私たちが同時にきょとんとした声を上げたのに、今度は大男のほうがきょとんとした顔をして見せた。目は存外にくるんくるんしていて、大男のものは思えないくらいに可愛らしい。
「ええっと、そっちのモデルさんみたいな子が、大人しそうな子を殴っているように見えたんだが……違ったか?」
「あ、これ?」
私はもう一度矢車さんのお腹に拳をつくって手を当てると、意味が理解できたらしく、矢車さんは「あ、え、い、う、え、お、あ、お」と腹式呼吸で声を上げた。
それに大男はびっくりしたように目を瞬かせた。
「ああっ、すまんすまん。演劇部の練習だったか……!」
「いえ。演劇部じゃないです。というか、うちの学校にありましたっけ?」
「じゃあ、それは?」
「映画を撮ろうと思って。素人監督に素人女優で大したことないですけど」
私が淡々とそう告げると、矢車さんは大男にビクビクしながら、私の言葉に同意する。
「きゃ、くほんは……全部、覚えられたんです……でも私、演技は全然で……まずは駒草さんに声の出し方を指導してもらってたんです」
たどたどしいながらも、矢車さんの説明を受けて、大男はようやく納得したように顎に手を当てた。
「ああ……すまんすまん。映画かあ……今って映画は大きな映画館以外だと全然見ないから、思いもつかなかった」
「いえ。私たちのこと放っておく人のほうが多いのに、声かけられたのは初めてです」
「そうかそうか! でも……たったふたりで映画を撮るのか?」
当然なことを言われて、私と矢車さんは顔を見合わせた。青田は私の横でひょこひょこと踊っている……なんで踊るんだ。
『そりゃね。見てた限り、麻はびっくりするほどに人を怒らせてばかりだからね。今の時代の人って短気だから、最後まで麻の話を聞かないからかもしれないけれど』
「青田うるさい、ちょっと黙ってて」
「ん? あおた?」
「すみません、こっちの話です」
また青田のせいで、私が変人みたいに思われてる。私が思わず横をきっと睨むけれど、青田はひらひらとフラダンスみたいな踊りを踊っているだけだ。だから、なんで踊るの。
大男の問いには、矢車さんがたどたどしく答えてくれる。
「ま、だ……人が集まっていないみたい、で……私も、駒草さんにスカウトされただけで、未だに他の配役は、決まってないです」
「ふむふむ……てっきりふたり芝居でもすると思ったんだが……そうかそうか。それ、俺も読んでみていいか?」
大男はひょいと矢車さんに渡した脚本のコピーを指差すので、矢車さんはそれを怖々と渡した。大男は太い指でぱらぱらとコピーをめくる。途中で「はあ……」とか「ほーん」とか言いながら読むのに、いったいなんなんだろうと思って見ていたら、ぱたんと脚本を閉じた。
「はあ……大したもんだなあ、この脚本。セリフしか書いてないのに、本当に面白かった。これ、君が書いたのかい?」
私を指差すので、思わず首を横に振った。書いたのは青田であり、私はあくまでこいつの成仏のために撮る側に回っただけだ。私の反応に、矢車さんも意外そうな顔をする。
「あれ……? この脚本、駒草さんが書いたんじゃ、なかったんですか……?」
「私は書いてない。たまたま映画部の脚本が手に入っただけ。全然誰も撮影してないから、私が撮影しようと思っただけ」
そう言うと、青田はにこにこしてこちらの横顔を覗き見てくるのに気付き、私は苛立って足をガンッと蹴り上げた。そしたらオーバーリアクションで、『痛いっ!』と跳ねて叫んでくれた。
それに大男は納得したような顔をした。
「ふうむ……脚本だけ残ってるのを、こうして形にしてみようと思ったのかあ……そうかあ、いやあ。高校生って面白いなあ」
そう言ってカラカラと笑う。
どうにも、同じ学校に通っているんだから、便宜上は自分も高校生だってことをわかっていないらしい。まあ、見た感じ私たちとはひと回りほど離れているから、同じ学校の生徒だっていう実感が沸きにくいんだろう。
私がそう納得したところで。青田はまじまじと大男の隣に立って彼を上から下まで眺めてはじめたのに、私は内心ギクリとした。
『空色』の脚本には、主な登場人物は男の子と女の子と書かれている。エキストラとして、地元民とだけ書かれて、セリフもほとんどアドリブとしか書かれてない存在がいるから、メインふたりさえ決まればいいけど。
目の前のずんぐりむっくりしている人を、もうひとりの主役にしよう、なんて思ってないでしょうね……?
脚本を読んだ限り、矢車さんは大根役者とはいえど、イメージとしては限りなく女の子の役に向いているけれど、この大男は男の子というには年が離れすぎているし、あの切ない雰囲気の脚本に、こんな人がメインを張ってしまったら、言っちゃ悪いがムードぶち壊しだ。もし矢車さんのときみたいに『彼がいい』とか言い出したら張り倒してやろう。そう私が勝手に決心していたら、ようやく青田が戻ってきて、私に進言してきた。
『ねえ、この人も映画づくりに巻き込めない?』
「……言っておくけど、もし主役のひとりにするなんて言い出したら、あんたをぶん殴るからね」
『いや、肉体労働なんだねえ。筋肉すごい。これだったら、逃避行中に出会うトラックの運転手役にも合うし、なんだったらトラックのシーンをワンカットつくって調整してもいい。なによりも、ロケに行くときに車の運転してもらえるんじゃないかなあ』
そうマイペースな青田の言葉を聞いて、ようやく気がついた。
「あの……私は、二年の駒草って言います。あなたは……?」
「ああ、俺ぁ蓮見嵐って言うんだけど。トラック転がしながら、休みの日に学校に来てる」
そう屈託なく笑うのに、私は青田と顔を見合わせた。隣には矢車さん。矢車さんは蓮見さんが割といい人そうなのを見て、私と一対一でしゃべっていたときよりもリラックスしているみたいだ。
私だと、どうしても同い年の子を怖がらせるか怒らせるかなしゃべり方しかできないし、社会人やってる蓮見さんのほうが落ち着いてるみたい。
意を決して、口を開いた。
「あの……映画撮影に、協力してもらえませんか? まだ役者も全然揃ってないんですけど、男手があったほうが助かることもあるんで」
「おう? 俺みたいなずんぐりが映画なんかに出ても、そこのお嬢さんの相手なんか務まんないだろ?」
あっさりと言ってのける蓮見さんに、矢車さんは勝手に肩を強ばらせた。だから、蓮見さんを主演にする気は全くないんだったら。
私は蓮見さんの言葉に、軽く首を振った。
「別に役はいくらでもありますから。私は演技指導とカメラがありますから、演技することができませんし。他の役者をスカウトするのに、女ふたりでするのもなかなか難しいですから」
「ああー……そういう」
この人も、うちの学校の柄の悪さで声をかけにくいことがわかってくれたらしい。納得したように顎を撫で上げながら、笑った。
「おう。そういうことだったらいいぞ。まさか、この年になって高校生とまともにしゃべれるとはなあ……!!」
そう言って笑うと浮かぶえくぼが、蓮見さんみたいな大柄な人をチャーミングに見せるんだから、いろいろとすごい。
これで、あと主演のひとりが見つかったら、もっとちゃんとした練習や撮影がはじめられるのかな。
私は隣にいる青田を見た。青田はにこにこと、心底楽しげに笑っていた。こいつは、どんなにカメラを回しても撮れないのだから、少しだけ悔しいと思った。
相変わらずもうひとりの主人公に見合う役者は見つからないものの、それ以外だったら撮影ができるようになってきた。
蓮見さんは大柄で力持ちだけれど、意外と繊細な仕事も長けていて、いちから衣装を仕立てるのは無理でも、買ってきた安い服をそれっぽく見えるように飾りを付け直すくらいはできて、量販店で安く買った衣装も、『空色』のイメージに合うように平成初期の雰囲気に仕立て直すくらいはできた。
「す、ごい……」
平成初期に流行ったお嬢さん風のワンピース。この今だと絶妙にださい感じを、既製品の服に刺繍を施してそれっぽく仕立ててくれた蓮見さんに感謝だ。
蓮見さんはのんびりと頷く。
「ひとり暮らしだと、自炊もボタンの縫い付けも自分でやらないといけないからなあ。ジーンズもアップリケするとあんまりにダサいから、刺繍でダメージジーンズみたいに誤魔化す術でマスターしたんだけど、それっぽく見えたらいいなあ」
……そんな技術、自力で覚えられるもんなんだろうか。私はちらっと青田を見ると、青田は浮かれて、見えないのをいいことに矢車さんの真横に行って、勝手に手でフレームをつくって、その中に矢車さんを映し出してる。
『うんうん、イメージぴったり! 力仕事手伝ってくれたら嬉しいなって思っただけだったのに、まさかこんなすごいことができるなんて! いやあ……麻、人徳が全然ないから、こんないい人連れてこられるなんて思ってもみなかったよ!』
「人徳ないとか余計。あと矢車さんに近過ぎ、離れて」
私が小さい声でパクパクと青田に文句を言っていても、青田は矢車さんの回りをぐるぐる回って、ついでに背景も手に収めて、『うんうん』と唸っている。
この映画馬鹿は、セクハラも映画撮影のために必要って思ってるんだったらぶん殴ってやらないと。……殴れるかはともかく、気分の問題だ。
矢車さんはというと、ワンピース姿で恥ずかしそうだ。
「あ、の……私、未だにちゃんとしゃべれなくって……大丈夫、かな……?」
そう相変わらず引きつった声で言う。でも、私が課したレッスンのおかげで、前よりも大分声が出るようになったことだけは事実だ。
私は矢車さんの近くに寄ると、拳を彼女の腹筋に乗せる。
「しゃべってみて」
「あ、うん……あ・か・ん・ぼ・あ・か・い・な・あ・い・う・え・お……」
「前よりもくっきりと声が出せるようになってる、大丈夫」
「う、うん……」
元々怖がりらしくって、すぐにどもるけれど、どもらない彼女の声は本当に澄んでいるし、ちゃんとマイクで拾って撮りたい。私はそう思いながら、ちらっと空を見た。
今日は天気予報では一日晴れだと言っていた。
木漏れ日がそよいで、いい具合に影が落ちている。私は手持ちのカメラでそれらを撮影しながら、矢車さんに「少しだけ化粧しようか」と提案する。
「化粧……?」
「このまま撮ってもいいけど、カメラのフレームを越えると、地肌はどうしても色がくすむから。少しだけ色を添えて映えさせるようにするの」
「わ、かった……」
自分でデジカメとはいえど、カメラを持ってみてわかったのは、肉眼では拾える色が、カメラのフレーム越しだとなかなか拾えないということ。
例えば淡いピンクでも、フレーム越しではその淡さを拾いきれずに白くしか映らないことだってある。だから化粧して、フレーム越しでも肌の色を際立たせるように撮るのだ。
青春ムービーなんだから、肌の色、浮かんだ汗、光と影のコントラストは必要最低限撮らないといけない部分だ。
私はカメラから一旦手を離し、代わりに鞄からポーチの中身を取り出して、矢車さんの肌を撫ではじめた。
つるんとした化粧っ気のない肌に、BBクリームを薄く塗りたくると、上からパフでたっぷりとパウダーを塗る。肌に立体感が出るように整えてから、最後に口にうっすらと限りなく彼女の肌色に合うルージュを選んで差す。
それを横目で見ていた蓮見さんは、顎を撫でていた。
「はあ……すごいな、こういうのをナチュラルメイクっていうのかい?」
「ナチュラルメイクって、限りなく素肌に見えるように塗ってるだけで、工程が全然ナチュラルでもなんでもないんですけどね。そうです」
私が鏡を見せると、矢車さんはびっくりしたように鏡を持っていた。
「すごい……どうして、駒草さん、こういうことできるの……?」
そう言われてしまったら、私も困ってしまう。
こんなフレーム越しのことを気にするような化粧スキル、普段使ったら厚化粧過ぎてしょうがない。子役時代、私みたいなカメラに背景としてすら収めてもらえない場合は、当然ながらプロのメイクさんがついてくれる訳もなく、親が施すか自分で化粧を覚えるしかなかったから、時間の惜しさで自分で化粧して学んだテクニックだ。映画撮影なんてはじめなかったら、こんなテクニックのことすら忘れていただろう。
私は矢車さんに問いかけにどう答えようと考えた末に、「やろうと思えば誰にでもできるよ」とお茶を濁した。
『麻はせっかく映画を撮るのを手伝ってもらえるんだから、もっと甘えたらいいのに』
まるでむくれた子供のように言う青田の言葉を聞き流して、私は再びカメラを構えた。
たくさんシーンを切ったけれど、学校内で撮れるものは撮ってしまったほうがいい。今から撮るのは、最初のシーン。
夏休み開始直後に、転校することを告げるシーン。
私は何度も何度も矢車さんに指導してから、イメージ通りの場所に立たせる。
「それじゃ、アクション!」
私がパチンと手を鳴らすと、さっきまではにかんでいた矢車さんの顔がすっと引き締まる。彼女も役に入ってくれたんだろうと思って、ほっとする。
私はカメラを通して、矢車さんの演技に目を細めた。
矢車さんはぷらんぷらんと影がそよぐ中歩き、こちらのほうに振り返る。
もう矢車さんではない。
『空色』の主人公だ。
「私、転校するんだ」
たったひと言のシーン。その間に、カメラでどんどん彼女のアップを撮っていく。
肌に木漏れ日の光が反射して、つるんと頬を照らし出す。
そよぐ木漏れ日に、プリーツのスカート。彼女の髪の先も揺れ、一歩歩くたびに絶妙な影を落としていく。
