タクシーは午前十時きっかりに、ウィーン国際空港に着いた。同乗者と共に降り、運転手にお礼を言ってキャリーケースを引いて歩き出す。五月になったばかりの空気は陽を含んであたたかく、ふわ、と吹いた風がやさしく髪をくしけずっていく。
「すがすがしいな。太陽が眩しい」
「えぇ、本当に」
 本日のウィーンの天気は快晴。どこを見ても雲一つない。こんないい天気の日は、初めてウィーンに降り立った日を思い出す。
 チャコールグレーのカジュアルスーツを着こなした花鶏(あとり)が隣に並び立ち、掛けていたサングラスを少しずらした。同じ型のスーツを着ていても、それだけで出身階級が窺えるほど気品がにじみ出ている。
花鶏は中学卒業後、ウィーンを拠点に活動するチェロ奏者に自ら弟子入りし、五年前からウィーンで暮らしている。コンサートやツアーとなれば、師匠と共に海外を飛びまわっていた。
五月晴(さつきばれ)……と言いたいところですけど、意味、違うんですよね」
 あぁ、と花鶏が頷く。
 五月晴は本来、『梅雨の晴れ間』を意味する。旧暦の五月(さつき)は今の六月ごろで、梅雨の時期に当たるのだ。時が経つにつれて『新暦の五月(ごがつ)の晴れ』の意味でも使われるようになったという。
「わからんでもないけどな。『さわやかな五月晴れ』って言いたくなる気持ち」
「それ言ったら部長にすっごい怒られましたね」
「うわ……やなこと思い出させんな」
 花鶏先輩は苦虫をつぶしたように鼻にしわを寄せ、忌々しそうに変な声で唸った。
 彼が嫌っている人物は、夜鷹たちが中学の頃に在籍していた文芸部の部長だ。明朗快活(めいろうかいかつ)が服を着て歩いているような少女で、日本語の使い方に厳しい。宮沢賢治(みやざわけんじ)の『春と修羅(しゅら)』と万葉集(まんようしゅう)歳時記(さいじき)が愛読書の彼女は、花鶏先輩の幼馴染でもあった。
 花鶏先輩に言わせれば、明朗快活よりも破天荒がよく似合い「後先考えずに突っ走る馬鹿」だそうだ。
 バスターミナルを通り過ぎ、ロビーに向かう。電光掲示板で目的の時間を確認している間に、花鶏先輩が搭乗手続きをすべて済ませてしまった。謝ると、そういうのは土産(みやげ)で返せと額を指で小突かれた。
 ロビーの空いているソファーに座り、昼食代わりに持ってきたバケットとおにぎりを分けて食べた。バケットにはチキンと香草を挟み、おにぎりには夜鷹が苦心して漬けた梅干しを入れてある。
 今までで一年過ぎるのが一番早かった気がする。めまぐるしい毎日を思い出し、ふふっ、と笑いを零すと「なに笑ってんだよ」と花鶏が(いぶか)しげに顔を歪めた。
「いや、すごい一年だったなぁって」
「あぁ……確かに、夜鷹にしてみれば怒濤(どとう)だったな」
 一年前の三月。高校の卒業旅行にスイス・アルプスを訪れた際に、ついでの気分で立ち寄った。思えば、その「ついで」の軽い行動が夜鷹の転機を呼んだ。まさにここ、ウィーン国際空港のバスターミナルで、中学の時に世話になった瀬呂(せろ)花鶏(あとり)と、その師匠と鉢合せした。
 そこからが怒濤の日々が始まった。
 声楽の素質を見出された夜鷹は、日本で決まっていた大学を辞退し、ウィーンへ移り住み、推薦枠でウィーン国立音楽大学に進学することになった。住居は花鶏と師匠の住む3LDKアパートの一室を間借りしている。ドイツ語を覚えるためにバイトに勤しみ、大学では授業にレッスンに居残りと、休みもない多忙な毎日を送っていた。
「そうですよ。ここで先輩と会ってなかったら、今頃普通の大学生活送ってたんですから」
「いやそれ、師匠が観劇に連れてかなかったら、夜鷹の可能性にも気づかずに日本に帰ってたかもしれねぇだろ。俺一人のせいにするんじゃねぇの」
「すみません。でも、普通の人と違うことしてるって思うと、ちょっとどきどきしてるんですよ」
 努力の甲斐があり、淀みなくドイツ語を話せるようになった先月の半ば、花鶏が一週間ほどの帰国を提案してきた。日程を聞き、夜鷹は帰るべきか迷ったが、ありがたく帰国ことにした。
 五月三日の今日ウィーンを発ち、パリと羽田空港で飛行機を乗り継ぎ、明日の午後には中部国際空港セントレアに着く。
「十一時半の飛行機だっけ」
「はい」
「乗り継ぎのパリで、迷子になるなよ」
「大丈夫ですよ」
「日本に着いたら、たっぷり羽伸ばしてこい」
「そのつもりです」
「それから、」
「多いですって、先輩」
「あいつに会ったら、よろしく言っといて」
 誰に、とは明確に口に出さなかったが、花鶏のいう「あいつ」の顔が脳裏(のうり)にはっきりと浮かび、夜鷹の心臓が大きく跳ねた。同時に不安が身体の中心からもやもやと出てきて、自分でも表情が曇っていくのがわかった。
「……会えるでしょうか」
「大丈夫。会える」
 いやに自信ありげに花鶏先輩はバケットの最後の一つに口を付けた。夜鷹もおにぎりを口に詰め込み、指に付いた海苔を舐めた。
 搭乗時間が近づき、二人そろってゲートに足を向ける。
「それじゃ、行って参ります」
「畏まりすぎ」
 ゲートに一人歩き出すと、夜鷹、と呼び止められる。懐から長方形の箱を出して夜鷹の手に握らせた。質のいい紺色の包み紙に、若葉色と金色のリボンが結ばれている。これは、と花鶏を見ると、くしゃ、と頭を撫でられた。
「少し早いが、二十歳の誕生日おめでとう」
「プレゼント、ですか?」
「他に何がある?」
 さも当たり前のように言うものだから、気が抜けて笑いがこぼれた。胸の内側があたたかくなり、さっきの不安が少しだけなくなった気がした。
「ありがとうございます。当日に開けますね」
「律儀だな」
「それが僕ですから」
 今度こそ行ってまいります、と軽く頭を下げ、搭乗ゲートに足を進めた。