今日この場にやってきた目的とも言える人物が、そこに立っていた。
彼女の父親とは、これまで何度か会ったことがある。
とは言え、いつも軽く挨拶する程度だった。
数年ぶりに見た彼女の父親は、心なしか少し老け込んでおり、この数年間の心労を嫌でも連想させられる。
ずっと逃げていた。
あわよくばこの声を一生聞かずに済めば、良いとすら思っていたフシはある。
本当はこのまま逃げ切ることだって出来た。
だが、米原が、安城が、三島が、そして豊橋さんが。
お節介で頭の弱い連中が、俺から退路を取り上げたんだ。
なら、もう終わらせるしかない。
もう一度始めるために。
「ご無沙汰しています……」
俺が声を絞り出すと、彼は頷くでもなく、しばらく黙ってこちらを見ていた。
感情は多々あれど、一番は驚愕と言ったところか。
「久しぶりだね、羽島くん。元気にしてたかい?」
ようやく反応を見せたかと思うと、何を追及するでもなく俺の身を案じてきた。
「は、はい! おかげさまで……」
ここまで言って、少し後悔する。
何がおかげさま、だ。
こんな時にまで、形式的な社交辞令に終始している自分に心底嫌気が差す。
そして何より、俺はまだ肝心なことを伝えていない。
「あ、あのっ!」
「娘が生前、迷惑を掛けたね」
先を越されてしまった。
「い、いえ。迷惑だなんて、そんな……」
「昔から、色々と暴走しがちな子でね。だから、キミにも面倒を掛けたんじゃないかって心配してたんだよ」
彼女の父親はそう言いながら、困ったような笑みを浮かべる。
「それは……。俺の方」
「朔良がね。言ってたんだよ。羽島くんほど騙しやすい人はいないって」
俺の言葉を遮り、思いもよらぬことを口走ってきた。
胸のざわつきが抑えられない。
それが意味するものを知るためには、彼女の父親の言葉の真意を確かめる他ない。
「あの……。それは、どういう意味ですか?」
俺が問いかけると、彼女の父親は俺の顔をまじまじと見つめて来る。
「まぁ、そう結論を急がずにさ。久々に会ったんだし、ちょっとだけ昔話をしてもいいかな?」
「は、はぁ……」
「そうだな。もう8年も前のことかな……」
それから彼女の父親は、ぽつりぽつりと話し始めた。
彼女が高校3年生の頃のことだ。
転機は年に1回、彼女の父親の会社が福利厚生の一貫として行っている、社員の家族向けの健康診断でのことだった。
当時健康そのものだった彼女ではあったが、血液検査の結果で異常値が確認される。
彼女の病気が発覚した瞬間だった。
当時受験期ということもあり、希望の進路に向けて準備をスタートした矢先だったので、あの浜松朔良と言えど相当に戸惑ったらしい。
中でも、彼女が特に辛いと感じていたのは、周囲の変容だという。
というのも本人が言っていた通り、元々彼女はクラスでも浮いた存在であり、時には嫌がらせに近い仕打ちも受けていたらしい。
ところが彼女の病気の話が広まると、クラスメイトたちは手のひらを返すように彼女に気を遣い始めた。
それが彼女にとっては、堪らなく嫌だったようだ。
そのことがある種のトラウマになった浜松は、大学時代は誰にも病気のことを明かさないと心に決めたらしい。
彼女が現れるまでは……。
「慢性とは言え、進行性の病だ。そうそう隠せるもんじゃないとは、思っていたんだが……。案の定、入学してスグに見破られてしまってね」
「……尾道、ですか?」
俺がそう聞くと、彼女の父親は黙って頷く。
「まぁそこまで珍しい病気ではないし、彼女がこの病気のことを知っていたとしても不思議じゃない。そうでなくとも今はネットがあるんだ。ちょっと調べれば、誰でもピンと来るはずさ」
「そう、ですか……。でも、それは彼女の本意ではないですね」
「最初は、ね。尾道さんが、誠実というか従順というか、優しい子でね。朔良の希望通り、キミに話すまで誰にも話さなかったんだよ」
「まぁ、尾道はそういうヤツですから……」
「それはキミもだよ」
突如彼女の父親は、突き刺すような視線を向けてくる。
「朔良が言ってたんだ。気になる人が出来たって。初めて素の自分を受け入れてくれた気がしたらしいぞ」
そう言うと、彼は優しく微笑む。
まさか、それを彼女の父親の口から聞くことになるとは露ほども思っていなかったため、反応に窮する。
「そ、そうですか……」
「キミに分かるかい? ソレを実の娘から言われる父親の気持ちが」
彼女の父親は依然として笑顔だが、目が全く笑っていない。
先程の射抜くような視線の意味が分かったような気がした。
