蝉の鳴き声はもうずいぶんと遠ざかった。代わりに風が吹けば鈴虫のコロコロという音が聞こえてくる。
 黄ばんで端の丸まった名刺を持って、私と青田は歩いていた。
 この辺りは閑静な高級住宅街なせいか、人通りはほとんどない。ときどき聞こえるのは足音ではなく高級車のエンジン音ばかりで、並んでいる家も大きな塀が見えるばかりでその向こうの家は頑張って塀を越えなければ見えることがない。
 街路樹の松の曲がる角度まで風流に思うのは、これから向かう梨本さん家が近いからだろうか。

『こんなところにずっと住んでたら、考え方も芸術的になるのかもね』

 青田はそう言いながら、ずっと街路樹のほうをくるくると回っている。私もそう思うけど、青田の言葉に乗るのも癪だから、「置いていくよ」と子供をたしなめる母親みたいなことを言うので精一杯だった。
 やがて、大きな木の扉が見えてきた。いぶし銀に光る瓦屋根。塀からほんの少しだけ零れて見える松の木。私は名刺に書かれた住所と電柱に書かれた住所を何度も何度も確認してから、チャイムを探した。
 チャイムのブブーッって音と一緒に、『はい』と響く男性の声。
 私は緊張しながら、チャイムに声をかけた。

「すみません、お電話しました駒草です」
『ああ、麻さんですね。お待ちください』

 そう言って声は途切れたと思ったら、ギギギと音を立てて木の扉が開いたのに、私はピクンと肩を跳ねさせた。これ、自動ドアだったんだ。
 私は青田と顔を見合わせてから、恐る恐る扉を通ると、また音を立てて木の扉が閉まった。背後を気にしながら、私たちは奥へと進む。
 庭は松に南天、りゅうのひげがぽつぽつと植わっている。それらを眺めながら、飛び石を飛び越えた先に、和風の外観の家が建っていた。
 門構えが立派なのに、ずいぶんと普通の家だな。そう思ってしまい、引き戸に手をかけていいものかどうかためらっている内に、向こうから戸が開いてくれた。
 私の記憶よりも背は小さくなった気がするし、テレビに出なくなったせいか髪はずいぶんと白くなってしまったけれど。場にいるだけで辺りに深みを与える雰囲気はそのままのおじいちゃん。梨本さんは穏やかな表情で私を見た。

「お久しぶりです、梨本さん」

 私は慌てて礼をすると、隣で青田も見えないくせに同じことをする。
 そんな反応でも、梨本さんは雰囲気を崩すことなく、私を見守る。

「お久しぶりです、麻さん。ずいぶんと美しい娘さんに成長しましたね」
「ありがとうございます……私はもう、女優として立てませんが」
「あれは事務所が見る目がなかっただけのこと。あなたには充分その場を引き締める存在感があると思いますよ」
「それは、梨本さんの贔屓目ですよ」

 私が小さかっただけではなく、誰に対してもこんな調子の梨本さんに思わず口元を綻ばせていたら、梨本さんが「立ち話も難ですからお入りなさい」と言って招き入れてくれた。
 おずおずと中に入ると、梨本さんは引退したとは思えないほどしっかりとした足取りで私をリビングに案内してくれた。麦茶まで入れてくれたのに申し訳なく思ったけれど、梨本さんは穏やかなままだ。

「もう孫も帰ってしまって寂しかったですからね。麻さんが老いぼれのところに遊びに来てくれてちょうどよかったんですよ」
「そんなこと、ないですよ……これ、私が学校の友達と撮った映画なんです」

 私が焼いたばかりのブルーレイディスクを差し出すと、梨本さんは目を細めて頷いた。

「あなたはいつか映画を撮ると思っていましたが。思っているより早かったですね」
「……私、子役としては全然芽が出ませんでした。でも何故俳優さんたちが私をそこまで可愛がってくれていたのか、未だにわからないんです」
「簡単なことですよ。あなたは自分が映ることよりも、カメラの向こう側のことばかりこだわっていた。いい演技じゃなくって、その場で一番いい演技を気にし、そのときの天気や役者の機嫌のことを当然のように気にしていました。女優の皆さんはどこまで気付いたのかはわかりませんが、俳優陣は皆思ったものですよ。あなたの考え方は明らかに撮られるほうの考え方じゃない。撮るほうの考え方だとね」

