ここサクセンドリア帝国では、人類と魔族の戦いが何百年も繰り広げられていた。
血で血を洗い。
殺戮と闘争を繰り返し。
長年の間、両者の戦力は拮抗していたのだが――
その均衡が崩されていったのは、つい数年前のこと。
ここ近年で魔族側が急激に力を高め、人類を押し始めたのである。
各地の拠点は続々と突破され、名高き剣士や魔法使いもことごとく散っていった。
世界が絶望に染まる一方で……しかし人類側も諦めてはいなかった。
レクター・ヴィレンス――
人々が《勇者》と崇める若者がいたのである。
齢18にして、内に秘めたる魔力は人類でもトップクラス。
まだ若いため戦闘経験は薄いが、彼ならばきっと魔族を蹴散らしてくれると――
人類はいつしか、彼に希望を委ねるようになっていた。
むろんレクターも謙虚にして前向きな若者。
その期待に応えるべく、日々コツコツと修行を重ねてきた。
その歯車が狂いだすのは――星歴1098年の10月なかば。
運命の歯車が、勢いよく動き出そうとしていた。
★
「レクター様ぁ♡」
「うおっ!」
背後からいきなり抱きしめられ、俺は素っ頓狂な声をあげる。
異常なほどに柔らかな二つの感触が、俺の背中に襲いかかり――
そしてまた、女性特有の甘い香りが、俺の鼻腔を刺激する。
「クロエ……。いきなり飛びかかるのはやめろって、いつも言ってるだろう」
「だってぇ♡ レクター様に会えるの、超嬉しいんですもん♡」
「それが迷惑なんだっての。見ろよ、まわりの視線……」
帝都サクセンドリア。
その中央道路にて。
普段から賑わっているこの場所は、昼すぎになると人通りがピークになる。
なにしろ外国人観光客も訪れやすい場所だからな。
見渡す限りいくつもの商店が並んでいて、まさに活気に溢れた街並みといえよう。
そんなところで若い男女がいちゃついてみろ……
好奇の視線、羨ましそうな視線、やっかみの視線。
さまざまな感情が突き刺さってくる。
「なあ、あの二人ってまさか……」
「ああ。勇者レクター様に、侯爵家のクロエ様か。絵に描いたような美男美女……俺たちとは住む世界が違うなぁ」
実際にも、このような会話がヒソヒソと繰り広げられていた。
正直、目立つのは性に合わない。
注目の的になるのはできれば避けたいものだ。
「あら、いいじゃないですか♡ 私たちは婚約してるんですし……皆さんにも、私たちのラブラブっぷりをアピールしましょうよ♡」
「なに言ってんだよ馬鹿。そんなことしにきたわけじゃないだろ」
そう。
今日は急遽、皇帝に呼び出されてここにやってきた。
どんな内容かは不明だが、この国で一番偉い人間の呼び出しだからな。
本心は面倒くさいが、応じないわけにもいかない。
現在は朝の10時20分。
呼び出しの時間までもう少しだな。
「さ、いくぞクロエ。とっとと用事を済ませて、家に帰るとしよう」
「はーい♡」
甘い声を発しながら、俺についてくるクロエだった。
――そう。
今日が運命の日になるなんて、このときは思ってもいなかったんだ――
★
「転移者……ですか?」
「さよう。理を異にする世界……つまり異世界から召喚した戦士であれば、必ずや強力な戦闘力を持っているに違いあるまい?」
「はぁ……」
帝都サクセンドリア。
その皇城の謁見室にて、俺はクロエとともに王の話を聞いていた。
異世界――
その存在を聞いたことはある。
俺たちは当たり前のように剣と魔法を用いて戦っているが、それは俺たちの常識でしかない。古びた文献によると、過去には《銃》なる物を使って戦場を駆け抜けた者がいるらしく、まさに俺たちの知らない世界といえるだろう。
まさに理を異にする世界……
たしかにそこから召喚した戦士であれば、魔王さえ凌駕する力を持っているかもしれないが……
「陛下。まさか今日、俺たちを呼び出したのは……」
「ふふ、さすがは察しがいいな。――おい、彼をここに」
「は」
国王に命じられた側近が、奥の部屋に消えていく。
そして数秒後には、華美な装備に身を包んだ男を伴って戻ってきた。
「紹介しようレクター。彼はベイリフ・ドーラ。元の世界では《剣聖》として知られていたようだが、この度、我が国においても魔王討伐を引き受けてくれることになった」
「剣、聖……?」
おいおい冗談だろ。
たしかに強そうだが、明らかに堅気の人間には見えない。
大きな三白眼はなんだか不気味だし、腕にはまさかタトゥーを施しているのだろうか。鍛えられた身体をしているし、振る舞いにも隙がないので、強いことはたしかだと思うが……
「陛下。こいつですかい、例の勇者ってのは」
「さよう。レクターを倒すことができれば、そなたを勇者として認めよう」
「な……⁉」
おい。
おいおいおい!