「ぷっ。ごめんごめん! 冗談だよ。一度こういうコト言ってみたかったんだよ」
暑さによるものとは別の汗をかき始めた頃、彼女の父親は嬉しそうに吹き出す。
全くもって、心臓に悪い。
この父親にして、あの娘ありと言ったところか。
「だから、私は言ったんだ。そんな人が居るならもう病気のことを言ったらどうだ、ってね。理解者は多いに越したことはないからさ」
「それで……、アイツはなんと」
「『それはアタシたちらしくない』ってね」
彼女の父親はフッと、懐かしむように笑う。
「俺たち、らしくない?」
「そう。キミが娘の病気を知ってしまったら、キミがキミでなくなるかもしれない。そう思ったんじゃないか?」
「何だか、信用されてませんね……」
「そう受け取るかい? それは本当にキミたちらしさ、かい?」
彼女の父親は真っ直ぐに俺を見据えてくる。
そこには先程の冗談めいた雰囲気はなかった。
ふと、先日豊橋さんに言われた言葉が頭を過り、俺ははっとする。
『羽島さんは嘘を否定しているわけじゃない。嘘に騙されるな、ではなく、嘘の裏にある本質に騙されるな、ですよね?』
そうだ。
頭では分かっているつもりだった。
浜松は病気を理由に態度を豹変させるのは嫌だと言っていたが、それならそもそも辻褄が合わない。
恐らく彼女の父親は、俺を炊きつけようとしている。
それは他ならぬ、彼女自身の意志で。
危うく、また間違えるところだった。
「そうですね……。確かに俺たちらしくなかったです」
「そう。だから朔良はキミにも隠し通すことに決めたんだ」
「でも……、だからと言ってどうすれば……。この騙し合い。俺たちの中でもう決着がついてます」
「それはコレを見ても言えるかい?」
そう言って、彼女の父親は一つの手提げ紙袋を渡してきた。
「これはキミへの罰ゲームだそうだ。勝者からの命令らしい」
罰ゲーム? どういうことだ?
戸惑いつつ中を確認すると、絵馬らしきものが一体、雑に入れてあった。
絵馬を取り出し表面をよく見ると、いつか安城の御守を買った縁結び神社のものだった。
「キミと京都に行った時に買ったらしい。それを例の神社に奉納してくるように、とのことだ」
そう言う彼の目には、薄っすらと涙が浮かんでいた。
俺は裏面に書かれていた願いを見て、愕然とする。
『アタシとの続きを誰かと』
浜松が見てきたもの。
それは彼女自身によって象られた羽島望という虚像であり、それは彼女というフィルターを通して映ったものに過ぎない。
だが、彼女に言わせれば、きっとそれすらも本物なのだろう。
だから、あの時嘘を欲しがった。
最期まで、ありのままの浜松朔良を受け入れる羽島望であることを望んだ。
そして、それが叶わないことすらも彼女は予感していた。
それ故に、この願いなのだろう。
なるほど……。
全て腑に落ちた。
欺瞞とは言え、形式上は俺が騙し合いに勝利した、と思っていた。
だが、実際は違っていた。
俺は彼女に踊らされていたのだ。
いや。もっと正確に言えば、俺は彼女が書いたシナリオの文字でしかなかったのだろう。
きっと、彼女は全てを思い描いていたのだ。
出会ったあの日から、今日この日のことまでを。
本当にムチャクチャな奴だ。
こんなのは願いでも何でもないし、ただのエゴだ。
これを罰ゲームなどと平然と言って退けるあたり、やはり彼女には人として大切なものが欠けている。
だが、それも今更か。
コレも含めての俺たちらしさなのかもしれない。
……やってやろうじゃねぇか。
浜松よ。
お前の描いたシナリオ通り動いてしまったのは、痛恨の極みだ。
だが、ラストシーンを書く上で、大きなヒントはもらった。
そこは素直に感謝してやる。
ここからは俺の思う通りに行かせてもらう。
俺は気付いた時には、彼女に電話を掛けていた。
「もしもし、豊橋さんか?」
「……はい」
どの面下げてと言わんばかりの張りのない声で、豊橋さんは応える。
当然だ。
仲違いも同然で別れたんだ。
彼女のこの反応は仕方ないと言えば仕方ない。
だが、ここで折れてしまうわけにはいかない。
「その……、元気だったか?」
「はい、お陰様で」
俺が繰り出す、王道中の王道の社交辞令に対して、彼女も基本に忠実な返答をする。
もう限界だ。
この空気感で気の利いた雑談の一つも出来ていたら、26年も陰キャなぞに従事していない。
俺は息を整え、用件だけを淡々と伝えることにした。
「早速だが、豊橋さん。単刀直入に言う」
「ちょうど良かったです。私も羽島さんにお話がありました……」
