中庭を超えて、着いた先は予備室棟だった。普段使っているのは校舎棟で、選択授業以外ではほとんど使われていない予備室棟は、授業が終わったせいもあって閑散としている。人気のない校舎に入るのは不気味だったけれど、入らないことにはプリントを回収できない。

「……お邪魔します」

 私は怖々と予備室棟に足を踏み入れたのだ。
 匂いはつるんとしていて、校舎棟となにかが違う。どの教室も窓が開けっぱなしになっているのは、誰かが掃除していたせいなのか、換気のために定期的に誰かが窓を開けているのかはわからない。誰もいない校舎なんて不気味なだけなのに、どうしてわざわざ不気味さを加速させるんだろう。
 空き教室のひとつひとつを開けて、プリントを探す。入って角部屋になっている教室で、ようやくプリントを発見した。

「はあ……よかった」

 入っているプリントは図書館便りだったけれど、出さないよりはましだろうと、私は鞄に突っ込み、今度は飛ばされないようにとしっかりと留めておいた。
 用事も済んだし、帰ろう。そう思ったとき、背後でパサリという音がして、私は足を止めた。
 ……今日は、どうしていちいち得体の知れないなにかに足止めされる日なんだろう。
 私は振り返って、落ちたものを拾った。黄ばんでしまって、製本された背表紙が剥がれかけているけれど、それは青い表紙で『空色』と書かれていた。
 卒業文集かなにかなんだろうか。そう思ったけれど、うちの学校は年齢も生い立ちもバラバラが過ぎるのに、そんなものをつくるんだろうか。
 つくるのを想像してげんなりしてきたところで、暇つぶしにパラリ。と捲ってみた。

背景:晴れ、線路の向こう

 ト書きで延々と綴られたそれは、紛れもなく脚本だった。そこに描かれている話は、瑞々しい文章で、拙いふたりの男女のやり取りが描かれている。
 仲のいい男女。友達とも恋人とも書かれていないふたりが、彼女の転校がきっかけで離ればなれになることがわかっていた。そのふたりが最後に旅行に出かけるという内容で、あちこちに出かける様が描かれている。
 背景には端的に天気と短い情景しか書かれていないにも関わらず、私の瞼の裏には何故かくっきりとその情景が浮かんでくる。
 夏休みに出かけるのだから、きっと緑の深い匂いがし、線路に蒸した砂の匂いがする。廃線の線路の上を、綱渡りのようにはしゃぐ女の子と、それをやれやれと笑いながら見守る男の子。
 転校だけでお別れということは、きっとメールもスマホアプリもない時代……でも男女がふたりで出かけられるくらいに開放感がある時代だから、平成初期だろうと当たりを付けながら、私は次から次へとページをめくっていた。
 瞼の裏に溢れ出す、淡い空の色が次から次へと流れ、ふたりの旅行も終わりが近付いていく切なさに共鳴し、空が青からオレンジへ、オレンジから紫へ、そして群青へと流れていくのを夢中で読んでいた。
 全部読み終わったとき、私は思わず息を吐いていた。
 思えば。オーディションのときも、練習もオーディション自体も大嫌いだったけれど、脚本を読むことだけは、本当に好きだった。
 いったいどんな色の話が書かれているのだろう、フレームの向こう側にいったいどんな色が映るんだろう。想像力を膨らませながら、わくわくしながら読んでいたんだ。
 私はそれをそっと閉じて、取れかけた背表紙を撫でた。誰かがこれを一生懸命書いたのだろう。そう思い、本棚にしまい直そうとしたとき。

『脚本、どうだった?』

 ……ここには、今誰もいなかったはずだ。私は肩を跳ねさせて、ひとまず床を見る。伸びている影は私ひとつ。

『一生懸命読んでたじゃない、ねえ。感想どうだった? 今の時代には全然合ってないと思うけど』
「あ……ああ……」

 屈託のない声で聞かれ、私は恐る恐る振り返った。
 窓が開けっぱなし、私のプリーツスカートが揺らめく中、彼は髪の毛一本なびかせることなく、私を見ていた。
 白いシャツに黒いスラックス。男子の制服は、今は灰色のブレザーで、黒の学ランだったのはひと昔前だと聞いている。じゃあ、私を見ているこの男は。
 私は脚本を持ったまま、一目散に予備室棟を飛び出した。

