喪失魔法使いの最強賢者 ~裏切られた元勇者は、俺だけ使える最強魔法で暗躍する〜


 ここサクセンドリア帝国では、人類と魔族の戦いが何百年も繰り広げられていた。

 血で血を洗い。
 殺戮と闘争を繰り返し。

 長年の間、両者の戦力は拮抗していたのだが――
 その均衡が崩されていったのは、つい数年前のこと。

 ここ近年で魔族側が急激に力を高め、人類を押し始めたのである。

 各地の拠点は続々と突破され、名高き剣士や魔法使いもことごとく散っていった。

 世界が絶望に染まる一方で……しかし人類側も諦めてはいなかった。

 レクター・ヴィレンス――
 人々が《勇者》と崇める若者がいたのである。

 (よわい)18にして、内に秘めたる魔力は人類でもトップクラス。

 まだ若いため戦闘経験は薄いが、彼ならばきっと魔族を蹴散らしてくれると――
 人類はいつしか、彼に希望を委ねるようになっていた。

 むろんレクターも謙虚にして前向きな若者。
 その期待に応えるべく、日々コツコツと修行を重ねてきた。

 その歯車が狂いだすのは――星歴1098年の10月なかば。
 運命の歯車が、勢いよく動き出そうとしていた。

   ★

「レクター様ぁ♡」
「うおっ!」

 背後からいきなり抱きしめられ、俺は素っ頓狂な声をあげる。

 異常なほどに柔らかな二つの感触が、俺の背中に襲いかかり――
 そしてまた、女性特有の甘い香りが、俺の鼻腔を刺激する。

「クロエ……。いきなり飛びかかるのはやめろって、いつも言ってるだろう」

「だってぇ♡ レクター様に会えるの、超嬉しいんですもん♡」

「それが迷惑なんだっての。見ろよ、まわりの視線……」

 帝都サクセンドリア。
 その中央道路にて。

 普段から賑わっているこの場所は、昼すぎになると人通りがピークになる。

 なにしろ外国人観光客も訪れやすい場所だからな。
 見渡す限りいくつもの商店が並んでいて、まさに活気に溢れた街並みといえよう。

 そんなところで若い男女がいちゃついてみろ……

 好奇の視線、羨ましそうな視線、やっかみの視線。
 さまざまな感情が突き刺さってくる。

「なあ、あの二人ってまさか……」
「ああ。勇者レクター様に、侯爵家のクロエ様か。絵に描いたような美男美女……俺たちとは住む世界が違うなぁ」

 実際にも、このような会話がヒソヒソと繰り広げられていた。

 正直、目立つのは性に合わない。
 注目の的になるのはできれば避けたいものだ。

「あら、いいじゃないですか♡ 私たちは婚約してるんですし……皆さんにも、私たちのラブラブっぷりをアピールしましょうよ♡」

「なに言ってんだよ馬鹿。そんなことしにきたわけじゃないだろ」

 そう。

 今日は急遽、皇帝に呼び出されてここにやってきた。
 どんな内容かは不明だが、この国で一番偉い人間の呼び出しだからな。

 本心は面倒くさいが、応じないわけにもいかない。

 現在は朝の10時20分。
 呼び出しの時間までもう少しだな。

「さ、いくぞクロエ。とっとと用事を済ませて、家に帰るとしよう」

「はーい♡」

 甘い声を発しながら、俺についてくるクロエだった。

 ――そう。
 今日が運命の日になるなんて、このときは思ってもいなかったんだ――

  ★

「転移者……ですか?」

「さよう。(ことわり)を異にする世界……つまり異世界から召喚した戦士であれば、必ずや強力な戦闘力を持っているに違いあるまい?」

「はぁ……」

 帝都サクセンドリア。
 その皇城の謁見室にて、俺はクロエとともに王の話を聞いていた。

 異世界――

 その存在を聞いたことはある。

 俺たちは当たり前のように剣と魔法を用いて戦っているが、それは俺たちの常識でしかない。古びた文献によると、過去には《銃》なる物を使って戦場を駆け抜けた者がいるらしく、まさに俺たちの知らない世界といえるだろう。

 まさに理を異にする世界……
 たしかにそこから召喚した戦士であれば、魔王さえ凌駕する力を持っているかもしれないが……

「陛下。まさか今日、俺たちを呼び出したのは……」

「ふふ、さすがは察しがいいな。――おい、彼をここに」

「は」

 国王に命じられた側近が、奥の部屋に消えていく。
 そして数秒後には、華美な装備に身を包んだ男を伴って戻ってきた。

「紹介しようレクター。彼はベイリフ・ドーラ。元の世界では《剣聖》として知られていたようだが、この度、我が国においても魔王討伐を引き受けてくれることになった」

「剣、聖……?」

 おいおい冗談だろ。
 たしかに強そうだが、明らかに堅気の人間には見えない。

 大きな三白眼はなんだか不気味だし、腕にはまさかタトゥーを施しているのだろうか。鍛えられた身体をしているし、振る舞いにも隙がないので、強いことはたしかだと思うが……

