる方もどうしていいのか反応に困るし……」

「ゴメン。先、帰るね」

「う、うん。また明日……」

 彼の歩くスピードは私と並んでいても変わることはない。

赤く染まり始めた空に、彼の背がぐんぐん遠ざかっていく。

置いていかれた私は自然に涙があふれてきて、頬を流れるそれを拭った。

それでも彼の視界に入りたくて、意識して欲しくて、こんなに頑張ってるのに。

フラれたのに、まだ大好きなんだね。

そんなに好きな人がいるんだったら、もう絶対私なんてムリだ。

疲れる。

こんなにしんどくて辛い思いをするなら、もう好きな人なんて……。

「いた!」

 大きな声に振り返る。

広太くんだ。

「なに? 俺が来るの待っててくれたの?」

 彼は嬉しそうに隣に並ぶ。

「待ってない……」

「アイス食いたかったんだろ? 行こうぜ」

「だから、待ってないって……」

「俺は待ってるって言ったよ」

 彼はニッと笑った。

「アイス食ってゲーセン行こうぜ」

「……。もう遅いから帰る……」

「あはははは。真面目かよ」

 それでも広太くんは、やたら嬉しそうだった。

「じゃ、アイス食って帰ろ」

 正直に言うと、私だってそんなにアイスが食べたかったわけじゃない。

ただ直央くんと、少しでも同じ時間を共有したかっただけ。

コンビニに入って、おごるって言ってくれたけど、おごられる義理もないので自分でお金を出す。

店のイートインカウンターが空いていたので、そこに並んで座った。

 座ってみると椅子は固定されていて、隣といっても近いようで遠くて、放っておくと溶けちゃうアイスクリームは、すぐに食べなくちゃいけなくて、何を話そうかなんて、話題を探す暇も余裕もない。

じっと白い壁を見ながらマンゴーアイスを食べていて、横目にチラリと確認すると、彼も壁を見ながら同じアイスを食べていて、なんでこの時間にこんな状況に自分が今いるのかが、とっても不思議でやりきれない。

広太くんの方が先にバリバリとコーンをかじり始めて、すぐに食べ終えてしまった。

彼は頬杖をつき、じっとこっちを見ている。

それに気づいているけど気づかないフリをして、急いで冷たいアイスを食べ終えた。

「終わった?」

「うん」

 私は彼の方を見られなくて、コーンに巻き付いていた紙を小さく折りたたむ。

「帰ろっか」

 コンビニのドアを誰かに開けてもらって、外に出るのなんて久しぶり。

すっかり暗くなってしまった歩き慣れた道を、ぎこちない足取りで歩く。

ずっと何も話さないまま駅まで来てしまった。

やっぱり無言のまま改札をくぐる。

「じゃ」

「またね」

 同じ車線でありながら、私とは反対の階段からホームへ上ってゆく彼の背を見ながら、夜に電話がかかってくるのかなーなんて、ちょっと思ったりなんかしたけど、その日、彼からの電話にスマホ画面が光ることはなかった。
 翌朝、改札をくぐると一番に声をかけてきたのは直央くんだった。

