どうも男子は矢車さんの地雷を踏み抜いてしまったらしく、さっきまであれだけ自然な演技ができていたのに、言動がギクシャクとして、カメラを回してもぐだぐだな演技しかできなくなってしまった。

「カット! ごめん。何度も。矢車さん一旦休憩にしよう?」
「ご。ごめんなさ……」
「いいよ。別に。はい、お茶」
「あ、りがとう……」

 今日は天気もいいから、汗も噴き出る。折角化粧した矢車さんの化粧も剥げはじめていたので、あとで化粧をし直さないといけない。
 矢車さんは私の渡したペットボトルを傾けてからも、落ち込んだように膝に視線を落としていた。それに蓮見さんはやんわりと声をかける。

「あんまり気にすんなよ。お前さんもいい演技をしてただろう? 今はちょーっと調子が悪いだけだ」
「は、い……あの」
「んー?」

 私も黙って脚本に視線を落とし、撮影が終わった部分にチェックを入れながら、矢車さんの言葉に耳を傾ける。

「……わた、し。男の子が、苦手で……」
「ん? でもこの学校、八割がた男だろう。どうしてここに?」
「……い、じめられてて……内申点、ガバガバで……行、ける学校も少なくって……単位制高校だったら、ま……だ、行けそうだったから……お、となの人とは、しゃべれるんで、すけど……同い年は……ほんとに……だ、めで……」

 これは矢車さんにとって精一杯出した勇気だったんだろう。いつも以上にひどい滑舌に拙い言葉。それに私は耳を傾ける。
 それに蓮見さんは、太い腕を組んで「ふーん、そうかあ……」と声を上げる。
 意外だと思ったのは、大人というものは大概「そんなの言い返さないからだろ」とか言い出すのに、蓮見さんはそういうことがなかったことだ。
 大人というものは、自分が子供だったことを忘れて、勝手に「言い返せばいい」「言い返さないほうがおかしい」「問題があったのはそっちなんだろう」と、弱いほうに難癖を付けて追い込んでしまうものだと、私はそう思っていた。
 多数決でぶん殴ってくるほうが、悪いに決まっているのに。今はSNSで繋がるのが当たり前になってきたせいで、余計に繋がらないといけないって考えが増えてきて辟易している。でも蓮見さんはそんなことは全然なかった。
 ただ、太い腕を解くと、ポンと矢車さんの頭を撫でた。既に気を許しているせいか、矢車さんは蓮見さんの手にビクつくことはなかった。

「そりゃ、男が悪いな。すまんなあ……あいつらは冗談のつもりなんだが、女と男だと力が全然違うっていうのがわかってないし、大人数でやってこられたら、怖いよなあ、普通」
「わ……たしが……悪いから……言い返せなかったから」
「でも、怖かったんだろう? 怖がらせたほうが悪かったに決まっている」

 そう言った途端、矢車さんが肩を震わせてきた。
 この学校で、自分の生い立ちを言い出すことなんて、自分の弱みを見せることなんて、勝手に腫れ物扱いされていいことなんてなにひとつないのに。それを言い出せる矢車さんのほうが、意地を張ってなにも言わない私よりもよっぽど強い。
 私は息を吐いた。

「……泣いてもいいけど、化粧はあとで直すよ?」

 途端に矢車さんは、脅えたようにこちらを上目遣いで見てきた。……別に私は、矢車さんをけなすために言ったんじゃないんだけど。

「ご、ごめんなさ……」
「別に。矢車さんを責める気は全然ないから。あの金髪はちょっと殴りたいけど」
「すまんなあ。百合ちゃん。麻ちゃんは言葉が足りないだけで、別に怒ってないんだよ」

 蓮見さんはかんらかんらと笑いながら、私の言葉から棘を抜いてしゃべるものだからすごい。さんざん泣いたあと、矢車さんの化粧を直して、どうにか撮影を続けた。
 少し泣いたせいなのか、声がよろしくない。おまけに、あれだけ綺麗にフレームに入っていたはずの天気が悪くなってきたから、だんだん絵が暗くなってきた。私は「カット!」と言って、撮影を打ち止める。