「陛下。こいつですかい、例の勇者ってのは」 

「さよう。レクターを倒すことができれば、そなたを勇者として認めよう」

「な……⁉」 

 おい。
 おいおいおい!
 いきなりなにを言い出すんだ、このクソ国王は⁉

「はは、陛下。聞き間違いですかね? 俺を倒せば、この転移者が勇者になるって……」

「…………すまぬな、レクター。できれば二人で協力してほしいし、余としても心苦しいのだが……」

「はっ! 当然だろそんなの! 英雄は世界にひとりだけ! 二人もいるんじゃ、魔王を倒したって俺様の旨味が薄いだろ?」

「ベイリフ殿。さっきも言ったが、負けた時には二人で魔王を……」

「はっ、無駄な心配すんなよ! 俺がこんな奴に負けるわきゃないだろうが!」

 なるほど……そういうことか。
 国王としては「俺」と「転移者」で魔王を倒してほしい。

 しかし転移者――ベイリフはこういう性格だ。自分だけが英雄と褒め称えられたいんだろうな。

 だから俺を倒すことで、自分が勇者になりたいんだ。
国王もできれば争ってほしくないだろうが、魔族が人類を押し始めている現在、悠長なことは言っていられない。こんな奴でも、協力してもらうしかないのだ。

「レクター様……」

「大丈夫だよ。俺は負けない」
 不安そうに見つめてくるクロエの頭を撫でると、俺は改めて立ち上がる。
「いいだろう。売られた喧嘩は買ってやる。だがベイリフ……俺が勝ったら、ひとつだけ頼んでいいか」

「ほお? なんだよ」 

「簡単な話さ。俺が勝ったら、元の世界に戻れ。正直あんたを見てると、ムカついてしょうがない」 

「はっ。いいだろう。万が一にもそんなことはありえねえが、もし俺が負けたら消えてやるよ」

 ここまでが前口上。

 俺とベイリフは一定の距離を保って向かい合い、互いに剣を構える。

 謁見室で戦うのは問題な気もするが、国王いわく、問題ないとのこと。王の両隣には兵士が控えているし、万一にも被害が及ぶことはないだろう。

「はっ。チンケな闘気だな。そんなんで俺に勝てる気かよ」

「…………」

 妙だな。
 目の前にいるのに、ベイリフからはまったく存在感を感じない。
 ――まるで最初から、そこにいないかのように――

「はじめっ!」

 そして審判役の兵士が合図を発した、その瞬間。

「なっ…………⁉」

 突如にして、目の前からベイリフの姿が消えた。

「はっ、やっぱりこの程度かよ?」

 右耳の近くで囁かれ、俺は怖ぞ気とともに逃避の準備に入る。

 しかし、遅かった。なにもかも。

「かはっ……!」

 俺は頭部を掴まれ、そのまま地面に押し付けられた。

 鋭い痛みが全身に走る。鼻も口も押えられているため、指の隙間から流れてくるわずかな空気しか吸い込めない。

 ――嘘、だろ……⁉
 まったく見えなかった……!

「ははっ、カスってもんじゃねえな。俺はまだ剣も使ってねえのによ」

「うがっ、がぁぁぁぁぁぁぁああっ!」

 ――ありえない。
 俺も勇者として、多くの達人と剣を交えてきた。それでも俺が負けることはなかったし、だからこそ勇者と褒め称えられてきた。

 なのにこの有様とは……⁉
 これが転移者の風格だってのか……!

「ふが……ふがふが……」

 呼吸さえ満足にできない俺を見て、この場にいる全員はなんと思っただろう。 

「おおお……! あのレクターでさえ圧倒するとは、素晴らしい……!」
 まず真っ先に声をあげたのは国王だった。
「よかった……! そなたを召喚したのは正解だったようじゃの! 勇者ベイリフよ!」

 嘘だろ……!
 いままで俺なりに努力してきたのに、俺はここで終わるのか……⁉

 こんな奴に……⁉

「す、すす、すごいですわ! これが転移者様の実力なのね!」

 そして……これは夢だろうか。
 あのクロエまでもが、急にベイリフを称え始めた。

「私、強い男の人が好きなんです! 素敵!」

 そう。
 俺は貴族でもないし、ましてや王族でもない。
 ただ強いだけで、勇者として褒め称えられてきただけだ。
 その勇者という立場なくなったいま――俺の肩を持つ意味はないってことか……⁉

