「社長室まで来ればよかったのに……」
「あっ、行ったんですが……」
「えっ?来たなら声かけてくれたら良かったのに」
俺の問いかけに美鈴の返事はなかった。
「美鈴?」
「もう、切りますね、お仕事中ですよね」
そう言ってスマホは切れた。
美鈴の様子が気になったが、仕事中でどうする事も出来ず、帰宅してから美鈴と話をすればいいと軽く考えていた。
仕事が終わり、マンションへ向かう社用車の中で美鈴に電話をした。
しかし、美鈴のスマホは電源が入っていないメッセージだった。
「あれ、美鈴どうしたんだろう」
「社長、どうかされましたか」
「うん、美鈴のスマホの電源が入っていないんだ」
俺は急に心配になり美鈴の待つマンションへ急いだ。
「美鈴、美鈴」
部屋は真っ暗で、美鈴の姿はなかった。
どこへ行ったんだ。
俺は美鈴を探し回った。
まさか、またマンションの裏庭か?
マンションの裏庭に行ってみると、美鈴はぽつんとベンチに座っていた。
「美鈴!」
美鈴は俺の呼びかけにびっくりした様子で振り向いた。
「家出にしては随分と近いな」
美鈴に近づくと、目に一杯の涙を溢れさせて、俺を見つめた。
「美鈴、帰ろう、もう俺お腹ぺこぺこだよ」
そう言って両手を広げると、美鈴は迷いもせず、俺の腕の中に飛び込んで来た。
俺は美鈴を強く抱きしめて「心配したんだぞ、俺の側から離れるな」そう言って美鈴のおでこにチュッとキスをした。
美鈴は俺の背中に腕を回しギュッと抱きしめた。
「美鈴、もしかしてヤキモチ妬いてくれたのか?」
「えっ?」
美鈴は急に俺から離れて狼狽えた姿を見せた。
「美香ちゃんとはなんでもないよ、確かに抱きつかれたけど、俺はなんとも思ってないから」
「でも……」
「でも何?」
「美香に迫られたら嫌だと思う男性はいないと思います」
「確かに美香ちゃんは魅力的だけど、俺は美鈴がいいな」
「真莉さんだって元彼女だったわけだし、誘われたら……」
「美鈴、俺の事そんなに信用出来ないのか」
俺はちょっとムッとした態度をわざと見せた。
「俺は誰にでも着いて行くような男だと思ってたのか」
「そんなことはありません」
「俺はこれでも一途に美鈴を思って来たんだけどなあ、二十年だぜ」
「でも、私はあの時の私とは違います」
俺は美鈴の口から語られるまで待つつもりだったが、俺が気にしていないことを早く伝えないと、美鈴は自分を責めて俺の前から姿を消しかねないと思った。
「美鈴、十五年前の未遂事件の事を気にしているのか?」
「えっ?どうしてそれを……」
俺はゆっくり深呼吸をして語りはじめた。
「俺は初めて美鈴に拒絶された時、何か美鈴に取って忘れられない過去のトラウマがあるんだろうと、調べさせて貰った、俺は事実を知った上で美鈴とこれからの人生を歩んで行こうと心に決めたんだ」
美鈴は驚いた表情を見せた。
「慶さんは気にならないんですか、たとえ未遂とは言えども、望まない形での見ず知らずの男性が……」
そこまで言いかけて、美鈴の手が小刻みに震え出した。
「もう、言わなくていいから」
そう言って、俺は美鈴を抱き寄せた。
そして、美鈴と見つめ合い、一瞬唇が触れた。
美鈴の唇が微かに俺の唇を求めた、俺も透かさず美鈴の唇を求めた。
俺の心臓はバクバクと音を立てた。
そして、マンションへ向かった。
食事もせず、朝までお互いを求めあった。
美鈴は俺のキスに可愛らしい声を漏らした。
「美鈴、愛してる」
「慶、大好き、大好き」
「ああ、美鈴、俺の側を離れるな、俺だけ愛してくれ」
美鈴は俺の愛撫に拒絶は見せず、自分の気持ちに素直に従った。
美鈴の首筋から鎖骨へ俺の唇は美鈴を求めた。
「美鈴、俺もう我慢出来ない、俺を受け入れてくれ」
美鈴はこくりと頷いた。
でも美鈴の苦痛な表情が気になり、もしかしてと美鈴に確かめた。
「美鈴、もしかして初めて?」
美鈴は恥ずかしそうに頷いた。
「ごめん、俺ばかり気持ちが高揚しちゃって、少しずつ、ゆっくり進んで行こうな」
「はい」
この日は朝までキスの雨が降り続き、止むことはなかった。
朝、私は目が覚めて、隣で慶さんが寝ている事に驚きを隠せなかった。
昨夜の慶さんとの抱擁に身体がまだ熱りが冷めない。
じっと慶さんの寝顔を見ていると、慶さんが目を覚ました。
「おはよう、美鈴」
「お、おはようございます」
「いいな、美鈴が隣に寝てると、またしたくなっちゃうよ」
「へ、変な事言わないでください、慶さん、もう起きないと遅刻です」
「慶でいいよ」
「恥ずかしいです」
「恥ずかしいって、昨夜あんなに慶、慶って言ってたけど」
「もう、知りません」
私はベッドから起き上がり、キッチンへ向かった。
朝食を済ませて、慶さんは会社に行く支度を始めた。
部屋のドアに手をかけて、私の方を振り向いた慶さんは「行ってきます」と言って、おでこにキスをした。
えっ?なんでおでこなの?
