フレームの向こう側─私と彼は透明なキスをする─

 車が走っている。中は冷房が程よく効いて快適だ。
 蓮見さんの運転は、もっと乱暴だったと思うのに、思っているよりも優しい。振動が激しくないから、車酔いすることもない。
 私たちはワゴンに乗って、青野先生の実家を目指していた。
 都会から一転、どんどん森が広がってきて、なんだかノスタルジーを感じる雰囲気が通り過ぎていくのが見える。私がカメラを回していると、蓮見さんの隣で青野先生が楽しそうに笑う。

「あら、なんにもないところなのに、これ撮って大丈夫? 映画に使えるの?」
「いえ。綺麗です。なんだか懐かしいですし」
「あれ? 駒草さんって、地元は」
「私、ずっと東京に住んでますし、おばあちゃんも東京の人ですから、あんまり田舎とか故郷とかってわからないんですけど、懐かしい感じがします」
「そーう? ノスタルジーって遺伝子に刻まれてるって言うしねえ」

 そうしみじみした口調で言う青野先生。
 私の隣では、矢車さんがぐったりとしていた。これだけ快適な乗り心地だっていうのに、どうも長時間車に乗っていたせいで、悪酔いしてしまったみたい。

「おい、大丈夫か?」

 清水は怖々と矢車さんに話しかけるものの、矢車さんはなかなか返事もできずに、窓際に体を預けている。私はカメラを止めると、矢車さんの隣に座っている清水に声をかける。

「矢車さんにお茶をあげて。飴でもいいけど。矢車さん、飴とお茶だっらどっちがいい?」
「ご、めんなさい……お茶……多分飴だったら吐いちゃう」
「吐くなよ、絶対に吐くなよ、フリじゃなく吐くなよ」

 清水がぶんぶん首を振っているのに、また矢車さんが弱々しく「ごめんなさい……」と言うので、清水は慌てて「いいから! 寝ろ!」とペットボトルを差し出した。
 麦茶をごくごく飲んで、彼女は落ち着いたように体を窓に預けた。
 後ろのほうを気にしながら、蓮見さんはのんびりと言う。

「先生の家はもうちょっとだから、百合ちゃんももうちょっと待っててな」
「ごめんなさい……」
「謝らなくていいからな」

 のほほんと笑う蓮見さんに、私はほっとする。この人、わざわざロケのために有給を取ってくれたんだから、それに報いるものを撮らないといけないと思うと、自然と気合いが入る。
 私が気合いを入れ直している隣で、青田もまたのんびりと窓の外を眺めていた。

『うん、いいロケーションだよね』
「そう思うの、あんたも」
『だって田舎と都会が程よく混在していて、建物も低め。建物が低いってことは、空が高く撮れるってことだ。東京だったら高層ビルが多いから、どうしても空が狭くなっちゃうし、こういう場所は貴重だよね』

 なるほど、こっち側のプロも満足するんだ。
 私はそう納得して、空を見た。
 空の青は、私がカメラを回しはじめた頃とは異なっていた。深い青。白い雲がジェラートのように伸ばされて、淡いグラデーションをつくっている。
 この下で、矢車さんと清水はどんな演技をしてくれるんだろうか。私はこの空気を上手く撮れるだろうか。窓に落ちる日差しはきつく、きっと車を降りたときには一気に汗ばむんだろうと予感させた。
 しばらく車を走らせたところで、ようやく町が見えてきた。蓮見さんに青野先生がナビゲートして、一軒の家の前に停まる。青野先生がひと足早く車から降りて、ガレージの引き戸を開けてくれた。
 私たちは荷物を持って降りる。
 町並みを見て、もっと古めの家を想像していたのに、停まった先はずいぶんとおしゃれな家だった。庭木は夏でもしゃんと伸びていて、炎天下の中何日も水やりを怠ったら枯れてしまいそう。なるほどたしかに青野先生に家の面倒を見てくれと頼む訳だと納得した。
 青野先生は笑いながらあちこちのドアを開けてくれる。

「ごめんね、うちの叔父さん、ガーデニングが趣味で。夏場は水をやらなかったらすぐに駄目になるから、あんまり遠出できないのよ。でも叔父さんも年だから、旅行に行ける内に行けってことで、家の面倒を任されることになったのよ」
「納得しました。あ、先生。庭木を撮ってもいいですか?」
「別にいいけど。映画のワンシーンに使えそうな部分あった?」
「わかりません、ただ綺麗だったんでもったいないなと」

 私はそう言って、先生に会釈してから、カメラを回しはじめた。
 皆は先に先生についていって、泊まる部屋の確認をしていた。ときどき開けられた窓から「うわ、家の中にエレベーターがある!」とか、「カラオケマシーンある家って初めて見た!」とか、清水の素っ頓狂な声が下に落ちてくるのを聞きながら、私は思う存分絵を撮った。
 隣で青田が笑っている。

『明日から撮影だよね。イメージ固まった?』
「もっとど田舎かなと思っていたけど、田舎が過ぎたら畑と田んぼ以外で、なかなかふたりの感情の揺れまでは撮れない。いろんな知らないものを見て、新鮮な表情を収めたほうが、いい映画になると思うんだ」
『なるほど、程よく都会から離れて、程よく田舎過ぎない、平々凡々な町に逃げ込んだふたりが、ひと夏を思う存分楽しむ。うん、いい解釈だと思うよ』
「原作者。私がいろいろとロケーションや人選で脚本さんざん変えてるけど、怒らないの? あんた、これの撮影が終わらないと成仏できないんでしょ?」

 私がちらっと青田を見ると、青田は涼やかな顔で庭木を眺めている。庭木に透けている幽霊は絵になるけれど、こいつはカメラを回しても撮れない。
 青田は私に横顔を眺められたまま、涼やかに言った。

『前にも言ったと思うけど、これは麻の映画だ。僕は原作者だけど、麻の世界に全部干渉できないから、麻が思う通りに撮ればいい』
「あんたは……私の世界に干渉しないの?」

 思わずぽろりと零れた言葉に、ようやく青田はこちらを向いた。

『僕は、麻の力になりたいけど。もう死んでいるから無理だよ』

 ごくごく当たり前なことを言われて、私は頷いた。
 青田は、私にいろいろ頼む癖して、最終決定権は全部私にくれる。それが私にとっては居心地がいい。
 私はいつだって誰かの敷いたレールの上を走っていた。
 芸能界にいたのだって、私の意思じゃない。私の意思じゃないけれど、一生懸命私なりに頑張ってきて、芽が出なかった。
 普通の生活に戻ったけれど、私はとっくの昔に世間一般で言う普通とは考え方がずれてしまっていた。ひとりで宙ぶらりんのまま浮いていた。
 今は、青田に頼まれて、映画を撮っている。最初は訳がわからず、なんとか断る動機を並べ立てたけれど、それでも押されてしまった。それでいやいやカメラを回してみたけれど。
 私が生きてきた人生の中で、初めて手応えを感じている。なんでこんなに楽しいと思っているのかがわからない。シーンは全部バラバラでしか撮影できなくって、脚本を読み込んでいる皆だって、今がどこのシーンなのかわからないまま撮っていると思う。私は撮った絵を見ながら、それをひとつひとつ絵コンテに合わせて入力していって、ピースを当てはめていっている。
 そこから浮き上がってきたものを拾って、繋いで、削って、それでひとつの生き物が生まれる。それが映画なんだ。
 私はこの作業がひどく美しく思える。初めて、自分がここにいてもいいって思える。
 相変わらず、私はフレームの向こう側には行けないけれど、初めて、向こう側の景色を眺められるような、そんな気がするんだ。

****

「まさか廃線までこうして残ってるなんてなあ……」
「ここって、素人がカメラを回しに来ても大丈夫なんですか?」

 次の日、私たちは撮影のとき、一番「こんな場所どこで撮るんだ」と悩んだ場面を撮りに来ていた。
 シーン自体は五分ほどの、廃線をゆらゆらと歩く女の子と、それに付き従う男の子のシーンだったけれど、地元には廃線なんてない。そもそも線路は立入禁止なんだから、そんなところで撮影できないし、危ない。
 このシーンをどこで撮るかと言っていたら、青野先生が名乗り出てくれて、ロケの場所として教えてくれたんだから。
 案内してくれた青野先生はカラカラと笑う。

「この辺りねえ、新幹線が通った関係でこの辺りの私鉄が軒並み廃線になっちゃったのよ。もっとも、この辺りも中途半端に都会で中途半端に田舎だから、地元民全員車を持っている関係で、あんまり必要を感じなくってねえ」
「なるほど……じゃあ、この辺りはそのまんまで?」
「そうよ。この辺りをならしちゃうのもお金がかかるから、本当にそのまんま。アマチュア商業問わず映画の撮影に使われてるの」