「ク……ロエ……!」

「ほお……?」
 俺のそんな反応を見て、ベイリフが悪い表情を浮かべた。
「あれがおまえの女か。クク、悪くねえ女じゃねえか」

「や……めろ。クロエに手を……出す……な……」

「へっへっへ、惨めなもんだなぁ勇者よ。ああ、もう勇者じゃなくて、ただのポンコツか」

「ふが……ふ……が……」 

 駄目だ。

 ベイリフに顔を掴まれ続けて数十秒。
 なんとか耐え忍んできたが、これ以上は意識が持たない。

 次の瞬間、俺の意識はぷつりと途切れた。
「うっ……」

 目覚めたとき、見知らぬ天井が真っ先に視界に入ってきた。

 ――ここは、どこだ……?
 俺は王に呼ばれて転移者と戦って、それで……

「っ…………!」

 俺はそこですべての記憶を取り戻し、勢いよく上半身を起こした。
 が。

「って……!」

 全身に痛みが走り、たまらず寝転んでしまう。

 どうやら転移者――ベイリフに痛めつけられた傷は相当深いようだ。そんなに長い時間戦っていなかった気がするが、これが実力の差というやつか。

「おやおや、無理をしないでください。あなたが思っている以上に傷は深いんですから」

 どうやら、ずっと俺を看病してくれていた者がいるらしい。
 ベッド横に、白衣に身を包んだ男性がいた。

「あ、あんたは……」

「王城に勤める医者です。相当の重傷でしたので、私が診させていただきました」

「そうか……。悪い……」

 王城に勤める医者となると、ここは王城の一室か。

 たしかに装飾や家具がやたら華美だし、普通の部屋ではないと思っていたが。

 しかし、どうしたことだろう。
 部屋の外がやたら賑わっているようだが……なにか祭りでもやっているのだろうか。

 直近で祭りの予定はなかったはずだが。

「しかしレクター様……。本当に災難でしたね……。まさかこんな仕打ちを受けてしまうとは……」

「はは……仕方ないさ。一生懸命に努力しても、転移者には敵わないってことだろ」

 これまでの人生は、決して楽なものではなかった。

 時間のほとんどを修行に費やして。
 同世代が遊びに(うつつ)を抜かしている間も、ひたすら前に剣の腕を磨き続けてきた。

 そう、すべては勇者という期待に応えるために――

 でも、その修行はぜんぶ無駄だったんだ。この世には、そういう努力をすべてひっくり返してしまうような奴がいるのだから。

「そういえば……ベイリフはいまどうしてるんだ? もう魔王討伐に向かってるのか?」

「いえ……それが……」

 そこで視線をさまよわせる医者。
 どういうわけか、何事かを言い淀んでいるようだ。

「レクター様。落ち着いて聞いてくださいね」

「な……おいおい、なんだってんだよ」

 戸惑う俺に、医者は衝撃的な一言を発した。

「――魔王は倒されました。勇者ベイリフと、聖女クロエによって」

「な……⁉」

「レクター様。ご自覚はないでしょうが、あなたは半年もの間ずっと眠っていました。率直に申し上げて、お亡くなりになっている可能性さえあったのです」

「…………」

「そして勇者ベイリフの強さも圧倒的でした。たった半年のうちに、魔族と魔王を殺めるまで……そう時間はかかりませんでした」

 おい……
 おいおいおい……

 嘘だろ。
 色々と理解が追い付かないぞ。

 しかも医者が言うに、魔王を倒したのはベイリフだけじゃない。
 もう一人いるって……

「おい、聖女クロエっていうのはまさか……」

「…………」
 そこで医者は辛そうに表情を歪める。両の拳を握りしめ、なんだか涙さえ流しそうが勢いだ。
「レクター様。あなたは私の恩人です。あなたがベルド村で魔族を倒していなかったら、私の母は生きていませんでした。……だからこそ、お伝えするのは心苦しいのですが……」

 そして医者の口から紡がれた言葉は。
 なんとなく予感はしていたけれど、絶対に聞きたくない言葉だった。

「クロエ様は、ベイリフ様と婚姻を結ばれました。――今日が婚姻式の日となります」

「……………………」

 嘘だろ。
 たしかにクロエとの出会いは普通ではなかった。
 俺の名声に目を着けた侯爵家の人間が、年頃の娘をけしかけてきたんだ。

 それでも……俺は彼女と愛し合っていると思っていた。

 クロエとの時間は本当に楽しかったし、忘れられもしない。
 出会いは特殊だったけれど、クロエも俺をひとりの人として見てくれていると思っていた。

 なのに……

「は……ははは……」

 俺のなかのなにかが、勢いよく崩れ落ちていく気がした。

「あ……! 待ってください! 身体はまだ完全に回復してないんですよ!」

 そしてそのまま、医者の声を背に受けて部屋を出るのだった。

 医者の言っていた通り、帝都は熱狂の渦に包まれていた。

 行き交う人々の表情が、とにかく明るい。
俺の記憶にある帝都サクセンドリアは、みんな魔族の脅威に怯えていて、街全体もどこか暗かったのに……

 医者の言っていたことは本当なんだろう。

 ――魔王は倒された。勇者ベイリフと……聖女クロエによって。

「…………」

 本当は喜ばしいことのはずだ。
 長年人類を苦しめてきた魔王が死んだわけだし、これにて世界は平和になった。魔族の侵攻に恐怖する必要もないわけだし、喜ばしいことのはず。

