◇

「空、最近遊び過ぎなんじゃないの? お小遣いもすぐ前借りするし、少しは勉強でもしたらどうなのよ? 進学できないわよ」


 台所からひょろりとお母さんが出てくる。
 うるさいなぁ。
 進学できないわよって、そんなのお母さんが知ったことじゃないでしょ。
 知った口してなんでもかんでも言わないでよ。


「別に、進学とかしなくていいし」

「しなくていいって…何言ってるの。あなたは私が一生懸命育てた子なんだから…そんな」


 私に言い聞かせるようにわざとらしく呆れた口調で話す。
 一生懸命育てた子って、そんなこと言われたって知らないし。
 そっちが勝手に一生懸命育てたんじゃん。
 そう思いながらお母さんの目を睨むように見る。


「知った口しないでよ」


 鞄を乱暴に背負って玄関を出る。


「あぁもう、ああ言ったらすぐこう言うんだから…」


 また言ってるよ。
 私がなにか言ったらああ言ったらこう言うって言うのに、言わなかったら言わないと伝わらないよって、ほんと矛盾してる。
 どうしてこうも日本語って難しいんだろう。
 ローファーがロータリーをコツコツと鳴らす音を聞きながら考えて、学校まで足を運んだ。
 寂れた駅舎はまたしても寒気を放っている。
 陸橋に登ったときにふと名前の知っている空があった。


「あっ…確か、薄明光線」


 地頭の良さを使って全力で思いだす。
 "天使の梯子や、天使の階段とも呼ばれているんだ"
 そんなに素敵な名前がついているのに名前はほとんどの人に知られていないなんて、なんて可哀想なんだろう。


「天都みたい」


 ぽつりと呟いて陸橋を下り汽車に乗り込む。
 天使の階段。
 透き通っているようです透き通っていないような光、奥が見えないくらいくすんでいるようで、薄っすらと奥が見える雲。
 透き通っているようで、くすんでいる。
 くすんでいないようで、透き通っていない。
 天都そのものを表すような天気。
 天都はその階段を登る天使かな、なんて思ったり。


「あっ、空ちゃんおはよ〜!」

「あぁ波、おはよ。この時間なの珍しいね」

「まぁね〜! というか、空ちゃん昨日、お腹大丈夫だった? 相当壊したんだね〜」


 あぁ、そうだった。
 学校についたあと、波たちに連絡していないことを思い出してメッセージを送っていたのだった。
 もちろん何故帰ったのかなんて言えるはずもなかったが。
 波曰く、心配すぎて遊ぶの全然集中できなかった、とのことだった。
 そして、私の勘違いかもしれないが、波と私で少し距離がある。
 私が取っているというより、波が取っている。
 まぁそらそうだろう。
 昨日聞いてきた友達の悪口、その話題の張本人が目の前にいるのだから当たり前だろう。


「あはは、ほんとに、びっくりするほど壊しちゃったみたい」


 笑ってのけると波は数秒の沈黙の後私の手をそっと握って目を見てくる。


「私は、何があっても空ちゃんの味方だからね」

「うん、私も波の味方だよ」


 波の言葉が、例え上辺だけだとしても、そう言ってもらえるだけで少し元気が出るから不思議だ。
 多分、私は今まで通り可奈子とは接することが出来ない。
 あんな裏を聞いてしまったから。
 それからは学校に着くまでは波と世間話に花が咲いていた。
 そう、学校につくまでは。
 学校に近づき、教室が近づくにつれて足取りが重たくなっていく。
靴の隙間という隙間に鉛が入ってきているのかと思うほど足が重たくなる。
 可奈子はいつももっと遅い時間に来るから、いないとは分かっているものの緊張してしまう。
 そろそろと教室の扉を開ける。
 一番初めに目に映ったのは、少しうつむきがちに立っている天都の姿だった。
 目を見開いた瞬間、鼓膜が可奈子の声を拾った。


「それで〜、あいつってザ陰キャみたいな感じたよね〜!」


 私には気づいていない様子で悪口がスラスラと出てくる可奈子。


「あっそうそう、思ったんだけどさ〜、波って絶対空の味方するよね〜。ほんと、波って容姿も性格もいいのに、空につくって言うっていうのがな〜、もったいないよね。ほんと、いい子ちゃん気取りもほどほどにしなよって感じ」


 遠慮の欠片も感じられない声量で吐かれた可奈子の言葉
 それを薄っぺらい扉一枚を隔てて聞いてしまった波は固まっている。
 でも、必死に笑顔を浮かべて、聞かなかったことにしている。
 でも波、それじゃだめだよ。


「可奈子」

「あれっ空じゃん」


 可奈子は至って普通を装いながらいつもどおり私に話しかける。


「今、波の悪口言ってたよね。私だけならいいけど、波のことまで悪く言うなんて許さない」


 そう言うとあからさまに機嫌を悪くする可奈子。
 ぎっとこちらを睨んでからニヤニヤとするように私を見る。
 獲物を見つけた魚のような目。
 私の声を聞いた天都がばっとこちらを向く。


「へぇ、空も言うようになったじゃん。空なんて、傍から金魚のフンしてるようにしか見えなかったよ。あっ、でも、波もおんなじか。まぁでも波の場合は空の金魚のフンだもんね。金魚のフンの金魚のフンって気持ち悪〜!あははっ」


 あからさまに私と波に当てつけるような言葉。
 私は友達のことになると案外ムキになれる性格らしい。


「私のことはどれだっけいってもいいよ。でも、波のことまで言わないで。言葉はときに凶器になるんだよ」


 そう言うと「凶器ね〜」と笑いながら可奈子は私の目を見る。
 嘲笑うような、ばかにするような、憐れむようなそんな瞳。
 そして、「ふふ、あはははっあははっ」と大声を出して笑う可奈子。
「なに」というとすると、可奈子が遮って話す。


「空がよくその言葉使えるよね、ほんと。あははっ。あの事件思い出せないの?」

「可奈子ちゃん、それはやめてっ…!!」


 可奈子の言葉を聞いた波が外から叫ぶ。
 「それだけはやめて」と何度も心から伝えているのはすごく感じるが、可奈子には届かない。


「空は、天都千歳を殺した」

「え…?」


 え?
 私が天都を殺した…?
 「まじで思い出せてないじゃん」と笑う可奈子の声をバックに聞きながら天都の席に目を向ける。
 よく見ると他の机と比べると使い込まれておらず、少量のホコリが被っているような気がする。
 なんで今まで気づかなかったんだろう。
 そして、窓際に立つ天都を見る。
 その目は隠し事が見つかってしまった大人のようだった。
 目が泳いで、合わせてくれない。


「私は、なにをしちゃったの…、なんで私が天都を…」

「空ちゃん、私はもういいよ、行こう」

「うん…でもごめん波、少し、一人にしてくれないかな」


 そう言って私はキッとあまとの目を見据える。
 「空は、怖かった人」と答えたときの天都の顔が、弱々しく懇願するような顔や声が、優しく笑う顔が、脳裏に浮かぶ。
 ズキズキとする痛みは前より威力を増している。
 思い出そうとすればするほど殴られるような痛みが来る。
 でも今は思い出さないといけない。
 天都と私の間に降ろされた分厚いカーテンを持ち上げないといけない。


「行くよ」


 そうやって天都に言うと、ゆっくりとだけれど着いてきてくれる。
 そのことがどうしようもなく嬉しくなるが、私のこの嬉しいは、私達の過去によって粉々に打ち砕かれて終わってしまうのだろう。