 青野先生のそのひと言で、胸がチリチリした。
 ……馬鹿馬鹿しい。私は一瞬走った痛みに叱咤する。
 あの人たちが、既にクビになった私のことを覚えている訳がない。私が勝手に怒っても仕方がない話だ。ううん、違う。そうじゃない。
 私が芸能界にいたってことを、皆に知られるのが嫌なだけだ。芸能界でみじめだった頃のことを、子役をしていてもカメラに映してもらえなかったことを、ただ撮られている子を羨ましがっていたことを、知られたくないんだ。

「あ、あの。駒草さん?」

 恐る恐る矢車さんに尋ねられて、はっとした。
 今日の撮影で日に焼けてしまうかもしれない。他の時期に撮った絵と整合性が取れなくなったら困ると、矢車さんにはしっかりと日焼け止めを指示し、撮影前も彼女には薄手のカーディガンを羽織ってもらって日焼け対策をしていた。
 ……勝手に思い出して、勝手に怒ってるんじゃないよ。集中。集中。
 私は矢車さんと清水に手早く指示を出し、「アクション!」と声を張り上げた。
 矢車さんのゆらゆらと歩く様に、その手を取って歩く清水。そこに蜃気楼が揺らめいて、それだけで艶やかな花になる構図だ。
 それを蓮見さんがうんうんと頷いてみている。清水に蓮見さんの手持ちらしい程よくよれたバンドTシャツを着せたら、驚くほど様になった。ふたりがゆらゆらと歩いて行く様をさんざん撮ってから、私はペットボトルを傾け「カット!」と声を上げる。

「よかった、今のシーン」

 私のねぎらいの声に、矢車さんが顔を赤らめて、清水は憮然とする。日焼け止めをうんと塗ったけれど、それでも汗っかきのせいか、すぐに流れるから、蓮見さんにタオルで乱暴で体を拭われたあと、ベタベタと日焼け止めを塗られる。「だあ……! 自分でできるっつうの!」と悲鳴を上げているのをよそに、私はタイムスケジュールを確認する。

「それで、この次なんだけれど、その先の海で撮影をしたいんだけど」
「あ……あの、そのこと、なんだけど、駒草さん」
「なに?」

 青野先生によると、その先の海は普通に海水浴OKなところらしいけれど、地元民は来ないし、海の家なども出ていないいい加減な場所だから、わざわざここまで来て泳ぐ人がいないらしい。この時期になったら浜辺なんてどこもかしこも人だらけだし、人が映り込んでしまったら面倒だから、とてもありがたかったのだけど。
 矢車さんはもじもじしながら、膝を摺り合わせてから、意を決して口を開いた。

「ご、めんなさい……水着、ちょっと着れなくって」
「あれ? ごめん」

 私はそろっと矢車さんに耳打ちする。男ばっかりだと、なかなか女子同士みたいに大っぴらなことは言えない。

「ごめん、生理だった?」
「ち、違くて……」
「じゃあなに?」
「あ、あの……私、水着着たら、すごく、目立つから」
「目立つって、なにが?」
「あ……」

 矢車さんはプルプルと震えた。
 これってまさか。私はちらっと青田を見ると、青田は『ちゃんと聞いてあげたら?』と促してきた。
 私は聞く。

「……前に言ってた、いじめが原因?」

 そこでようやく、矢車さんが首を縦に振った。今にも泣き出しそうなくらい目尻を下げるのに、私は軽く背中をさする。
 迂闊だった。普段は着替えしているときでも、彼女は制服の下に透けないランニングやTシャツばかり着てるから、こちらも見抜けなかった。買った水着は、昭和の流行りを見ながら選んだ。露出はさすがに抑えたものの、どうしても背中が大きく開いてしまう。……矢車さんをいじめていた奴ら、まさか体に痣が残るまでやるなんて。そりゃ彼女の滑舌が悪くなるし、自信だって必要以上になくなる。
 自己肯定できなくなるまで、人を否定していい訳がない。
 私はギリッと歯を噛みしめると、「じゃあ、このシーン書き換えるから、ちょっと待ってて」と言った。
 清水を呼ぶと、私が「ちょっと追加のシーンがあるから、すぐにそっち覚えて」と言う。途端に清水は反抗的な顔をしてみせた。

「なんだよ、またシーン撮るのかよ」
「そこまで怒らないで。トラブルが入ったんだから」
「女って面倒くせえ」

 清水がそう毒づくと、案の定と言うべきか、矢車さんがプルプルと震えはじめた。泣かないといいけど。泣いたら涙で日焼け止めが落ちるし、下手に擦ったら目が充血する。

「ご、ごめんなさ……」
「ああー、もう! 別に泣くこたねえだろ!? ただちょっと言ってみたかっただけというかで!」
「ごめんな……さ……」
「だから! 泣くな!」

 こいつ、多分根は悪くないんだろうけれど、人を泣き止ませるのが絶妙なまでに下手だ。私は溜息をつきながら、手持ちのボールペンとメモで脚本の走り書きをはじめた。それを蓮見さんと青野先生が覗き込んでくる。

「トラブルかい?」
「ちょっと海での水着撮影が難しそうなんで、それっぽいシーンに修正しようかと。青野先生、今日ってなにかありますか?」
「そうねえ……明日だったら、花火大会だから昼間も場所取りで人が増えると思うけど、一日前はボランティアの人たちに追い返されるから人気はないはずよ」
「ああ……あそこって、自分たちで花火をするのは禁止ですか?」

 最近だと花火の持ち込み禁止の浜辺も増えているからややこしい。持ち帰るんだったらOKな場所もあるけど。私が思いついたシーンを走り書いていると、青野先生が「うーん……」と人差し指をくっつけながら言う。

「たしか、大丈夫だったと思う」
「ありがとうございます。あ、バケツと水、欲しいです。あと花火セットはコンビニで売ってますよね?」
「そりゃあるけど……でも、さっきも言ったけど夜は明日の花火大会のために全面的に立入禁止よ?」
「いえ、昼間に花火のシーンを撮りたくって」
「昼間って……昼間だったら花火しても、煙しか出なくない?」
「はい」

 そのシーンを走り書いていると、隣で私のメモを覗き込む青田だけは『なるほど』と顎に手を当てていた。

『花火できるシーンをつくることで、海辺のシーンを必要あるシーンにしたんだね?』
「最近だったら、公園のほとんどは火気厳禁だし。この辺りざっと見たけどバーベキュー場なんてないし、それだったら海辺に行くシーンをつくれる」
『真昼に花火のシーンの意図は?』
「無意味なことをするのに、意味があるの」

 女の子と男の子は、無意味なことをして、その馬鹿らしさを笑い合うことで、余計に別れのシーンがノスタルジーあるものになるんだ。無意味なシーンなんだから、あくまで当たりだけ走り書いて、セリフは全部アドリブ。そんなでたらめな脚本を書いて、矢車さんと清水に見せた。

「昼間に花火って……正気か?」
「正気。これで無意味に笑ってる映像が欲しいから」
「海のシーンも相当馬鹿だと思ってたけど、それの上行ってねえか!?」
「行ってると思う。だから頑張って」
「バーカ!!」

 清水はセリフは棒読み過ぎて撮れないものの、顔芸のために一応の脚本内容は頭に叩き込んでいる。それでこんなシーンを当てられたんだから、そりゃ怒りたくなるだろうと、私は耳を引っ掻きながら思う。
 一方矢車さんはというと、目を潤ませている……頼むから、泣かないで、化粧が落ちる。

「駒草、さん……あり、がとう……」

 さっきまで嗚咽を上げていた子がもう笑っている。そのおかしさに私は肩を竦ませてから、蓮見さんに頼んだ。

「コンビニに寄って買い物したら、そのまま海まで走らせてください」
「先生、コンビニは?」
「海の手前。あ、駐車場まで行ってね、花火大会の準備でルール違反にピリピリしてるから」

 こうして、私たちはコンビニで花火を買い込むと、それを持って海へと向かった。
 たしかに明日は花火大会みたいで、まだ屋台は出てないものの、あちこち張り紙や看板で「場所取り厳禁」と書かれているのが見える。
 矢車さんと清水に花火を持ってもらい、それをカメラに映すけれど、夜だったら鮮やかにいろんな色が見える花火が、見事なまでに白煙しか残さなかった。
 それでも私は一生懸命カメラを回す。それを後ろから見ていた青野先生がぽつんと言った。

「まるで大きな線香ね」

 青い空、くっきりとした海、人気のない浜辺。そこで花火の白煙は妙に際立ち、青と白のコントラストがひどく鮮やかに見えた。
 うん、いい絵が撮れた。本来の脚本だったら、海で走り回る男の子と女の子で、水しぶきを鮮明に撮らなかったらぼやけてしまう画面が出来上がるところだった。でもこっちのほうが、わかりやすい。

