顔を上げて時計を見ると、もう17時になるところだった。


「もう帰らないとだわ。今日は食材はあるから買い物はしなくて大丈夫ね。」


美桜は読んでいた本を元の場所に戻し、帰り支度をする。


窓の外を見ると、茜色の世界が視界に入ってきた。


帰ってからのことを考え、美桜はふぅと一つため息を吐く。


美桜にとって、家族から離れることができる放課後の読書の時間は、唯一の安らぎの時間。


家に帰れば、また家族から嫌がらせを受ける時間が待っている。


最近では無になることで若干苦しみは減ったが、それでも安らぎの時間が終わり家に帰らなくてはいけないとなった時、いまだにどうしても気分は沈んでしまう。



足取りも重く、校門を出ようとした時。


「おい!」


突然後ろから怒号が聞こえ、美桜は思わずびくりと肩を震わせる。


緩慢な動きで振りかえると、松浦祐樹が鬼の形相でこちらを睨みつけながら歩いてきていた。


その後ろには、腕にしがみつく胡桃の姿もあった。


胡桃はポロポロと涙をこぼしている。


どうしたのだろうかと首を傾げていると、祐樹はずかずかと美桜に近づいてむんずと髪の毛を掴まれる。


そしてさきほど胡桃にもらったバレッタを乱暴に取りあげた。


美桜は痛みに顔を歪める。


やっぱり本当だったんだな、と祐樹は冷たい眼差しで美桜を見下ろす。


なにがなんだか分からない美桜は、怯えた表情で祐樹を見上げる。


そんな美桜を見て、祐樹は忌々しそうにチッと舌を鳴らした。



「お前が、これを無理矢理取ったんだって?俺が胡桃にあげた大事なバレッタを!」


「……え?」


「胡桃が俺に泣きついてきたんだよ!"お姉ちゃんに脅されて無理矢理バレッタを取られた"って。そうだろ、胡桃。」


祐樹に問われた胡桃は、瞳に涙を溜めて潤わせながらこくりと頷く。


「……うん。祐樹くんからもらったからとっても大事にしてたのに。なのにお姉ちゃんが、渡さないとぶつって脅してきて…」


胡桃は祐樹にしがみつくと、うわぁぁぁん!と声を上げて泣いた。


祐樹はそんな胡桃の頭を優しく撫でると、美桜に刃物のような鋭い視線を送ってきた。


怒りに拳をぷるぷる震わせながら美桜の胸倉を掴んだ。


視線を胡桃に移すと、目から涙を流しているはずの胡桃の口角がにんまりとあがっている。


祐樹の後ろにいるので、当然祐樹からはその表情は見えない。


その表情を見て、あぁ…と美桜はようやく状況を理解した。


何かが音を立てて崩れ、ずたずたに引き裂かれたような気がした。



胡桃は、優しさで髪飾りを譲ってくれたわけではなかったのだ。


どうして、期待してしまったのだろう。


分かっていたことじゃない。


誰からも愛されていないということは。


美桜の心にほんの一欠片残っていた光が消えさり、美桜は生気のない目で祐樹と胡桃を見つめる。



「なんか言えよ、この泥棒!!」


思い切り祐樹に肩を押され、壁に思いっきり頭と背中をぶつける。


でも、もはや痛みも何も感じなかった。


まだまだ怒りが収まらない様子で手を振り上げる祐樹を、胡桃はそっと制す。


「もういいよ、祐樹。」


「……胡桃。」


「お姉ちゃんは私に嫉妬してるのよ、私が両親に可愛がられてるから。だから私に意地悪するしかないの。可哀そうだから、もう許してあげて?」


猫なで声で、上目遣いに勇気を見る胡桃。


「…胡桃、お前は優しいんだな。こんな姉のこと庇って。」


心から愛しいといった様子で、祐樹は労わるように胡桃の髪を撫でる。


そしてゴミでも見るような目で美桜を見下ろした祐樹は、また舌打ちをしてゆっくりと手を下ろす。



「ふん、今回は胡桃の優しさに免じて許してやるよ。でももしまた胡桃を傷つけたら、これくらいじゃ済まないからな。」


そう吐き捨てると、祐樹は胡桃の肩を抱いて校門を出る。


振りかえった胡桃が勝ち誇ったように笑みを浮かべたのが、美桜にはぼんやりと見えた。