「「次のターゲットが決まった(決まりました)」」
彼女の父親とは、これまで何度か会ったことがある。
とは言え、いつも軽く挨拶する程度だった。
数年ぶりに見た彼女の父親は、心なしか少し老け込んでおり、この数年間の心労を嫌でも連想させられる。
ずっと逃げていた。
あわよくばこの声を一生聞かずに済めば、良いとすら思っていたフシはある。
本当はこのまま逃げ切ることだって出来た。
だが、米原が、安城が、三島が、そして豊橋さんが。
お節介で頭の弱い連中が、俺から退路を取り上げたんだ。
なら、もう終わらせるしかない。
もう一度始めるために。
「ご無沙汰しています……」
俺が声を絞り出すと、彼は頷くでもなく、しばらく黙ってこちらを見ていた。
感情は多々あれど、一番は驚愕と言ったところか。
「久しぶりだね、羽島くん。元気にしてたかい?」
ようやく反応を見せたかと思うと、何を追及するでもなく俺の身を案じてきた。
「は、はい! おかげさまで……」
ここまで言って、少し後悔する。
何がおかげさま、だ。
こんな時にまで、形式的な社交辞令に終始している自分に心底嫌気が差す。
そして何より、俺はまだ肝心なことを伝えていない。
「あ、あのっ!」
「娘が生前、迷惑を掛けたね」
先を越されてしまった。
「い、いえ。迷惑だなんて、そんな……」
「昔から、色々と暴走しがちな子でね。だから、キミにも面倒を掛けたんじゃないかって心配してたんだよ」
彼女の父親はそう言いながら、困ったような笑みを浮かべる。
「それは……。俺の方」
「朔良がね。言ってたんだよ。羽島くんほど騙しやすい人はいないって」
俺の言葉を遮り、思いもよらぬことを口走ってきた。
胸のざわつきが抑えられない。
それが意味するものを知るためには、彼女の父親の言葉の真意を確かめる他ない。
「あの……。それは、どういう意味ですか?」
俺が問いかけると、彼女の父親は俺の顔をまじまじと見つめて来る。
「まぁ、そう結論を急がずにさ。久々に会ったんだし、ちょっとだけ昔話をしてもいいかな?」
「は、はぁ……」
「そうだな。もう8年も前のことかな……」
それから彼女の父親は、ぽつりぽつりと話し始めた。
彼女が高校3年生の頃のことだ。
転機は年に1回、彼女の父親の会社が福利厚生の一貫として行っている、社員の家族向けの健康診断でのことだった。
当時健康そのものだった彼女ではあったが、血液検査の結果で異常値が確認される。
彼女の病気が発覚した瞬間だった。
当時受験期ということもあり、希望の進路に向けて準備をスタートした矢先だったので、あの浜松朔良と言えど相当に戸惑ったらしい。
中でも、彼女が特に辛いと感じていたのは、周囲の変容だという。
というのも本人が言っていた通り、元々彼女はクラスでも浮いた存在であり、時には嫌がらせに近い仕打ちも受けていたらしい。
ところが彼女の病気の話が広まると、クラスメイトたちは手のひらを返すように彼女に気を遣い始めた。
それが彼女にとっては、堪らなく嫌だったようだ。
そのことがある種のトラウマになった浜松は、大学時代は誰にも病気のことを明かさないと心に決めたらしい。
彼女が現れるまでは……。
「慢性とは言え、進行性の病だ。そうそう隠せるもんじゃないとは、思っていたんだが……。案の定、入学してスグに見破られてしまってね」
「……尾道、ですか?」
俺がそう聞くと、彼女の父親は黙って頷く。
「まぁそこまで珍しい病気ではないし、彼女がこの病気のことを知っていたとしても不思議じゃない。そうでなくとも今はネットがあるんだ。ちょっと調べれば、誰でもピンと来るはずさ」
「そう、ですか……。でも、それは彼女の本意ではないですね」
「最初は、ね。尾道さんが、誠実というか従順というか、優しい子でね。朔良の希望通り、キミに話すまで誰にも話さなかったんだよ」
「まぁ、尾道はそういうヤツですから……」
「それはキミもだよ」
突如彼女の父親は、突き刺すような視線を向けてくる。
「朔良が言ってたんだ。気になる人が出来たって。初めて素の自分を受け入れてくれた気がしたらしいぞ」
そう言うと、彼は優しく微笑む。
まさか、それを彼女の父親の口から聞くことになるとは露ほども思っていなかったため、反応に窮する。
「そ、そうですか……」
「キミに分かるかい? ソレを実の娘から言われる父親の気持ちが」
彼女の父親は依然として笑顔だが、目が全く笑っていない。
先程の射抜くような視線の意味が分かったような気がした。
「ぷっ。ごめんごめん! 冗談だよ。一度こういうコト言ってみたかったんだよ」