「カット! お疲れ!」

 私の声と一緒に、バケツに花火を放り込んだ。
 この辺りは木が低いせいか、蝉の鳴き声は聞こえない。それでももうもうと立ちこめる湿気だけが、夏を教えてくれた。
 先生の家での食事は、まるで調理実習のようなありさまだった。皆で並んで野菜を切ったり、材料を持ってあちこちに走り回ったりとせわしない。
 ひとり暮らしが長いせいか、蓮見さんは裁縫だけでなく料理も上手かった。
 家でだったらまずつくらないような大きな肉を買い込んできて、それに漬け汁、衣を付けてジュワッと揚げる。匂いからして、生姜とニンニクが入っているのは間違いないんだけれど、他にも細々とスパイスを混ぜていた。
 青野先生は「揚げ物なんて自宅でだったらまずやんないもんねえ」と呑気に笑っていた。
 こんなに大きな唐揚げは初めてで、清水は大興奮していた。

「すっげえ! おっさん美味そう!」
「美味いぞー」
「本当、蓮見さんおいしそう。これあとで漬け汁の作り方教えて」
「ああ、いいですよ先生」

 唐揚げに興奮している横で、私たちはベランダで七輪の上にナスを載せて焼いていた。

「私、ナスなんてレンジでチンしかしたことないけど」

 意外と凝り性なんだなと思いながら矢車さんを見ていたら、矢車さんははにかんで笑う。

「ナスは皮が黒焦げになる直前まで焼いて、そこにめんつゆとおかかをまぶすといくらでも食べられるから」
「ふーん」

 どっさりの大きな唐揚げに、焼きナスのおかかまぶし。トマトとキュウリのサラダ。
 青野先生は蓮見さんと飲むらしくって、クリームチーズとアボガドの和え物をつくって缶ビールを用意していた。
 私たちは麦茶を飲みながら、クーラーの効いた部屋ではふはふと唐揚げとナスを食べる。
 思えば。
 私にとって食事というと、冷たいロケ弁当やお母さんのつくったお弁当であり、給食の時間すらひとりだけ浮いてしまっていた。それが当たり前だったから、調理実習のように皆で机を囲んで食べるというのも新鮮なんだ。
 蓮見さんの唐揚げは好評で、机の真ん中にドカンと置いていたにもかかわらず、あっという間になくなってしまった。矢車さんのつくった焼きナスも香ばしくっておいしく、どうしてわざわざ七輪で焼いていたのかがよくわかった。
 サラダもつるんと食べてなくなったところで、パァーンパァーンという音が響くことに気付く。気になった清水が閉めたカーテンを開けると「おっ」と手をかざす。赤々とした花火が、白い煙を振りまきながら打ち上げられていたのだ。
 この辺りの建物が皆低いのもあり、一階のリビングからでもよく見られた。

「あれ、花火大会って明日じゃ」

 蓮見さんがちびちびとビールを飲みながら窓の外を眺めると、青野先生も「そのはずなんだけど」と言う。

「今日、昼間に花火の撮影をしに行ったとき気付いたけど、車がずいぶんと停まってたのよねえ」
「車って……明日の、花火大会の車じゃ、ないんです、か?」

 矢車さんの質問に、青野先生が「うーん」と髪を揺らす。

「いつももっと大型トラックが止まってるから。あそこに並んでたのはワゴンだったのよね。久々に見るから勘だけど、私が叔母さんから聞いてなかっただけで、ロケが来てるのかもしれない」

 それに、私はご飯を摘まんでいたお箸を取りこぼした。
 カランカランと大袈裟な音を立てて、皆の視線が一斉に集まる。

「駒草さん?」

 矢車さんが心配そうな顔をするのに、私は慌ててお箸を拾った。

「なんでもない」
「そう? あ、窓のほう、また、花火出てる」
「……ちょっと、お箸洗ってくる」

 私はそのまま手早く布巾でお箸を落とした机を拭き取ると、そのまま台所まで逃げた。水を大袈裟なほど捻って出せば、それだけ花火の音が遠く聞こえる気がする。
 バチャバチャと音を立ててお箸を洗っている中、私の隣にトンと青田が立っていた。

「……なに? 花火上がっているんだから、見てこればいいのに」
『知り合いがいるかもしれないから、それで怖くなったの?』
「なに言って……」
『麻は割とわかりやすいよね、映画が好きなのも、カメラを撮るのが好きなのも、全部ひとつのものなんだから』
「また訳のわからないこと言うのやめてよ」

 私はそう突っぱねるけれど、青田は決してやめてくれやしない。

『いいじゃない。今の麻は本当にいい映画をつくってる。見せてやればいいじゃない』
「また馬鹿にされるじゃない。私は、もうあの人たちとは違うの」
『言わせておけばいいよ。だって麻のことをわからない人たちが、勝手に麻は駄目だって言ったんでしょう? 今一緒にいる人たちはどうなの? 麻が自分で選んで連れてきた人たちでしょう? そしてその人たちは、麻のことを一度も駄目だなんて言ってないし、思ってもいないよ』
「それは……」

 私はちらっとリビングで食事をしている皆を見た。
 もう既にお皿の上にたくさん盛られていたはずの唐揚げは、唐揚げの衣のかけらを残してすっかりと消え失せてしまった。食事をさっさと終えた清水は「すげえ……」と言いながら麦茶を片手に窓の外を眺めている。
 同じく食事を終えた矢車さんは自分の分のお皿を重ねながらも、ちらちらと窓の外を気にしている。相変わらず一対一で清水と話せないせいか、さっさと窓の近くに行けばいいのに行けないでいるらしい。
 蓮見さんと青野先生はビールを傾けながら、窓を見ている。
 思えば、私みたいにリーダーシップのかけらもない人間と一緒に映画を撮ってくれるなんて、ありがたい以外に言葉が出ない。
 この人たちは、私の過去なんて知らないし、聞きもしない。ただ私が怖がっているだけだ。私は青田を見る。青田は台所を透かしながら、穏やかに笑うばかりだ。

『もうお箸は洗い終えたでしょ。さっさと食べ終えて、そして映画の編集をしよう。いい絵が撮れたんだから、皆にも見てもらわないと』
「……うん。青田」
『なに?』
「……ううん、なんでもない」

 今、喉から「ありがとう」という言葉が出てきかかったけれど、無理矢理飲み込んでしまった。青田がいなかったら、きっと私は不平不満を言うだけで、ただ燻って座り込んでいるだけのろくでもない人間のままだっただろう。
 今だって、お母さんを完全に説得できたわけじゃない。まだまだいろんなものに、臭い物に蓋の要領で見ないふりしているだけで、全部を解決できてはいない。でも。
 青田が私の止まっていた時計を動かしたんだ。
 それは人生の長い時間からしてみれば、たった一秒かもしれない。でも、毎日繰り返せばそれはいつかは時計をひと巡りする。だから、その時間は決して無駄ではないはずなんだ。

****

 今日は夜までロケはなく、私は今まで撮った映像をどれだけ削るかの確認をしていた。本当は全部使いたいけれど、映さないといけない部分だけをくっきりと現せるようにも削らないといけない。
 私がカメラを回しながらメモを取っている間、青野先生は浴衣を取り出してそれを矢車さんに着せていた。

「うん、できた。ごめんね、先生今時の凝った帯の結い方はできないわ」

 シンプルな太鼓結びの赤い帯に、青い浴衣。黒と白の蝶が飛んでいるのが見える。矢車さんはそれに恥ずかしそうに「いえ……」と笑う。
 できれば今日の撮影に撮りたいと浴衣のシーンをリクエストしたら、矢車さんが持ってきた浴衣を青野先生が着付けてくれたのだ。一応自分では着れるけれど、人に着せたことはないから着付けてくれて助かっている。
 髪も軽くうなじが見えるように結ってくれ、トンボ玉が可愛い簪を留めてくれた。元々矢車さんは素材がいいのだから、浴衣と簪が彼女のよさをぐっと引き出してくれていた。

「あー、先生、雑草抜き終わった……あ」

 今日は夜まで暇だからと、青野先生に頼まれて庭の雑草を抜いていた清水が、汗をだばだばかいて入ってきたところで、矢車さんと目が合った。矢車さんの浴衣姿を見た途端、わかりやすく顔を真っ赤にして、くるっと向き直る。

「先生! 草に水やっていい!?」
「水ー? 今あげても昼になったらお湯になるから困るんだけど」
「じゃあ、自分で水被ってきます!」

 そう言って奪取で庭に戻ってしまった。その一部始終を見て、矢車さんは困った顔をして蓮見さんを見た。

「あの、私、清水くんを怒らせたんでしょうか?」
「いやあ……うん。清水も悪気はなかったから逃げたんだと思うぞ? だから百合ちゃんは気にすんな」
「そうなんでしょうか……」