戸惑っている私を置き去りにして慶さんはドアのむこうに消えた。
ガチャっとドアの閉まる寂しい音だけが耳に残った。
「慶」
私は彼の名前を呟いた。
やっぱり、思っていたほどの気持ちの昂りは感じられなかったのかな。
慶は若いし、もっと情熱的な方が好みなのかな?
私じゃ慶を満足させられないんだ、きっと。
私は落ち込む気持ちをどうする事も出来ずにいた。
俺はキスだけで昂る気持ちを収めることは出来ずにいた。
いや、ずっとこのままと願ってはいたが、美鈴の感じてるであろう表情、気持ちが昂っていると思われる声、そして何より俺の名前を囁く唇、俺の高鳴る鼓動は止まることを忘れていた。
美鈴は本当に俺を心の底から求めていてくれたのだろうか。
俺はある男に連絡を取った。
精神科医の都築光三十歳。俺の兄貴だ。
戸倉家の長男なのに、さっさと医者になると宣言して家を出て行った。
都築総合病院の娘と結婚して都築の姓を名乗っている。
「兄貴、久しぶり、慶だけど」
「おお、久しぶりだな、お前結婚したんだってな」
「うん、入籍だけ」
「式はあげないのか?」
「そのうちな、親父の具合が良くないんだ」
「そうか、親父も年だからな」
兄貴と連絡取るのは久しぶりだった。
兄貴は家出同然だったからだ。
「ちょっと兄貴に精神科医として相談があるんだ」
「お前、具合悪いのか?」
「俺じゃないよ」
「かみさんか」
「ああ」
「いつからだ」
「十五年前から……」
「そうか、中々精神科の病は難しいからな」
「美鈴が二十五歳の時、未遂だったが襲われそうになったんだ」
兄貴は黙って俺の話に耳を傾けていた。
「ずっと男性との付き合いから遠ざかっていたらしい、俺は美鈴と二十年振りに再会した時、事件のことは知らずにいた、初めて美鈴を抱きしめた時、思いっきり拒絶されて、俺は美鈴の過去に何があったのか調べて、事件のことを知ったんだ」
「おい、お前美鈴ちゃんと五歳の時会っていたのか?」
「ああ、俺は五歳の時から美鈴と結婚したいと思っていたんだ」
「結婚してから夫婦生活はどうなんだ」
「ずっと寝室は別だった」
「今もか」
「いや、昨夜はじめてベッドを共にした」
「それなら問題ないじゃないか」
「一瞬美鈴の苦痛な表情が気になり、初めてだからなのかと美鈴に聞いたら、美鈴は頷いたから、その時は気にも止めなかったんだが、もし我慢していたのなら、この先俺の誘いに嫌気がさすんじゃないかと不安になったんだ」
「そう言うことか」
「それに俺の名前を必要以上に口にしていた事も気になったし……」
「本人に会ってみないとわからないが、多分無意識のうちに拒絶反応が出る場合も考えられる、美鈴ちゃんは目の前にいる相手を愛している相手と自分に言い聞かせていたのかもしれない」
「そうか、俺は美鈴を目の前にしたら、求めちゃいそうで、我慢出来ないかもしれない」
「お前な、中学生じゃあるまいし、しっかりしろよ」
「わかった、ありがとうな」
俺は兄貴とスマホを切った。
私は慶さんの帰りを今かいまかと待ち焦がれていた。
初めて慶さんに抱きしめられた時、思い出したくない記憶が鮮明に脳裏を覆った。
目の前の慶さんと思い出したくない相手が重なった。
そして身体が拒否反応を示して、慶さんを拒絶していた。
でも、昨夜は美香との事、そして真莉さんとの事があって、ヤキモチを焼いた。
絶対に慶さんを取られたくないと強く思った。
だから、慶さんの名前を必要以上に口にして、嫌な記憶が甦らないようにした。
でも一瞬表情を歪ませてしまった。
我慢しないと、もし離婚されたら父の会社は倒産してしまう。
我慢、違う、気持ちは慶さんを求めているのに、身体は拒否反応をしてしまう。
私は自分の気持ちと慶さんの妻の責任の狭間で苦しんでいた。
「美鈴、ただいま」
「お帰りなさい」
「着替えて、シャワー浴びてくるから、飯頼むな」
「はい」
俺はすぐにでも美鈴を抱きしめたい気持ちを封印した。
美鈴に嫌われたくない。
「今日は疲れた、寝室別に頼む」
「わかりました」
俺は美鈴とベッドを共にして我慢出来るとは思えなかった。
それに美鈴もきっとほっとしているだろうと勝手に思い込んでいた。