あまりにイメージ通りのシーンで、ようやく「カット」と口を開こうとしたとき。
矢車さんの影に異物が入った。
「あぁん、もう。うるさいんですけどっ!?」
甲高い男の声に、私は音を拾ってしまわないよう、慌ててカメラの電源を落とす。
さっきまで演技していた矢車さんも、突然の声を肩をぴゃっと跳ねさせて振り返ってしまった。せっかくいい演技ができていたのに、これじゃ次いつ演技に入れるかわかったもんじゃない。
こちらのほうにズカズカと近付いてきたのは、ダルンダルンに制服を着崩した、金髪の男子だった。顔の造形が日本人離れしていて、ハーフかなにかかと察する。
「なに? 私たち、さっきからずっとここ使ってたんだけど」
「ここは俺が先客。なんで勝手にカメラ回してんだよ、SNSにでも上げるのかよ」
「別に上げないけど」
「ええ……? マジで……?」
なんだろう、この絶妙に絡みにくい間の男子は。私自身が絡みやすいかといえば、答えは否だと思うんだけど。
矢車さんはこの手の男子が苦手なのか、ぱっと蓮見さんの後ろに隠れてしまった。蓮見さんは頬を引っ掻いて男子に声をかける。
「あー、すまんなあ。映画撮影してたんだよ」
「はあ? 映画?」
男子はぴくんと眉を持ち上げる。そして「はんっ」と鼻で笑った。
「誰も見ない映画撮って、人の邪魔か。暇人だな」
それに青田は頬を膨らませる。
『なんでそんなこと言うのさ! そりゃ先客いる場所で撮影はじめたこっちが悪いけど!』
私は、その男子に文句を言う気にもなれなかった。ただ、「そう」とだけ言ってから、蓮見さんの後ろで脅えている矢車さんに声をかける。
「矢車さん、撮影いけそう?」
「え……っと……んと……」
こりゃ、この男子がどいてくれないと撮影続行は無理っぽい。私は再び男子のほうに顔を向けて切り出す。
「いつ?」
「はあ?」
「いつ撮影終わったら納得してくれるの? 今日を逃したらしばらく晴れはないから、今日中に撮れる部分は撮っておきたい」
「おま……追い出そうとしてるのわかんないのかよ?」
「ここって学校でしょ? 生徒は立入禁止区域以外は自由に行き来していいと思うんだけど。それともあんたは委員かなんかの権限で私たちを追い出せるの?」
矢継ぎ早に男子に言葉をぶつけたら、さすがに男子もひるんだみたいだ。こちらには運よく体格のいい蓮見さんもいるし、女子に暴力振るおうなんて思わないだろう。
男子は一瞬呆気に取られたような顔をしたあと、「ちっ」と舌打ちをした。
「……終わったらどけよ」
「ありがとう」
男子はぷいっと背中を向けて校舎のほうへと戻っていった。矢車さんはまだ蓮見さんの後ろで震えている。私は矢車さんの傍に寄ると、彼女は視線をあっちこっちへと向けている。……重傷だ。
私は溜息をついてから、矢車さんと向き合う。
「あいつはいなくなったから。撮影に戻ろう?」
「う……うん……」
私はさっきの男子を殴りたくて仕方がなかったけれど、そのむかつきは切り捨てた。
あの男子は、少し前の私に似過ぎていて、イライラしたんだ。
どうも男子は矢車さんの地雷を踏み抜いてしまったらしく、さっきまであれだけ自然な演技ができていたのに、言動がギクシャクとして、カメラを回してもぐだぐだな演技しかできなくなってしまった。
「カット! ごめん。何度も。矢車さん一旦休憩にしよう?」
「ご。ごめんなさ……」
「いいよ。別に。はい、お茶」
「あ、りがとう……」
今日は天気もいいから、汗も噴き出る。折角化粧した矢車さんの化粧も剥げはじめていたので、あとで化粧をし直さないといけない。
矢車さんは私の渡したペットボトルを傾けてからも、落ち込んだように膝に視線を落としていた。それに蓮見さんはやんわりと声をかける。
「あんまり気にすんなよ。お前さんもいい演技をしてただろう? 今はちょーっと調子が悪いだけだ」
「は、い……あの」
「んー?」
私も黙って脚本に視線を落とし、撮影が終わった部分にチェックを入れながら、矢車さんの言葉に耳を傾ける。
「……わた、し。男の子が、苦手で……」
「ん? でもこの学校、八割がた男だろう。どうしてここに?」
「……い、じめられてて……内申点、ガバガバで……行、ける学校も少なくって……単位制高校だったら、ま……だ、行けそうだったから……お、となの人とは、しゃべれるんで、すけど……同い年は……ほんとに……だ、めで……」
これは矢車さんにとって精一杯出した勇気だったんだろう。いつも以上にひどい滑舌に拙い言葉。それに私は耳を傾ける。
それに蓮見さんは、太い腕を組んで「ふーん、そうかあ……」と声を上げる。
意外だと思ったのは、大人というものは大概「そんなの言い返さないからだろ」とか言い出すのに、蓮見さんはそういうことがなかったことだ。
大人というものは、自分が子供だったことを忘れて、勝手に「言い返せばいい」「言い返さないほうがおかしい」「問題があったのはそっちなんだろう」と、弱いほうに難癖を付けて追い込んでしまうものだと、私はそう思っていた。
多数決でぶん殴ってくるほうが、悪いに決まっているのに。今はSNSで繋がるのが当たり前になってきたせいで、余計に繋がらないといけないって考えが増えてきて辟易している。でも蓮見さんはそんなことは全然なかった。
ただ、太い腕を解くと、ポンと矢車さんの頭を撫でた。既に気を許しているせいか、矢車さんは蓮見さんの手にビクつくことはなかった。
「そりゃ、男が悪いな。すまんなあ……あいつらは冗談のつもりなんだが、女と男だと力が全然違うっていうのがわかってないし、大人数でやってこられたら、怖いよなあ、普通」
「わ……たしが……悪いから……言い返せなかったから」
「でも、怖かったんだろう? 怖がらせたほうが悪かったに決まっている」
そう言った途端、矢車さんが肩を震わせてきた。
この学校で、自分の生い立ちを言い出すことなんて、自分の弱みを見せることなんて、勝手に腫れ物扱いされていいことなんてなにひとつないのに。それを言い出せる矢車さんのほうが、意地を張ってなにも言わない私よりもよっぽど強い。
私は息を吐いた。
「……泣いてもいいけど、化粧はあとで直すよ?」
途端に矢車さんは、脅えたようにこちらを上目遣いで見てきた。……別に私は、矢車さんをけなすために言ったんじゃないんだけど。
「ご、ごめんなさ……」
「別に。矢車さんを責める気は全然ないから。あの金髪はちょっと殴りたいけど」
「すまんなあ。百合ちゃん。麻ちゃんは言葉が足りないだけで、別に怒ってないんだよ」
蓮見さんはかんらかんらと笑いながら、私の言葉から棘を抜いてしゃべるものだからすごい。さんざん泣いたあと、矢車さんの化粧を直して、どうにか撮影を続けた。
少し泣いたせいなのか、声がよろしくない。おまけに、あれだけ綺麗にフレームに入っていたはずの天気が悪くなってきたから、だんだん絵が暗くなってきた。私は「カット!」と言って、撮影を打ち止める。
「ちょっと天気が悪くなってきたから、撮影中止」
「ご、めんなさ……せっかく、今日はいい天気だったのに」
矢車さんがしゅんと肩を落とすのに、私は鼻を鳴らす。別に矢車さんのせいじゃない。あの男子が乱入してこなかったら、今日中にちゃんと撮影が終わっていたのに。
「仕方ないよ。他のことはなんとかなるけど、人が乱入してくるなんて思わなかったから」
私がそう言って矢車さんをなだめるけれど、矢車さんはなおのこと自分のせいだと言わんばかりに縮こまってしまった。
困ったなあ、本当に矢車さんのせいではないと思うのに。私が言葉をかけられずに喉を鳴らしていたら、隣で蓮見さんが腕を組んで唸り声を上げる。
「んー……そうだなあ……しかし、うちの学校部活のことはどうなってるのかわからんが、これって場所を使わせてもらうって、ここを差し押さえることはできないのか?」
そう言われて、私は目をぱちくりとさせた。思わず隣にいた青田を見ると、青田はふわふわと浮きながら『どうだったかな……』と声を上げる。
『たしかに撮影するんだったら、学校で許可をもらうのが筋だけど』
「うち、映画部なんてもうなかったと思うけど。活動してるのなんて知らない」
もしあったのなら、そもそも青田が一生懸命書いた脚本を予備室棟に置き去りなんてしていないと思う。それに矢車さんは「あの……」としおらしく手を上げた。
「あの男の子……どいてもらえるよう頼めたら……揉……めないんじゃ……」
「でもあいつが先にいたからなあ。場所をそう何度も何度も交渉してどいてもらうよりも、学校から押さえられてるってしたほうが角が立たないと思ったんだが」
そりゃそうか。これはそこまで長い脚本ではないけれど、長期期間ロケを敢行するとなったら、周りに根回しするのは当然のことだ。
でも……こういうのって誰に言えばいいんだろう。青田も今、映画部があるのかどうかさえ知らないみたいだし。私はそう思っていたら「担任かな」と蓮見さんが教えてくれた。
「じゃあ、明日から一週間は天気も悪くって撮影できないし、その間に許可をもらえないかどうか聞いてきます」
「それがいいよ。俺も撮影はじまるの楽しみにしてるし、その間シフトを回してもらって休みを取っておくから」
そう屈託なく言って笑う蓮見さんがまぶしい。私は「ありがとうございます」と頭を下げると、ちらっと矢車さんを見る。
矢車さんは本当に申し訳なさそうに目尻を下げてから、こちらに頭を下げてきた。
「駒草さん……ご、めんなさい……」
「ううん、苦手なものは仕方ないよ。脛に傷のない人間なんていないし」
あの日本人離れした金髪男子だって、きっとあるだろうし。蓮見さんはいい人そうだけど、高校に行ってなかったんだから訳ありなんだろう。私だって、なかなか口に出せるもんでもない。
撮影再開になったら連絡するとふたりに言ってから、ひとまず教室へと戻っていった。
昼休みは、つつがなく終了してしまった。
****
教室には生徒がいたりいなかったり。
天気が悪くなってきたせいか、廊下はむわりと湿気が漂ってきて、上履きで歩くたびにペタペタと粘る感触と足音がする。
喫煙所の前を通り過ぎながら、私たちは職員室へと向かう。
蓮見さんは吸ってないみたいだけれど、働きながらここに通っている人は煙草を吸っている人が多く、そのために喫煙所は普通に機能している。
私は腕を組みながら青田に話しかけてみる。
「でも許可ってどういう形になるんだろう」
『普通に映画を撮りたい、じゃ駄目なの?』
「自分が撮らないからって、楽なこと言うよねあんたも。大人って大義名分が必要なの。感情論だとなかなか動いてくれないから、形だけでもそれっぽい理由が必要なんだよ」
『前から思ってたけど、麻は同い年の子よりも大人との交渉のほうがよっぽど上手いね』
そう言われて、私はつんのめりそうになり、足を踏ん張って堪えた。足が突っ張って痛い。
「……別に。得意じゃないけど」
『ふうん? 俺が生きてた頃、女子って大人も子供も自分たちより下に見てるもんだと思ってたよ。大人はわかってないっていうのが合い言葉だったと思う』
「それは多分、今もじゃないの。大人は身勝手だとは今でも思ってる。だから、利用できると思ってるんだけど」
『大人に認められたい、力を貸して欲しいって思ったことはあっても、僕は大人をあれこれ利用しようなんて思ったことないよ』
「そっ」
芸能界は縦社会だったんだ。海千山千生きていて礼儀知らずにはものすごく厳しかった大人も、子供にだけは甘かった。
私はフレームの向こう側が見たくってカメラの周りをちょこまかと動き回ってはスタッフに追い出されるのを、一部の俳優さんが可愛がってくれたおかげで、どうにかカメラを覗かせてもらっていたりしたんだから。
だから自分のやりたいことをするために、大人を動かすのって大切なんだと、芸能界をクビになった今でも痛感している。
青田は私の言葉に『ふうん』とだけ言った。
こいつは平成のひと桁代を生きていたはずだけど、こいつの時代の大人はどうだったんだろう。考えてみたけれど、想像ができなかった。
ふたりでどうでもいいことをしゃべっていたら職員室が見えてきた。
「失礼します」
声をかけて開けると、やる気のない担任が課題に埋もれて顔を上げた。教室はまだ許可が下りていないけれど、職員室は既にクーラーで除湿されていて涼やかだ。
「どうした、珍しいな。駒草」
「うちって、映画部ってありましたっけ?」
「あれ? 入部希望? うちの学校は一応部活入る入らないは自由だけれど」
そう言われて、私は思わず隣の青田を見る。青田は少しだけ驚いたような顔をしていた。担任は「ちょい待て」と言ってがさがさと汚く印刷されたプリントを差し出してきた。入部届けだ。
「必要だったらやるぞ?」
「いえ。けっこ……」
『麻、今の映画部どうなっているのか見てみたい!』
そう言い出したことに、私は驚いて青田を見る。青田は担任に身を乗り出していた。担任には霊感がないらしく、皆と同じく見えていない。
……まあ、そりゃそうか。私は息を吐いた。
あの脚本を追い出したとしても、映画部というのが残っているんだったら、OBとしては気になるんだろう。
「すみません、見学に行きたいんですけど、映画部ってどこですか?」
私がそう切り出すと、担任は映画部が使ってるという教室を教えてくれた。パソコン室だ。私は担任に礼を言ってから、歩き出した。
