「そんな事はございません、社内をご案内致しますので、どうぞお入りください」
もっとニッコリすればいいのにと、羨ましい反面残念な気持ちになった。
私は秘書の女性に案内されて、社内を一通り見て回った。
最後に最上階の社長室へ向かった。
「あのう、すみません、化粧室に行きたいんですが……」
「その角を曲がった所にございます、私はこちらでお待ちしておりますので、早めにお願い出来ますでしょうか」
「あっ、はい、すぐに」
別にトイレに行きたいわけではなかった、慶さんと顔を合わす前に、自分の姿をチェックしたかったのだ。
鏡の前で、笑顔をしてみた。
社員の方々は私を見てなんて思うだろう。
冴えないおばさんって思われるな。
慶さんに恥をかかせてしまうかな。
気持ちの整理がつかないうちに「もうそろそろよろしいでしょうか」と声をかけられてしまった。
「はい、今出ます」
私は化粧室から廊下に出た。
いよいよ、慶さんが待つ社長室の前に着いた。
秘書の女性がノックをする。
「はい、どうぞ」
「失礼します、奥様をお連れ致しました」
社長室に足を踏み入れると、慶さんは私に近づいて「美鈴、すごく綺麗だよ」と声をかけてくれた。
あんな綺麗な秘書の女性の隣で引き立て役みたいな私を綺麗と褒めてくれる慶さんの美的感覚を疑ってしまう。
「真莉、ご苦労様」
「大丈夫です、では会場の準備が済みましたらお迎えにあがります、失礼致します」
秘書の女性は社長室を後にした。
私は一瞬我が耳を疑った。
今、慶さんは秘書の女性を真莉って呼び捨てにしたよね。
秘書の女性は慶さんにニッコリ微笑んだよね。
二人付き合ってるの、慶さんの彼女は真莉さん?
だから、私とプラトニックでも問題ないの?
「美鈴?顔色悪いけど、大丈夫?」
「えっ?あっ、はい、大丈夫です」
やだ、私ったら、ヤキモチ妬いてるの?
気持ちの整理が出来ないまま、会場の準備が出来たと呼ばれて、二人で会場へ向かった。
「お忙しいところお集まり頂きましてありがとうございます、わたくしごとではありますが、この度、葉村美鈴さんと入籍を済ませました事をご報告させて頂きます、これから公私共に精進して参りますのでよろしくお願い致します」
慶さんと一緒に頭を下げた。
全て無事に終わり、会場を出ると、そこから慶さんとは離れて行動することとなった。
「奥様、お疲れ様でした、この後社長は打ち合わせがございますので、先にマンションに帰っているようにとの伝言です、それと食事は済ませて帰るとのことです」
「わかりました」
わかってる、社長は忙しいんだから、でも慶さんが直接言ってくれてもいいと思うけど……
「あのう、化粧室に寄りたいんですが」
「廊下の突き当たりを右です」
「ありがとうございます」
私は化粧室の個室に入っていると、女子社員の噂話が耳に入って来た。
「ねえ、なんで社長はあの人を奥さんに選んだんだろうね」
「ほんと、真莉さんと結婚するとばかり思ってたけど」
「あの二人別れたのかな、もしかして奥さんになると秘書は難しいから、真莉さんは愛人だったりして」
「じゃあ、まだ、続いてるって事?」
「だって、あの身体、社長は離れられないでしょう」
「だよね、二十五なんだから我慢出来ないでしょ」
「あの奥さんじゃ社長を満足させられないよね」
私は個室から出られずにいた。
やっと、女子社員が出て行った。
やっぱり、恋人だったんだ、いや、今も恋人同士なんだ。
だから、私とプラトニックでも大丈夫って言ったんだ。
今日だって、打ち合わせとか言ってたけど、デートだったりして、食事いらないっていってたし。
私は化粧室から出て、ビルの出口にふらふらと歩いて行った。
出口で運転手の山田さんが待機してくれていた。
「奥様、マンションまでお送り致します」
「あのう、大丈夫です、電車で帰ります」
「それでは私が社長に叱られます」
「大丈夫ですよ、メールしておきますから」
私は一人で駅に向かった。
マンションの最寄り駅に着いたが、マンションに戻る気持ちになれなかった。
どうして、真莉さんと結婚しなかったんだろう。
今頃二人は愛を確かめ合ってるんだろうか。
二人の愛し合う姿が脳裏を覆った。
振り払っても、振り払っても消えない。
やだ、私ヤキモチ妬いてるの?