「おはよ」

「え? えぇ?」

「……。昨日は、ゴメン。先、帰っちゃって……」

 そう言うと彼は、恥ずかしそうにうつむいた。

「俺もさ、ちょっと腹立っててさ、大人げなかったなーって……」

「う、ううん。いいの。それは、私も……分かってるから」

 歩き出した彼の速度は、初めて私に丁度良かった。

「昨日さ、実はあの後、すぐに謝ろうと思って駅で待ってたんだ。来ると思って」

「え?」

「だけど、結局会えなかったから……」

 直央くんを見上げる。

彼はそっと微笑んだ。

「……今日もさ、放課後一緒に宿題出来る?」

「う、うん」

「もし、宿題出てなくても……。ちょっと聞いて欲しいことがあるから、いいかな」

「分かった」

 フッと笑って、彼は真っ直ぐ前を向く。

いつもの通学路に戻った。

「今日英語の当たる順番誰だっけ」

「え~っと、金曜日だから……」

 もう放課後が待ち遠しい。

昨日はどうして、あのまま先に帰ってしまわなかったんだろう。

直央くんと話してるのに、何にも内容が入ってこない。

頭の中がふわふわしたまま、靴箱までたどり着く。

「じゃ、後で」

「うん」

 昼休みには、いつものように広太くんとゲームをして過ごす。

『同じ火チームだと、イベントバトル出来ないってマ?』

『知らなかったの?』

『火の人とタッグ組めないじゃん』

『そ』

『ショック』

『火の人で組みたい人がいたんだ』

 ランダムマッチで当たった相手が強い。

いつも積極的に参加してくれるカミナリアカウントの人が今日はいなくて、たまたまマッチングした見ず知らずの野良アカウント雷の人が、あんまり強くない。

カウンター攻撃が入った。

私もまだレベルが低くて、勝負は水タイプの広太くん頼みだ。

その広太くんが、味方チーム全員の回復アイテムを使い、形勢を立て直した。

防御力アップの魔法をかける。

『アカウント削除して最初から始めたら、出来ないことはないよ』

 雷アカウントの人が、攻撃力倍増の呪文を唱えた。

私はスピードアップの護符を使う。

相手からの最後の攻撃を耐え抜いた。

水タイプの大技を繰り出した広太くんの一撃で、辛うじて勝利を収める。

雷アカウントの人は、お礼の定型文を返して消えた。

昼休み終了のチャイムが鳴る。

『今日も待ってる』

 広太くんの水キャラも画面から消えた。

私はため息をついて教室の彼をのぞき見る。

友達と笑いながら何かをしゃべっているその横顔からは、このメッセージの意図は何にも読み取れなくて、昨日みたいなことがあるんだったら、むしろ待たないで先に帰っててほしい。

出来ればアノ子と一緒に……。

 放課後だけが楽しみで、毎日学校に通っている。

昼休みが終わって半分。

午後からの授業は午前中より流れる時間が0.5倍速に感じる。

世界一ダルい5時間目と6時間目の授業が終わって、掃除が始まった。

今日は雑巾を持って、窓を拭きにいく。

ちゃんときれいにしておかないと、ここから見える風景が汚れてしまうから。

「俺も手伝う」

 大きな体が、窓の外に身を乗り出した。

「き、気をつけて!」

「あはは。大丈夫。下に台あるの知らない?」

 いや、それは知ってるけど……。

「はは。だって、よく見えた方がいいでしょ?」

 広太くんの半袖から伸びる筋肉質な腕が、教室の窓ガラスを外から拭いている。

そこはいつも私が座っている席だ。

「ついでに、他のところもやっとく?」

 窓枠から外に飛び降りる。

庇のように飛び出したコンクリートの上で、黒板の方へ移動する。

「じゃあ彩亜ちゃんは、中から窓拭いて」

 透明なガラス越しに、向かい合っているのが恥ずかしい。

窓を拭く動きを合わせないようにしてるのに、どうしても重なってしまう瞬間があって、その度に私は「あぁ、なにやってんだろ」って本当に消えたくなる。

「よかった。きれいになった」

 外に出ていた広太くんが、窓を跳び越え戻ってくる。

「はい。片付けといてあげる」

 彼は私の持っていた乾拭きの雑巾を取り上げた。

「じゃ、後で」

 とっくに掃除の時間は終わっていて、当番に当たっていた人たちはそのほとんどが引き上げていて、机の位置も椅子の位置も全てが元に戻りつつある教室で、彼は雑巾を持ったまま教室を出て行く。