青田はうきうきしている中、私は思う。
思い出って、思い出の中にしまっておいたほうがいいこともあるのに。
私は幼少期から芸能界にいて、全然売れない子役をやっていたから、友達を友達とも思えない環境にいたせいで、まともな思い出がないけど、これだけはわかる。
自分から思い出を汚してもいいことなんて、ひとつもないのにと。
パソコン室に「失礼します」と声をかけてから入って、私は思わず口を開けた。
どこのパソコンでも、モニターにはソフトが展開されている。3Dで書かれたキャラクターにあれこれ数字を書き込んで動かしている人もいれば、耳に響き過ぎる電子音をムービーに合わせている人もいる。
私たちが入ってきたことに、分厚いメガネの男子がひとり振り返った。
「なに? 見学? ごめんね、今夏の動画コンクールに出す作品の追い込み作業中でさ」
「あの……ここが映画部だって聞いたんですけど。私、映画部の脚本を見つけて……」
私は脚本を少しだけひょいと持ち合えると、それに男子は「ああ……」と声を上げる。
「大分前の先輩のだねえ。うち、部員が足りな過ぎて今はそっちの映画は撮ってないよ? 今は動画サイトを中心に活動してるから」
「動画サイトですか……」
動画サイトで好きな歌手の最新PVを見ることはあっても、動画をつくる人のことは考えたこともなかった。男子は「そっ」と頷く。
「こっちだったらパソコンとソフトさえ揃えばひとりでもつくれるし、コストパフォーマンスもいい。棒読みの役者や下手っくそなカメラワークだったら、なかなかいいもんつくれないしねえ。あ、その脚本どうするの? いらないんだったら、こっちで処分しておくけど」
処分。
その言葉で、さっきまで呑気に笑っていた青田の顔が強ばったのがわかった。私は男子に首を振る。
「いえ、結構です。じゃあこれはうちで勝手に使ってもいいってことでいいですか?」
「うちって?」
「映画、カメラで撮ってるんです」
「ふうん……素人だったらなかなか見るに堪えないと思うけどねえ……別にいいんじゃないの? もう先輩たちも卒業しちゃったし、脚本のことなんて皆忘れてたしねえ」
あっけらかんとした言葉に、私は思わず歯を食いしばった。青田は顔を強ばらせながらも、男子に詰め寄るような姿勢を見せないのは、いつも呑気な奴が落ち込んでしまっているからだろう。
私は最後に「失礼します」とだけ声を絞り出すと、そのままぴしゃんとドアを閉めて、そのままパソコン室を後にした。
思わず大股で歩いてしまっているのは、昔の映画部のものをあっさりと処分すると言い捨てる無神経さではない。
「見るに堪えない」「いいもんつくれない」という正論のせいだ。
努力すれば報われる。私はそれを全然信じちゃいない。
どんなに頑張っても、結果が出なかったら無意味なんだ。
どんなに努力しても、それで成果が上がらなかったらただの時間の無駄なんだ。
それは何度も何度も芸能界で刷り込まれてきたルールであり、私も周りの大人たちにそう教えられてきた。わかっている。そんなことくらい。
だって私はカメラに映らなかった。フレームの向こう側に一度も行けなかった。だから、私が子役だったことなんて誰も知らない。そんな人間がいたっていう形跡を、爪の先一寸だけでも埋め込むこともできずに消えてしまった。無意味だった。私の人生の半分を使ったっていうのに、それを嫌と言うほど思い知らされた。
「もう……っ」
廊下を出て、予備室棟を出る。
今は雨は止んでいて、水たまりがぽつんぽつんと広がっている。
私は校舎の側面を蹴飛ばした。足の裏がビリビリするけど、構わずに何度も何度も蹴る。
どこに怒りの矛先を向ければいいのかもわからず、何度も何度も。女の蹴りひとつでは、壁に足跡ひとつ残すことはできないけれど、それでも蹴らずにはいられなかった。
『ねえ、麻』
私の苛立ちをわかっているのかわかっていないのか、青田はポツンと声を上げる。私はそれを聞きながらも無視して、壁をまた蹴る。
『なにをそんなに怒ってるの?』
「……あんたはどうしてそんなに呑気なままなの?」
『え?』
「あんたはどうして怒らないの? あんたは映画に未練たらたらであの世に行くことすらできずに、ずっと脚本にしがみついてたくせに。それでどうして処分するとか言われて怒らないの。あんたの人生を全否定したようなもんじゃない」
私が吐き出した言葉に、青田は頬を引っ掻きながらも、ゆるりと笑う。
さっき顔を強ばらせて映画部の男子たちの横顔を見ていたくせに、どうしてそんな風に笑えるのかが信じられなかった。
『時代が違うのは仕方ないと思うんだよ? あの人たちはパソコンで映画をつくるのがいいって思っただけで、僕はカメラを回す映画が好きってだけで』
「あいつらがつくってるのは映画ですらないじゃん。馬鹿にされた、踏みにじられたって思わないの?」
『もちろん僕が必死で書いた脚本を捨てられたら悲しいと思うし、もしかしたら化けて出るかもしれないけど、でもさあ』
青田は笑いながら、私の頬に触れた。もちろん、頬は温度も質感もなにも拾わず、私にそう見えただけだ。つるんと指を滑らせてから、青田は口元を綻ばせる。
『こんなに怒ってくれる子がいるのに、僕まで怒ってたら話にならないじゃない』
「……ばっかじゃないの」
『えー……でもどうしよっか。映画。蓮見さんに言わないと駄目だね、映画部とは交渉できなかったって』
「本当、それだ……」
あの男子がまたうろついていたら、矢車さんが萎縮し過ぎて撮影ができない。私は空を仰いだ。
空は灰色。まだ撮影再開するまでに、日付がかかりそうだ。
今日は晴れる予定だったのに、空は群青色でいまいちすっきりしない。仕方がないから、昼休み私たちは空き教室に行ってセリフ合わせをしていた。
「あのね、私。転校するんだ」
芝居に入っているときは、矢車さんの演技も自然になってきて、前よりも確実に滑舌はよくなってきている。
教えたのは腹筋に早口言葉。ときどきふたりで発声練習もしている。矢車さんがだんだんと声が滑らかになっていくのは、こちらとしても指導し甲斐があって楽しい。
蓮見さんは私たちが読み合わせをしている傍で、のんびりと衣装の用意をしてくれていた。量販店で買った服をそれっぽく。夏だから毎日着替えないと駄目だろうと、それぞれの服を平成初期の雰囲気に仕立て直してくれるのは、見ていても面白い。
最後まで読み合わせが終わり、矢車さんは「ふう……」と息を吐いた。
「お疲れ様。すごくよかった」
「ありが、とう……でもすごいね、駒草さんは」
いきなり褒められて、私はきょとんとした顔で矢車さんを見返した。矢車さんはおっとりとした雰囲気で言葉を続ける。
「演技指導が本当に完璧で……映画好きなんだね?」
そう言われると、こちらも面食らう。映画が好きとか嫌いとかなんて、考えたこともなかった。
ただ、私に張り付いている青田が邪魔で、さっさと成仏してもらおうと思っただけだったのに。青田は私の隣でニヤニヤ笑いながら『わかってもらえてよかったね』とのたまうものだから、私は空振りだとわかりつつも肘鉄を食らわせずにはいられなかった。『危ないよっ!』と言っているのを無視しながら、私は矢車さんに答える。
「それは考えたこともないかな」
「そうかー? お前さん演技指導のとき熱がすごいぞー?」
蓮見さんはそう言いながら、チクチクとサマードレスに刺繍を加えていく。量販店で見る最近流行りのワンピースも、蓮見さんの手にかかるといい具合にタイムスリップしてくれる。
「まるで女優みたいだなと」
「あ、それは私も思いました。駒草さん、きびきびしていて姿勢もいいし、声の張り方も女優みたいだから」
そうなんの気なしに言われて、私は喉を詰まらせる。
……女優だったことなんて、一度もない。女優になりたかった訳じゃないけれど、私はフレームの向こう側のことを未だに理解しちゃいない。
一瞬顔を強ばらせたものの、青田は私の頬をぺちぺちと叩く。もちろん、彼の手は透けている。
『麻、麻。駄目だよ。ふたりとも困ってる』
「……うるさい」
青田を一瞬睨んでから、顔を揉み込んで表情を整え直した。
「……そんなことないですよ」
「そうかあ? まあ別にかまわんが」
「つうかさあ」
ふいに、空き教室の戸が無遠慮に開いた。湿気がむわりと広がるのに顔をしかめていたら、いつか校舎裏でたむろしていた金髪の男子と目が合った。
ああ、今日は天気が悪いから、校舎の中でたむろしていたのかと納得する。
「お前偉そうだけどさ。お前が演技すればいいじゃん。そっちのじゃなくって」
ちょいっと矢車さんを指差すと、矢車さんは顔を強ばらせて、蓮見さんの後ろに隠れてしまった。……いちいちこいつは勘に障る。こちらの空気ややる気をわざわざぶち壊しに来るんじゃない。
私はいらっとしながら、男子のほうを睨む。
「用がないなら出てって。前もあんたが邪魔しなかったら撮影は滞りなく終わったんだから」
「へえへえ。でもしゃべない女優としゃべれる女優だったら、しゃべれる女優選ぶだろ、普通」
「あんたは黙ってて。矢車さんはいい演技するの、あんたがいなかったら」
「俺がいたらできなくって、それで女優が務まるのかよ」
こいつは……。ますます肩を苛立たせていたら、蓮見さんは「んー……」と男子のほうをまじまじと見る。
「お前さん、さっきからこの子たちの練習聞いてたのかい?」
「聞いてたんじゃねえよ、聞こえてたんだよ。すっごいうっせえ。全然昼寝もできやしねえし」
「今日は天気が悪いから、外で寝れないんだなあ……じゃあ聞いててどう思ったんだい?」
「どう思ったって……おっさんは俺にどんな意見期待してる訳?」
私は蓮見さんの横顔を眺める。この人はいかつい雰囲気の割には、人に対してずいぶんと情が深く、下手に手を挙げない。思慮深い人なんだ。
蓮見さんは穏やかに笑う。
「いやなあ、俳優がひとり足りないから、もしお前さんがやってくれるんだったらいいなあと思って。どうだい? 麻ちゃんも百合ちゃんも」
「……はあ?」
矢車さんはすっかりと固まってしまい、動かない。
私は思わず青田を見る。青田がもし『イメージじゃない』と言ったらなんとしてでも断ったかと思うけど、こいつときたら、ぽんと手を打っただけだ。
『ああ、その発想はなかったね』
そうこっちの気が抜けるようなことを言うので、私は小声で突っ込みを入れる。
「ねえ、こいつでいいの? なんか脚本だったらこんなイメージじゃないんだけど」
『役者に当て書きすることだってできるよ。君だったらそういうの得意じゃないの?』
「私、あんたみたいに脚本なんて書けない」
『矢車さんにフォーカスを当てるんだから、彼の金髪はきっと光を受けて逆光になる。いったいどんな絵が撮れるだろうね?』
青田の言葉で、私は少し黙り込んだ。
この男子は、明らかに外国人の血が入っている。金髪だって、染めたと一発でわかるようなテカテカした色ではなくって、産毛まで全部金髪なんだからそうなんだろう。
脚本に書かれていたのは、転校のせいで簡単に離ればなれになってしまうふたり。
見た目が違う。住んでいる場所が違う。そんなふたりが出会って別れるというのは、仲睦まじい光景を撮ったあと、余計に鮮烈に印象に残るんじゃないか。
私は黙って脚本の男の子の部分を読み直した。
男子はというと「おい?」と怪訝な顔をしていたものの、こちらも気にしている場合じゃない。私はスカートのポケットから付箋を取り出すと、今まで貼っていた付箋を取っ払って、更にその付箋に書き込みを入れて貼り直していった。
だんだんとイメージが浮かび上がってくる。
青空の似合う女の子と、夕日の似合う男の子。青空と夕日が交わるのは、日が落ちる一瞬だけ。このふたりが出会って別れるのもまた、その一瞬だけ。
今まで撮ってきた鮮烈な青空のイメージから、徐々に夕日のシーンを増やしていけば……いける。すごくいい絵が撮れる。
青田はそれを目を細めて笑って眺めていた。私がはじめた突然の奇行に、矢車さんも男子もびっくりしていたけど、蓮見さんだけは「すごいもんだなあ」と感心した声を上げてくれた。
私はキッと男子を睨んだ。
「あんた、今まで部活経験は?」
「はあ……? 中学は部活全員入部だったから、生物部の幽霊部員だったけど……」
「わかった。あんた突っ立てるだけでいいから、やりなさい」
「はあ……!? おま、俺に撮影ごっこに参加しろっていう訳!?」
「あんた被写体としては文句ないから、カメラに映させなさい! うちの女優の演技をさんざん邪魔してきたんだから、これくらいはしてくれていいでしょう!?」
「なんだよ……! 俺からしてみりゃ、人がたむろしてるところで邪魔だったから……!」
男子はたじろいだ顔をしていた。でもこいつ、わざわざこっちの質問に答えるくらいだから、口は悪いけど、性格がそこまで悪くはないのかもしれない、と私は勝手に分析する。
矢車さんはというと、まだおろおろした感じで、蓮見さんを壁にしたままだ。私は蓮見さん越しに矢車さんに声をかける。
「大丈夫? 矢車さん。私が勝手に配役を決めちゃったけど」
男子が苦手だと自己申告しているんだから、本当だったら彼女ひとりだけで演技を撮ってもいいんだけど。どうしてもふたりでたむろしている絵は必要だ。
ふたりが小旅行して、別れるまでの話なんだから。
矢車さんは「えっと……わた、しは……」とまたもどもった声を上げる。