 なのに。

 なのに、この虚しさは、いったいなんなんだ……

 途中、ビラ配りをしている青年に出くわした。それの内容によれば、間もなく帝都の中央広場にて婚姻式を挙げるとのこと。

 ……なんともまあ、贅沢な話だ。
 どこかの会場を借りるのではなく、帝都全体を使って式を開催しようとしているのだから。

 魔王を倒した英雄たちの婚姻式だから、それも当然かもしれないが。

「クロエ……」

 皮肉な話だ。
 転移者に出会う前、俺はこの場所でクロエに抱き着かれていた。

 当時は、それが「よくある日常の一部」に感じられていたが……

 いまとなっては、その思い出が俺の胸を鷲掴(わしづか)みにする。

 ――いや、まだわからない。
 この目でベイリフとクロエを見なければ、まだ信じられない。

 自分でも哀れだとわかっているが、そう思わずにはいられなかった。まだ痛みの残る身体に鞭打って、ただひたすらに走り続ける。

 やがて中央広場に出た。

 当然ながら他の場所より人が多く、いたるところに売店がある。
すさまじい人込みだが、よくよく見れば、パーテーションの向こう側に赤い絨毯が敷き詰められている。あれぞ、まさしくバージンロード……その先の壇で契りを交わすのだろう。

「きゃー! きゃー!」

「ベイリフ様、クロエ様―!」

帝都の住民はすっかりベイリフたちに心酔しきっているようで、彼を賞賛するプラカードを持っていたり、花束を用意していたり……まさに混沌状態だ。

 正直、あいつのどこに尊敬する要素があるのかはわからないが――
 前の世界でも《剣聖》と呼ばれていたようだしな。
 人心の掌握には長けているのかもしれない。

 そして――待つこと数分。

「さあ皆様お待たせしました! 魔王を倒した英雄ベイリフ・ドーラ様と、同じく魔王を倒した聖女クロエ・ドーラ様……。お二方がご登場されますっ‼」

「「わあああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁああっ!」」

 瞬間、人々の興奮がピークに達した。

「ベイリフ様ぁーー! 素敵ぃー!」
「こっちを向いてー!」

 そんな大歓声とともに姿を現したのは、転移者たるベイリフ・ドーラ。

 そして彼に腕を絡める形で、クロエが登場する。

「…………は、ははは……」

 なんて哀れな結末だ。
 信じたくなくて、この目で確かめたくて、無我夢中でここまでやってきたけれど。

 話は本当だった。
 ベイリフとクロエは、本当に……

 と。

「ん……?」

 なんだろう。
 目を凝らしてみると、ベイリフの周囲からドス黒いオーラが感じられる。

あの禍々しい圧力……どこか魔王にも似ているが……

 気のせいだろうか?
 あんなにあからさまなオーラなのに、住民は誰も気づいていない。

 そしてとうとう、二人は壇の手前にまで到着した。

「こほん。新郎ベイリフ殿は……」

 神父の長い問いかけが終わると、ベイリフがクロエの両肩を掴む。そして口づけをするその直前、ベイリフの「ドス黒いオーラ」がまた巨大化する。

「…………っ」

 その瞬間、俺はいてもたってもいられなくなった。
 ベイリフの黒いオーラが、クロエをも飲み込もうとしているように見えたから。

「ま、待て!」

 だから俺はありったけの声を響かせて、二人の口づけを止めた。

「な、なんだあいつは……?」

「もしかして前の勇者じゃない? たしかレクターっていう名前の……」

「マジかよ……。生きてたんだな」

 人々の鋭い視線が、続々と俺に突き刺さる。

 ――そうだよな……
 多くの人々にとって、俺は過去の人。

 勇者というポジションをベイリフに奪われた、哀れな男でしかない。


「ほう……あいつは……」
 なにが面白いのか、ベイリフが俺を見て醜悪な笑みを浮かべる。

 その瞬間、ゴォォォォォォオオオ……と。
奴を取り巻くドス黒いオーラが、さらに拡張した。

「…………っ!」

 もはや見間違いなどではない。

 あれは魔族や魔王によく見られた漆黒のオーラ……《魔ノ波動》だ。

 詳しいことは不明だが、そのオーラが濃密であればあるほど、戦闘力が高いと言われている。まさしく悪を象徴する、禍々しいオーラといえよう。

 その《魔ノ波動》が……なぜかベイリフを覆っている。
 いったいこの数か月でなにが起こったのかは不明だが……この状況を放っておくわけにはいかない。

「クロエ、ベイリフから離れろ! そいつは危険だ!」

「はぁ……?」
 しかしながらクロエの反応は、かつて恋人だったときとは大きくかけ離れていた。
「なにを言ってるのかしら? 危険なのはあなたじゃなくて?」

「な……! ク、クロエ、なにを……⁉」

「ベイリフ様は魔王を倒し、帝国に多大なる貢献をしてくれた勇者様です。そんな聖人を危険呼ばわりなどと……あなたのほうが、よっぽど危険ですわ」

「な……っ!」

「ふふ、そこまで言ってやるなクロエよ」
 目を見開く俺に、ベイリフが引き続き醜悪な笑みを浮かべる。
「男として、女を取られた苦しみはわからなくもない。あいつはきっと、自分でも嫉妬が抑えられなくなっているんだろう」