「だから後でって言われても……」

 どこかへ出ていた直央くんが戻って来た。

目が合うと、フッと微笑む。

その笑顔がいつもと違い力なく見えた。

「今日も平気?」

 そう言って彼は、自分の机に腰を下ろす。

ごそごそとノートを広げた。

賑やかだった教室も、次第に人気が消えてゆく。

私はいつものように机を動かして、直央くんの向かいにくっつけた。

ふと視線を感じて顔を上げる。

廊下から戻って来た広太くんと、一瞬目があった。

彼はスッと視線をそらし、自分の鞄を手にする。

そのまま行ってしまった。

ついため息が漏れる。

待つって言われても、私はそんなこと頼んでないし……。

直央くんの前に腰を下ろす。

「なんか元気ないね」

「分かる?」

 彼は頬杖をつきため息をついた。

「実は昨日さ……」
 先に駅についた直央くんは、私に謝ろうと思い、駅で来るのを待っていたらしい。

「そしたらさ、千香ちゃんが来たんだ」

 彼の視線は、きれいになった窓ガラスの外に向けられる。

ここからよく見えるその定位置に、やっぱり広太くんが座っていて、そこへ駆け寄るアノ子の姿が見えた。

「俺さ、一回告白して、フラれてるんだよね」

 だけど、その時彼の前に現れたカノジョは、目を真っ赤に腫らし明らかに泣いた後だった。

「それで……。ちょっと話そうって……」

 もしあの時、広太くんが私に声をかけてなくて、そのまま駅に向かっていて、私と直央くんが先に会っていれば、彼はカノジョに声をかけることはなかったんだろうか。

それとも私は、それでもアノ子に惹かれるこの人を前に、また泣いたんだろうか。

「呼び止めて……。本当に、すぐ終わらせるつもりだったんだけど……」

 彼は私にカノジョの話しをしながら、頬を赤らめ恥ずかしげにうつむく。

「勢いでまた告って……。また断られた……」

「はは。千香ちゃんも頑固だね。他に好きな人でもいるのかな」

 直央くんはそれには答えなくて、ため息をつきながらやっぱり窓の外を見る。

「き、協力しようか? どうすればいいのか、やり方分かんないけど……」

 そんな思ってもないことだって、すぐに自分の口から出てくる。

「はは。ありがとう。でも、そういうのはちょっと違うと思う」

「そ、そうだよね」

 話しって、コレ? 

教科書とノートは広げているけど、直央くんはため息をついてずっと窓の外ばかり見ている。

「え……、えっと……」

「女子ってさ」

 直央くんが言った。

「しつこいのって、嫌いだよね。やっぱ」

「まぁね」

「二回も告ったのって、やっぱキモいと思う?」

「嫌な感じじゃなかったら、大丈夫だと思う」

 彼はため息をつき、また何かを考え始めた。

いま直央くんの頭の中にあるのは、昨日のカノジョとのことばかりだ。

「なんて……言ったの? どんな話しした?」

「うん。どこまで話していいのか、ちょっと分かんないけど……」

 彼は話す。

アノ子のことをポツリポツリと。

泣きながら駅の構内に現れたカノジョを、どうしても放っておくことなんて、直央くんには出来なかった。

「こっち来てって、駅の外に出て。どうしたのって聞いた。広太とケンカしてたのは、分かってたから……。あの子、広太に好きって言えないんだ」

「なんで?」

 好きなら好きって、さっさと言えばいいのに。

それで付き合えば、きっと直央くんも……。

「自分のこと、好きじゃないって分かってるからだって」

「でも、そんなの言ってみないと分かんなくない? どうなるかなんて」

「フラれるの、分かってるから言わないんだって」

 なにそれ。

そんなこと、誰だって同じじゃないの?