「ちょっと天気が悪くなってきたから、撮影中止」
「ご、めんなさ……せっかく、今日はいい天気だったのに」

 矢車さんがしゅんと肩を落とすのに、私は鼻を鳴らす。別に矢車さんのせいじゃない。あの男子が乱入してこなかったら、今日中にちゃんと撮影が終わっていたのに。

「仕方ないよ。他のことはなんとかなるけど、人が乱入してくるなんて思わなかったから」

 私がそう言って矢車さんをなだめるけれど、矢車さんはなおのこと自分のせいだと言わんばかりに縮こまってしまった。
 困ったなあ、本当に矢車さんのせいではないと思うのに。私が言葉をかけられずに喉を鳴らしていたら、隣で蓮見さんが腕を組んで唸り声を上げる。

「んー……そうだなあ……しかし、うちの学校部活のことはどうなってるのかわからんが、これって場所を使わせてもらうって、ここを差し押さえることはできないのか?」

 そう言われて、私は目をぱちくりとさせた。思わず隣にいた青田を見ると、青田はふわふわと浮きながら『どうだったかな……』と声を上げる。

『たしかに撮影するんだったら、学校で許可をもらうのが筋だけど』
「うち、映画部なんてもうなかったと思うけど。活動してるのなんて知らない」

 もしあったのなら、そもそも青田が一生懸命書いた脚本を予備室棟に置き去りなんてしていないと思う。それに矢車さんは「あの……」としおらしく手を上げた。

「あの男の子……どいてもらえるよう頼めたら……揉……めないんじゃ……」
「でもあいつが先にいたからなあ。場所をそう何度も何度も交渉してどいてもらうよりも、学校から押さえられてるってしたほうが角が立たないと思ったんだが」

 そりゃそうか。これはそこまで長い脚本ではないけれど、長期期間ロケを敢行するとなったら、周りに根回しするのは当然のことだ。
 でも……こういうのって誰に言えばいいんだろう。青田も今、映画部があるのかどうかさえ知らないみたいだし。私はそう思っていたら「担任かな」と蓮見さんが教えてくれた。

「じゃあ、明日から一週間は天気も悪くって撮影できないし、その間に許可をもらえないかどうか聞いてきます」
「それがいいよ。俺も撮影はじまるの楽しみにしてるし、その間シフトを回してもらって休みを取っておくから」

 そう屈託なく言って笑う蓮見さんがまぶしい。私は「ありがとうございます」と頭を下げると、ちらっと矢車さんを見る。
 矢車さんは本当に申し訳なさそうに目尻を下げてから、こちらに頭を下げてきた。

「駒草さん……ご、めんなさい……」
「ううん、苦手なものは仕方ないよ。脛に傷のない人間なんていないし」

 あの日本人離れした金髪男子だって、きっとあるだろうし。蓮見さんはいい人そうだけど、高校に行ってなかったんだから訳ありなんだろう。私だって、なかなか口に出せるもんでもない。
 撮影再開になったら連絡するとふたりに言ってから、ひとまず教室へと戻っていった。
 昼休みは、つつがなく終了してしまった。

****

 教室には生徒がいたりいなかったり。
 天気が悪くなってきたせいか、廊下はむわりと湿気が漂ってきて、上履きで歩くたびにペタペタと粘る感触と足音がする。
 喫煙所の前を通り過ぎながら、私たちは職員室へと向かう。
 蓮見さんは吸ってないみたいだけれど、働きながらここに通っている人は煙草を吸っている人が多く、そのために喫煙所は普通に機能している。
 私は腕を組みながら青田に話しかけてみる。

「でも許可ってどういう形になるんだろう」
『普通に映画を撮りたい、じゃ駄目なの?』
「自分が撮らないからって、楽なこと言うよねあんたも。大人って大義名分が必要なの。感情論だとなかなか動いてくれないから、形だけでもそれっぽい理由が必要なんだよ」
『前から思ってたけど、麻は同い年の子よりも大人との交渉のほうがよっぽど上手いね』

