「美桜様!お茶が零れております!」


「……あっ!す、すみません!」


使用人に声をかけられ、美桜ははっと我に返る。


どうやらぼうっとしていて、手元を見ていなかったらしい。


テーブルの上にはカップから溢れた液体が広がっていた。


美桜は慌てて布巾でテーブルを拭く。


本来ならば使用人がこういうことはするのだが、星夜は美桜が淹れたお茶をとても気に入ってくれていて、たまに美桜がこうしてお茶を淹れているのだ。


「美桜様、大丈夫ですか?お疲れのようでしたらわたくしが…」


「いいえ、大丈夫です。ちょっと考えことしていただけなので。ありがとうございます。」


なんとかにっこりと笑顔を作ると、使用人の男性は「分かりました。」とほっと胸を撫でおろした様子で台所を出て行った。


使用人が出て行ったのを見送って、美桜はふぅと静かにため息を吐く。



…だめだな、私。


紬から聞いた言葉が、こびりついて頭の中から離れてくれない。


考えてみれば、美桜は星夜のことをほとんど何も知らないのだ。


星夜から花嫁になってくれと言われた時も、正直どうしてこんな私を…という気持ちの方が強かった。今でも彼の花嫁であるという実感は湧いていない。


それまで家族から虐げられてきた美桜にとって、星夜は救世主のようなものだった。


愛をいうものをいっさい受けずに育ってきた美桜にとって、幼い頃に星夜と交わした約束は、唯一の光であり希望だった。


そう、思わず寄りかかってしまいたくなるほど、愛に飢えた美桜からすれば甘い誘惑だったのだ。


私は、自分に優しくしてくれる人ならば誰でも良かったのではないか。



そもそも自分にとって、星夜はどういう存在なのだろうかと考える。


彼に対して好意を持っているのは、たしかだ。


最初に会った時から、星夜は美桜の憧れだった。


彼にどれだけ救われたか分からないほど、彼の存在は美桜にとって大きいものだった。


しかし、それは本当に恋だったのだろうか。優しく手を差し伸べてくれる人を、美桜は望んでいただけではないのだろうか。


誰だって愛されることを求める。


自分自身を愛し大切にしてくれる人を望むのは、ごく自然のことだ。


でも、それに甘えてしまっていいのだろうかとも思う。


星夜だって然りだ。


星夜はとても優しい。屋敷に来てから、惜しみない愛情を美桜に注いでくれている。


だけど、それは愛ではないのではないだろうか。


家族に虐げられ育ってきた美桜を不憫に思っての同情心じゃないのだろうか。


誰もが認めるほどの美しい婚約者がいたのだ、きっとその人の方が星夜にはふさわしいだろう。


なのに、なぜ私だったのか…。


そんな卑屈な気持ちがとめどなく溢れてくる。


斗真も、星夜だからこそ彩華との婚約を認めたのだろう。


自分の想いを閉じ込めるのは容易ではなかったはずだ。


それが彩華との婚約を破棄して私なんかが花嫁だと言われても、到底納得がいくはずがない。


私がもし斗真の立場ならと思うと、とてもやるせない気持ちになる。



星夜が何を考えているのか、気持ちがまったく分からない。


「星夜の心の中が覗けたらいいのにな…」


思わずぽつりと心の声が漏れてしまう。


自分に自信が持てない。


いつ、星夜が元婚約者に気持ちが戻ってしまうかと思うと不安で仕方がない。


星夜に嫌われてしまうことがとても怖い。


こう思っている時点で、やはり美桜は星夜のことが好きなのだろうか。


考えれば考えるほど自分の気持ちが分からなくなっていく。



「考えても仕方ないわね。」


まだ星夜のことを知らないのであれば、これから知っていけばいいだけだ。


恋愛とはそういうものだろう。


時間をかけて、ゆっくりと自分自身の気持ちと向き合っていこう。



美桜は軽く自分の両頬を叩いて、気合を入れた。