 私は頬杖を突いて、あまりにもわかりやすい清水に呆れ返っていた。当の本人の矢車さんだけがわかっていない。
 いったいいつからとかどうしてとかはわからないけど、清水は矢車さんに気があるらしい。まああいつなりに、矢車さんが男子を怖がっているのをどうにか怖くない怖くないと距離を縮めようとした結果なんだろうけど。
 私が一旦カメラの電源を落としていたら、青野先生がこちらに話を振ってきた。

「そういえば、駒草さんは浴衣、持ってきてないの?」
「私ですか? 私は撮るつもりだったんで、別に持ってきてないですけど」
「先生、浴衣持ってきてるんだけど、着る?」
「はあ……?」

 私はカメラの電源を落として、素っ頓狂な声を上げた。そりゃ私は撮影中、あっちこっち歩き回るだろうと思っていたからスポーツサンダルを履いてきたから、浴衣だって着れるだろうけど。どうして? という顔をしている中、青野先生がにこにこ笑う。

「だって友達同士で浴衣着て花火を見に行くなんて、人生でそうそうあるもんじゃないでしょ」
「でも……花火って、夏になったらいつでも見れるんじゃ……」
「あら、今年の花火大会は、今年にしかないでしょ。それに駒草さんは折角の合宿なのに、ずっと動きやすい普通の服でカメラばっかり回してるからね。たまにはこういうのもいいんじゃないかと思ったんだけど」
「そういうもんですか……」

 断ろうと思えば断れると思うけど。矢車さんが友達という言葉に反応したのか、そわそわしている。私はそれにそっと息を吐いた。

「……自分で着れますから、自分で着させてください」
「す、ごい。浴衣、自分で着れるの?」

 矢車さんにそう聞かれて、私は頷いた。昔取った杵柄は、今でもどうでもいいところで私を助けてくれている。
 青野先生が貸してくれた浴衣は、青い地に白く抜かれた草木に蛍の絵柄のものだった。帯は黄色く、私はそれをがさがさと着替えた。帯はリボンみたいに結んで留めた。着替えるまで待っていた青田は、私の浴衣姿に何故かにこにこと笑っているのに、私は憮然とする。

「なに、その顔。似合わないっていうの?」
『違うよ! ものすっごく似合うよ!』
「別にお世辞はいいんだけど」
『お世辞じゃないってば! ただ、麻もこういう格好似合うよねって話で』
「なに、その含みのある言い方」
『違うよ! ただ麻はわざとみたいにしゃれっ気から遠ざかってるから』

 芸能界のどす黒いおしゃれに対する気合いを知っていたら、力が抜けてしまって入らないことはあると思う。ずっと気を張っているのが芸能界であり、女優なのだから。
 私は「ふん」と鼻息を立ててから、髪を整える。いつもの伸ばしっぱなしの髪も、お団子にして頭の上でまとめればそれらしく見える。部屋から出て、青野先生に見せてみたら、それはもうにこにことされてしまった。

「やっぱり! 駒草さんは素材がいいから、絶対に浴衣が似合うと思ったのよねえ」
「はあ……ありがとうございます」
「あ、あの! 本当に、駒草さん、似合ってて……女優さんみたい」

 矢車さんまで、そう口をもごもごとさせながら褒めてくれる。……女優、みたいかあ。青田はこちらをひょいと見てくるのをスルーしながら、私は背筋を伸ばした。
 小柄でいつでも笑顔を浮かべられるトレーニングを積んでいた頃と比べれば、表情筋はお世辞にも豊かではない。

「ありがとう」

 そう言ってお礼を言うのが精一杯だった。
 夜になったら、昼間の湿気の存在感がほんの少しだけなりを潜め、ジリジリと鳴く虫の音を耳にしながら浜辺を歩く。夜になったら、潮の香りがより一層際立つような気がする。浴衣は人の目を涼ませるものらしくって、着ているとちっとも涼しくない。汗でペタンと張り付いて気持ち悪い。
 私と矢車さんは浴衣を着て、清水と蓮見さんはTシャツ姿で私たちのほんの少し後ろを歩いてくれる。青野先生はというと「先生が青春の邪魔しちゃ駄目でしょー」と言って、家でひとりビール片手に手を振って私たちを見送ったのは、単純に今日一日くらいは羽目を外したいだけだと思う。
 花火の場所は昼間からブルーシートを張って場所取りをしていたのだろう。人がわんさか浜辺のほうに出て花火を待っている。花火がはじまったら撮影をしたいけれど、今は屋台の提灯を撮るので精一杯だろう。
 蓮見さんは人だかりになってしまっている浜辺のほうに手をかざす。

「先生によると、花火は海に出ている船から打ち上げられるんだと」
「ふーん。まあ後ろのほうからでも空見上げれば花火は見れんのか。あ、屋台でなに食うのお前ら」

 清水に聞かれて、矢車さんは「たこ焼き」私は「かき氷、いちご」と答えると、清水は心底嫌そうな顔で「たこ焼きとかき氷、遠いじゃねえか」とぼやく。それに蓮見さんが「なら俺がかき氷だから、清水はたこ焼きを矢車ちゃんと買ってきな」と提案する。それに清水はひるんだような顔をしてみせ、矢車さんはうろたえたような、助けを求めるような顔で私のほうを見てきた。
 ……人の惚れた腫れたなんて、私にどうすりゃいいの。私はちらっと青田を見ると、青田は透けた姿で屋台を見回し、のんびりと『どの時代も屋台の周りだけはあんまり変わらないよね』とぼやいていた。平成初期と今だったら、環境なんて全然違うだろうけれど、お祭りだけは一緒だったんだろうかと私はぼんやりと考えた。
 蓮見さんと一緒に私はかき氷を買いに来たら、かき氷屋の前は人だかりになっていた。

「おや、今日は暑いからって、ずいぶんと人多いなあ」
「そうですよね」

 私と蓮見さんが首を傾げていたところで、「あぁー!!」と甲高い声が飛んだ。

「麻ちゃん! もしかして麻ちゃんじゃないの!?」

 弾んだ声をかけられて、私の心臓は跳ね上がる。嫌な音を立てて鳴る鼓動のまま私は声をかけてきた甲高い声の子に振り返った。
 凹凸のはっきりした顔、化粧だとわからないくらいにきめ細やかにつくられたナチュラルメイクも彼女の可憐さを引き立てるスパイスにしかならない、髪はすとんと真っ直ぐなストレート。そして白い地に赤と黒の出目金が泳いでいる浴衣を着ていた。
 この子は……頭を探らなくても、嫌でも広告で目に付く女の子だった。
 夏川あやめ。私と一緒に子役オーディションを受け続けて、いち早く主演を射止めて、子役から女優に羽化した……同期で一番の出世株だ。
 蓮見さんもさすがに夏川さんのことは誰だかわかったらしく、ひたすら首を傾げている。

「ん? 駒草ちゃん、夏川あやめ……ちゃんと知り合いか?」
「麻ちゃん、このおじさん誰? まさか、麻ちゃんの……」

 いくら子役クビになったからと言っても、パパ活やるほどメンタルまで落ちぶれてはいないんだけど。そもそも真面目に高卒資格取ろうとしている蓮見さんに失礼だ。私はイラッとするのをどうにか胸の奥にしまいこんで、フォローを入れる。

「……同じ学校の人だよ」
「同じ学校って……ああ、先生ですか! すみません、早とちりしてしまって!」

 同級生だとは、どうも彼女は思わなかったらしい。彼女のハキハキとした態度に、蓮見さんは毒気を抜かれたように「どうも」とペコンと頭を下げる。
 周りは密やかに声が波打っていくのがわかる。

「あの可愛い子誰?」
「あやめちゃんの友達?」
「でもあやめちゃんって子役時代からずっと芸能界にいるんじゃ?」
「同じ学校だったとか?」

 そのさざめきが私には不愉快だった。嫌な波紋が、私の中に広がる。私の心境なんて当然夏川さんにはわかる訳もなく、楽しげに言葉を続ける。

「あのね、今日はロケ来てたんだよ。で、ご褒美として屋台巡りしてこいって」
「それって映画で使うの? スタッフロールとか」
「使わない使わない。でも私が声かけられたりしないようにって、ADさんとかはずっと私についてきてるんだけどね、ほら」

 彼女が指差した先には、たしかによれよれのTシャツに冴えない雰囲気の男の人がいた。こちらが顔を向けると、誰この素人という顔できょとんとしてから会釈してくる。
 夏川さんは呑気に言う。

