今日、僕は生徒会室の前で中に入るか、それとも帰るか迷っていた。
 米村先生が昼休みに「話があるから、放課後生徒会室に来てほしい」と言ってきた。理由はわからない。ただ、一般生徒が生徒会室に入ることは滅多にないから、かなり緊張していた。
 正直、このまま帰ってもいいのだけれど、頼んできた米村先生は担任で、明日どう抗っても「何で来なかったの?」と問い倒される。その方が面倒臭いことになるか。
 色々と考えたけど、結局、僕は生徒会室のドアを開けた。

「君だったの」
 中にはいかにもな会長机に軽く腰をかける白砂がいた。昨日の今日だからか、なんとなく後ろめたさがあって、下を向いてしまう。
 生徒会室内はソファ、食器棚、ファイルが陳列する本棚、それとゆとりのある空間が広がっていた。
 生徒会室には彼女一人で、世界から生物がいなくなったかのような静けさが漂う。
「あれ、先生は?」
「いないよ」
「……後で来るのか」
 僕は白砂とは一切目を合わせずに俯いたまま、独り言を呟いた。
「そういうこと。でも、いつ来るかわからないし、私が先に説明しちゃうね」
 白砂は一歩、二歩と僕に向かって歩いてきた。
「ん? ああ」
 彼女は足を止めず、僕に近づいてくる。
 前を見ていなかったけど、足音でわかった。
 小さな足が俯いている僕の視界に入る。
 その距離は三十センチを優に切っているはず。
 たまらず顔を上げた。
 彼女の吐息が僕の頬を伝う。
 いい匂いがした。柔軟剤、シャンプー、ボディソープか、その甘い匂いに惑わされて、状況が飲み込めなくて、やめろとも言えない。一歩すら引くこともできなかった。
 きめ細やかで、雪のように白い肌。少し色素の薄い黒目。奥が見えそうな透明感に引けを取ってしまい、唾を飲んだ。
「……ふーん。やるね」
 彼女は何故か不満を含んだ声を漏らして、後ろに下がる。それと同時に金縛りにあったような体はすぐに解放された。
「君、副会長ね。拒否権はないってさ」
 彼女は演説の時と同じ眼でそう言ってきた。
 言葉の意味的に彼女が決めたわけではないというのはわかる。
 それでも彼女の真っ直ぐな視線に嫌気が差してか、はたまた勝手に重すぎる大役を押し付けてきたからか。
 ムカついて、口を滑らせてしまった。
「USだろ?」
「え?」
 僕は女子高生シンガーの名前を白砂に向かって放った。
 僕が腹癒せのように出した言葉に彼女は平然を取り繕うとする。だけど、明らかな動揺を顔から漏らしていた。黒目はその場に留まらなず、口をポカンと開けたその表情は僕の知っている白砂唄ではなかった。

 顔を出さない女子高生シンガーUS。
 耳に優しく触れるその声は日本の音楽界を震撼させている。とネットニュースで見た。
「昨日拾ったペンダント。YouTubeの生配信で貰い物って、いつかのUSが言っていた。それを君が持ってるって変だろ。それにそんなに錆が付いているペンダントを持ち続けている人なんて中々いないしな」
 僕はUSが好きでファンだった。なぜかUSに親近感が湧いていた。
 ――でも本当に白砂だったら少し気落ちする。
「えっとそれは……」
 そんな想いも虚しく、急に弱気になる白砂。僕は罪悪感を感じて、それ以上は何も言えなかった。
 同時に彼女がUSであることを確信した。
 気まずい空気が流れて、自分の佇まいが落ち着かなくなってくる。
「⋯⋯ソファ、座ってていいよ」
「うん」
 彼女の一言で緊張が解ける。
 僕は手前にあるソファに腰掛けた。この空間から逃げるようにして、バッグの中に入っていた小説を取り出す。
 それから少し気まずい空気を吸いながら、出された紅茶を一口含んだ。
 うま。
 紅茶は美味しい。けど、落ち着かなくてそれどころじゃない。
 白砂は会長机に腰をかけ、バッグからタブレットを取り出した。
 会長机はドンと構えていて、まだ慣れないからか椅子に座らされている感が否めなかった。
 それからというもの、無言の時が流れた。
 いつしか変な気まずさはなくなっていて、僕は小説に夢中になる。こんなに小説に没頭できるのは家以外で初めてかもしれない。