『あっ、待ってよ!』

 待たない。どうして幽霊に声をかけられないといけないのか。本当だったら、今手に持っている脚本を手放せばこの幽霊はいなくなってくれるんじゃないか。一瞬そう思ったけれど、何故かこれを捨てる気にはなれなかった。

『危ないよ! 僕もこの角で走ってたところで、トラックにひかれたんだから!』

 そう声をかけられて、ようやく私は振り返った。
 私が一生懸命走っていても、学校の子は素通りする。道路は人がいたりいなかったりでまばらだ。私を素通りするように、この男のこともまた、素通りしていた。
 いや、見えていないのかもしれない。だってこの男、道路が透けて見えるんだもの。

「……あんた誰?」

 私は全力疾走して出ない声のまま、かろうじて絞り出したのは、そんな間抜けな言葉だった。それに男は、弾んだような声を上げた。

『あー、よかった。ずっと無視するから、僕のことは見えてないのかもしれないって思った』
「透けてる人間に声かける趣味の人って、相当ヤバイと思うけど」
『ああ。そういえばそうだね。僕もどうして透けてるのか知らないけど。まあ死ぬ直前の記憶はあるから、そんなもんか』

 透けてるし、誰も見えてないし、明らかに幽霊のはずのそれは、悲壮感をちっとも感じさせない態度であははと笑う。
 なんなんだ、本当に。私はイラッとしながらそいつを睨んだ。

「なんで私についてきたの」
『あそこ、前は教室だったんだよ。今は予備室棟扱いされて、あんまり使用されてないけどね。捨てられるかもしれないって思って諦めてたけど、面倒臭かったのかどうか知らないけど、ずっと本棚に立てかけててくれてたから、捨てられずに済んだんだ。あー、よかったあ』

 会話、しろよ。私はイラッとしながら、手に持っていて離れようとしなかった脚本を見る。私がこれを捨てることができなかったのって、こいつのせいなんだろうか。

「で、この脚本を捨てたらあんたはいなくなるの?」
『あっ、やめてよ! それ僕の最後の脚本なんだから!』

 そう言って悲鳴を上げるので、私は面白がって高い高いしたら、この男は涙目になって『やめてったら! そんなことばっかりやってたら、祟り殺すよ!?』と叫ぶので、ピタッと手を止める。

「あんた、私を祟り殺せるの?」
『これでも幽霊歴は長いんだから、本気を出せばいける気がする』
「やめてよ……」
『だったら脚本は大事にして。もう僕は同じものは二度と書けないんだから』

 そりゃ、幽霊がタイピングなんかできるわけないかと、私は納得して腕を下ろすと、男は心底ほっとした顔で「ああ、よかった」とのたまった。
 でもなにひとつ解決してない気がする。

「それで、話がずっと脱線してるけど。あんた誰。これはなに。どうしたらあんたは消えるの」
『そんな矢継ぎ早に質問しないでよ……』

 私の言葉に、男は口をごにょごにょしてから、ようやく切り出した。

『僕は青田夕。元々映画部だったんだ。この脚本は、僕が死ぬ直前に完成したもので……』
「映画部」

 それに私は目をぱちくりとさせた。
 うちの学校に映画部なんてあったっけか。そもそも文化系の部なんてほとんどなかったと思うんだけど。青田と名乗るこいつは、照れたように続ける。

『僕が死んだあとも、映画部の皆でどうにか残した脚本で映画を撮ろうとしてくれたみたいなんだけどさ……上手くいかなくってお蔵入り。映画部も僕の代を最後に廃部になってさ。脚本もそのまんま本棚にしまいっぱなしで今に至るんだ』
「ふうん……」
『僕がここにいる理由はよくわからないけど……この脚本で撮る予定だった絵が見られなかったせいか、この脚本から離れることができないんだ』

 幽霊が未練を残していたら成仏できない。それは使い古されたドラマのシチュエーションのひとつだけれど、実際に青田はそれが原因でここにいるんだから、本当のことなんだろう。
 私は「で、私についてきてどうしたいの」と切り出す。
 嫌な予感しかしないけど。脚本を投げ捨てたいけれど、相変わらず離すことができないでいる。青田はにこにこ笑いながら、言葉を続ける。

『僕の代わりに、この映画を撮ってくれないかな?』