 自分だとちっとも自覚がなかった。
 役者というものは映画で一番映える瞬間を気にするものじゃなかったんだろうか。どんなに綺麗な女優だって、逆光を浴びたら美しさが陰ってしまう。どんなに演技上手な俳優さんだって、体調が万全でなかったら、演技に全て集中できずにどこかでボロが出てしまう。

「そんなつもりは全然ありませんでした」
「麻さんはそうだったかもしれないですね。でもあなたがいたからこそ、場の空気が和やかになり、返って演技に集中できました。あの場にいた俳優は皆、そう思っていたと思いますよ。さて、あなたの処女作ですか」
「あ、はい」

 私は梨本さんにプレイヤーの使い方を聞いてから、怖々とディスクをセットする。
 それがくるくると流れる中、私は怖々と横目で梨本さんを見ていた。
 いい映画だ、と思う。青田の脚本はよかった。矢車さんの演技は光っていた。清水の顔芸はカメラ映りがよかった。そしてサポートに蓮見さんがずっと回ってくれていた。
 私のカメラ撮りが下手で、編集がみっともなくて、それで皆のよさを殺してしまっていたら、それは嫌だなあ。
 梨本さんは口元を手で抑え、真剣な目で画面を見ていた。体は動かず、一分一秒でもその画面を眺めるように。
 やがて。最後の部分に入った。
 ふたりが手を繋いで、故郷に帰る場面。
 夕焼けが彩って終わったそのシーン。ディスクも途切れて、終了だ。

「ふむ……驚きました」

 梨本さんは『空色』を見ている間、ちっとも動かなかった表情筋を豊かに動かして、こちらに振り返った。それは、いい食事を摂ったときのように、満足感に満ちあふれているものだった。

「これは本当に、今の麻さんでなかったら撮れなかったものでしょうね。俳優の演技は拙く、脚本も魅せる部分と冗長的な部分とどちらもありましたが、それらがなかったら、この映画は完成しませんでした」
「え? それは、どういう意味でしょうか……?」

 脚本のことで、青田が顔を赤くしたり青くしたりしてうろたえている中、梨本さんは満足げに椅子にもたれかかった。

「この映画は、完全な角度、完璧な俳優、魅力的な脚本では、決して胸に迫るものではありません。拙くても不格好でも、これでなければ人は感動しません。人の心の奥にしまい込んでいる青春というものをすくい取った作品であり、今の麻さんでなければ、決して撮れないものでしょうね……私も学生時代を思い出しました」
「それじゃ……」
「本当に、面白い作品でした」

 それに、私はガッツポーズを取っていた。隣で、青田も万歳三唱をしている。ふたりでワーワーはしゃいでいるのを、梨本さんはまぶしげに目を細めてくるので、私は我に返って握った拳を下ろした。

「あ、あの……すみません。勝手にはしゃいでしまって」
「いえ。麻さん、次回作は予定がありますか?」
「え……?」

 そう言われて、私は止まった。
 この脚本は青田のものだ。私自身が書いたものではない。私が首を振ると、梨本さんはゆったりとした笑みで小首を傾げた。

「あなたはたくさん撮ったほうがいいですよ。あなたは美しいものをフレームの中に収め、それを撮る才能がある。あなたと映画を撮った皆さんも、原石のような存在です。原石は磨かなければそれはただの石と変わりません。が、磨けば誰よりも光り輝くものです……次の作品、客演が必要でしたら、お呼びください。出演料は取りますが」

 それに私も青田も口を開けてしまった。声が出なくなってしまっても、その存在感だけで場を塗り替えてしまう人を、客演にすることができたら。きっとどんな映画にだって負けないものがつくれる。
 脚本は書いたことがないけれど、撮りたいテーマができたら、それを当て書きすればいい。今度はなにを撮ろう。どんなものを映そう。
 私は何度も何度も、梨本さんに頭を下げた。梨本さんはただ、微笑んで私に微笑むばかりだった。