「ほん、とうに……脚本が素敵だったから……あの、脚本のとおりになるんだ、ったら……かまいませ、ん」
彼女がたどたどしく答えるのに、私は頷いた。
蓮見さんは背後にいる矢車さんの頭をポンと叩くと、ぐりぐりと撫でる。
「そうだな、いい絵が撮れそうだ、こりゃ」
「い、いっつも。服。ありがとうございま……」
「気にすんな。そもそも俺のせいで、お前さんをさんざん脅えさせたようなもんだしなあ」
そう言ってガハハハハと熊のように笑い出した蓮見さんを背景に、私は男子に「で」と告げる。
「こっちは問題ないってことになったけど、結局どうすんの。あんたは」
「俺は……」
この男子はあっちこっちと視線をさまよわせている。もっと「やだ、面倒臭い」と言ってくるダウナーだと想定していたのに、そうでもないらしい。突っ張っているのかと思ったらそうでもないし、こいつもこの学校にいる訳ありなんだろうと頭の片隅に留めておく。
「……あそこでの撮影、全部終わったらもうしないんだよな?」
「そうだね」
「なら、さっさと終わらそう。でも、俺馬鹿だから、丸暗記なんて全然できないんだけど」
「歌の歌詞も覚えられないの? 耳コピで」
一応聞いておくと、こいつは「あー……」とガリガリと頭を引っ掻く。別に歌の歌詞が覚えられるんだったら、単純にやる気がないだけで、覚えようと思えば覚えられるんだろう。そう納得してから、私はもう一度矢車さんのほうを見る。
「……矢車さん、セリフ合わせ、こいつとできそう?」
矢車さんは蓮見さんの後ろから恐る恐る顔を覗かせる。男子と目が合うと、彼女は不安げに視線をさまよわせてから、私のほうに頷いた。
……こっちはこっちで重傷だ。でも正直、俳優のほうは手詰まりで、こいつ以上によさそうなものは捕まえられそうもない。私は「名前は?」とようやく聞いた。
「今更かよ」
男子が「けっ」と言ったので、こいつは真面目なのか不真面目なのか、すれてるのかたるんでるのかさっぱりわからないなと、こいつのキャラ付けを決めるのを放棄することにした。
男子は「清水雷」と名乗ってくれたので、一応名前はわかった。私は蓮見さんに「ふたりのフォローお願いできますか?」と頼んでから、職員室へと向かっていった。
青田は私の隣で何度も空き教室のほうを見比べながら、不思議そうに首を傾げる。
『もう映画部のほうには行かないんだよね? どういう風の吹き回し?』
「蓮見さんも指摘してくれたけど、責任者がいるのといないのだったら大違いだから、私たちの責任者になってくれそうな人を探そうと思って。清水はそこまでやな奴じゃなかったから仲間に加わってくれたけど、今後清水みたいにイチャモンを付けてくる奴がいるかもしれないから、保険をかけておこうと思って」
『ふうん、麻が責任者じゃ駄目なの?』
「私だったら人望ないし。見つけた矢車さんと蓮見さんがいい人で、清水がやな奴じゃなかっただけだよ。部活だったら顧問が責任取ってくれるし、課外活動でも手伝ってくれるから、そんな人いないかと思って」
『うーん、つまりは部活創設って感じ?』
「映画部は既にあるから、部活っていうより同好会創設になるのかな。できるのかできないのか聞いておこうと思って」
『はあはあ、なあるほどねえ』
うちの担任はあまりやる気がないし、他の先生も似たり寄ったりだ。担任以外の教師は非常勤が多くって、他の学校と掛け持ちで授業やってるんだから、部活の監督なんてしてくれないだろう。
うちの学校にいて、責任取ってくれそうな人っていないのかな。
こういうときだけ、大人を頼らないといけないのが、我ながら情けなくは思うけど。
私は職員室に向かい、担任に声をかけた。
「すみません。うちの学校って同好会はつくれないんですか?」
「はあ……? 駒草は手のかからない生徒だと思ってたけど」
そう言われたのに、私はカチンと来るけど堪える。この人からしてみれば、面倒事を持ってくる生徒イコール手のかかる生徒なのだろう。
青田は相変わらず隣で職員室をマジマジと眺めているのを横目に、私は尋ねる。
「先生に教えてもらって映画部に行ってきたんですけど、私の撮りたいものは撮ってないってことですので。映画を撮る同好会ってなったらいいなと思ったんですけど。校内で撮影するにしても、今は活動中だからって、人避けもできますし」
「とはいってもねえ……部活や同好会つくったって前例、うちにはないよ?」
言われるとは思っていたけど、担任は本当に乗り気ではない。厄介事を抱えて給料が増えるものでもないから、穏便に無難に過ごしたいのだろう。
本当に腹が立つ。イライラしたものがお腹につっかえて煮えたぎっているけれど、私はできる限りそれをおくびに出さずに担任を見た。担任はやる気のない声で続ける。
「ときどき夢や希望持って部活創設を言い出すのもいるんだけどねえ……まあ、一年だけだったらいいけど、二年三年と続けてくれないと、学校としてもその部や同好会を認知できないしねえ……ぶっちゃけ、部活や同好会を登録するのも、抹消するのも、すっごく面倒なの。だからある部でお茶を濁して欲しいんだけどねえ……映画部に籍だけ貸してもらうとかじゃ駄目なの?」
この人は……。私はこめかみに手を当てていた。
残念ながらこの人は、子役時代に私の担当をしていたマネージャーによく似ていた。できるだけ責任を取りたくない、できるだけ私生活に関わって欲しくない、おいしいところだけかすめ取りたいっていう、やる気のない大人の見本市だったような人だった。
さしずめ、今回の一件もなあなあのままで片付けてしまいたいんだろう。
仕方なく、私はぺこりと頭を下げた。
「いえ、映画部とは活動方針が違いますし、向こうも大会がありますから、申し訳ないです」
「ああそう? じゃあ頑張ってね」
「ありがとうございます」
口先だけだったら、本当にいくらでも言える。昔のマネージャーの言動を思い出して、苦虫を噛み潰したような思いをしながら、職員室を去って行った。
湿気でペタペタと鳴る廊下を歩きながら、私は眉間を撫で上げる。青田はその隣で呑気に歩いている。
『本当ドラマに出そうなほどの小物だったね、あの先生』
「私、ドラマはあんまり見ないからわかんない」
『あれ。麻は映画は好きなのにドラマは見ないの?』
「今時、ドラマを見ない人間は珍しくもなんともないけど」
テレビ全盛期の頃を知っている青田からしてみれば、今やネットにSNSが謳歌を極めている現代の事情がわからないんだろう。テレビも新聞も嘘ばっかりだから、ネットニュースを見ながら、初出典を探さなかったら、なにが嘘でなにが本当か見極められない混沌とした時代だというのに。
私は「でもどうしよう」とつぶやく。
「味方になってくれる先生っているのかな。うちの担任みたいなのがデフォルトなのに」
『ふうん、ドラマがない弊害だねえ』
「なにそれ?」
『理想の象徴っていうのが、たとえ偶像でもいないっていうのは、結構つらいことだと僕は思うよ』
そんな哲学的なことを言われても、現状を変えることはできないのに。私がそうぼんやりと思いながら図書館を通り過ぎるとき。
図書館から先生が出てきた。現国の青野先生で、図書館司書も務めている。うちの学校は図書館を利用する生徒がほとんどいないから、少し通えばすぐ青野先生に顔と名前を覚えられてしまう。
青野先生はこちらに「あら?」と声をかけてきてくれた。
「駒草さん、最近せわしないわねえ。図書館で矢車さんを口説き落としてたと思ったら、職員室でなんか面白そうなことやってて」
「え……先生見てましたか?」
「うちだと仕方ないかもしれないけど、自主的に青春謳歌しようとする子って稀少だから、面白そうねえと思って見てたの」
青野先生は今図書館から出てきたばかりだから、先生が見ていたのは私が映画部を探しているときかなとぼんやりと考える。青野先生はにこにこと笑う。
「さっきは担任の先生にフラれてたみたいだけど、他に当てがあるの?」
「ないです。だからどうしようと困ってました」
「うち来る? 部屋のひとつくらいだったら貸し出せるけど」
「はい?」
青野先生の言葉の意味も意図もわからず、私は思わず青田と顔を見合わせると、青田は目をキラキラとさせていた。
『ドラマがあるっていいね。こういう先生も見つかるんだから』
こいつは前向きなんだろうか、後ろ向きなんだろうか。私はそう思いながらも、本当に他の当てもないから「よろしくお願いします」と頭を下げて、事情を説明した。
****
さすがに映画を完成させないと青田が成仏できそうもないということには触れなかったけれど。昔の映画部の脚本を見つけた。その脚本を使って映画を完成させたい。ようやく配役が揃ったけど、部活動や同好会活動としては学校は認めてくれそうもないというところまでを伝えたら、青野先生はくすくすと笑った。
「そうねえ、正攻法でいったらたしかに学校は許可を下ろしてくれないわね。担任の先生だってクラス単位以外のことで責任は取りたくないでしょうし」
そう言いながら青野先生が歩くのに私はついていく。図書館の中に戻ったと思ったら、奥にあるドアの鍵を開ける。図書館に通っていても、開いている現場を見たことがなかったから、ここがなんの部屋なのかわからず素通りしていた。
「はい、どうぞ」
「……うわあ」
私が間抜けな声を上げ、青田は興味本位で辺りを見回す。そこは背表紙の剥がれた本やページの取れた本が大量に積まれていた。作業台らしい大きなテーブルにはテープやのりが並び、これらの本を修繕しているのがわかる。
そうか、ここって本の修繕室だったんだと、今更気付いた。普段閉め切っているのも、破損した本のページが風で飛ばされないようにするためだったら納得だ。
「こんな部屋、私たちで勝手に使っていいんですか?」
「いいのよ。この辺りの本はひとりじゃ修繕が難しいから放っておいてるから。本をこれだけ処分するのにもお金が必要だしね」
「ありがとうございます……でも。私たち、勝手に映画を撮っていいんでしょうか?」
私は担任があまりにも乗り気じゃないことを思い出す。だからと言ってあの方向性が全く合わない映画部に籍だけ置かせてもらって撮影するにしても、十中八九揉めるのが目に見えている。
それに青野先生は「ああ、大丈夫じゃないかしら?」とくすくす笑う。どうにもこの先生はいい加減だけれど、担任ほどやる気がないというのとはタイプが違うらしい。
「別に予算が欲しいんじゃなくって、学校公認で撮影したいんでしょう?」
「あ、はい……」
「だったらこうしましょう。クラスメイトの交流会ということで」
「……はあ?」
青野先生が言い出した突飛なことに、私は面食らった。青野先生はゆったりと笑う。
「学年やクラスが違うから問題になりそうって思った?」
「そもそも、一緒にいるの年齢もクラスもバラバラで……」
「うちの学校じゃ普通のことだけどねえ。そもそも学校って、勉強して帰るっていうのが目的じゃないんだけど、そこんところが抜けているというか」
「はあ……?」
このいい加減な人から教育論が飛び出るとは思ってもいなかったので、私は何度目かの「はあ?」を返したら、青野先生がくすくすと笑う。
「学校って、元々コミュニケーションを覚える場よ。でもこの学校は学校の目的上仕方ないかもしれないけど、訳ありの子ばっかりで肝心のコミュニケーションが不足している子が多い。もちろん、今はスキルを磨いて、インターネットで仕事をするという方法はいくらでもあるけど、それだけじゃコミュニケーションを学ぶことはできないでしょう? 例えば映画を撮りたいだったら、映画部をさしおいて大会出るとかなんとかで絶対に揉めるけれど、これが『交流したい』だったら、学校としてもむしろ推奨していることだから止めることはできないのよ」
そう言ってくすくすと笑う青野先生に、私はポカンとした。
芸能界の端っこにいたときも、世渡り上手な女優さんでそういうことを言う人はいた。多分相手はこちらのことを覚えていないだろうけど、その人たちは今も荒波の芸能界で生き残っている。
嘘も方便ってことをきちんと教えてくれる大人は貴重だ。
私は青野先生にお礼を言って、職員室に戻って担任に報告、皆に言いに向かった。
気のせいか、足取りが軽くなってきている。
『よかったね、協力してくれる人が見つかって』
「うん。なんだろう、これ」
『手応えを感じているんじゃなくって?』
「あ、それだ」
今までは、なにをやっても壁打ちと変わらなかった。
なにを頑張っても報われなくって、報われないのが普通だから、これ以上頑張れないって、そう諦めていた。
いくら練習しても、オーディションにより端役に追いやられる。監督の匙加減ひとつで、簡単にカットされてしまうような役なのに、だ。
フレームの向こう側への憧れだけを残して、私は芸能界をクビになった。
学校に行っても、共通の話題がないから会話が成立しない。学校にまともに通ってなかったし、読んでいるマンガも見ているアニメも、やっているゲームすらわからない私には、針のむしろと変わりがなかった。
可愛げのない私はまともに友達もつくれないし、なにもかもが思い通りにいかないのが普通だった。
今までがそうだったから。きっとこれからもそうなんだろうと、そう思い込んでいた。
青田と出会って、映画をつくってみようと動いてからは違う。