「ほんっとう、映画って楽しい。晴れ渡る空、青い海。なんか牧歌的な町。虫の鳴き声。作り物だらけの場所で、作り物じゃないものがいっぱい並んでるのって、楽しい!」

 彼女があまりにキラキラしていて、まぶしくて……だんだん私は吐き気がしてきた。私は蓮見さんに「すみません、ちょっとトイレに行ってきていいですか?」と声をかけると、蓮見さんは困った顔で頭を下げる。

「女の子に可哀想だけど、途中まで着いていっていいかい? こんな人だかりじゃ、スマホの電波が届かんだろ」
「大丈夫です、ひとりで行けます……ごめん、夏川さん。私、ちょっとトイレ……」
「あ、ごめんね……麻ちゃん。今楽しい?」

 最後にそう聞かれたけれど、喉の奥からだんだん咽付いてきて、これ以上ここに立ってはいられなくなった。私は「ごめん」とだけ謝ると、浴衣の裾が乱れるのも構わずに走り出していた。
 トイレは当然ながら混雑していたけれど、私があまりに青い顔をしているので、皆驚いて道を空けてくれた。洗面所は女の子たちが一生懸命髪を直している上に、私のものを見せるのは可哀想で、そのまま個室に飛び込むと、そのまま便器に顔を近付けていた。
 ……胃液の苦い味、酸っぱい臭いが通っていき、便所の臭いも、浴衣の裾のことも、気にしている余裕なんてなかった。
 思い出すのは、小さい頃、何度も何度もオーディションを受け続けた記憶。覚えたセリフを言っても、演技をしてみても、審査する大人たちはしかめっ面をしているだけだった。最初はどんぐりの背比べだったのに、どんどん突出した子が出てくる。その差はどんどん埋められなくなっていく。
 それでも。私はそれでもそこを離れたくなかった。
 お母さんに言われたから? わからない。
 それしか生き方を知らなかったから? 覚えてない。
 頭の中がぐるぐるしてきて、口元をトイレットペーパーで拭って、どうにか立ち上がる。浴衣の裾を正してから、トイレを流して立ち上がった。ときおり私のことを怪訝な顔で見る子たちに出会うのは、私が戻したことに気付いたのかもしれない。

『ねえ』

 女子トイレの前に、ぽつんと立っていた青田が声をかけてきた。用を足してないにもかかわらず、律儀に外にいたらしい。私は声を上げる気力もなく、青田を見る。

『麻はさっきの綺麗な子と知り合いだったんだよね?』
「……子役やっていたときの知り合い。大手の事務所にスカウトされて、本人はそれにかまけることなく演技を磨いて、可愛くて……本当に、全然叶わない」
『そう? でもあの子は輝いてたね、好きなことをしているせいなのかな』

 青田がなにを言いたいのかがわからず、私はだんだんとイライラしてきた。

「もう、置いてくよ」
『でも僕は麻も同じくらいに輝いて見えるけど』
「……え?」

 意味がわからない。勝手になにかに怒って、イライラして、全然可愛げのない私にそんなことを言う青田が信じられず、思わず凝視する。
 青田は屋台の提灯を透かしながら、いつもの調子で穏やかに笑っていた。

『僕はずっと見てきたよ。脚本に手を加えている様も、コンテを切っているときも、セリフ合わせを手伝ったり、カメラを回したり、新しいカットを考えているのも、全部見てきた。どれも麻は、輝いていた』
「……気持ち悪いこと言わないで。あんたが、私のなにを知っているというの?」
『出会う前の麻のことは知らないよ。でも出会ってから今までの麻のことは、僕はよく知ってる。今まではどんなに一生懸命脚本を書いたものが放ったらかしにされてても。どこか楽観的だったんだ。誰も脚本に気付いてくれないってことは、誰も捨てないってことだから、ずっとひとりでいる代わりに消えなくても成仏しなくってもいいんだってそう思ってたから。でも今は違うんだ』
「違うって……あんた、本当になんなの。いったいなにが言いたいの」
『どうして僕、死んじゃったんだろうって思ったんだ。映画監督になれなくってもいい。なにかの形で映画に携わっていたら、映画を通して麻に出会えたのにって』

 私はなにが言いたいのかわからず、ただ目を見開いていた。
 なに言ってるの。青田の書いた脚本を見つけなかったら、私は青田に出会うことなんてなかった。映画を撮ろうなんて思わなかった。本当になにを言っているの。
 私が困惑しているのを気にする素振りも見せず、青田はいつもの調子で言葉を続ける。
 口調こそ穏やかなものの、青田は頑固でいじけ虫で、自分勝手な奴だ。でも。

『だって麻が悔しがってるのって、こんなに楽しいところから引き離されたからでしょう? 女優になりたかったのか、映画を撮りたかったのかはわからないけど、君にとって一番楽しいのは、この課程でしょう?』
「あ……」

 ようやく。私の中でもやもやしていたものが、くっきりと言語化されたのがわかった。
 子役をクビになってから、私はずっと燻っていた。
 努力が実らなかったから? あれだけオーディションを受け続けたのに落ち続けたから? 端役をもらってもカメラに映してもらえなかったから?
 ……違う。私は。
 カメラを見ていると、いつもその向こう側の景色が見てみたくて、ずっとそれの向こうで遊んでいた。
 フレームの向こう側が見てみたい。それは、私はずっと女優になりたかったからだとそう思っていた。でも、違う。私は。
 役になりきる人々をフレームに収めたい。ここでこんな絵が欲しい、ここでこんな音楽を流したい、ここはもっと引いて、俯瞰して……。
 単純なことだったんだ。私は、ただ。映画をつくるという、フレームの向こう側をつくる作業がしたかった、それだけだったんだ。
 気付いた途端に、涙が溢れてきた。
 私が燻っていたのも、消化不良のまま、ただフレームの向こう側への憧れだけを抱いていたのも全部。青田の脚本に出会うためだったんだ。初めてだったんだ、自分でカメラを手にして撮ってみたいと思ったのは。
 青田は笑いながら言う。

『僕はもっと長く生きたかったな。そしたら、もっと早くに麻と出会えて、もっと一緒に映画をつくれたのに』
「……なに言ってるの、ばっかじゃないの」

 私は涙を必死で拭いながら言う。
 潮の匂いと一緒に、火薬の匂いが漂ってきた。そろそろ花火大会がはじまるんだろう。置いてきてしまった蓮見さんに謝りたいし、矢車さんと清水とも合流したい。

「……あんたがいなかったら、あんたの脚本じゃなかったら、今の私はいないの」
『僕はもう、死んでる人間だよ?』
「それでも、今のあんたじゃなかったらいけなかったんだ」

 既に死んでいる人間に、そんなひどい話はあったもんじゃないと思う。それでも言わずにはいられなかった。
『空色』の脚本じゃなかったら、私はここまで頑張れなかった。
 同じクラスメイトの矢車さんに声をかけることも、年の離れた同級生の蓮見さんに怒られることも、校舎裏でくすぶっている清水を巻き込むことだってなかったんだ。
 それをさせたのは、青田だったんだから。

「ありがとう」

 その素直な言葉がポロリと零れた。
 青田は見ているだけだし、ムカつくし、脳天気なことを言うけれど、それでもこいつじゃなかったら、私は映画を撮っていなかったんだから。
 青田は少しだけ驚いた顔をして、こちらを見た。
 やがて。真っ黒な空に、しゅるしゅると白い煙が立ち昇った。
 ポン。と夜空に花が咲く。それに青田は我に返って破顔した。

『ああ、はじまっちゃったね。そろそろ戻ろう。撮影、するんでしょう?』
「するよ。なんのためにここに来たんだかわかりゃしないから」
『じゃあ行こう』

 青田は私の手を取って引っ張ろうとするけれど、当然ながら透けて私の手は掴めない。それでも私は、透けている彼の手を取っていた。
 端から見たら、きっと手を不自然に浮かせているように見えるだろうけど、皆夜空の花火に夢中だ。きっと気にしない。私たちは、急いで元来た道を戻りはじめたのだ。
 浜辺のほうは大混雑で、もう近付けそうもない。一番海に近いところは人の群れが埋め尽くしていて、かろうじて浜辺から外れている場所に出る。それでも。
 シュルシュル、ポンッ。
 花火の打ち上がる音、高まる歓声は、外れからでもよく見られた。
 私が青田と一緒に戻ると、こちらのほうにカラカラと下駄を転がす音が響いてきた。矢車さんが心配そうに寄ってきたのだ。