 そう言われて、私はつんのめりそうになり、足を踏ん張って堪えた。足が突っ張って痛い。

「……別に。得意じゃないけど」
『ふうん? 俺が生きてた頃、女子って大人も子供も自分たちより下に見てるもんだと思ってたよ。大人はわかってないっていうのが合い言葉だったと思う』
「それは多分、今もじゃないの。大人は身勝手だとは今でも思ってる。だから、利用できると思ってるんだけど」
『大人に認められたい、力を貸して欲しいって思ったことはあっても、僕は大人をあれこれ利用しようなんて思ったことないよ』
「そっ」

 芸能界は縦社会だったんだ。海千山千生きていて礼儀知らずにはものすごく厳しかった大人も、子供にだけは甘かった。
 私はフレームの向こう側が見たくってカメラの周りをちょこまかと動き回ってはスタッフに追い出されるのを、一部の俳優さんが可愛がってくれたおかげで、どうにかカメラを覗かせてもらっていたりしたんだから。
 だから自分のやりたいことをするために、大人を動かすのって大切なんだと、芸能界をクビになった今でも痛感している。
 青田は私の言葉に『ふうん』とだけ言った。
 こいつは平成のひと桁代を生きていたはずだけど、こいつの時代の大人はどうだったんだろう。考えてみたけれど、想像ができなかった。
 ふたりでどうでもいいことをしゃべっていたら職員室が見えてきた。

「失礼します」

 声をかけて開けると、やる気のない担任が課題に埋もれて顔を上げた。教室はまだ許可が下りていないけれど、職員室は既にクーラーで除湿されていて涼やかだ。

「どうした、珍しいな。駒草」
「うちって、映画部ってありましたっけ?」
「あれ? 入部希望? うちの学校は一応部活入る入らないは自由だけれど」

 そう言われて、私は思わず隣の青田を見る。青田は少しだけ驚いたような顔をしていた。担任は「ちょい待て」と言ってがさがさと汚く印刷されたプリントを差し出してきた。入部届けだ。

「必要だったらやるぞ?」
「いえ。けっこ……」
『麻、今の映画部どうなっているのか見てみたい!』

 そう言い出したことに、私は驚いて青田を見る。青田は担任に身を乗り出していた。担任には霊感がないらしく、皆と同じく見えていない。
 ……まあ、そりゃそうか。私は息を吐いた。
 あの脚本を追い出したとしても、映画部というのが残っているんだったら、OBとしては気になるんだろう。

「すみません、見学に行きたいんですけど、映画部ってどこですか?」

 私がそう切り出すと、担任は映画部が使ってるという教室を教えてくれた。パソコン室だ。私は担任に礼を言ってから、歩き出した。
 青田はうきうきしている中、私は思う。
 思い出って、思い出の中にしまっておいたほうがいいこともあるのに。
 私は幼少期から芸能界にいて、全然売れない子役をやっていたから、友達を友達とも思えない環境にいたせいで、まともな思い出がないけど、これだけはわかる。
 自分から思い出を汚してもいいことなんて、ひとつもないのにと。
 パソコン室に「失礼します」と声をかけてから入って、私は思わず口を開けた。
 どこのパソコンでも、モニターにはソフトが展開されている。3Dで書かれたキャラクターにあれこれ数字を書き込んで動かしている人もいれば、耳に響き過ぎる電子音をムービーに合わせている人もいる。
 私たちが入ってきたことに、分厚いメガネの男子がひとり振り返った。

「なに? 見学? ごめんね、今夏の動画コンクールに出す作品の追い込み作業中でさ」
「あの……ここが映画部だって聞いたんですけど。私、映画部の脚本を見つけて……」

 私は脚本を少しだけひょいと持ち合えると、それに男子は「ああ……」と声を上げる。

「大分前の先輩のだねえ。うち、部員が足りな過ぎて今はそっちの映画は撮ってないよ? 今は動画サイトを中心に活動してるから」
「動画サイトですか……」

 動画サイトで好きな歌手の最新PVを見ることはあっても、動画をつくる人のことは考えたこともなかった。男子は「そっ」と頷く。

「こっちだったらパソコンとソフトさえ揃えばひとりでもつくれるし、コストパフォーマンスもいい。棒読みの役者や下手っくそなカメラワークだったら、なかなかいいもんつくれないしねえ。あ、その脚本どうするの? いらないんだったら、こっちで処分しておくけど」