「……あらベイリフ様。その口ぶり、苦いご経験がおありで?♡」

「クク、どうだかな」

 ――嘘だろ……?
 あんなに禍々しいオーラなのに、みんな気づかないのか……?
 そんなことがありうるのか……?

 コツッ、と。
 ふいに、俺の右肩になにかがぶつかった。

 ――石ころだった。

「嫉妬に狂った元勇者め! 消えろ、目障りだ!」
「消えろ、消えろ、消えろ!」

 なんということだろう。
 まわりにいた住民たちまでもが、一斉に俺をなじり始めた。
 なかには石やゴミを投げつけてくる者までいる。

「み、みんな、目を覚ましてくれ! あいつはどう見ても――!」

「消えろ、消えろ、消えろ!」

 俺の説得は、しかしなんの効果も発揮しなかった。
 それどころか、住民の怒りがヒートアップしていく始末である。

「クク、そこまでにしてやれ住民たちよ。こんなんでも、元は勇者だからな」
 その状況を止めたのは、意外にもベイリフ本人だった。
「代わりに俺様が引導を下してやろう。圧倒的な実力の差を見せつければ、嫌でも諦めざるをえまい」

「おお……なんて寛大な……」
「ご自身が一番の被害者だというのに……」

 ――いったいこれのどこか寛大なのか。
 なにが起きたのかは不明だが、住民たちはもうベイリフに心酔しきってしまっている。あいつの一挙手一投足を、すべて信じ切ってしまっているかのような。

「さあ、過去の勇者レクターよ。己の未熟さを嘆き、塵となるがよい」

 そこから繰り広げられたベイリフの攻撃は、やはり俺には全然見えなかった。

「ぐぅああああああああ……!」

 身体の各所に打ち込まれる剣撃の数々。
 俺はなすすべもなく、そのすべてを受けきるしかなかった。

 というより、以前戦ったときよりも、さらに強さに磨きがかかっている気がする。
 もちろん魔王を倒したわけだし、強くなるのは当然なのだが――

 どちらかといえば、攻撃が「魔族っぽくなった」というような……

「すげぇ……さすがはベイリフ様だ!」
「レクターなんか目じゃねえぞ!」

 俺が倒れ込むその寸前まで、俺を応援している者はいなかった。

 みんなベイリフの勇姿に酔っていた。

 哀れだよな。
 ――俺の半生は、いったいなんだったんだろう。

 期待に応えたくて、一生懸命に修行して。

 その末路がこれか。

 薄れゆく意識のなかで、最後にクロエの表情が映った。

 最愛の女性だったはずのクロエは――まさに腫物を見るような顔で俺を見つめていた。

 ああ。
 俺は死ぬんだな。
 衆人に罵声を浴びせられ、極めて情けない形で。

 これでよくわかった。

 ――この世界も、この人間たちも……クソくらえだ。


★  ★  ★

 発動発動。

 ジョブスキル【勇者】を発動するための条件をクリアしました。

 これより10年後の世界に転生します。

 勇者レクターよ、魔王ベイリフ(・・・・・・)を倒し、世界に光を――

(…………え?)

 次に意識が戻ったとき、俺は目の前に見知らぬものを見た。

 ――女性の胸部である。

(え⁉)

 しかしながら、どういうわけだか声が出せない。
 しかも心なしか、身体もすこし動かしづらいような……

「おーよしよし、レクターちゃん、可愛いですねー」

 よくよく目を凝らすと、俺は若い女性に抱きかかえられているようではないか。

(いやいやいや。待て待て待て)

 これでも俺は18。
 巨漢ならともかく、女性に軽々持ち上げられるほど身軽ではなかったはずだが。

(でもこの状況、夢とも思えない……)

 目の前にある物体の感触が、あまりにもリアルすぎる。

 ――って、そうじゃなくて。

 さっき(・・・)俺は、「転生」という言葉を耳にした気がする。ベイリフにボコボコにされ、意識を失う寸前、そんな声を聞いた気がするのだ。

 転生……
 そういえば聞いたことがあるな。

 転移者とやや似ているが、記憶を持った状態で生まれ変わることを指す。俺の場合は異世界に転生したわけではなく、元住んでいた世界にそのまま転生したということか。

 しかもあの声によれば、10年後の世界に。

(…………)

 もしかすれば、俺もベイリフのように、転生者ならではの特殊能力を持っていたりするのだろうか。

 ――そうだな。
 試しにあれをやってみよう。

(空属性魔法発動……浮遊)