「駒草さ、ん! 蓮見さんから、いきなりいなくなったって言われて、心配して……大丈夫?」

 こちらを気遣わしげに見てくるのに、申し訳なさが募る。矢車さんの背後では、蓮見さんと清水も見てくる。それに私は手を振る。

「大丈夫だから、ごめん。ちょっと人酔いして吐いてた」
「吐いてたって……駒草ちゃん大丈夫かい? 撮影は中止……」
「……やれます。矢車さん、清水。脚本は?」

 ふたりに話を振ると、矢車さんは一瞬驚いた顔をしながらもこくりと頷いてくれた。清水は「まじでやんのか……」と悪態はついているものの、別に中止にする気はないみたいだ。
 私は一度矢車さんのメイクのチェックをする。今は夜で、光源は花火と提灯の明かりだけだから、肌にほんのり塗ってからじゃないと、反射してくれない。私が持っていたポーチから化粧道具を出して直すのに、矢車さんは苦笑して「すごいね、駒草さん」と言うので、私はまた「別に」とだけ言っておいた。
 ふたりに浜辺の外れで寄り添う指示をしたあと「アクション!」と手を挙げて、手持ちのカメラを回しはじめた。
 空に映る、シュルシュル、ポンッと咲く花火。
 花火の明かりに照らされて笑う女の子と男の子。辺りには火薬の匂い、ソースの匂い、潮の匂い。
 その匂いは自然と胸を締め付けた。
 いつかは蝉は泣き止むし、キリギリスは鈴虫に取って代わられる。夏はいつかは終わるんだということを、私は何度も何度もカメラを回して、余すところなく撮り収めた。

『これで、必要なシーンは全部揃ったよね?』

 隣にやってきた青田に聞かれて、私は頷く。撮影自体はたしかに終了。でも。
 帰れば私が書いた絵コンテがある。そしてパソコンに入れたソフトがある。今まで撮ったシーンだけだったら、きっと矢車さんも清水も蓮見さんも訳がわかっていない。それらを全部整理して整えて見られるようにするのが、私の最後の仕事だ。
 じんわりと汗ばむ。夜にはまた、シュルシュル、ポンッと花火が上がる。
 私はそれを見ながら、青田に手を伸ばした。青田の手は透けて掴めないけれど、彼もまた私に手を伸ばして、繋ぐモーションをしてくれる。
 汗ばんだ手は繋げない。恋人ごっこすらできない。それでも。私は。

****

 家に帰ったら、私はパソコンに今まで撮ったデータを流し込んで、それを切って繋ぐという果てしない作業を続けていた。手元に絵コンテがあるから、それの通りに埋め込んでいけばいいんだけれど、画面転換や繋ぎ方が甘いと、せっかく撮ったいいシーンが次のシーンで無意味と化してしまう。だから場面転換は重要だ。

『このシーン、さっきまで昼だったのに、夜の絵が入るのは不自然だよ』
「なんで。さっきまでのシーンは昨日のことを夜に思い出してるって場面だからそれでいいんだよ」
『でもそれまでの説明が入ってないのに、見ている人がわかる訳ないでしょ。だからここは普通に昼のシーンを続けたほうがいいよ』
「でもこのシーンは回想だし、説明を入れるのは不自然だよ。このまんま行く」
『行ったら絶対このシーンは流し見されるから駄目だ』
「なんで」
『なんでも』

 パソコンでの作業には、何度も何度も青田が口を挟んできて、遅々として進まない。しまいにはベッドの枕を投げつけたけれど、残念ながら透ける奴には当たらないんだ。
 それでも。シーンを整え、フリーのBGMを流し込めば、だんだんそれらしいものへと変わっていくのがわかる。
 空の青。光と影のコントラスト。その中で「もうすぐ転校するんだ」と告げる女の子と、それをポカンとした顔で聞く男の子。
 ふたりの旅は逃避行にしては間延びし過ぎて、駆け落ちにしては冗長で、旅行というにはあまりにも切ない。その物語が少しずつ形になってきたのがわかった。
 撮ったシーンをパズルのように嵌め込んでいっただけ、撮っている最中のことも全部覚えているのに、脚本を読んだときに流れてきたイメージに、ひとつ、またひとつと近付いていっているんだ。

「だんだん、見たい絵に近付いてきたような気がする。でも、まだなにかが足りない」

 あたしはペットボトルを傾けて、嵌め込んだ映像を何度も何度も繰り返し見た。既に何度も何度も読んだ脚本は経年劣化のせいでバラバラになってしまい、ページごとにどうにか拾い集めて読みながら、映像を繰り返し見る。
 脚本通りのはずだ。脚本から読み取った映像はたしかにある。矢車さんの演技のセンスも、清水の表情も文句はないのに。なにかが決定的に足りないのに、私は首を捻る。
 私の横でそれを見ていた青田は『麻の映画だから、僕がなにかを言うのは控えようかと思ったんだけど』と声をかける。

「なに?」
『ふたりはこの旅行のあとに別れるんだよね? その別れるっていう決定的な部分を嵌め込めきれてないんじゃないの? お別れだっていう部分はたしかに描けているし、そのシーンも撮った。でもそれが収まり切れてない。絵だって光と影のコントラストで、最初に色を載せたら、次に影を濃く入れてから、その影だけ浮いてしまわないようにどんどんとぼかしていくでしょう? それと一緒。緩急を付けないといけないのに、印象がぼやけてしまっている』

 そう指摘されて、私はじっと画面を凝視した。
 ラスト。夕焼け空に長い影がふたつ。ふたりが元の町に帰るシーンだ。

「それじゃあ、帰ろうか」

 女の子が男の子に声をかけ、男の子は頷いて手を取り、手を繋いで帰っていく。
 情感溢れるシーンだから長く撮るべきだと撮ったけれど。このシーン。もっと短く区切ったほうが、最後のセリフが映える?
 私はマウスを動かし、細かくその部分の長さを調整する。
 夕焼け、長い影。一番印象に残る部分。私はそれを注意深く見て、部分部分を切り刻んでいった。
 手が一番最後に映るように調整を終えると、私は再び編集の終わった映画を流し見はじめた。
 最初に脚本を読んだときにむわりと放っていた夏の匂い。日差しの強さ、影の濃さ、青、白、黄色。
 それらが輝きを放って、こうして画面に収まっているのを見ると、これの監督は私のはずなのに、何故か涙が出てきた。
 この脚本を誰が書いたのか知っているのに。これを演じている女優と俳優の素を知っているのに。それでも、画面に映っているのは、たしかに脚本に描かれていた男の子と女の子であり、その瑞々しい光は、私の中には収まってなかったものなんだ。

「……折角つくったんだし、誰かに見てもらいたい」
『つて、あるの?』
「……探してみる」

 青田が私の椅子に三角座りをして、パソコンでリピート再生している『空色』の映像を凝視しているのを横目に、私はガサガサとクローゼットを漁りはじめた。
 クローゼットの奥には、たくさん箱が詰め込まれている。私が子役時代のものを捨てきれずに、でも目に入れるのも嫌で、段ボールの中に全部突っ込んで、クローゼットに押し込んでいたのだ。段ボールのひとつを取り出し、ガムテープに爪を立てるけれど、何年も突っ込んでいたせいか、爪では上手くガムテープが剥がれてくれない。仕方がないからカッターを持ってきて、段ボールに線を入れた。
 中には細かく埃が混ざり込んでいて、それをゲホリと咳をしながら中身を漁っていく。オーディションの脚本に、発声練習用のドリル。それらをどけていったら、隅のほうにカードホルダーが出てきた。大人たちから渡される名刺は、大事に持っておきなさいとはお母さんが言っていたけど。今、どれだけの大人とまともに連絡が取れるのかはわからないし、そもそも私はもう子役ですらない。厄介者扱いされるかもしれないけど。
 私はその中から一枚、名刺を取り出した。ずっと映画を三角座りで見ていた青田は、ようやく視線をこちらに移してきた。

『その名刺は?』
「……俳優さんの。もう引退しているはずだけど。平成初期って、梨本秋水さんって知ってる? 声に張りがなくなったからって引退された方なんだけど」
『梨本秋水! 知ってるよ、時代劇から刑事ドラマ、いるだけで、セリフもなしで場の空気を全部支配してしまう名優! そっかあ……もう引退されたんだあ……』

 青田が目を輝かせているのに、私は名刺をちらっと見る。
 いぶし銀な俳優は、本当にいるだけで場の空気が変わるし、周りの人たちは媚を売ったりするのに忙しかったけれど。子役だった私にとっては、一番優しい大人だったと思う。
 私のことを覚えているかわからないし、名刺の連絡先だって何年も前のものだから今でも使えるかわからないけど。私は名刺に記入されている電話番号を打つと、祈る気持ちでスマホを鳴らした。
 音は短く三回。