 三十分程が経ったころ、前触れもなしに激しくドアが開けられた。
「よ!」
 ドアを見ると、そこにはこの状況の根源。巨悪である米村先生がいた。
 米村先生は、僕のつまらなさそうな顔を見て、「何かあった?」と他人事のように聞いてきた。
 体のラインがくっきり見える米村先生のスーツ姿は、自分の体型に自身のある人しか着れないもので、さらに顔もいい。セミロングの髪をいつも下ろしていた。独特の天才臭を漂わせていて、勝手に思っているだけだが、学年に一人はいる何でもできるタイプの人間だと、解釈している。
 だからこの人も僕とはあまり関わり合うことのないはずの人間だった。
「僕、生徒会なんて入らないですから」
 来てくれたのなら好都合だ。
 直接断れば、後で文句を言われることもない。
 それだけ言って帰ろうとすると、米村先生はソファから立ち上がった僕の目の前に一枚の紙を出してみせ、そこには生徒会役員確定書と書いてあった。生徒会長の欄には白砂唄の名前。生徒会副会長の欄には齋藤新と書いてある。最下部には、校長からの直筆のサイン。すごい達筆でザ・校長といった感じ。公印もしっかり押されていた。
「⋯⋯有り得ないです」
 詰みだ。ここまでされてやりませんなんて言っても、何かとゴリ押しされそうな気がした。
 僕はソファに戻り、生温くなった紅茶をもう一度喉に通す。聞きたいことは山以上にある。
 書記や会計の欄はそれぞれ二名の記名欄があるのに空白のこと、呼び出しておいて最後に来た先生の遅刻した理由、それと何やら不満そうに顔を崩す白砂。だが、一番聞きたいことはそんなことではない。
「何で僕なんですか?」
 僕のため息混じりの陰鬱な声に米村先生も謎のため息で返してきて、目の前にあるもう一つのソファに座った。
「私にも紅茶を頼む」
「わ、わかりました」
 白砂は先生の分の紅茶を淹れると、そのまま先生の隣に腰をかけた。そして真っ直ぐ、僕を見てきた。
「本来なら唄の一人でいいところなんだが、校則上そういうわけにもいかなくてな」
 生徒会を回すなら白砂一人でどうにかなるということなんだろうが、生徒会は仕事内容がそんなに楽なのだろうか。
「新は今の学校は楽しいか?」
 唐突かつ、答えづらい質問に少し肩が上がる。
「まあ、それなりには」
 目を逸らして、失礼極まりないその質問に答えを濁すことしかできなかった。
 こんなことを聞かれても、嫌味の一つも言えない。「はい、楽しいです」なんて言える立場ではなかった。
「唄はどうだ?」
「私は楽しいですよ?」
 白砂は首を傾げて言った。
 そりゃそうだ。あれだけ皆から好かれて、尊敬されていて、……才に恵まれていてな。
 何やら比較された気がして、顔を顰めてしまう。
「そういうことだ。支えてやれよ?」
 米村先生は斜め上を見ながらそう言った。
 どういうことなのかさっぱりわからなかった。なんなら、米村先生は僕の質問にすら答えていない。
「要するに僕には何もするなってことですね」
 僕が彼女を支えることなんて何一つない。
 主語がなかったけど、唄に言ったのは明らか。だから、僕は皮肉って先生に返した。
 米村先生は紅茶をグビグビと飲み干し、「来週も頼む」と言い残して、生徒会室を出ていった。
「じゃあ、僕は帰るね」
 特に何かしたというわけではないけれど、この一時間にも満たない時間で、疲れ切ってしまった。
 今日のこの時間で僕の高校生活は強制的にルートを変えさせられたような気がする。
 今後のことを考えると、やっぱりため息が止まらない。

「……あのこと誰にも言わないでね」
 下駄箱で振り向くと、そこには時に凛々しく、優しい笑顔を絶やす事のない白砂の不安げな表情があった。
 あの事とは当たり前だが、USのことだろう。
「わかったよ」
 僕はまた逃げるように帰った。