慶さんを拒絶してるくせに何勝手な事言ってるんだろう。
私はマンションの裏にある公園でぽつんと一人座っていた。
辺りは既に暗闇に包まれて、相当の時間が経過していた。
俺は打ち合わせが終わると、すぐに美鈴の待つマンションに帰ろうとしていた。
「慶」
俺の名前を呼んだのは真莉だった。
「お疲れ様、今日は美鈴が世話になったな」
「お安い御用よ、それよりご飯食べて帰らない?」
「ああ、ごめん、美鈴が食事の支度して待ってるから帰るよ、また、明日よろしく」
慶、なんであの人を選んだの?あの人より私の方が魅力的なはずなのに……
真莉が俺の背中に向けて、悔しい思いをぶつけて来た事など知る由もなかった。
俺は運転手山田の車に乗った。
「美鈴をマンションまで送って貰って助かったよ」
「あのう、奥様からメールは送られて来ていませんでしょうか、電車でお帰りになるとおっしゃっていました」
「そうか、どこか寄るところがあったのかな」
俺はまさか美鈴が悩んでいた事など気づく事が出来なかった。
マンションに着いてコンシェルジュ牧野に美鈴が何時に戻ったか尋ねた。
「お帰りなさいませ、美鈴様はまだお戻りになっておりません」
「えっ、まだ戻ってないのか」
美鈴、どこへ行ったんだ。
俺は美鈴を探す為、マンションを出た。
その頃、私はまだマンションの裏の公園にいた。
そんな私に見知らず男性が声をかけて来た。
「戸倉美鈴さんですよね、私は週刊誌の記者の後藤と申します、ちょっとお話よろしいですか」
嫌な予感が脳裏を掠める。
「すみません、失礼します」
「ちょっと待ってくださいよ、十五年前の未遂事件の件なんですが……」
週刊誌の記者の方は私の行手を遮り、立ち塞がった。
そして私の腕を掴んで、詰め寄った。
その時、私とその男性の間に割って入って来た人がいた。
「慶さん」
「人の妻に近づくな」
「奥さん、また話聞かせてください、じゃ」
私は小刻みに手の震えが止まらなかった。
「美鈴、大丈夫か」
「はい」
「帰ろう」
俺は美鈴の震えていた手を握って、何も聞かずにマンションの入り口へ向かった。
部屋に入り「美鈴飯は食ったか」と声をかけた。
すると「いいえ、まだです」と返事が帰ってきた。
「俺もまだだから一緒に食うか」
「えっ?真莉さんが食事は打ち合わせの後済ますと慶さんからの伝言を伝えてくれましたけど、お食事召し上がっていないんですか?」
「そんな伝言頼んでないけどな」
思いもよらぬ美鈴の言葉に驚いた。
「急いで支度します」
「外に食いに行こうぜ」
「はい」
美鈴は車の中で、真莉の事を聞いて来た。
「慶さん、なんで真莉さんと結婚しなかったんですか」
俺は驚いた表情を見せた。
「真莉の事は誰から聞いたんだ?」
「会社の化粧室で女子社員の方が話しているのを聞いてしまって」
「全くおしゃべりな社員だな」
「すみません、個室に入っていたら聞こえて来ちゃって」
「美鈴は悪くないよ」
「真莉さんと付き合っていたんですよね」
俺は決心したかのように話し始めた。
「真莉とは確かに付き合っていた、でも振られたんだ」
美鈴は信じられないと言う表情で俺を見た。
「どうして振られたんですか」
「俺のここに別の女性がいる事を見抜かれたんだ」
俺は自分の手を心臓の部分に当てて力強く言葉を発した。
「別に好きな女性がいらしたんですか」
「俺が五歳の時の初恋の女性」
「五歳?」
俺は美鈴の驚く顔を見てクスッと笑った。
まさか自分の事だとは思っても見ないんだろう。
俺は話を続けた。
「俺は五歳の時、迷子になった、道がわからなくなり途方にくれた、そんな時、一人の女性が声をかけてくれた、笑顔が素敵な優しい女性だった、バッグから手作りのお菓子を差し出すと、俺は口に放り込んだ、すごく美味しかった、そのあと飲み物を買って来てくれて、しばらくの間一緒の時間を過ごしたんだ」
美鈴は遠い記憶を思い返していた。
「名前を聞かれて戸倉慶、五歳って答えると、その女性は葉村美鈴、二十歳よって自己紹介してくれた」
「私?」
「そう、俺のここにずっと消えないで存在し続けた女性、俺が五歳の時から結婚したいって思っていた女性は美鈴だよ」
美鈴は目を丸くしてびっくりしていた。
「美鈴との結婚はずっと俺の夢だったんだ」
「信じられないです」
「俺の事覚えてる?」
「忘れていましたけど、思い出しました、あの時の男の子が慶さんだなんて驚きました」
俺はちょっと恥ずかしくなって、頭をかいた。