「でもそれだったら、直央くんだってフラ……」

 慌てて口をつぐむ。

しまった。

ビクリとした私を、直央くんは笑った。

「はは。そうだよ。それでもどうしても言わずにはいられないから、言っちゃった。ダメだって分かってるのにな」

 彼の視線を追って、窓の外を見る。

広太くんの隣にはカノジョが座っていて、やっぱり何かを話している。

「そういうのって、女の子的にどう思う? やっぱムリだったかな」

「いや、だから……」

 そんなの、嫌なワケないじゃない。

「いい……と、思う。私はね」

 直央くんはガバッと身を乗り出した。

「まだ俺にもチャンスあると思う? それとも、さっさと諦めた方がいいのかな」

 彼は真っ赤になっている顔を、恥じることなく私にさらけ出す。

「しつこいとは思ってんの。それは俺も自覚してるし、分かってる。あ……、諦めたくても、諦め切れないのは……どうしようもないよね。そういう気持ちって、いつか忘れられるのかな。どうやったらいいんだと思う?」

「本当だね。どうしたらいいんだろう」

 私はうつむいたまま、もう彼を見ていることすら出来ない。

「その気持ち、すっごいよく分かるよ。諦め切れないの、私も知ってるから」

 だからその顔を、真っ直ぐに上げた。

「私もね、直央くんのことが好きなの。それでこうやって放課後の宿題も一緒にやってるし、ゲームもダウンロードした。少しでも一緒になりたくて、側にいたくて。それは……迷惑だったかな」

 彼の顔が本当に驚いていることに、ちょっとウケる。

「だからさ、言っちゃった。どうしても言わずにはいられなくなるって、こういうことだよね。無理だって分かってるけど、言っちゃダメだって、知ってるけど。困らせようとか迷惑かけようとか、そんなこと思ってなくて……」