『もしもし梨本です』

 声の張りがなくなったと自己申告しているにしては、同年代よりも明らかにはっきりとした声が返ってきて、私の胸は跳ね上がった。

「お久しぶりです……駒草麻……です」
『おや、麻さんですか、お久しぶりです』

 その温かい言葉に、私は思わずポロリと涙を流した。
 このところ私の情緒は不安定だ。いきなり泣き出したり吐き出したりわめき散らしたり、ちょっと前の私だと全然考えられないような不安定なことばかりしている。
 梨本さんは私の申し出に、何度も何度も相槌を打ってから『それでは、名刺の場所に来られますか?』と言ってくれた。
 今だと個人情報保護法が機能しているというのに、昔ながらの考え方の梨本さんは、未だに名刺に住所も電話番号も記載してあった。
 私は何度も何度もお礼を言ってから、電話を切った。そして、天井に思わずガッツポーズを取り、青田をきょとんとさせる。

『梨本さん、なんて言ってたの』
「撮った映画、見てくれるって! すごい名優に見てもらえるなんて、本当に嬉しいし、緊張する……!」
『すごい、すごいよ、麻……!』

 私たちはまるで普通の高校生のように、手を取り合ってはしゃいでいた。さんざん笑って、私はベッドにどたっと倒れる。
 リピート再生の映像は、ふたりの逃避行が軽やかな音楽と共に流れている。
 私はベッドに大の字になり、ふとこちらを見下ろしている青田と目を合わせる。

「なに?」
『麻、人間らしくなったねえと思って』
「なによ、それ」
『うん。麻は一生懸命、諦観を覚えようとしていたから。うちの学校だったら普通にそんな人いるけどね、普通じゃないから、普通になれないから、落ちこぼれたから。そういっぱい諦める理由を並べて、今の自分を肯定させる人が。別に、それは悪いことじゃないと思うんだ。僕も単位制高校出身だしね。でもさ』

 青田はのんびりと言葉を続けた。

『今の自分を受け入れるのはいいんだ。でも、今楽しいことを探さない理由にはならないと思うんだよ。だって、楽しいことっていくらでもあるのに。なにも恋をしたり、旅行したり、バンドをはじめるだけじゃなくってさ。バイトしたり、本を読んだり、マンガを見たり。そんな楽しいことを探さないで、いじけて終わるのは、きっと寂しいことだと思うんだよ』
「……多分私は」

 青田の言葉を聞きながら、つい数ヶ月前、ううんもう数ヶ月前になったことを思い返した。私はもうフレームの向こう側には行けない。大人に勝手に引きずり回されて、勝手におだてられて、勝手に乗せられて来てしまった舞台だったし、実際にそこで芽は出なかった。でも。私の人生をこんなもんだと思うには、私は諦めがよすぎた。

「青田と出会った頃の私だったら、今の言葉、きっと届かなかったと思う。だって私、『可哀想』だったから」

 そう。私は「可哀想」だった。
「可哀想」は癖になる。もう頑張らなくていいという言い訳になる。
 お母さんのつくったレールに乗せられ、そのレール通りに進めなくって未だに修復しない私とお母さんの関係は「可哀想」だったんだ。「可哀想」だから、起き上がらなくってもいい。ただ愚痴だけ言って、寝転んで、どこにも辿り着けなくっても許されるって……そう、思い込もうとしていたんだ。

「今だったらわかる。休憩して、起き上がれるようになったら、自力で立ち上がらないといけないって。あんたがいたから、私はようやく立ち上がれるようになったの」
『僕、ただ脚本を映画化してって頼んだだけだよ?』
「私、あんなに脚本読んで感激したのに、すぐ諦める理由を探し出したでしょう? それが癖になっていたけど、ようやくその癖から抜け出せたの」

 私は口が悪い。まともな人間関係なんか築けなかったし、同年代はその他大勢かライバルしかいなかったから、仲のいい友達なんてつくれなかった。
 感謝しているんだ、これでも。そんな言葉を青田に言いたくっても、私の喉から出るのは、やっぱり耳障りのよくない言葉ばかりで、綺麗な感謝の言葉はひと言だって飛び出てはくれなかった。でも。
 青田は私のほうを、目を細めて笑う。部屋の中を透かして、綺麗な笑顔をしてこちらを見たのだ。

『残念だなあ』

 そうぽつんと漏らした。
 蝉の鳴き声はもうずいぶんと遠ざかった。代わりに風が吹けば鈴虫のコロコロという音が聞こえてくる。
 黄ばんで端の丸まった名刺を持って、私と青田は歩いていた。
 この辺りは閑静な高級住宅街なせいか、人通りはほとんどない。ときどき聞こえるのは足音ではなく高級車のエンジン音ばかりで、並んでいる家も大きな塀が見えるばかりでその向こうの家は頑張って塀を越えなければ見えることがない。
 街路樹の松の曲がる角度まで風流に思うのは、これから向かう梨本さん家が近いからだろうか。

『こんなところにずっと住んでたら、考え方も芸術的になるのかもね』

 青田はそう言いながら、ずっと街路樹のほうをくるくると回っている。私もそう思うけど、青田の言葉に乗るのも癪だから、「置いていくよ」と子供をたしなめる母親みたいなことを言うので精一杯だった。
 やがて、大きな木の扉が見えてきた。いぶし銀に光る瓦屋根。塀からほんの少しだけ零れて見える松の木。私は名刺に書かれた住所と電柱に書かれた住所を何度も何度も確認してから、チャイムを探した。
 チャイムのブブーッって音と一緒に、『はい』と響く男性の声。
 私は緊張しながら、チャイムに声をかけた。

「すみません、お電話しました駒草です」
『ああ、麻さんですね。お待ちください』

 そう言って声は途切れたと思ったら、ギギギと音を立てて木の扉が開いたのに、私はピクンと肩を跳ねさせた。これ、自動ドアだったんだ。
 私は青田と顔を見合わせてから、恐る恐る扉を通ると、また音を立てて木の扉が閉まった。背後を気にしながら、私たちは奥へと進む。
 庭は松に南天、りゅうのひげがぽつぽつと植わっている。それらを眺めながら、飛び石を飛び越えた先に、和風の外観の家が建っていた。
 門構えが立派なのに、ずいぶんと普通の家だな。そう思ってしまい、引き戸に手をかけていいものかどうかためらっている内に、向こうから戸が開いてくれた。
 私の記憶よりも背は小さくなった気がするし、テレビに出なくなったせいか髪はずいぶんと白くなってしまったけれど。場にいるだけで辺りに深みを与える雰囲気はそのままのおじいちゃん。梨本さんは穏やかな表情で私を見た。

「お久しぶりです、梨本さん」

 私は慌てて礼をすると、隣で青田も見えないくせに同じことをする。
 そんな反応でも、梨本さんは雰囲気を崩すことなく、私を見守る。

「お久しぶりです、麻さん。ずいぶんと美しい娘さんに成長しましたね」
「ありがとうございます……私はもう、女優として立てませんが」
「あれは事務所が見る目がなかっただけのこと。あなたには充分その場を引き締める存在感があると思いますよ」
「それは、梨本さんの贔屓目ですよ」

 私が小さかっただけではなく、誰に対してもこんな調子の梨本さんに思わず口元を綻ばせていたら、梨本さんが「立ち話も難ですからお入りなさい」と言って招き入れてくれた。
 おずおずと中に入ると、梨本さんは引退したとは思えないほどしっかりとした足取りで私をリビングに案内してくれた。麦茶まで入れてくれたのに申し訳なく思ったけれど、梨本さんは穏やかなままだ。

「もう孫も帰ってしまって寂しかったですからね。麻さんが老いぼれのところに遊びに来てくれてちょうどよかったんですよ」
「そんなこと、ないですよ……これ、私が学校の友達と撮った映画なんです」

 私が焼いたばかりのブルーレイディスクを差し出すと、梨本さんは目を細めて頷いた。

「あなたはいつか映画を撮ると思っていましたが。思っているより早かったですね」
「……私、子役としては全然芽が出ませんでした。でも何故俳優さんたちが私をそこまで可愛がってくれていたのか、未だにわからないんです」
「簡単なことですよ。あなたは自分が映ることよりも、カメラの向こう側のことばかりこだわっていた。いい演技じゃなくって、その場で一番いい演技を気にし、そのときの天気や役者の機嫌のことを当然のように気にしていました。女優の皆さんはどこまで気付いたのかはわかりませんが、俳優陣は皆思ったものですよ。あなたの考え方は明らかに撮られるほうの考え方じゃない。撮るほうの考え方だとね」

 自分だとちっとも自覚がなかった。
 役者というものは映画で一番映える瞬間を気にするものじゃなかったんだろうか。どんなに綺麗な女優だって、逆光を浴びたら美しさが陰ってしまう。どんなに演技上手な俳優さんだって、体調が万全でなかったら、演技に全て集中できずにどこかでボロが出てしまう。