役者を揃えようとしたら、次から次へと上手い具合に転がって、撮影できる環境が整った。学校の許可も青野先生のおかげで裏技でクリアできた。
こんなに上手くいっていいんだろうか。私はついついそう思ってしまう。
「あ」
空を見上げたら、天気が少し晴れて、大きな虹が出ていた。
私は思わずスマホを取り出して、それをカメラで撮っていた。空がくっきりとしてきたから、明日からはまた、撮影が再開できそうだ。
清水がちゃんとセリフを覚えてくれたらいいけど。矢車さんとちゃんと波長が噛み合ってくれればいいけど。私がそう思いながらようやくスマホから顔を離したとき。
青田は虹を透かしてこちらを満足げに見ていることに気付いた。
「なによ、その顔」
『ううん。麻が楽しそうだから』
「……私、そんなにはしゃいで見えた?」
『それが当たり前だと思うんだよ。だって麻は、全部を『どうせ』って諦めているように見えたから』
それに私は答える言葉を持っていなかった。
だって本当のことだ。今まで私は、自分はなにも持っていないってそう思っていた。全部が徒労に終わっていたから、これからもそうなんだろうと思っていたから。
自分にいつもブレーキをかけていたはずなのに、こんなにアクセル切って交渉したり提案をしたりって、今までの人生でした覚えがない。
高校生って、こういうもんだったっけ。
青田は、私がぼんやりと思う中、虹を透かしたまま空に手を伸ばしていた。
『だってさ、今日と明日は空の色が違う。太陽の光が違う。花が咲いたって雪が降ったって、同じ日は二度とないのに。麻ってば暗い顔でイライラしてばっかりだったんだもの。僕はそんな麻が、ようやく楽しいって思ってくれたのが嬉しいし……羨ましいなあって思うんだよ?』
それに私は青田を見る。
青田は私に映画を完成させて欲しいと頼んでからは、カメラワークも監督業も、全部私に任せっきりで、自分であれこれと提案しない。
ううん、できないのかもしれない。
だって青田は体がないから、自分が撮りたいっていう具体的な方法を伝える術がない。青田はこれだけ感情豊かにあれこれと表現していても、もう先がない。もう成仏する以外にこの世に爪痕を残すことすらできない。
私は、こんな生き物をカメラに残すことすらできない。
「ねえ……あんたが撮りたいものって、どんなものだったの? 私の脚本の解釈、このまんまで大丈夫なの?」
『うーん……麻の初監督作品に、僕がとやかくは言いたくないなあ』
そう言って、青田は儚く笑った。こいつは本当にずるい。
私にたくさん楽しいもの綺麗なもの素敵なものを持たせて、自分はいなくなってしまうんだから。
青田は私に言う。
『だからさ、映画が完成したら、皆に見せる前に真っ先に僕に見せてよ』
「……まだ、全カット撮り終わってもいないんだけど」
『編集作業があるじゃない。そこで全部終わったら、一緒に見ようよ』
そう言って、小指を差し出してきた。
私は辺りを見回し、誰もいないのを確認してから、ちょんと青田の小指に自分の小指を絡めた。感触だってないし、ただの指切りごっこだ。でも。
たしかに私と青田は約束をしたんだ。
青野先生が部屋を貸し出してくれて、届けを出してからは、ずいぶんと順調に撮影が進んだように思う。
問題は主役のひとりの清水の演技力だったけれど。こいつはとにかく見目がいい。
あまりに棒読みな演技に見かねて「もうしゃべるな」と言ったらムキになって食ってかかられたけれど、そのぶっきらぼうな表情や態度がやたらとカメラ映えするものだから、カメラを回し続けていたら、そのままいい絵が撮れてしまったのだ。本人は黒歴史だとさんざん文句を言っていたものの、この絵だったら大丈夫だろうとこのまま使うことにする。
矢車さんは清水にやたらとおっかなびっくり接していたけれど、蓮見さんが緩和剤になったのか、こちらも少しずつ自然な演技に戻れる機会が増えていった。
今日も校内で撮れる最後のカットを回している。
空は雨がすっかりと拭われた透明な夕焼け。その下で矢車さんと清水は向き合っている。
下手にセリフを与えて演技をさせるよりも、ただ空を仰がせる。俯かせる、横顔を見るというような単純な指示のほうが、清水はいい演技をしてくれる。
矢車さんは逆に「もっともうすぐここを離れるって寂しさを滲ませて」「ここからもうすぐいなくなるって思わせて」とイメージを伝えたほうが、文学少女のせいなのかその演技をしてくれる。
清水は制服をそのまま着せた。ズボンの穿き方や長さや太さ、それらにも時代や流行があるけれど、制服だったら女子のスカートの長さほども流行り廃りが目立たない。おまけに清水は顔立ちも髪の色もくっきりとしているから、制服の没個性感のほうが返って清水のよさを引き出していた。
矢車さんは蓮見さんお手製のお嬢さん風ワンピース。サンダルにも流行があるから、できる限りどの時代でも普通にあるビニールサンダルで花を大きくあしらったものを使うことにした。
矢車さんと清水がぽつんぽつんと歩く。不吉なほどに真っ赤な夕焼けの下、長い影。その絵を撮りながら、音を拾っていく。
「お別れだね。あと三日なんだ」
そのセリフには望郷の念が見え隠れし、切なさがこみ上げてくる。アップで撮る矢車さんのしんみりした顔に、対比して無表情のままの清水。セリフを禁止したら、返って寡黙は金ともいうべき絵が撮れた。
「カット! お疲れ様!」
私がパンッと手を叩いてカメラの録画ボタンを消した途端、清水は気恥ずかしそうに振り返り、矢車さんもはにかみながらこちらを向いた。
「あ、あの……ちゃんと撮れた?」
「うん。いい絵が撮れた。今からでも見せられるけど」
「え、演技が、ちゃんとできたかどうか自信なくって……」
さっきまでどもらずにしゃべっていたとは思えないほど、矢車さんはつっかえつっかえしゃべるのに、蓮見さんは笑いながら彼女の頭をぽんぽんと撫でた。
「大丈夫大丈夫。百合ちゃんはずいぶんいい演技してたよ。なあ?」
そう言って清水に問いかけると、清水はぶっきらぼうに言う。
「まあ、いいんじゃねえの?」
これがツンデレというやつなのか。私はそう思いながら、矢車さんを着替えに向かわせる。
「でも、学校で撮るぶんはこれで、終わりなんだよね……他はロケするって言ってたけど、どこでするの? も、うすぐ、夏休み、だけど」
矢車さんの問いに、私は「んー……」と頭を引っ掻く。私の隣を歩いている青田に「絶対に覗くな」と言ってから、カーテンを閉め切って空き教室に入ると、私はスマホをタップした。
「青野先生が、実家に帰るときに、そこをロケに使ってもいいよって」
「実家って……だい、じょうぶなの?」
「どうも先生、親戚が別荘に行く間、家の管理を任されてるんだって。お金持ち。だからそこの面倒を見るのと引き換えに、ロケに使っていいと」
「わあ……」
ワンピースを脱ぎ、制服に袖を通した矢車さんは、はにかみながら手をポンと叩いた。
「わ、たし……合宿に全然参加したことなくって……は、じめての合宿だ……」
そう嬉しそうに言うのに、私も頷く。
小学校の頃の林間学校も、中学校のときの臨海学校も、参加したことはなかった。
小学校の頃は元々映画のオーディションと被っていたから。中学校のときは嫌われているのにわざわざ地元から離れても、逃げ場がなくって針のむしろにさらされるだけだから行くはずがない。
そうか。はじめて年相応のことをするのか、となんとなく思った。
この学校は単位を取ればいいのが第一優先だから、部活もなんとなくやっているだけで団体戦みたいなものはない。映画部は賞を目指しているみたいだけど、あれはいわば個人戦だ。合宿の類だって存在しない。
私は矢車さんと一緒にスマホを見ながら、青野先生の実家の場所を検索した。合宿の時期はちょうど地元で花火大会があるらしい。それに矢車さんは弾んだ声を上げる。
「浴衣、持っていってもいいかな」
「あれ。矢車さんは浴衣着れるの?」
「い、ちおうは。で、も……ひとりだけはしゃいでるのはちょっと……」
「なら私も着ようか?」
自分で口にしておいて、思わず自分の口を疑った。いつもいつも、正論ばかり言っていた私が、人に合わせるようなことを言うなんて、本当にないからだ。
矢車さんははにかんで頷く。
「う、うん。きっと駒草さんは似合うと思うよ。一緒に着ようね」
「うん」
ふたりでそう言い合いながら、ようやく空き教室を出て、皆に合宿の話をしてから家路に着く。
空き教室で待っていた青田は、少し楽しそうに夜空を見ていた。夏の空は気まぐれで、あんまりこの辺りだと星は見つからない。
『ねえ、撮った奴。編集するの?』
「できるところまではね。意外だった。清水はセリフは全然使い物にならないから、音を取るのも嫌だったのに、顔を撮ったら本当にいい表情するんだ。矢車さんは元々演技が上手いからね。加工するのが楽しみ」
『ふうん……ねえ、麻』
青田は空に手を伸ばしながら言う。まるで金平糖に手を伸ばしているように見えるけれど、空に浮かんだ金平糖は、何キロなんてものじゃない。何千光年離れているから、人間が取れるものじゃない。青田は幽霊だけど。
『楽しい?』
その音はなにを意味するのか、私にはわからなかった。
「うん」
青田は心底嬉しそうな顔をするので、私はふいっと顔を背けてしまった。
元々はこいつのわがままが原因ではじめたことなのに、どうしてこんな慈愛に満ちた、わかってますって顔をされるのか、意味がわからない。
****
家に帰ったら、お母さんが夕食をつくっていた。
お母さんは昔から栄養第一で、ご飯ははっきりいってあまりおいしくない。お母さんのつくった緑色のお弁当がクラスの子たちのお弁当のどれとも似ていなくって泣いたことは、今でも覚えている。
……合宿のこと、言わないと。私は口を開く。
「お母さん、夏休みに入ったら、合宿に行くから」
「麻。事後報告? あなた予備校は?」
そう言われて、私は顔を曇らせた。
お母さんは私が子役を辞めてからこっち、教育ママというタイプにキャラ変更しようとしたものの、私のせいで効を成していない。友達がいない上に成績悪すぎて、普通の高校にすら通えなかったからだ。
「……来年からでいいでしょ?」
「あら、麻はやればできる子でしょう? まだやってないからそんなこと言えるのよ。いい? 今はいい高校行って、いい大学に行ったら」
「やめてよ。お母さんはいっつもそればっかり」
この人はいつもそうだ。
自分が平凡だったから、どうにか子供を非凡にしようとする。
絵を習わせた。でも私には絵の才能はなかった。
子役にさせた。でも私には女優の才能はなかった。
なら今度はいい高校に行かせていい大学に行かせようとした。でも残念。子役に人生の半分を奪われた私は、まともに学校生活が送れないのでした。
今は大学に入ったと同時に就職活動だ。これだと私の高校生活はどうなるの。
ようやく。私はようやく自分の人生を歩けそうなのに。
お母さんはなおも私に口を開いた。
「麻、あなたは」
「……るさい」
「麻?」
「いっつもそれじゃない。もう放っておいて! 私の人生を台無しにしておいて! それを責めたら『私はあなたのためを思って』と言って泣くんでしょう!? 勘弁してよ! 私の人生返してよ! ようやく友達ができたの! したいことができたの! もうこれ以上私の人生を奪わないでよ!!」
言いたいことを言ってまくし立てると、そのまま私は部屋に逃げ込んだ。
部屋の鍵をかけたら、向こうからしばらくドンドンドンドンと叩かれるけれど、無視した。無視したままドアに背中を預けて、私はうずくまる。
青田はドアのほうをちらっと見ながら言う。
『いいの?』
「あの人いっつもこうなの。私があの人の思い通りにならないと、『昔はちゃんと話ができたいい子だったのに』って泣くから」
『そっか……だから麻は、あんな絵が撮れるんだね。僕だったら、あんな絵は絶対に撮れないなって、横で見ていて思ったもの』
そうしんみりしながら言う青田の言葉に、私は目を瞬かせながら彼を見る。青田は私の目を見て言う。
『麻は絵を撮るとき、いっつも影を追うんだよね。真っ昼間だったら光と影のコントラストを撮るし、夕方だったら夕焼けに伸びる影を入れる。絶対に光と同時に影を撮るんだ。僕だったらこうはいかないから、なるほどなあって思ったんだよ』
「あんただったら? あんただったらどう撮るの?」
『僕? まず撮るのは空かなあ』
青田はそうしみじみと言うのに、私は思わず天井を見る。壁紙が剥がれかけた天井には、当然ながら空は見えない。
そっか。青田の最初に撮る空だったら、影は落ちないんだ。空には、影ができない。
「あんただったら、もっと『空色』をいい映画にできたのかな」
『ううん。僕は原作者であり、あれの監督は麻だよ。君の撮り終えた映画を見たい』
「……こんなにぐちゃぐちゃしてるのに?」
ようやく音の止んだドアを見て思う。それに青田は大きく頷いた。
『麻はいい映画が撮れるよ』
そう言われた途端、なにかが緩んだような気がして、私は膝を抱えて、顔を埋めていた。
私は、いろんなものが足りないし、不格好だ。それを鼻で笑って諦観を引きずって生きていたけれど、本当は違うんだ。
本当は、誰かに肯定して欲しかった。
不格好でもいい、要領がよくなくてもいい、不器用でもいい。
私がいいと、肯定して欲しかった。
まさかそれをしてくれたのが、私に取り憑いた幽霊だなんて、誰が思うの?