 泣きたくないのに涙が流れる。

こんなの本気でカッコ悪いし、女の武器とか思われたくないのに、勝手に出てくるものはどうしようもない。

「はは。ゴメンね。こんなの、ウザいよね」

 急いでそれを拭う。

こんなに必死で笑顔を作るのも初めて。

「別に付き合ってほしいとか、返事が聞きたいとか、そういうことじゃなくって……」

「ゴメン」

 彼の視線は窓の外ではなく、ようやく私に向けられた。

「悪いけど……。他に好きな人がいるから……」

「うん、知ってる! ゴメンね」

 ダメだ。

今日はもう、ここにはいられない。

広げていたノートをバサバサと閉じ、鞄に押し込む。

「ゴメン。今日はもう先に帰るね」

 返事はない。

彼は口元に手を当て、じっと動かない。

ガタガタと立ち上がる。

「じゃ、ゴメン」

 教室から逃げだす。

机に足をぶつけた。

残っていた数人が振り返る。

廊下に出た足がもつれて、それでも何とか動かして、階段を駆け下りる時には、もう涙があふれていて、自分がこんなにも泣き虫だったなんて知らなかった。

早くここから抜け出したい。

靴を履き替えようとして、また靴箱にぶつかった。

ガシャンと大きな音をたて、フワフワしたまま外へ出る。

「彩亜ちゃん?」

 広太くんだ。

隣にはアノ子もいる。

「どうしたの? 大丈夫?」

 カノジョの視線はずっと私に注がれていて、私もそんなカノジョから視線が外せない。

「アイツになんか言われた?」

 違う。

そんなことじゃない。

激しく首を横に振る。

彼の手が私の肩に伸びるのを、カノジョの手が阻んだ。

「だ、大丈夫? 話しなら私が……」

「悪い、千香。先帰る」

 広太くんの手はカノジョを振り払い、私の肩に乗った。誰かが飛び出してくる足音が聞こえる。

「……。じゃあ、そっちは頼んだ」

「え?」

 振り返ろうとする私の背を、広太くんはガッシリ押し進める。

「あっちで話そ」

 校門を出た広太くんは、泣き止めない私の手を引いて歩き出す。

「何があったの。さっきまで普通にしゃべってたでしょ、教室で」

「なんで見てんのよぉ~」

「見えるから見てんだよ」

 絡み合う指先が思いのほか力強くて、彼の背中が記憶より大きくて、もしこのままで許されるのなら、ずっとこのままでもいいと思った。

「ほら。ここならあんまり、人いないでしょ」

 学校から少し離れた所にある、小さな公園だ。

ドサリとリュックを地面に置いた彼は、滑り台を上り下りてくる。
「なんか言われた?」

 私は必死で泣き止もうとしながら、頭を横に振る。

「違う。言った」

「言われたんじゃなくて?」

「言っちゃった。言わなくていいこと」

 彼は立ち上がると、もう一度滑り台を滑った。

私はその間に鼻水をすする。

「何言ったの」

「好きですって、告白した」

「……。そしたら?」

「フラれたから出てきた」

「はぁ~。そっか。……分かった」

 広太くんは盛大なため息をつき、頭を抱えたままボリボリかきむしった。

私は滑り台の下でしゃがみ込む広太くんに、しがみつくように飛びつく。

「ねぇ、私のどこがダメなのかな? 何が悪いと思う? どういうところが可愛くない?」

「どういうとこだろうな」

「ねぇ、真剣に悩んでるんだけど」

「分かるよ」

「どうしたらいいと思う?」

「そのままでいいんじゃね」

 やっぱりこの人は、何にも分かってない。

「だから、私は真面目に……」

「俺は、そのままの彩亜ちゃんが好きだから」

 彼の目はじっと私を見つめる。

「だから、そのままでいいと思うよ」

 夕陽に沈む公園で、広太くんは滑り台にしゃがみこんでいて、私はそんな彼の真横にくっついている。

彼のシャツを掴んでいた手を、そっと離した。

「あ……。えと……」

「そう言われて、困る?」

 そっと微笑む彼の顔を、まともに見ることが出来ない。

「こ、困らないし……、嬉しいけど……」

 だけど、私が好きなのは……。

「言いたくなったから、言っちゃった」

 彼は立ち上がると、ウンと背伸びをする。

「もう今ここで言わないと、タイミング逃すような気がして」

 そう言って、「はは」って笑った。

そんなとこで笑わないでほしい。

「それで、彩亜ちゃんの気持ちは変わる?」

「か、変わらないと思う……」

「俺のこと、嫌になった?」

「ならないよ。そんなの全然ならない」

「だったら、直央もそう思ってるんじゃない?」

 彼の大きな手が、私に向かって真っ直ぐに伸びる。

「好きだよ。よかったら俺と、付き合ってください」

 その手をじっと見つめる。

動きたくても動けなくて、私には固まったままどうすることも出来ない。

伸ばされた腕がふわりと動いた。

「はは。ゴメンね。わがまま言って」

 彼はヒラリとそこから飛び降りると、今度はブランコに乗る。

立ったままこぎ出した、その上から声をかけた。

「彩亜ちゃんも乗ったら?」

 そう言われて、断れるわけがない。

私は彼の隣に腰を下ろすと、ゆっくりとブランコをこぎ始めた。

「1年の時にさ、俺、体育委員やってて。その時にテントで見かけてさ。可愛いなーって思ってた」

 左右に揺れるブランコと、軋む鎖の音が交差する。

「で、2年になって同じクラスになれて、めっちゃうれしくてさ……」

 彼は勢いをつけて、そこから飛び降りた。

「それで、ずっと見てた。そしたら分かったよ。彩亜ちゃんの好きな人」

 泣いていいのかダメなのかも分からなくて、だけどここで私が泣くのも違うよなって、どんな顔をして彼を見たらいいのかが分からない。

「……。そ、そうなんだ」

 ブランコから立ち上がった私に、彼は笑い出す。

「あはは。そんなに困った顔されると、こっちも困るからやめて」

 ニッと笑うその笑顔が、今の私にはとてつもなく眩い。

「ね、今日もアイス食べて帰る?」

「え……。どっちでもいいけど……」

「じゃあ、一緒にコンビニ行こう。今日こそ俺がおごるから」

 普通に、もの凄く普通に、ごく自然に接してくれる広太くんが、自分より遙かに大人に見えて、とうてい私なんかには手の届かない人になってしまったようで、申し訳ないようないたたまれないような、目に見えない分厚い壁が出来てしまったような気がする。

