美桜(みお)が初めて「あやかし」というものを見たのは、13歳の時だった。


幼い頃から、妖というものは恐ろしい存在であると、家族からさんざん聞かされていた。


幼い美桜にとっては言われたところで話を聞いてもぴんとは来なかったが、正直なところ実際に見てもいない妖なんかよりも、家族の方がよほど恐ろしい存在であった。



「ちょっとお姉ちゃん、まだ洗濯物干せていないの?」


ドアを乱暴に開けて入って来た妹の胡桃(くるみ)は、部屋にずかずかと入ってくると洗濯籠を蹴ってひっくり返した。


籠から洗濯物が散乱する。


胡桃はこれ見よがしに散乱した洗濯物を踏みつけて、にぃっと唇を上げた。


「あらごめんなさい、足が滑っちゃった。あーあ、汚れちゃったわね。もう一回洗い直してきてよ。」


「……っ」


洗ったばかりの洗濯物を汚され、美桜は思わず言葉を失う。


反抗する言葉も出ないまま、唇を噛みしめて妹の胡桃を見上げた。


「なによ、その顔。何か文句でもあるの?家事しかできない地味子のくせに。」


「……ない、です。」


何も言い返せないまま、美桜は洗濯物を籠に戻す。


この家では、炊事・洗濯・掃除はすべて美桜がやっていた。


13歳の美桜にとって、それらをすべてこなすことはあまりにも重労働だった。


だけど、少しでも手を止めたり休んだりすれば、食事を抜かれたり、真っ裸で外に出されたりする。


だから、やらないという選択肢はなかった。


この家で生きていくにはどんなに理不尽なことでも我慢しなくてはいけないのだと、美桜は思っていた。


産まれた時から、両親の関心は妹の胡桃に向いていた。


素朴で外見も普通な美桜とは違い、甘え上手で花が咲くような笑顔を見せる可愛らしい胡桃は、昔から両親の愛情を独占していた。


もちろん寂しいと思うことも、昔はあった。


だけど自分なりに胡桃との元の素材の差は分かっていたし、自分は姉なのだからと我慢してきた。


今では"嫉妬"という感情さえぽろりと抜け落ちてしまったように、何も感じない。



しばらくの間、洗濯物を見ながらぼんやりと思いにふけっていると。


「何ぼんやりしてるのよ!!」


思いっきり胡桃から背中を押され、美桜は窓の外に投げ出された。


思い切り背中を打ち付けて、思わず痛みに顔を歪める。


そんな美桜を見下して、胡桃はほくそ笑む。


「ほんっとにトロいんだから。もういいわ、しばらく外で反省してなさい。」


そう言うと、ぴしゃりと窓を閉め、鍵をかけられてしまった。


そのままスタスタと部屋を出て行ってしまう。


美桜は、ふぅっと一つため息を吐いた。


胡桃のこういう理不尽な行動は、今回に限ったことではない。


慣れてしまったというと聞こえは悪いが、もう諦めのようなものがある。


もう怒りという感情さえ、湧き上がってこない。


立ち上がって暖簾に腰を下ろそうとすると。



「大丈夫?」


声をかけられ、美桜ははっと顔を上げた。


そこには自分と同じ歳くらいの男の子が、美桜を心配そうに見つめていた。


大きくて切れ長の瞳は琥珀色に輝いていて、美桜は思わず見惚れてしまう。


同じ歳くらいなのに、なんともいえない色気を醸し出している。


一目で"人間ではない"と分かった。


「……あなたは、あやかし…なの?」


そう問うと、その男の子は一瞬きょとんとした表情を見せた後、優しく微笑んだ。


「そうだよ。僕は妖狐なんだ。名前は、せいや。」


「…せいや。」


「そう、星に夜って書いて、星夜だよ。」


星夜と名乗った男の子はしゃがみこんで美桜と目線を同じにすると、優しく労わるように抱きしめてきた。


「ひどいこと、されたんだね。もう大丈夫だよ。」


生まれて初めて感じるぬくもりに、美桜は心があたたまっていくのを感じた。


昔からあやかしは恐ろしいものだと教えられてきたのだが、不思議とこの妖は怖いと感じなかった。


むしろ、優しくて、あたたかい。



「君の名前は?」


「……みお。美しいに桜って書いて、美桜。」


「美桜…可愛い名前だね。君にぴったりだ。」


そんなことを言われたのは初めてで、美桜の顔は熱を帯びていく。


今まで、「似合わない」「名前負けしてる」としか言われてこなかったのに…。


星夜は美桜を抱きしめたまま、耳元で囁くように言った。


「美桜。数年だけ待っててくれる?君を、絶対に迎えに来るから。」


「……ほんとに?ほんとに、来てくれるの?」


初対面の、しかも妖が相手だというのに、美桜は星夜の言葉をすんなり受け入れていた。


「うん、約束。だから、それまでこれを持っていて。僕の代わりだと思って。」


そう言って星夜は美桜の右手首を取ると、ある物を結わえた。


星夜の指が離れると手首から、しゃん、という涼やかな音が鳴る。


「その鈴があれば美桜を見失わない。絶対に迎えにくるから。」



その約束は、美桜の心にじんわりと温かい光を灯してくれたのだった。