私は、青田になにか言わないとと思ったけれど、結局はなにも言うことができなかった。
照れ臭かったからというよりも、たったひと言でなんて足りないと思ったからだ。
「ありがとう」のひと言じゃ、私の気持ちは表せない。
車が走っている。中は冷房が程よく効いて快適だ。
蓮見さんの運転は、もっと乱暴だったと思うのに、思っているよりも優しい。振動が激しくないから、車酔いすることもない。
私たちはワゴンに乗って、青野先生の実家を目指していた。
都会から一転、どんどん森が広がってきて、なんだかノスタルジーを感じる雰囲気が通り過ぎていくのが見える。私がカメラを回していると、蓮見さんの隣で青野先生が楽しそうに笑う。
「あら、なんにもないところなのに、これ撮って大丈夫? 映画に使えるの?」
「いえ。綺麗です。なんだか懐かしいですし」
「あれ? 駒草さんって、地元は」
「私、ずっと東京に住んでますし、おばあちゃんも東京の人ですから、あんまり田舎とか故郷とかってわからないんですけど、懐かしい感じがします」
「そーう? ノスタルジーって遺伝子に刻まれてるって言うしねえ」
そうしみじみした口調で言う青野先生。
私の隣では、矢車さんがぐったりとしていた。これだけ快適な乗り心地だっていうのに、どうも長時間車に乗っていたせいで、悪酔いしてしまったみたい。
「おい、大丈夫か?」
清水は怖々と矢車さんに話しかけるものの、矢車さんはなかなか返事もできずに、窓際に体を預けている。私はカメラを止めると、矢車さんの隣に座っている清水に声をかける。
「矢車さんにお茶をあげて。飴でもいいけど。矢車さん、飴とお茶だっらどっちがいい?」
「ご、めんなさい……お茶……多分飴だったら吐いちゃう」
「吐くなよ、絶対に吐くなよ、フリじゃなく吐くなよ」
清水がぶんぶん首を振っているのに、また矢車さんが弱々しく「ごめんなさい……」と言うので、清水は慌てて「いいから! 寝ろ!」とペットボトルを差し出した。
麦茶をごくごく飲んで、彼女は落ち着いたように体を窓に預けた。
後ろのほうを気にしながら、蓮見さんはのんびりと言う。
「先生の家はもうちょっとだから、百合ちゃんももうちょっと待っててな」
「ごめんなさい……」
「謝らなくていいからな」
のほほんと笑う蓮見さんに、私はほっとする。この人、わざわざロケのために有給を取ってくれたんだから、それに報いるものを撮らないといけないと思うと、自然と気合いが入る。
私が気合いを入れ直している隣で、青田もまたのんびりと窓の外を眺めていた。
『うん、いいロケーションだよね』
「そう思うの、あんたも」
『だって田舎と都会が程よく混在していて、建物も低め。建物が低いってことは、空が高く撮れるってことだ。東京だったら高層ビルが多いから、どうしても空が狭くなっちゃうし、こういう場所は貴重だよね』
なるほど、こっち側のプロも満足するんだ。
私はそう納得して、空を見た。
空の青は、私がカメラを回しはじめた頃とは異なっていた。深い青。白い雲がジェラートのように伸ばされて、淡いグラデーションをつくっている。
この下で、矢車さんと清水はどんな演技をしてくれるんだろうか。私はこの空気を上手く撮れるだろうか。窓に落ちる日差しはきつく、きっと車を降りたときには一気に汗ばむんだろうと予感させた。
しばらく車を走らせたところで、ようやく町が見えてきた。蓮見さんに青野先生がナビゲートして、一軒の家の前に停まる。青野先生がひと足早く車から降りて、ガレージの引き戸を開けてくれた。
私たちは荷物を持って降りる。
町並みを見て、もっと古めの家を想像していたのに、停まった先はずいぶんとおしゃれな家だった。庭木は夏でもしゃんと伸びていて、炎天下の中何日も水やりを怠ったら枯れてしまいそう。なるほどたしかに青野先生に家の面倒を見てくれと頼む訳だと納得した。
青野先生は笑いながらあちこちのドアを開けてくれる。
「ごめんね、うちの叔父さん、ガーデニングが趣味で。夏場は水をやらなかったらすぐに駄目になるから、あんまり遠出できないのよ。でも叔父さんも年だから、旅行に行ける内に行けってことで、家の面倒を任されることになったのよ」
「納得しました。あ、先生。庭木を撮ってもいいですか?」
「別にいいけど。映画のワンシーンに使えそうな部分あった?」
「わかりません、ただ綺麗だったんでもったいないなと」
私はそう言って、先生に会釈してから、カメラを回しはじめた。
皆は先に先生についていって、泊まる部屋の確認をしていた。ときどき開けられた窓から「うわ、家の中にエレベーターがある!」とか、「カラオケマシーンある家って初めて見た!」とか、清水の素っ頓狂な声が下に落ちてくるのを聞きながら、私は思う存分絵を撮った。
隣で青田が笑っている。
『明日から撮影だよね。イメージ固まった?』
「もっとど田舎かなと思っていたけど、田舎が過ぎたら畑と田んぼ以外で、なかなかふたりの感情の揺れまでは撮れない。いろんな知らないものを見て、新鮮な表情を収めたほうが、いい映画になると思うんだ」
『なるほど、程よく都会から離れて、程よく田舎過ぎない、平々凡々な町に逃げ込んだふたりが、ひと夏を思う存分楽しむ。うん、いい解釈だと思うよ』
「原作者。私がいろいろとロケーションや人選で脚本さんざん変えてるけど、怒らないの? あんた、これの撮影が終わらないと成仏できないんでしょ?」
私がちらっと青田を見ると、青田は涼やかな顔で庭木を眺めている。庭木に透けている幽霊は絵になるけれど、こいつはカメラを回しても撮れない。
青田は私に横顔を眺められたまま、涼やかに言った。
『前にも言ったと思うけど、これは麻の映画だ。僕は原作者だけど、麻の世界に全部干渉できないから、麻が思う通りに撮ればいい』
「あんたは……私の世界に干渉しないの?」
思わずぽろりと零れた言葉に、ようやく青田はこちらを向いた。
『僕は、麻の力になりたいけど。もう死んでいるから無理だよ』
ごくごく当たり前なことを言われて、私は頷いた。
青田は、私にいろいろ頼む癖して、最終決定権は全部私にくれる。それが私にとっては居心地がいい。
私はいつだって誰かの敷いたレールの上を走っていた。
芸能界にいたのだって、私の意思じゃない。私の意思じゃないけれど、一生懸命私なりに頑張ってきて、芽が出なかった。
普通の生活に戻ったけれど、私はとっくの昔に世間一般で言う普通とは考え方がずれてしまっていた。ひとりで宙ぶらりんのまま浮いていた。
今は、青田に頼まれて、映画を撮っている。最初は訳がわからず、なんとか断る動機を並べ立てたけれど、それでも押されてしまった。それでいやいやカメラを回してみたけれど。
私が生きてきた人生の中で、初めて手応えを感じている。なんでこんなに楽しいと思っているのかがわからない。シーンは全部バラバラでしか撮影できなくって、脚本を読み込んでいる皆だって、今がどこのシーンなのかわからないまま撮っていると思う。私は撮った絵を見ながら、それをひとつひとつ絵コンテに合わせて入力していって、ピースを当てはめていっている。
そこから浮き上がってきたものを拾って、繋いで、削って、それでひとつの生き物が生まれる。それが映画なんだ。
私はこの作業がひどく美しく思える。初めて、自分がここにいてもいいって思える。
相変わらず、私はフレームの向こう側には行けないけれど、初めて、向こう側の景色を眺められるような、そんな気がするんだ。
****
「まさか廃線までこうして残ってるなんてなあ……」
「ここって、素人がカメラを回しに来ても大丈夫なんですか?」
次の日、私たちは撮影のとき、一番「こんな場所どこで撮るんだ」と悩んだ場面を撮りに来ていた。
シーン自体は五分ほどの、廃線をゆらゆらと歩く女の子と、それに付き従う男の子のシーンだったけれど、地元には廃線なんてない。そもそも線路は立入禁止なんだから、そんなところで撮影できないし、危ない。
このシーンをどこで撮るかと言っていたら、青野先生が名乗り出てくれて、ロケの場所として教えてくれたんだから。
案内してくれた青野先生はカラカラと笑う。
「この辺りねえ、新幹線が通った関係でこの辺りの私鉄が軒並み廃線になっちゃったのよ。もっとも、この辺りも中途半端に都会で中途半端に田舎だから、地元民全員車を持っている関係で、あんまり必要を感じなくってねえ」
「なるほど……じゃあ、この辺りはそのまんまで?」
「そうよ。この辺りをならしちゃうのもお金がかかるから、本当にそのまんま。アマチュア商業問わず映画の撮影に使われてるの」
青野先生のそのひと言で、胸がチリチリした。
……馬鹿馬鹿しい。私は一瞬走った痛みに叱咤する。
あの人たちが、既にクビになった私のことを覚えている訳がない。私が勝手に怒っても仕方がない話だ。ううん、違う。そうじゃない。
私が芸能界にいたってことを、皆に知られるのが嫌なだけだ。芸能界でみじめだった頃のことを、子役をしていてもカメラに映してもらえなかったことを、ただ撮られている子を羨ましがっていたことを、知られたくないんだ。
「あ、あの。駒草さん?」
恐る恐る矢車さんに尋ねられて、はっとした。
今日の撮影で日に焼けてしまうかもしれない。他の時期に撮った絵と整合性が取れなくなったら困ると、矢車さんにはしっかりと日焼け止めを指示し、撮影前も彼女には薄手のカーディガンを羽織ってもらって日焼け対策をしていた。
……勝手に思い出して、勝手に怒ってるんじゃないよ。集中。集中。
私は矢車さんと清水に手早く指示を出し、「アクション!」と声を張り上げた。
矢車さんのゆらゆらと歩く様に、その手を取って歩く清水。そこに蜃気楼が揺らめいて、それだけで艶やかな花になる構図だ。
それを蓮見さんがうんうんと頷いてみている。清水に蓮見さんの手持ちらしい程よくよれたバンドTシャツを着せたら、驚くほど様になった。ふたりがゆらゆらと歩いて行く様をさんざん撮ってから、私はペットボトルを傾け「カット!」と声を上げる。
「よかった、今のシーン」
私のねぎらいの声に、矢車さんが顔を赤らめて、清水は憮然とする。日焼け止めをうんと塗ったけれど、それでも汗っかきのせいか、すぐに流れるから、蓮見さんにタオルで乱暴で体を拭われたあと、ベタベタと日焼け止めを塗られる。「だあ……! 自分でできるっつうの!」と悲鳴を上げているのをよそに、私はタイムスケジュールを確認する。
「それで、この次なんだけれど、その先の海で撮影をしたいんだけど」
「あ……あの、そのこと、なんだけど、駒草さん」
「なに?」
青野先生によると、その先の海は普通に海水浴OKなところらしいけれど、地元民は来ないし、海の家なども出ていないいい加減な場所だから、わざわざここまで来て泳ぐ人がいないらしい。この時期になったら浜辺なんてどこもかしこも人だらけだし、人が映り込んでしまったら面倒だから、とてもありがたかったのだけど。
矢車さんはもじもじしながら、膝を摺り合わせてから、意を決して口を開いた。
「ご、めんなさい……水着、ちょっと着れなくって」
「あれ? ごめん」
私はそろっと矢車さんに耳打ちする。男ばっかりだと、なかなか女子同士みたいに大っぴらなことは言えない。
「ごめん、生理だった?」
「ち、違くて……」
「じゃあなに?」
「あ、あの……私、水着着たら、すごく、目立つから」
「目立つって、なにが?」
「あ……」
矢車さんはプルプルと震えた。
これってまさか。私はちらっと青田を見ると、青田は『ちゃんと聞いてあげたら?』と促してきた。
私は聞く。
「……前に言ってた、いじめが原因?」
そこでようやく、矢車さんが首を縦に振った。今にも泣き出しそうなくらい目尻を下げるのに、私は軽く背中をさする。
迂闊だった。普段は着替えしているときでも、彼女は制服の下に透けないランニングやTシャツばかり着てるから、こちらも見抜けなかった。買った水着は、昭和の流行りを見ながら選んだ。露出はさすがに抑えたものの、どうしても背中が大きく開いてしまう。……矢車さんをいじめていた奴ら、まさか体に痣が残るまでやるなんて。そりゃ彼女の滑舌が悪くなるし、自信だって必要以上になくなる。
自己肯定できなくなるまで、人を否定していい訳がない。
私はギリッと歯を噛みしめると、「じゃあ、このシーン書き換えるから、ちょっと待ってて」と言った。
清水を呼ぶと、私が「ちょっと追加のシーンがあるから、すぐにそっち覚えて」と言う。途端に清水は反抗的な顔をしてみせた。
「なんだよ、またシーン撮るのかよ」
「そこまで怒らないで。トラブルが入ったんだから」
「女って面倒くせえ」
清水がそう毒づくと、案の定と言うべきか、矢車さんがプルプルと震えはじめた。泣かないといいけど。泣いたら涙で日焼け止めが落ちるし、下手に擦ったら目が充血する。
「ご、ごめんなさ……」
「ああー、もう! 別に泣くこたねえだろ!? ただちょっと言ってみたかっただけというかで!」
「ごめんな……さ……」
「だから! 泣くな!」
こいつ、多分根は悪くないんだろうけれど、人を泣き止ませるのが絶妙なまでに下手だ。私は溜息をつきながら、手持ちのボールペンとメモで脚本の走り書きをはじめた。それを蓮見さんと青野先生が覗き込んでくる。
「トラブルかい?」
「ちょっと海での水着撮影が難しそうなんで、それっぽいシーンに修正しようかと。青野先生、今日ってなにかありますか?」
「そうねえ……明日だったら、花火大会だから昼間も場所取りで人が増えると思うけど、一日前はボランティアの人たちに追い返されるから人気はないはずよ」
「ああ……あそこって、自分たちで花火をするのは禁止ですか?」