 心中でそう唱え、体内の魔力を操作した途端。

「えっ……! レクターちゃん⁉」

 驚くべきことに俺自身の身体が浮き上がり、さっきまで俺を持ち上げていた女性――状況から察するに、たぶんこの人が俺の母だろう――の目前で漂い始めたのだ。

(な……マ、マジか……)

 試しに魔法を使ってみたが、まさか本当にできてしまうとは。

 前世において、俺は魔法をまったく扱うことができなかった。

 そのぶん剣の実力のみで《勇者》と呼ばれるほどになったのだが……

 まさか、過去世でまったく扱えなかった魔法でさえ、いともたやすく使えるようになってしまうとは……
 やはり「転生」というのは強すぎるな。

「レ、レクターちゃん⁉ なんで浮いてるの⁉」

「あ、あうあうあー」

 あかん。
 魔法は使えても、うまく喋ることはできない。そこらへんは普通の赤ん坊と一緒か。

「クレハ! いったいどうした……って、え?」

 母の大声を聞きつけてか、今度は男性が室内にやってきた。

 この状況から察するに、彼は俺の父に当たる人物か。
 ――しかしこの声、なんか聞き覚えがあるような……

「う、浮いてる……⁉ そんな、まさか魔法をもう使っている……⁉」

「で、でも……そんなことありえるの……?」

「ありえない。少なくとも僕が見てきた事例では初めてだ」

 ……なんと。
 この父親、前世の俺を看病してくれた医者ではないか。

 見た感じもう30代くらいだし、奥さんとは歳が離れているが……歳の差婚というやつだろうか。

()にちなんで、同じ名前をつけさせてもらったけど……これは本当に、すごい子が生まれたかもしれないぞ……」

「そうね……。見た目もどこか、あの方にそっくりだし……」

「ああ。もしかしたら本当に、レクター様の生まれ変わりかもしれない……」

 はい、生まれ変わりです。

 ――とは言えないので、ひたすらおぎゃあおぎゃあと泣くしかできないのだが……

 それにしても、意外だな。
 死ぬ直前、ベイリフと対峙したときは、みんな俺をゴミのように扱ってきたのに。

 なかには、こんな俺を認めてくれる人もいたんだな。

 それを思えば、心の傷が癒えてくる気もするが――
 だとしても、俺は忘れることができない。

 簡単に俺を切り捨ててきた国王を。クロエを。帝都の住民たちを。
 そしてなにより――醜悪なオーラを漂わせた転移者ベイリフを。

 前世の俺は、みんなの期待に応えようとして裏切られた。

 だからもう、《誰かのために生きる人生》は絶対に送らない。

 俺は……俺のために生きる。

 転生者として、いわゆる「不正」にも近い能力を手に入れてしまったようだが――

 だとしても、関係ない。
 勇者としての矜持(きょうじ)など、過去に捨てた。そんなものは何の役にも立たない。

 この不正力で、10年後の世界をやり直してやる……!

 空中に漂い続けながら、俺はそのように決意を新たにするのだった。
 転生してから12年が経った。

 今生での俺の名前は、レクター・ブラウゼル。

 以前に父が言っていたように、前世の「レクター・ヴィレンス」から名前を拝借したらしい。やや恥ずかしくはあるものの、混乱しなくて済むのは助かるところだ。

 ここまでの12年間、俺は何不自由なく過ごしてきた。

 まあ、父が医者だからな。
 過去に何度も患者を助けてきた手腕から、多くの人たちに感謝されているらしい。

 それもあって、家も「屋敷」と言えるほどに大きく……俺はそこそこ裕福な暮らしを満喫していた。

 ひとつだけ面倒な点があるとすれば――

「レクター! そっちにボールいったなのー!」

「はいはい」

 昼下がり。帝都の公園にて。
 木にもたれかかっている俺に、勢いよくボールが飛び込んできた。

 俺は難なくそれを片手で受け止めると、
「おい、返すぞ」
 と言ってボールを投げ返す。

「わわっと! ありがとなのー!」

 そう言ってはにかむのは、同じく12歳の少女……レナス・カーフェ。

 いわゆる近所に住むトモダチってやつだ。
 たしか《特別な才能》を持っているらしいが……詳しいことは知らない。

 どうでもいいからな。
 率直に言って、好きでこんなのと関わり合っているわけではない。

 人と関わるのは前世で懲りたわけだし、できるなら部屋に引きこもっていたいところだ。

 だが、今生の母はなかなかの教育ママだった。

 ずっと部屋に引きこもる俺を見かねて、強制的にトモダチと遊ばせてくるのである。

 俺も正直嫌なのだが、従っておかないと家族会議になってこれまた面倒くさい。

 だから渋々、こうやってトモダチと遊んでいる(・・・・・)わけだ。公園の隅っこでな。

「ったくよー。レクターはめちゃくちゃ運動できるんだし、一緒に遊ぼうぜ?」

 そう言ってくるのは、これまた同い年のバルフ・ガードン。

 12歳にしては体格が良く、このまま順当に成長すれば騎士にもなれそうな少年だ。

 レナス。
 バルフ。
 そして俺。

 他にも数名いるが、ほぼ毎日このメンツで遊んでいた。

 前世の俺は修行に明け暮れるばかりだったので、よくわからないが――

 これくらいの年齢の子どもは、みな毎日のようにトモダチと遊ぶらしい。
 よく飽きないなと思うが、レナスもバルフも本当に楽しそうだからな。
 そういうものなのだろう。