暑さによるものとは別の汗をかき始めた頃、彼女の父親は嬉しそうに吹き出す。
全くもって、心臓に悪い。
この父親にして、あの娘ありと言ったところか。
「だから、私は言ったんだ。そんな人が居るならもう病気のことを言ったらどうだ、ってね。理解者は多いに越したことはないからさ」
「それで……、アイツはなんと」
「『それはアタシたちらしくない』ってね」
彼女の父親はフッと、懐かしむように笑う。
「俺たち、らしくない?」
「そう。キミが娘の病気を知ってしまったら、キミがキミでなくなるかもしれない。そう思ったんじゃないか?」
「何だか、信用されてませんね……」
「そう受け取るかい? それは本当にキミたちらしさ、かい?」
彼女の父親は真っ直ぐに俺を見据えてくる。
そこには先程の冗談めいた雰囲気はなかった。
ふと、先日豊橋さんに言われた言葉が頭を過り、俺ははっとする。
『羽島さんは嘘を否定しているわけじゃない。嘘に騙されるな、ではなく、嘘の裏にある本質に騙されるな、ですよね?』
そうだ。
頭では分かっているつもりだった。
浜松は病気を理由に態度を豹変させるのは嫌だと言っていたが、それならそもそも辻褄が合わない。
恐らく彼女の父親は、俺を炊きつけようとしている。
それは他ならぬ、彼女自身の意志で。
危うく、また間違えるところだった。
「そうですね……。確かに俺たちらしくなかったです」
「そう。だから朔良はキミにも隠し通すことに決めたんだ」
「でも……、だからと言ってどうすれば……。この騙し合い。俺たちの中でもう決着がついてます」
「それはコレを見ても言えるかい?」
そう言って、彼女の父親は一つの手提げ紙袋を渡してきた。
「これはキミへの罰ゲームだそうだ。勝者からの命令らしい」
罰ゲーム? どういうことだ?
戸惑いつつ中を確認すると、絵馬らしきものが一体、雑に入れてあった。
絵馬を取り出し表面をよく見ると、いつか安城の御守を買った縁結び神社のものだった。
「キミと京都に行った時に買ったらしい。それを例の神社に奉納してくるように、とのことだ」
そう言う彼の目には、薄っすらと涙が浮かんでいた。
俺は裏面に書かれていた願いを見て、愕然とする。
『アタシとの続きを誰かと』
浜松が見てきたもの。
それは彼女自身によって象られた羽島望という虚像であり、それは彼女というフィルターを通して映ったものに過ぎない。
だが、彼女に言わせれば、きっとそれすらも本物なのだろう。
だから、あの時嘘を欲しがった。
最期まで、ありのままの浜松朔良を受け入れる羽島望であることを望んだ。
そして、それが叶わないことすらも彼女は予感していた。
それ故に、この願いなのだろう。
なるほど……。
全て腑に落ちた。
欺瞞とは言え、形式上は俺が騙し合いに勝利した、と思っていた。
だが、実際は違っていた。
俺は彼女に踊らされていたのだ。
いや。もっと正確に言えば、俺は彼女が書いたシナリオの文字でしかなかったのだろう。
きっと、彼女は全てを思い描いていたのだ。
出会ったあの日から、今日この日のことまでを。
本当にムチャクチャな奴だ。
こんなのは願いでも何でもないし、ただのエゴだ。
これを罰ゲームなどと平然と言って退けるあたり、やはり彼女には人として大切なものが欠けている。
だが、それも今更か。
コレも含めての俺たちらしさなのかもしれない。
……やってやろうじゃねぇか。
浜松よ。
お前の描いたシナリオ通り動いてしまったのは、痛恨の極みだ。
だが、ラストシーンを書く上で、大きなヒントはもらった。
そこは素直に感謝してやる。
ここからは俺の思う通りに行かせてもらう。
俺は気付いた時には、彼女に電話を掛けていた。
「もしもし、豊橋さんか?」
「……はい」
どの面下げてと言わんばかりの張りのない声で、豊橋さんは応える。
当然だ。
仲違いも同然で別れたんだ。
彼女のこの反応は仕方ないと言えば仕方ない。
だが、ここで折れてしまうわけにはいかない。
「その……、元気だったか?」
「はい、お陰様で」
俺が繰り出す、王道中の王道の社交辞令に対して、彼女も基本に忠実な返答をする。
もう限界だ。
この空気感で気の利いた雑談の一つも出来ていたら、26年も陰キャなぞに従事していない。
俺は息を整え、用件だけを淡々と伝えることにした。
「早速だが、豊橋さん。単刀直入に言う」
「ちょうど良かったです。私も羽島さんにお話がありました……」
「「次のターゲットが決まった(決まりました)」」