最近だと花火の持ち込み禁止の浜辺も増えているからややこしい。持ち帰るんだったらOKな場所もあるけど。私が思いついたシーンを走り書いていると、青野先生が「うーん……」と人差し指をくっつけながら言う。
「たしか、大丈夫だったと思う」
「ありがとうございます。あ、バケツと水、欲しいです。あと花火セットはコンビニで売ってますよね?」
「そりゃあるけど……でも、さっきも言ったけど夜は明日の花火大会のために全面的に立入禁止よ?」
「いえ、昼間に花火のシーンを撮りたくって」
「昼間って……昼間だったら花火しても、煙しか出なくない?」
「はい」
そのシーンを走り書いていると、隣で私のメモを覗き込む青田だけは『なるほど』と顎に手を当てていた。
『花火できるシーンをつくることで、海辺のシーンを必要あるシーンにしたんだね?』
「最近だったら、公園のほとんどは火気厳禁だし。この辺りざっと見たけどバーベキュー場なんてないし、それだったら海辺に行くシーンをつくれる」
『真昼に花火のシーンの意図は?』
「無意味なことをするのに、意味があるの」
女の子と男の子は、無意味なことをして、その馬鹿らしさを笑い合うことで、余計に別れのシーンがノスタルジーあるものになるんだ。無意味なシーンなんだから、あくまで当たりだけ走り書いて、セリフは全部アドリブ。そんなでたらめな脚本を書いて、矢車さんと清水に見せた。
「昼間に花火って……正気か?」
「正気。これで無意味に笑ってる映像が欲しいから」
「海のシーンも相当馬鹿だと思ってたけど、それの上行ってねえか!?」
「行ってると思う。だから頑張って」
「バーカ!!」
清水はセリフは棒読み過ぎて撮れないものの、顔芸のために一応の脚本内容は頭に叩き込んでいる。それでこんなシーンを当てられたんだから、そりゃ怒りたくなるだろうと、私は耳を引っ掻きながら思う。
一方矢車さんはというと、目を潤ませている……頼むから、泣かないで、化粧が落ちる。
「駒草、さん……あり、がとう……」
さっきまで嗚咽を上げていた子がもう笑っている。そのおかしさに私は肩を竦ませてから、蓮見さんに頼んだ。
「コンビニに寄って買い物したら、そのまま海まで走らせてください」
「先生、コンビニは?」
「海の手前。あ、駐車場まで行ってね、花火大会の準備でルール違反にピリピリしてるから」
こうして、私たちはコンビニで花火を買い込むと、それを持って海へと向かった。
たしかに明日は花火大会みたいで、まだ屋台は出てないものの、あちこち張り紙や看板で「場所取り厳禁」と書かれているのが見える。
矢車さんと清水に花火を持ってもらい、それをカメラに映すけれど、夜だったら鮮やかにいろんな色が見える花火が、見事なまでに白煙しか残さなかった。
それでも私は一生懸命カメラを回す。それを後ろから見ていた青野先生がぽつんと言った。
「まるで大きな線香ね」
青い空、くっきりとした海、人気のない浜辺。そこで花火の白煙は妙に際立ち、青と白のコントラストがひどく鮮やかに見えた。
うん、いい絵が撮れた。本来の脚本だったら、海で走り回る男の子と女の子で、水しぶきを鮮明に撮らなかったらぼやけてしまう画面が出来上がるところだった。でもこっちのほうが、わかりやすい。
「カット! お疲れ!」
私の声と一緒に、バケツに花火を放り込んだ。
この辺りは木が低いせいか、蝉の鳴き声は聞こえない。それでももうもうと立ちこめる湿気だけが、夏を教えてくれた。
先生の家での食事は、まるで調理実習のようなありさまだった。皆で並んで野菜を切ったり、材料を持ってあちこちに走り回ったりとせわしない。
ひとり暮らしが長いせいか、蓮見さんは裁縫だけでなく料理も上手かった。
家でだったらまずつくらないような大きな肉を買い込んできて、それに漬け汁、衣を付けてジュワッと揚げる。匂いからして、生姜とニンニクが入っているのは間違いないんだけれど、他にも細々とスパイスを混ぜていた。
青野先生は「揚げ物なんて自宅でだったらまずやんないもんねえ」と呑気に笑っていた。
こんなに大きな唐揚げは初めてで、清水は大興奮していた。
「すっげえ! おっさん美味そう!」
「美味いぞー」
「本当、蓮見さんおいしそう。これあとで漬け汁の作り方教えて」
「ああ、いいですよ先生」
唐揚げに興奮している横で、私たちはベランダで七輪の上にナスを載せて焼いていた。
「私、ナスなんてレンジでチンしかしたことないけど」
意外と凝り性なんだなと思いながら矢車さんを見ていたら、矢車さんははにかんで笑う。
「ナスは皮が黒焦げになる直前まで焼いて、そこにめんつゆとおかかをまぶすといくらでも食べられるから」
「ふーん」
どっさりの大きな唐揚げに、焼きナスのおかかまぶし。トマトとキュウリのサラダ。
青野先生は蓮見さんと飲むらしくって、クリームチーズとアボガドの和え物をつくって缶ビールを用意していた。
私たちは麦茶を飲みながら、クーラーの効いた部屋ではふはふと唐揚げとナスを食べる。
思えば。
私にとって食事というと、冷たいロケ弁当やお母さんのつくったお弁当であり、給食の時間すらひとりだけ浮いてしまっていた。それが当たり前だったから、調理実習のように皆で机を囲んで食べるというのも新鮮なんだ。
蓮見さんの唐揚げは好評で、机の真ん中にドカンと置いていたにもかかわらず、あっという間になくなってしまった。矢車さんのつくった焼きナスも香ばしくっておいしく、どうしてわざわざ七輪で焼いていたのかがよくわかった。
サラダもつるんと食べてなくなったところで、パァーンパァーンという音が響くことに気付く。気になった清水が閉めたカーテンを開けると「おっ」と手をかざす。赤々とした花火が、白い煙を振りまきながら打ち上げられていたのだ。
この辺りの建物が皆低いのもあり、一階のリビングからでもよく見られた。
「あれ、花火大会って明日じゃ」
蓮見さんがちびちびとビールを飲みながら窓の外を眺めると、青野先生も「そのはずなんだけど」と言う。
「今日、昼間に花火の撮影をしに行ったとき気付いたけど、車がずいぶんと停まってたのよねえ」
「車って……明日の、花火大会の車じゃ、ないんです、か?」
矢車さんの質問に、青野先生が「うーん」と髪を揺らす。
「いつももっと大型トラックが止まってるから。あそこに並んでたのはワゴンだったのよね。久々に見るから勘だけど、私が叔母さんから聞いてなかっただけで、ロケが来てるのかもしれない」
それに、私はご飯を摘まんでいたお箸を取りこぼした。
カランカランと大袈裟な音を立てて、皆の視線が一斉に集まる。
「駒草さん?」
矢車さんが心配そうな顔をするのに、私は慌ててお箸を拾った。
「なんでもない」
「そう? あ、窓のほう、また、花火出てる」
「……ちょっと、お箸洗ってくる」
私はそのまま手早く布巾でお箸を落とした机を拭き取ると、そのまま台所まで逃げた。水を大袈裟なほど捻って出せば、それだけ花火の音が遠く聞こえる気がする。
バチャバチャと音を立ててお箸を洗っている中、私の隣にトンと青田が立っていた。
「……なに? 花火上がっているんだから、見てこればいいのに」
『知り合いがいるかもしれないから、それで怖くなったの?』
「なに言って……」
『麻は割とわかりやすいよね、映画が好きなのも、カメラを撮るのが好きなのも、全部ひとつのものなんだから』
「また訳のわからないこと言うのやめてよ」
私はそう突っぱねるけれど、青田は決してやめてくれやしない。
『いいじゃない。今の麻は本当にいい映画をつくってる。見せてやればいいじゃない』
「また馬鹿にされるじゃない。私は、もうあの人たちとは違うの」
『言わせておけばいいよ。だって麻のことをわからない人たちが、勝手に麻は駄目だって言ったんでしょう? 今一緒にいる人たちはどうなの? 麻が自分で選んで連れてきた人たちでしょう? そしてその人たちは、麻のことを一度も駄目だなんて言ってないし、思ってもいないよ』
「それは……」
私はちらっとリビングで食事をしている皆を見た。
もう既にお皿の上にたくさん盛られていたはずの唐揚げは、唐揚げの衣のかけらを残してすっかりと消え失せてしまった。食事をさっさと終えた清水は「すげえ……」と言いながら麦茶を片手に窓の外を眺めている。
同じく食事を終えた矢車さんは自分の分のお皿を重ねながらも、ちらちらと窓の外を気にしている。相変わらず一対一で清水と話せないせいか、さっさと窓の近くに行けばいいのに行けないでいるらしい。
蓮見さんと青野先生はビールを傾けながら、窓を見ている。
思えば、私みたいにリーダーシップのかけらもない人間と一緒に映画を撮ってくれるなんて、ありがたい以外に言葉が出ない。
この人たちは、私の過去なんて知らないし、聞きもしない。ただ私が怖がっているだけだ。私は青田を見る。青田は台所を透かしながら、穏やかに笑うばかりだ。
『もうお箸は洗い終えたでしょ。さっさと食べ終えて、そして映画の編集をしよう。いい絵が撮れたんだから、皆にも見てもらわないと』
「……うん。青田」
『なに?』
「……ううん、なんでもない」
今、喉から「ありがとう」という言葉が出てきかかったけれど、無理矢理飲み込んでしまった。青田がいなかったら、きっと私は不平不満を言うだけで、ただ燻って座り込んでいるだけのろくでもない人間のままだっただろう。
今だって、お母さんを完全に説得できたわけじゃない。まだまだいろんなものに、臭い物に蓋の要領で見ないふりしているだけで、全部を解決できてはいない。でも。
青田が私の止まっていた時計を動かしたんだ。
それは人生の長い時間からしてみれば、たった一秒かもしれない。でも、毎日繰り返せばそれはいつかは時計をひと巡りする。だから、その時間は決して無駄ではないはずなんだ。
****
今日は夜までロケはなく、私は今まで撮った映像をどれだけ削るかの確認をしていた。本当は全部使いたいけれど、映さないといけない部分だけをくっきりと現せるようにも削らないといけない。
私がカメラを回しながらメモを取っている間、青野先生は浴衣を取り出してそれを矢車さんに着せていた。
「うん、できた。ごめんね、先生今時の凝った帯の結い方はできないわ」
シンプルな太鼓結びの赤い帯に、青い浴衣。黒と白の蝶が飛んでいるのが見える。矢車さんはそれに恥ずかしそうに「いえ……」と笑う。
できれば今日の撮影に撮りたいと浴衣のシーンをリクエストしたら、矢車さんが持ってきた浴衣を青野先生が着付けてくれたのだ。一応自分では着れるけれど、人に着せたことはないから着付けてくれて助かっている。
髪も軽くうなじが見えるように結ってくれ、トンボ玉が可愛い簪を留めてくれた。元々矢車さんは素材がいいのだから、浴衣と簪が彼女のよさをぐっと引き出してくれていた。
「あー、先生、雑草抜き終わった……あ」
今日は夜まで暇だからと、青野先生に頼まれて庭の雑草を抜いていた清水が、汗をだばだばかいて入ってきたところで、矢車さんと目が合った。矢車さんの浴衣姿を見た途端、わかりやすく顔を真っ赤にして、くるっと向き直る。
「先生! 草に水やっていい!?」
「水ー? 今あげても昼になったらお湯になるから困るんだけど」
「じゃあ、自分で水被ってきます!」
そう言って奪取で庭に戻ってしまった。その一部始終を見て、矢車さんは困った顔をして蓮見さんを見た。
「あの、私、清水くんを怒らせたんでしょうか?」
「いやあ……うん。清水も悪気はなかったから逃げたんだと思うぞ? だから百合ちゃんは気にすんな」
「そうなんでしょうか……」
私は頬杖を突いて、あまりにもわかりやすい清水に呆れ返っていた。当の本人の矢車さんだけがわかっていない。
いったいいつからとかどうしてとかはわからないけど、清水は矢車さんに気があるらしい。まああいつなりに、矢車さんが男子を怖がっているのをどうにか怖くない怖くないと距離を縮めようとした結果なんだろうけど。
私が一旦カメラの電源を落としていたら、青野先生がこちらに話を振ってきた。
「そういえば、駒草さんは浴衣、持ってきてないの?」
「私ですか? 私は撮るつもりだったんで、別に持ってきてないですけど」
「先生、浴衣持ってきてるんだけど、着る?」
「はあ……?」
私はカメラの電源を落として、素っ頓狂な声を上げた。そりゃ私は撮影中、あっちこっち歩き回るだろうと思っていたからスポーツサンダルを履いてきたから、浴衣だって着れるだろうけど。どうして? という顔をしている中、青野先生がにこにこ笑う。
「だって友達同士で浴衣着て花火を見に行くなんて、人生でそうそうあるもんじゃないでしょ」
「でも……花火って、夏になったらいつでも見れるんじゃ……」
「あら、今年の花火大会は、今年にしかないでしょ。それに駒草さんは折角の合宿なのに、ずっと動きやすい普通の服でカメラばっかり回してるからね。たまにはこういうのもいいんじゃないかと思ったんだけど」
「そういうもんですか……」
断ろうと思えば断れると思うけど。矢車さんが友達という言葉に反応したのか、そわそわしている。私はそれにそっと息を吐いた。
「……自分で着れますから、自分で着させてください」
「す、ごい。浴衣、自分で着れるの?」
矢車さんにそう聞かれて、私は頷いた。昔取った杵柄は、今でもどうでもいいところで私を助けてくれている。
青野先生が貸してくれた浴衣は、青い地に白く抜かれた草木に蛍の絵柄のものだった。帯は黄色く、私はそれをがさがさと着替えた。帯はリボンみたいに結んで留めた。着替えるまで待っていた青田は、私の浴衣姿に何故かにこにこと笑っているのに、私は憮然とする。