 ――とまあ、こんな感じで俺は全然気分が乗らないので、こうして木影で休んでいるわけだ。

「俺は遠慮しとくよ。見てるだけで楽しいんだ」

「げっ、マジで? 見てるだけじゃつまんなくね?」

「そうでもないさ。風に当たりながら昼寝をする……悪くない感覚だぞ」

 俺がそう言うと、レナスがはぁぁぁああと、盛大なため息をついた。

「すごーい。レクター、お父さんみたいなこと言ってる……」

 そう言いながら含み笑いを浮かべるレナス。

「ふん。そういうおまえも、12歳の割にはずいぶん大人びている気がするが?」

「えぇ? 私知らなーい」

 あざとくウィンクするレナス。

 こういう仕草も12歳とは思えないのだが……

「まあ、俺のことは気にしなくていい。二人はまた適当に遊ん――」

 ドクン……!
 突如にして心臓の鼓動が高鳴り、俺は顔をしかめた。

「おいレクター? どうした?」

「いや……気にするな。なんでもない」

 ――いまのは……気のせいじゃないな。

 かなり大きな魔物の気配……

 しかもこれ、だいぶ近いところにいるんじゃないか……?

 勇者レクターとしての実力は、現世においても忠実に引き継がれている。この索敵能力も、そのひとつというわけだ。
 おかげで、他の人では気づきえない気配さえも感じ取ることができる。

 ……まあ、感じ取れたところでなんだって話ではあるが。

 ブオーン、ブオーン、ブオーン……!

 それから数秒遅れて、帝都中に警報音が鳴り始めた。

 そこかしこの街頭から、甲高い音が響き続ける。

『付近に危険な魔物が現れました。付近に危険な魔物が現れました。都民の方は、ただちに屋内に避難するか、物陰に身を隠してください』

「わわっ……!」

「危険な魔物だって……⁉」

 目を丸くして飛び上がるレナスとバルフ。

 まあ、そりゃ驚くよな。

 ここは皇族の住まう帝都だし、安全対策は充分に取られているはずだ。近隣の魔物はたとえゴブリンであっても倒し尽くされているはずだし、定期的に冒険者が見回りに出ているはず。

 そんな状況下で危険な魔物が現れるということ自体が、まさしくイレギュラー。

 魔物が突如ここらに転移してきたか、もしくは突然変異を起こしたか……

 とにもかくにも、そうそう起こりえないことなのは間違いない。俺とても、12年生きてきて初めての経験だ。

「わ、わぁぁぁぁぁぁぁぁあああ!」
「逃げろ、早く!」

 当然というべきか、帝都は大混乱の様相を呈していた。

 悲鳴をあげる者、逃げ惑う者……そして、強張った表情で外に向かう戦士たち。

 まさに帝都サクセンドリアは、俺の見たことのない混沌に陥っていた。

「わ、わわわわわわわわ、どうしようなの……!」

 真っ赤な顔でパニクるレナス。

 まあ、仕方ないよな。大人でさえパニクっている事態を、12歳の子どもが冷静に受け止めきれるはずもない。

 そしてそれは――好奇心旺盛なバルフも同様だった。

「すっげぇ……危険な魔物だってよ、おまえたち!」

 目をキラキラさせながらそう言うバルフ。

 さながら嵐の訪れがワクワクするような心境だろうか。なかなか起きないトラブルなだけに、非常事態であることが実感できないんだろう。

 その気持ちはわからなくはない。

 だが。

「……やめておけ。大人たちがあんなに慌ててるんだ。間違っても見に行ったりするなよ」

「そうはいってもさぁ。ねぇ」
 そこでバルフはちらりとレナスを見る。
「知ってんだろ? 俺の夢は冒険者! ベイリフ様のように強い男になって、好きな人を守るのが夢なんだっ!」