****

 梨本さんの家を出て、私は青田に振り返る。映画はこうして撮ったはずなのに、未だに青田は景色を透かして見えるとはいえど、消える気配がなかった。

「ねえ、青田。あんたいつ消えるの?」
『うーん……多分もうそろそろ消えちゃうと思うんだけどな。残念だなあ……』

 青田はそうポツリと言うのに、私は青田が空を仰ぐのを見る。青田は相変わらずおっとりとした顔で、茜色を透かしながら、風を受けている。
 風も変わった。少し前までは粘るような湿度を含んでいたというのに、今はさらさらとした心地いい風だ。夏も、もうそろそろ終わろうとしている。青田はようやく私と目を合わせた。
 どこまでもどこまでも、穏やかな顔のままだ。

『梨本さんの映画、撮りたかったなあ』
「そう。残念。私は撮るけどね、あの人は声に張りこそなくなったけど、今でも名優だもの」
『『空色』、ずっと褒められてたもんね』
「うん。まさかあそこまで褒められるとは思わなかった……拙いっていうのは、わかっているけど」
『芸術家って、もっと駄目なものはびっくりするほどこき下ろすから。梨本さんはそれをしなかったじゃない』
「そうなんだけど、ね」
『残念だなあ……、もっと脚本が書いてみたかったのに』

 そうポツンと言うのに、私は押し黙る。
 ……私は、青田の脚本じゃなかったら、ここまで撮りたいという衝動に駆られただろうか。青田にさんざん反抗して、生意気なこと言って、自分の人生の中で一番体を使っただろうか。
 青田の脚本は青田のものであって、私があれみたいなものが書けるかなんてわからない。私は空を仰ぐ。金色の筋雲を残して、どんどん空が青ざめていく。

「前にも言ったと思うけど、あんたがいなかったら。私はこんな映画、撮れなかった。あんたの脚本に、あんたの言葉に、あんたの視点。それがなかったら、無理だった……ありがとう」
『僕、本当になにもしてないよ? ただ成仏できなかっただけで』
「ばっか、そもそも成仏できないで未練がましく脚本にずっと取り憑いている奴のどこがなにもしてないっていうのよ。それだけ、映画に執着してたってことでしょ? 完成したのが見たかったんでしょ?」
『あはは……うん、ようやく、完成した』

 青田はしみじみと笑いながら、ふいに私の髪に触れた。私の髪を触ったところで、あいつは触れるはずないし、私もなにも感じないけど。少しだけ名残惜しそうに目尻を下げながら、青田はゆるりと口元を綻ばす。

『君が撮るもの、全部見たかったのにな』
「……やっぱり、もう消えそうなの?」
『多分ね、さっきから眠いんだ。死んでからちっとも眠くならなかったのに、映画を見終わってから、意識を集中してないとあっという間に寝ちゃいそう……ねえ麻』
「なによ」
『キスしていい? 死ぬ前もしたことがなかったんだ』

 唐突な申し出に、私は少しだけ目を瞬かせた。
 ばっかみたいだ。だって何度髪に触れても手が透けるだけの青田にキスをしたところで、私のファーストキスは奪われない。青田だってそんなことわかっているだろうに。
 馬鹿だ馬鹿だとわかっていながらも、私は少しだけ目を瞑った。
 少しだけ薄目を開けたら、青田もまた薄く目を開けながら、恐る恐る唇を尖らせていた。本当に、馬鹿みたいだ。
 ファーストキスはレモン味とか、チョコレート味とか。そんなことを言う人はいるけれど、なにも味がしないどころか、なんの感触もないファーストキスってそれはいいのか。でも。
 私はこのキスのことを忘れることがないだろう。
 夜が近付いてきて、だんだんと青田の姿が風に流れていった。

『ありがとう』

 そのひと言だけを残して、とうとう姿が見えなくなってしまった。
 ばっかみたいだ。脚本だってすっかりとバラバラになってしまって、ファイルに収めていないとバラバラになってしまう。三か月は一緒にいたのに、あいつのことは写真ひとつ撮ることができない。
 でも、私の中に滑り込んできたあいつのことを、私は忘れることなんてできないだろう。

「それは、こっちのセリフ」

 私の言葉もまた、夜空に解けて消えていった。