いきなりなにを言い出すんだ、このクソ国王は⁉
「はは、陛下。聞き間違いですかね? 俺を倒せば、この転移者が勇者になるって……」
「…………すまぬな、レクター。できれば二人で協力してほしいし、余としても心苦しいのだが……」
「はっ! 当然だろそんなの! 英雄は世界にひとりだけ! 二人もいるんじゃ、魔王を倒したって俺様の旨味が薄いだろ?」
「ベイリフ殿。さっきも言ったが、負けた時には二人で魔王を……」
「はっ、無駄な心配すんなよ! 俺がこんな奴に負けるわきゃないだろうが!」
なるほど……そういうことか。
国王としては「俺」と「転移者」で魔王を倒してほしい。
しかし転移者――ベイリフはこういう性格だ。自分だけが英雄と褒め称えられたいんだろうな。
だから俺を倒すことで、自分が勇者になりたいんだ。
国王もできれば争ってほしくないだろうが、魔族が人類を押し始めている現在、悠長なことは言っていられない。こんな奴でも、協力してもらうしかないのだ。
「レクター様……」
「大丈夫だよ。俺は負けない」
不安そうに見つめてくるクロエの頭を撫でると、俺は改めて立ち上がる。
「いいだろう。売られた喧嘩は買ってやる。だがベイリフ……俺が勝ったら、ひとつだけ頼んでいいか」
「ほお? なんだよ」
「簡単な話さ。俺が勝ったら、元の世界に戻れ。正直あんたを見てると、ムカついてしょうがない」
「はっ。いいだろう。万が一にもそんなことはありえねえが、もし俺が負けたら消えてやるよ」
ここまでが前口上。
俺とベイリフは一定の距離を保って向かい合い、互いに剣を構える。
謁見室で戦うのは問題な気もするが、国王いわく、問題ないとのこと。王の両隣には兵士が控えているし、万一にも被害が及ぶことはないだろう。
「はっ。チンケな闘気だな。そんなんで俺に勝てる気かよ」
「…………」
妙だな。
目の前にいるのに、ベイリフからはまったく存在感を感じない。
――まるで最初から、そこにいないかのように――
「はじめっ!」
そして審判役の兵士が合図を発した、その瞬間。
「なっ…………⁉」
突如にして、目の前からベイリフの姿が消えた。
「はっ、やっぱりこの程度かよ?」
右耳の近くで囁かれ、俺は怖ぞ気とともに逃避の準備に入る。
しかし、遅かった。なにもかも。
「かはっ……!」
俺は頭部を掴まれ、そのまま地面に押し付けられた。
鋭い痛みが全身に走る。鼻も口も押えられているため、指の隙間から流れてくるわずかな空気しか吸い込めない。
――嘘、だろ……⁉
まったく見えなかった……!
「ははっ、カスってもんじゃねえな。俺はまだ剣も使ってねえのによ」
「うがっ、がぁぁぁぁぁぁぁああっ!」
――ありえない。
俺も勇者として、多くの達人と剣を交えてきた。それでも俺が負けることはなかったし、だからこそ勇者と褒め称えられてきた。
なのにこの有様とは……⁉
これが転移者の風格だってのか……!
「ふが……ふがふが……」
呼吸さえ満足にできない俺を見て、この場にいる全員はなんと思っただろう。
「おおお……! あのレクターでさえ圧倒するとは、素晴らしい……!」
まず真っ先に声をあげたのは国王だった。
「よかった……! そなたを召喚したのは正解だったようじゃの! 勇者ベイリフよ!」
嘘だろ……!
いままで俺なりに努力してきたのに、俺はここで終わるのか……⁉
こんな奴に……⁉
「す、すす、すごいですわ! これが転移者様の実力なのね!」
そして……これは夢だろうか。
あのクロエまでもが、急にベイリフを称え始めた。
「私、強い男の人が好きなんです! 素敵!」
そう。
俺は貴族でもないし、ましてや王族でもない。
ただ強いだけで、勇者として褒め称えられてきただけだ。
その勇者という立場なくなったいま――俺の肩を持つ意味はないってことか……⁉
「ク……ロエ……!」
「ほお……?」
俺のそんな反応を見て、ベイリフが悪い表情を浮かべた。
「あれがおまえの女か。クク、悪くねえ女じゃねえか」
「や……めろ。クロエに手を……出す……な……」
「へっへっへ、惨めなもんだなぁ勇者よ。ああ、もう勇者じゃなくて、ただのポンコツか」
「ふが……ふ……が……」
駄目だ。
ベイリフに顔を掴まれ続けて数十秒。
なんとか耐え忍んできたが、これ以上は意識が持たない。
次の瞬間、俺の意識はぷつりと途切れた。