「冒険者……だって……?」

「ああ! ここで逃げるのは男の恥! そうは思わないか?」

「…………」

 ――なるほど。

 うすうす感づいていたが、こいつはレナスのことが好きだ。

 だから女の子の前でかっこつけたいという思いも、多少あるのだろう。

 その気持ちは、たしかにわからなくもないが。

「……やめておけ。わかるだろ? 大人たちの戦いに、子どもが混じったら迷惑だ。そういうのをかっこいいとは言わん」

「…………」
 俺の発言に、バルフは不満そうに唇を尖らせると。
「……はっ、わかってるよ。言ってみただけだって」

「…………」

 嘘だな。

 本当はわかってない。

 だけど……これ以上の追及は無意味だ。言ったところで絶対に理解されないし、そもそもバルフを守る義理は俺にない。

 命を賭けて誰かを守ったところで……最後には裏切られるのだから。

「ま、そういうことだ。俺は言ったからな。おまえたちもまっすぐに家に帰れよ」

 それだけ言って、俺は身を翻し、自宅へと向かうのだった。

「あ! レクター、待って!」

 後ろで呼びかけてくるレナスの声を、無視して。



 あれから3時間。

 警報音はいまも鳴りやまないままだ。
 帝都には《凄腕》の剣士やら魔術師がいるはずだから、そんなに苦戦するわけないと踏んでいたが……

 肌に感じる魔物の気配は、いまだ克明に感じられる。

 まさかとは思うが、苦戦しているのだろうか……? 
 たしかにそこそこ強い魔物であることは間違いないが、そんなに時間のかかる相手でもないはず……

 たかだか10年で、人間の戦闘力はここまで落ちてしまったのか?

「くっ……! まだ戦いは終わらないのか……!」

 父がカーテンの隙間から外を眺め、悪態をつく。

「あなた……。落ち着いて」
 そんな父を、母が優しい声で慰めた。
「きっと大丈夫よ。帝都にはベイリフ様がいるんだし、なんとかしてくれるわ」

「……いや。いまベイリフ様は帝都にいない。たしか国外へ慰安旅行に出ていたはずだ」

「え……」

「だから大変な事態なんだ。もしかしたら、敵はこのタイミングを狙っていたのかもしれない……」

「そ、そんな……」
 言葉を失ったのか、その場で立ち尽くす母。
「でも……さすがに大丈夫よね? 帝都には戦力がいっぱい集まってるはずだし……万が一にも魔物がここまでくる可能性は……」

「わからない。こんな非常事態、文字通り初めてだからね……」

「そんな……」

 両親の会話を、俺は読書をしつつ聞き流していた。

 やはり両親から見ても、これは異常きわまる事態らしい。

 まあ、そりゃそうだよな。
 繰り返しにはなるが、帝都に大型の魔物が現れることは極めて稀。さらに警報が3時間も鳴り続けているとなると……不安になるのも無理はない。

「ふぅ……」

 だが……かといって俺には関係のないことだ。
 勇者レクターだった頃であれば、自身の安全を(なげう)ってでも飛び出していたかもしれない。それがあまりに馬鹿馬鹿しい行為だということは、いまの俺ならわかる。

「レ、レクター。おまえは怖くないのか……?」

 そんなふうに考えていると、父がそう訊ねてきた。

 子どもらしからぬ俺の反応に、驚きを隠せない様子だな。

「別に……。慌てたところで、俺にできることなんてたかが知れてますからね」

「そ、それはそうかもしれないが……」

 たとえ時間がかかったとしても、大人たちがなんとか魔物を倒してくれるはずだからな。

 余計なことをせず、なにもせず。
 このまま静かに生きていくほうが、はるかに賢い選択といえるだろう。

「それじゃあ、父上、母上。俺はこれで寝ます。おやすみなさい」

「あ、ああ……」

 父が戸惑いつつも返事をした、その瞬間。

「レクター! レクターっ!」

 突如、玄関のドアが激しく叩かれた。

 この声は――まさか。

 父もなんとなく事情を察したのだろう。俺に目配せをすると、小走りで玄関に向かった。そのままドア越しに、声の主へ話しかける。

「君は……レナスちゃんかな? レクターの友達の……」

「はい! レクター君に会わせてくださいなのっ……!」

 さっきまでのほほんとしていたはずのレナスの声は、だいぶと切羽詰まっていた。

 ドア越しでも、涙に濡れているのが伝わってくる。

「…………」

 父は数秒だけ迷っていたようだが、結局は開けることにしたようだ。

 本当は自分の家に帰ってほしいところだろうが――この非常事態だからな。

 ひとりで帝都をうろつかせるほうが危険と判断したのだろう。

「レクターっ!」

 そうして家に入ってきたレナスは、やはり大泣きしていた。

 無我夢中で走ってきたのか、額は汗でびっしょり濡れているし――しかも片足の靴がない。よっぽどのことがあったんだろうな。

 ……まあ、内容はだいたい想像がつくが。

「バルフ君が……バルフ君が、魔物に走っていって、そそそそ、それで……っ!」

 やっぱりな……

 嫌な予感はしていたが、本当に魔物に突撃していくとは。

「…………」

 だが、それでも冷静さを失わない父はさすが医者というべきか。

 しばらく考え込む仕草をすると、目線をレナスの高さに合わせて言う。

「レナスちゃん。落ち着いて、ゆっくり深呼吸をしてごらん。それから、ゆっくりと……なにが起きたか話してもらえるかな」