ちゃぷん。

塔子は湯船に浸かっていた。
出逢ったばかりの知らない男性の家の湯船だ。

そして湯船がすごく広い。
檜のお風呂で、温泉のような造りだ。
湯船だけではない、車で連れてこられたからよく分からないが門から家までだって多分歩けば結構な距離があるようだったし、玄関もいつかTVでみた旅番組の老舗温泉旅館のような雰囲気だった。

現代的な自分の家と祖母の洋館とも違い、これぞまさしく日本の家!それこそ歴史的価値がありそうなお屋敷である。表札には冷泉とあった。ひやいずみ?だろうか、読めない。

しかし冷泉氏の言ったとおり、お手伝いさんらしき女性が2人出迎えに現れると、「まぁまぁ」「ずぶ濡れで」「大変大変」などと掛け合いで驚きながらも塔子を風呂に案内した。有無を言わさぬお手伝いさん方の推しの強さで濡れた制服をひん剥かれた塔子は、ちゃぷんとお風呂に浸かるほかなかったのだ。

「どうしよう」

ずっと悩みながら湯船に浸かっていたため、もうのぼせそうだ。選択肢としては出る他ない。

お風呂を出ると、着替えが用意されていた。浴衣だ。浴衣を着ると先ほどのお手伝いさんが現れ、カーディガンをはおらせてくれた。

「濡れた服は洗濯しておりますので、お待ちくださいませ。カーディガンは私の私物で失礼しますね、湯上がりは冷えますから」
そう言いながら、塔子を鏡の前に座らせ慣れた手つきで髪を乾かしていく。
「若さまが客間でお待ちですよ」
ポカポカに出来上がった塔子にもこもこのスリッパを履かせると女性はニコニコしながらいそいそと廊下を抜けてゆく。ついてゆく他ない。

こんなにかまってもらったの生まれて初めてかもしれないなとのぼせた頭でふと思いながら、女性が開けた扉の先に先ほどの男性を認めると、とんでもなく恥ずかしく塔子は消えてなくなりたくなった。

先ほどはただ単に整った顔としか認識していなかったが、漆黒の髪は艶やかでサラリと垂れてきた前髪をかきあげる仕草はなんとも色気がある。彼も風呂上がりなのか白地着流し姿で帯は堅苦しくなく柔らかなグレイだ。弓形の細めの眉と切れ長の目は少し困った表情だが、通った鼻筋の下には薄めの唇が微笑みを浮かべていた。

「落ち着いたかな」

男性が塔子の方にゆっくり歩み寄ってくると、お手伝いさんは暖かいお茶を残して静かに去った。

それで私はなぜここにいるのだろう。
ああ、今日は最悪な日だったのに、こんなにも現実感がない。

「正直なところ困っているんだ。僕は冷泉白楽(はくら)、君が何故あの屋敷の門に縋り付いて泣いていたたか知りたいと思ってる」

初対面不思議と緊張はなかった。真っ直ぐな目に見つめられると驚くほどスラスラと身の上話から何から何まで話してしまう自分がいた。

白楽は過剰に相槌を打つ訳でもなく、口を挟む訳でもない。ただ真摯に聞いてくれているのが伝わってきた。ずっと誰かに聞いてほしかった。気持ちが溢れて、迷惑かもしれない、どうしてと思ってもとめどなく塔子は話し続けていた。

そうして塔子が白楽と出逢うまでを話し終えた時、夜は白々と明けていた。話し終えた塔子へ静かに白楽は問いかけた。

「それで、僕にどうしてほしい?」

塔子は困った。白楽は正当な方法で祖母の屋敷を買い、ハープを手に入れたわけで、どんなに悲しくとも私には返せなどという正義は全くないのだ。でも、あのハープが無くなってしまっては、塔子はこれから何を支えにすればいいのか分からなくなってしまう。大学進学どころか、音楽を勉強するどころか、楽器すら無いのでは本末転倒すぎる。

塔子は一気に息を吸い込むと、一気に吐き出すように言った。
「あのハープだけでも私に売ってもらえませんか!」紺色の学生バックの内ポケットから銀行の通帳を取り出す。残高は100万円を少し超えたてころだ。学費にあてるつもりの貯金だが背に腹は変えられない。
「ハープ代には足りないかもしれないんですが、100万円あります!バイトして貯めた私の貯金だから両親は知りません。足りない分は毎月…5万円…5万円くらいなら働いて返します。大事な祖母のハープで私には、生きるために必要なんです!」

とんでもなくずうずうしい頼みとは分かっていたても、もうお願いするしかなかった。家に帰って、真新しいハープに浮かれる妹の演奏を聞かされるだけの生活は耐えられない。ハープの音色はあの家で無視されてきた私の声、私の気持ち、生きることそのもの。

しかし白楽は顔を曇らせる。塔子の必死な熱量が
伝わらなかったのではない。だが、だからこそ、そ、塔子の望み返答ができないことを白楽は苦々しく思った。
「申し訳ないが、あのハープを譲る事はできない。君はまだ未成年だから、君の両親の許可なくては君はそういった契約を僕と結ぶことが出来ないんだよ」

なんと味気ない返事だろうか。まるで塔子の父親の言ったことと同じではないかと白楽は思った。

「誕生日はいつかな?」
「聞いてどうするの」
「君が18になれば話が変わる」
「それまで待ってくれる?」
「それまでに僕に出来ることはしよう」

おかしな昂揚感だった。
2人とも想像していなかった結論に辿り着く。
運命の歯車に巻き込まれて勝手に会話が進んでしまう、自分の口から出てきた言葉に現実味がない。

「私の18の誕生日まであと1週間なの」
「では僕をそれまで信じて待ってほしい」
真っ直ぐな目に塔子は射抜かれたが、見つめ返すほど男性に対する免疫があるわけではなかった。そのため思わず目を逸らす…と、目線の先には
重厚な柱時計があり…
「あ…大変だわ、学校いかなくちゃ…」

白楽は呼び出しのベルを鳴らすと、昨日とは違う、しかしよく似ている女性が透子の身支度を手伝うためにきた。

「また連絡しますね」
去り際にそう白楽は囁いた。何かが解決したわけではないのに、塔子の足取りは軽い。晴れやかにロールスロイスの後部座席に塔子は乗り込み、学校へ向かうのだった。