 処分。
 その言葉で、さっきまで呑気に笑っていた青田の顔が強ばったのがわかった。私は男子に首を振る。

「いえ、結構です。じゃあこれはうちで勝手に使ってもいいってことでいいですか?」
「うちって?」
「映画、カメラで撮ってるんです」
「ふうん……素人だったらなかなか見るに堪えないと思うけどねえ……別にいいんじゃないの? もう先輩たちも卒業しちゃったし、脚本のことなんて皆忘れてたしねえ」

 あっけらかんとした言葉に、私は思わず歯を食いしばった。青田は顔を強ばらせながらも、男子に詰め寄るような姿勢を見せないのは、いつも呑気な奴が落ち込んでしまっているからだろう。
 私は最後に「失礼します」とだけ声を絞り出すと、そのままぴしゃんとドアを閉めて、そのままパソコン室を後にした。
 思わず大股で歩いてしまっているのは、昔の映画部のものをあっさりと処分すると言い捨てる無神経さではない。
「見るに堪えない」「いいもんつくれない」という正論のせいだ。
 努力すれば報われる。私はそれを全然信じちゃいない。
 どんなに頑張っても、結果が出なかったら無意味なんだ。
 どんなに努力しても、それで成果が上がらなかったらただの時間の無駄なんだ。
 それは何度も何度も芸能界で刷り込まれてきたルールであり、私も周りの大人たちにそう教えられてきた。わかっている。そんなことくらい。
 だって私はカメラに映らなかった。フレームの向こう側に一度も行けなかった。だから、私が子役だったことなんて誰も知らない。そんな人間がいたっていう形跡を、爪の先一寸だけでも埋め込むこともできずに消えてしまった。無意味だった。私の人生の半分を使ったっていうのに、それを嫌と言うほど思い知らされた。

「もう……っ」

 廊下を出て、予備室棟を出る。
 今は雨は止んでいて、水たまりがぽつんぽつんと広がっている。
 私は校舎の側面を蹴飛ばした。足の裏がビリビリするけど、構わずに何度も何度も蹴る。
 どこに怒りの矛先を向ければいいのかもわからず、何度も何度も。女の蹴りひとつでは、壁に足跡ひとつ残すことはできないけれど、それでも蹴らずにはいられなかった。

『ねえ、麻』

 私の苛立ちをわかっているのかわかっていないのか、青田はポツンと声を上げる。私はそれを聞きながらも無視して、壁をまた蹴る。

『なにをそんなに怒ってるの?』
「……あんたはどうしてそんなに呑気なままなの?」
『え?』
「あんたはどうして怒らないの? あんたは映画に未練たらたらであの世に行くことすらできずに、ずっと脚本にしがみついてたくせに。それでどうして処分するとか言われて怒らないの。あんたの人生を全否定したようなもんじゃない」

 私が吐き出した言葉に、青田は頬を引っ掻きながらも、ゆるりと笑う。
 さっき顔を強ばらせて映画部の男子たちの横顔を見ていたくせに、どうしてそんな風に笑えるのかが信じられなかった。

『時代が違うのは仕方ないと思うんだよ? あの人たちはパソコンで映画をつくるのがいいって思っただけで、僕はカメラを回す映画が好きってだけで』
「あいつらがつくってるのは映画ですらないじゃん。馬鹿にされた、踏みにじられたって思わないの?」
『もちろん僕が必死で書いた脚本を捨てられたら悲しいと思うし、もしかしたら化けて出るかもしれないけど、でもさあ』

 青田は笑いながら、私の頬に触れた。もちろん、頬は温度も質感もなにも拾わず、私にそう見えただけだ。つるんと指を滑らせてから、青田は口元を綻ばせる。

『こんなに怒ってくれる子がいるのに、僕まで怒ってたら話にならないじゃない』
「……ばっかじゃないの」
『えー……でもどうしよっか。映画。蓮見さんに言わないと駄目だね、映画部とは交渉できなかったって』
「本当、それだ……」

 あの男子がまたうろついていたら、矢車さんが萎縮し過ぎて撮影ができない。私は空を仰いだ。
 空は灰色。まだ撮影再開するまでに、日付がかかりそうだ。