「なに、その顔。似合わないっていうの?」
『違うよ! ものすっごく似合うよ!』
「別にお世辞はいいんだけど」
『お世辞じゃないってば! ただ、麻もこういう格好似合うよねって話で』
「なに、その含みのある言い方」
『違うよ! ただ麻はわざとみたいにしゃれっ気から遠ざかってるから』
芸能界のどす黒いおしゃれに対する気合いを知っていたら、力が抜けてしまって入らないことはあると思う。ずっと気を張っているのが芸能界であり、女優なのだから。
私は「ふん」と鼻息を立ててから、髪を整える。いつもの伸ばしっぱなしの髪も、お団子にして頭の上でまとめればそれらしく見える。部屋から出て、青野先生に見せてみたら、それはもうにこにことされてしまった。
「やっぱり! 駒草さんは素材がいいから、絶対に浴衣が似合うと思ったのよねえ」
「はあ……ありがとうございます」
「あ、あの! 本当に、駒草さん、似合ってて……女優さんみたい」
矢車さんまで、そう口をもごもごとさせながら褒めてくれる。……女優、みたいかあ。青田はこちらをひょいと見てくるのをスルーしながら、私は背筋を伸ばした。
小柄でいつでも笑顔を浮かべられるトレーニングを積んでいた頃と比べれば、表情筋はお世辞にも豊かではない。
「ありがとう」
そう言ってお礼を言うのが精一杯だった。
夜になったら、昼間の湿気の存在感がほんの少しだけなりを潜め、ジリジリと鳴く虫の音を耳にしながら浜辺を歩く。夜になったら、潮の香りがより一層際立つような気がする。浴衣は人の目を涼ませるものらしくって、着ているとちっとも涼しくない。汗でペタンと張り付いて気持ち悪い。
私と矢車さんは浴衣を着て、清水と蓮見さんはTシャツ姿で私たちのほんの少し後ろを歩いてくれる。青野先生はというと「先生が青春の邪魔しちゃ駄目でしょー」と言って、家でひとりビール片手に手を振って私たちを見送ったのは、単純に今日一日くらいは羽目を外したいだけだと思う。
花火の場所は昼間からブルーシートを張って場所取りをしていたのだろう。人がわんさか浜辺のほうに出て花火を待っている。花火がはじまったら撮影をしたいけれど、今は屋台の提灯を撮るので精一杯だろう。
蓮見さんは人だかりになってしまっている浜辺のほうに手をかざす。
「先生によると、花火は海に出ている船から打ち上げられるんだと」
「ふーん。まあ後ろのほうからでも空見上げれば花火は見れんのか。あ、屋台でなに食うのお前ら」
清水に聞かれて、矢車さんは「たこ焼き」私は「かき氷、いちご」と答えると、清水は心底嫌そうな顔で「たこ焼きとかき氷、遠いじゃねえか」とぼやく。それに蓮見さんが「なら俺がかき氷だから、清水はたこ焼きを矢車ちゃんと買ってきな」と提案する。それに清水はひるんだような顔をしてみせ、矢車さんはうろたえたような、助けを求めるような顔で私のほうを見てきた。
……人の惚れた腫れたなんて、私にどうすりゃいいの。私はちらっと青田を見ると、青田は透けた姿で屋台を見回し、のんびりと『どの時代も屋台の周りだけはあんまり変わらないよね』とぼやいていた。平成初期と今だったら、環境なんて全然違うだろうけれど、お祭りだけは一緒だったんだろうかと私はぼんやりと考えた。
蓮見さんと一緒に私はかき氷を買いに来たら、かき氷屋の前は人だかりになっていた。
「おや、今日は暑いからって、ずいぶんと人多いなあ」
「そうですよね」
私と蓮見さんが首を傾げていたところで、「あぁー!!」と甲高い声が飛んだ。
「麻ちゃん! もしかして麻ちゃんじゃないの!?」
弾んだ声をかけられて、私の心臓は跳ね上がる。嫌な音を立てて鳴る鼓動のまま私は声をかけてきた甲高い声の子に振り返った。
凹凸のはっきりした顔、化粧だとわからないくらいにきめ細やかにつくられたナチュラルメイクも彼女の可憐さを引き立てるスパイスにしかならない、髪はすとんと真っ直ぐなストレート。そして白い地に赤と黒の出目金が泳いでいる浴衣を着ていた。
この子は……頭を探らなくても、嫌でも広告で目に付く女の子だった。
夏川あやめ。私と一緒に子役オーディションを受け続けて、いち早く主演を射止めて、子役から女優に羽化した……同期で一番の出世株だ。
蓮見さんもさすがに夏川さんのことは誰だかわかったらしく、ひたすら首を傾げている。
「ん? 駒草ちゃん、夏川あやめ……ちゃんと知り合いか?」
「麻ちゃん、このおじさん誰? まさか、麻ちゃんの……」
いくら子役クビになったからと言っても、パパ活やるほどメンタルまで落ちぶれてはいないんだけど。そもそも真面目に高卒資格取ろうとしている蓮見さんに失礼だ。私はイラッとするのをどうにか胸の奥にしまいこんで、フォローを入れる。
「……同じ学校の人だよ」
「同じ学校って……ああ、先生ですか! すみません、早とちりしてしまって!」
同級生だとは、どうも彼女は思わなかったらしい。彼女のハキハキとした態度に、蓮見さんは毒気を抜かれたように「どうも」とペコンと頭を下げる。
周りは密やかに声が波打っていくのがわかる。
「あの可愛い子誰?」
「あやめちゃんの友達?」
「でもあやめちゃんって子役時代からずっと芸能界にいるんじゃ?」
「同じ学校だったとか?」
そのさざめきが私には不愉快だった。嫌な波紋が、私の中に広がる。私の心境なんて当然夏川さんにはわかる訳もなく、楽しげに言葉を続ける。
「あのね、今日はロケ来てたんだよ。で、ご褒美として屋台巡りしてこいって」
「それって映画で使うの? スタッフロールとか」
「使わない使わない。でも私が声かけられたりしないようにって、ADさんとかはずっと私についてきてるんだけどね、ほら」
彼女が指差した先には、たしかによれよれのTシャツに冴えない雰囲気の男の人がいた。こちらが顔を向けると、誰この素人という顔できょとんとしてから会釈してくる。
夏川さんは呑気に言う。
「ほんっとう、映画って楽しい。晴れ渡る空、青い海。なんか牧歌的な町。虫の鳴き声。作り物だらけの場所で、作り物じゃないものがいっぱい並んでるのって、楽しい!」
彼女があまりにキラキラしていて、まぶしくて……だんだん私は吐き気がしてきた。私は蓮見さんに「すみません、ちょっとトイレに行ってきていいですか?」と声をかけると、蓮見さんは困った顔で頭を下げる。
「女の子に可哀想だけど、途中まで着いていっていいかい? こんな人だかりじゃ、スマホの電波が届かんだろ」
「大丈夫です、ひとりで行けます……ごめん、夏川さん。私、ちょっとトイレ……」
「あ、ごめんね……麻ちゃん。今楽しい?」
最後にそう聞かれたけれど、喉の奥からだんだん咽付いてきて、これ以上ここに立ってはいられなくなった。私は「ごめん」とだけ謝ると、浴衣の裾が乱れるのも構わずに走り出していた。
トイレは当然ながら混雑していたけれど、私があまりに青い顔をしているので、皆驚いて道を空けてくれた。洗面所は女の子たちが一生懸命髪を直している上に、私のものを見せるのは可哀想で、そのまま個室に飛び込むと、そのまま便器に顔を近付けていた。
……胃液の苦い味、酸っぱい臭いが通っていき、便所の臭いも、浴衣の裾のことも、気にしている余裕なんてなかった。
思い出すのは、小さい頃、何度も何度もオーディションを受け続けた記憶。覚えたセリフを言っても、演技をしてみても、審査する大人たちはしかめっ面をしているだけだった。最初はどんぐりの背比べだったのに、どんどん突出した子が出てくる。その差はどんどん埋められなくなっていく。
それでも。私はそれでもそこを離れたくなかった。
お母さんに言われたから? わからない。
それしか生き方を知らなかったから? 覚えてない。
頭の中がぐるぐるしてきて、口元をトイレットペーパーで拭って、どうにか立ち上がる。浴衣の裾を正してから、トイレを流して立ち上がった。ときおり私のことを怪訝な顔で見る子たちに出会うのは、私が戻したことに気付いたのかもしれない。
『ねえ』
女子トイレの前に、ぽつんと立っていた青田が声をかけてきた。用を足してないにもかかわらず、律儀に外にいたらしい。私は声を上げる気力もなく、青田を見る。
『麻はさっきの綺麗な子と知り合いだったんだよね?』
「……子役やっていたときの知り合い。大手の事務所にスカウトされて、本人はそれにかまけることなく演技を磨いて、可愛くて……本当に、全然叶わない」
『そう? でもあの子は輝いてたね、好きなことをしているせいなのかな』
青田がなにを言いたいのかがわからず、私はだんだんとイライラしてきた。
「もう、置いてくよ」
『でも僕は麻も同じくらいに輝いて見えるけど』
「……え?」
意味がわからない。勝手になにかに怒って、イライラして、全然可愛げのない私にそんなことを言う青田が信じられず、思わず凝視する。
青田は屋台の提灯を透かしながら、いつもの調子で穏やかに笑っていた。
『僕はずっと見てきたよ。脚本に手を加えている様も、コンテを切っているときも、セリフ合わせを手伝ったり、カメラを回したり、新しいカットを考えているのも、全部見てきた。どれも麻は、輝いていた』
「……気持ち悪いこと言わないで。あんたが、私のなにを知っているというの?」
『出会う前の麻のことは知らないよ。でも出会ってから今までの麻のことは、僕はよく知ってる。今まではどんなに一生懸命脚本を書いたものが放ったらかしにされてても。どこか楽観的だったんだ。誰も脚本に気付いてくれないってことは、誰も捨てないってことだから、ずっとひとりでいる代わりに消えなくても成仏しなくってもいいんだってそう思ってたから。でも今は違うんだ』
「違うって……あんた、本当になんなの。いったいなにが言いたいの」
『どうして僕、死んじゃったんだろうって思ったんだ。映画監督になれなくってもいい。なにかの形で映画に携わっていたら、映画を通して麻に出会えたのにって』
私はなにが言いたいのかわからず、ただ目を見開いていた。
なに言ってるの。青田の書いた脚本を見つけなかったら、私は青田に出会うことなんてなかった。映画を撮ろうなんて思わなかった。本当になにを言っているの。
私が困惑しているのを気にする素振りも見せず、青田はいつもの調子で言葉を続ける。
口調こそ穏やかなものの、青田は頑固でいじけ虫で、自分勝手な奴だ。でも。
『だって麻が悔しがってるのって、こんなに楽しいところから引き離されたからでしょう? 女優になりたかったのか、映画を撮りたかったのかはわからないけど、君にとって一番楽しいのは、この課程でしょう?』
「あ……」
ようやく。私の中でもやもやしていたものが、くっきりと言語化されたのがわかった。
子役をクビになってから、私はずっと燻っていた。
努力が実らなかったから? あれだけオーディションを受け続けたのに落ち続けたから? 端役をもらってもカメラに映してもらえなかったから?
……違う。私は。
カメラを見ていると、いつもその向こう側の景色が見てみたくて、ずっとそれの向こうで遊んでいた。
フレームの向こう側が見てみたい。それは、私はずっと女優になりたかったからだとそう思っていた。でも、違う。私は。
役になりきる人々をフレームに収めたい。ここでこんな絵が欲しい、ここでこんな音楽を流したい、ここはもっと引いて、俯瞰して……。
単純なことだったんだ。私は、ただ。映画をつくるという、フレームの向こう側をつくる作業がしたかった、それだけだったんだ。
気付いた途端に、涙が溢れてきた。
私が燻っていたのも、消化不良のまま、ただフレームの向こう側への憧れだけを抱いていたのも全部。青田の脚本に出会うためだったんだ。初めてだったんだ、自分でカメラを手にして撮ってみたいと思ったのは。
青田は笑いながら言う。
『僕はもっと長く生きたかったな。そしたら、もっと早くに麻と出会えて、もっと一緒に映画をつくれたのに』
「……なに言ってるの、ばっかじゃないの」
私は涙を必死で拭いながら言う。
潮の匂いと一緒に、火薬の匂いが漂ってきた。そろそろ花火大会がはじまるんだろう。置いてきてしまった蓮見さんに謝りたいし、矢車さんと清水とも合流したい。
「……あんたがいなかったら、あんたの脚本じゃなかったら、今の私はいないの」
『僕はもう、死んでる人間だよ?』
「それでも、今のあんたじゃなかったらいけなかったんだ」
既に死んでいる人間に、そんなひどい話はあったもんじゃないと思う。それでも言わずにはいられなかった。
『空色』の脚本じゃなかったら、私はここまで頑張れなかった。
同じクラスメイトの矢車さんに声をかけることも、年の離れた同級生の蓮見さんに怒られることも、校舎裏でくすぶっている清水を巻き込むことだってなかったんだ。
それをさせたのは、青田だったんだから。
「ありがとう」
その素直な言葉がポロリと零れた。
青田は見ているだけだし、ムカつくし、脳天気なことを言うけれど、それでもこいつじゃなかったら、私は映画を撮っていなかったんだから。
青田は少しだけ驚いた顔をして、こちらを見た。
やがて。真っ黒な空に、しゅるしゅると白い煙が立ち昇った。
ポン。と夜空に花が咲く。それに青田は我に返って破顔した。
『ああ、はじまっちゃったね。そろそろ戻ろう。撮影、するんでしょう?』
「するよ。なんのためにここに来たんだかわかりゃしないから」
『じゃあ行こう』
青田は私の手を取って引っ張ろうとするけれど、当然ながら透けて私の手は掴めない。それでも私は、透けている彼の手を取っていた。
端から見たら、きっと手を不自然に浮かせているように見えるだろうけど、皆夜空の花火に夢中だ。きっと気にしない。私たちは、急いで元来た道を戻りはじめたのだ。