 それでも私は、彼が普通に接してくれるから、普通に接することを演じている。

上手に振る舞えているのか、彼の気を悪くしてないのか、そんなことが気になって仕方がない。

夕暮れの通学路を、先にゆく彼の背を見つめる。

このままやっぱり普通にコンビニ入って、当たり前のように一緒にアイス食べて、何もなかったみたいに別れて、そしてまた学校で……。

ふいに、私の足は止まった。

「ゴメン。広太くん」

 彼はゆっくりと振り返った。

「私、やっぱり直央くんが好きだから……。広太くんとは付き合えない」

「うん。そうだよね」

 彼はニコッと微笑むと、軽やかに手を振った。

「じゃ、悪いけど先帰ってるね。アイスはまた今度」

「う、うん」

「また明日」

「また、明日」

 小さく手を振って、彼を見送る。

なんだか今日は、泣いてばっかりだ。

真っ赤に染まった夕焼けの下を、ぐずぐず足を引きずって歩く。

体が重い。

いつも短い駅までの距離が果てしなく遠い。

絶対に顔が腫れてる。

こんなとこ、誰にも見られたくないな。

ようやく構内に入った。

雑踏を抜け、さっさと電車に乗ってしまおう。

「彩亜ちゃん?」

 直央くんだ。

なんで?

「待って!」

 逃げだそうとした私の腕を、彼が掴んだ。

「ちょ、あ、アレ? 広太が……。んと、どうしたの?」

 その手を振り払う。

こんなの、タイミング最悪過ぎる。

「さっきアイツが……、ねぇ、待って!」

 逃げ出した。

今は直央くんの顔も見たくない。

そこから飛び出し、路上へ出た。

最悪だ。

もう一度涙を拭う。

一人で歩く混雑した夜道で、直央くんが私の手を掴んだ。

「どこ行くの。駅はこっちでしょ」

 そう言いながらも、私を引く手は駅から遠ざかる。

道幅の狭いごちゃごちゃした通りを、彼は私の手を掴んだまま離さない。

「広太と何があった?」

「……。好きって言われた」

「で、何て答えたの?」

「……。直央くんが好きだから無理って……」

 つないでいる彼の手が、私の手をぎゅっと握り返した。

それに負けないくらい、私も強く握り返す。

彼は立ち止まると、ようやく振り返った。

「とりあえず、今日は帰ろっか」

「うん」

 つないだ手を離したくなくて、離されたくなくて、彼をじっと見上げる。

「他に、何にもヘンなこととかされてないんだったら、いいよ」

「うん。それはない」

「……。そっか。じゃあいいんだ」

 歩き出す。

つないだ手はそのままだ。

さっきまで歩いて来た道を、そのまま引き返している。

帰宅ラッシュの混雑とピカピカ光る看板の明かりに、私の頭はくらくらしている。

「私、直央くんが好き。好きなの。ずっと好き。大好き」

「うん。ありがと」

 構内に戻って、改札を通る時に離された手には、まだその感触が残っていた。

「じゃ、また明日」

「うん。またね」

 ホームに電車が滑り込む。

その気配に、彼は慌てて階段を駆け上っていった。

その背中をじっと見つめる。

いつか彼が、私を振り返る日はやってくるのだろうか。

 このまま諦めた方がいいとか、頭では分かってても気持ちが言うことを聞かない。

好きってきっと、そういうものなんじゃないの? 

どっちがいいかとか楽だとか、そんなことでは動けないんだ。

広太くんのことは嫌いじゃない。

むしろいい方だと思う。

だけどだからって付き合って、それで本当にいいの? 

もしかしたらアノ子も、そんな気持ちなのかな。

 どれだけその願いが儚く遠いものでも、いつか好きな人の好きな人になれますように。

私はそれを願って、自分の階段を昇り始めた。



【完】

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