「そんなつもりは全然ありませんでした」
「麻さんはそうだったかもしれないですね。でもあなたがいたからこそ、場の空気が和やかになり、返って演技に集中できました。あの場にいた俳優は皆、そう思っていたと思いますよ。さて、あなたの処女作ですか」
「あ、はい」

 私は梨本さんにプレイヤーの使い方を聞いてから、怖々とディスクをセットする。
 それがくるくると流れる中、私は怖々と横目で梨本さんを見ていた。
 いい映画だ、と思う。青田の脚本はよかった。矢車さんの演技は光っていた。清水の顔芸はカメラ映りがよかった。そしてサポートに蓮見さんがずっと回ってくれていた。
 私のカメラ撮りが下手で、編集がみっともなくて、それで皆のよさを殺してしまっていたら、それは嫌だなあ。
 梨本さんは口元を手で抑え、真剣な目で画面を見ていた。体は動かず、一分一秒でもその画面を眺めるように。
 やがて。最後の部分に入った。
 ふたりが手を繋いで、故郷に帰る場面。
 夕焼けが彩って終わったそのシーン。ディスクも途切れて、終了だ。

「ふむ……驚きました」

 梨本さんは『空色』を見ている間、ちっとも動かなかった表情筋を豊かに動かして、こちらに振り返った。それは、いい食事を摂ったときのように、満足感に満ちあふれているものだった。

「これは本当に、今の麻さんでなかったら撮れなかったものでしょうね。俳優の演技は拙く、脚本も魅せる部分と冗長的な部分とどちらもありましたが、それらがなかったら、この映画は完成しませんでした」
「え? それは、どういう意味でしょうか……?」

 脚本のことで、青田が顔を赤くしたり青くしたりしてうろたえている中、梨本さんは満足げに椅子にもたれかかった。

「この映画は、完全な角度、完璧な俳優、魅力的な脚本では、決して胸に迫るものではありません。拙くても不格好でも、これでなければ人は感動しません。人の心の奥にしまい込んでいる青春というものをすくい取った作品であり、今の麻さんでなければ、決して撮れないものでしょうね……私も学生時代を思い出しました」
「それじゃ……」
「本当に、面白い作品でした」

 それに、私はガッツポーズを取っていた。隣で、青田も万歳三唱をしている。ふたりでワーワーはしゃいでいるのを、梨本さんはまぶしげに目を細めてくるので、私は我に返って握った拳を下ろした。

「あ、あの……すみません。勝手にはしゃいでしまって」
「いえ。麻さん、次回作は予定がありますか?」
「え……?」

 そう言われて、私は止まった。
 この脚本は青田のものだ。私自身が書いたものではない。私が首を振ると、梨本さんはゆったりとした笑みで小首を傾げた。

「あなたはたくさん撮ったほうがいいですよ。あなたは美しいものをフレームの中に収め、それを撮る才能がある。あなたと映画を撮った皆さんも、原石のような存在です。原石は磨かなければそれはただの石と変わりません。が、磨けば誰よりも光り輝くものです……次の作品、客演が必要でしたら、お呼びください。出演料は取りますが」

 それに私も青田も口を開けてしまった。声が出なくなってしまっても、その存在感だけで場を塗り替えてしまう人を、客演にすることができたら。きっとどんな映画にだって負けないものがつくれる。
 脚本は書いたことがないけれど、撮りたいテーマができたら、それを当て書きすればいい。今度はなにを撮ろう。どんなものを映そう。
 私は何度も何度も、梨本さんに頭を下げた。梨本さんはただ、微笑んで私に微笑むばかりだった。

****

 梨本さんの家を出て、私は青田に振り返る。映画はこうして撮ったはずなのに、未だに青田は景色を透かして見えるとはいえど、消える気配がなかった。

「ねえ、青田。あんたいつ消えるの?」
『うーん……多分もうそろそろ消えちゃうと思うんだけどな。残念だなあ……』

 青田はそうポツリと言うのに、私は青田が空を仰ぐのを見る。青田は相変わらずおっとりとした顔で、茜色を透かしながら、風を受けている。
 風も変わった。少し前までは粘るような湿度を含んでいたというのに、今はさらさらとした心地いい風だ。夏も、もうそろそろ終わろうとしている。青田はようやく私と目を合わせた。
 どこまでもどこまでも、穏やかな顔のままだ。

『梨本さんの映画、撮りたかったなあ』
「そう。残念。私は撮るけどね、あの人は声に張りこそなくなったけど、今でも名優だもの」
『『空色』、ずっと褒められてたもんね』
「うん。まさかあそこまで褒められるとは思わなかった……拙いっていうのは、わかっているけど」
『芸術家って、もっと駄目なものはびっくりするほどこき下ろすから。梨本さんはそれをしなかったじゃない』
「そうなんだけど、ね」
『残念だなあ……、もっと脚本が書いてみたかったのに』

 そうポツンと言うのに、私は押し黙る。
 ……私は、青田の脚本じゃなかったら、ここまで撮りたいという衝動に駆られただろうか。青田にさんざん反抗して、生意気なこと言って、自分の人生の中で一番体を使っただろうか。
 青田の脚本は青田のものであって、私があれみたいなものが書けるかなんてわからない。私は空を仰ぐ。金色の筋雲を残して、どんどん空が青ざめていく。

「前にも言ったと思うけど、あんたがいなかったら。私はこんな映画、撮れなかった。あんたの脚本に、あんたの言葉に、あんたの視点。それがなかったら、無理だった……ありがとう」
『僕、本当になにもしてないよ? ただ成仏できなかっただけで』
「ばっか、そもそも成仏できないで未練がましく脚本にずっと取り憑いている奴のどこがなにもしてないっていうのよ。それだけ、映画に執着してたってことでしょ? 完成したのが見たかったんでしょ?」
『あはは……うん、ようやく、完成した』

 青田はしみじみと笑いながら、ふいに私の髪に触れた。私の髪を触ったところで、あいつは触れるはずないし、私もなにも感じないけど。少しだけ名残惜しそうに目尻を下げながら、青田はゆるりと口元を綻ばす。

『君が撮るもの、全部見たかったのにな』
「……やっぱり、もう消えそうなの?」
『多分ね、さっきから眠いんだ。死んでからちっとも眠くならなかったのに、映画を見終わってから、意識を集中してないとあっという間に寝ちゃいそう……ねえ麻』
「なによ」
『キスしていい? 死ぬ前もしたことがなかったんだ』

 唐突な申し出に、私は少しだけ目を瞬かせた。
 ばっかみたいだ。だって何度髪に触れても手が透けるだけの青田にキスをしたところで、私のファーストキスは奪われない。青田だってそんなことわかっているだろうに。
 馬鹿だ馬鹿だとわかっていながらも、私は少しだけ目を瞑った。
 少しだけ薄目を開けたら、青田もまた薄く目を開けながら、恐る恐る唇を尖らせていた。本当に、馬鹿みたいだ。
 ファーストキスはレモン味とか、チョコレート味とか。そんなことを言う人はいるけれど、なにも味がしないどころか、なんの感触もないファーストキスってそれはいいのか。でも。
 私はこのキスのことを忘れることがないだろう。
 夜が近付いてきて、だんだんと青田の姿が風に流れていった。

『ありがとう』

 そのひと言だけを残して、とうとう姿が見えなくなってしまった。
 ばっかみたいだ。脚本だってすっかりとバラバラになってしまって、ファイルに収めていないとバラバラになってしまう。三か月は一緒にいたのに、あいつのことは写真ひとつ撮ることができない。
 でも、私の中に滑り込んできたあいつのことを、私は忘れることなんてできないだろう。

「それは、こっちのセリフ」

 私の言葉もまた、夜空に解けて消えていった。
 図書館の予備室にテレビとディスクプレイヤーを持ち込んで、映画を流す。
 皆も脚本に目を通していたし、撮影現場にも立っていたから、画面に映っている人物の人となりも撮影裏情報も全部知っているはずだ。
 それでも。矢車さんは目尻に涙をいっぱい溜めて画面を凝視していた。最初はヘラヘラしてあっちこっちに視線を逸らしていた清水も、最後には画面をまじまじと眺めていた。顎をしゃくりながら、蓮見さんはにこにこと笑っていた。青野先生は最初から最後まで完全に観客で、「すごいわねえ……」と場面が切り替わるたびに、感嘆の声を漏らしていた。
 最後の夕日のシーンで映画が終わったとき、引き締まっていた空気が途端に緩む。

「す……ごっく、よかった……よかったよ……」
「ちょっと、矢車さん。泣かないで。そもそも主演はあなたでしょ」
「わ、私も……あの脚本がなかったら、あんな演技できなかったから……だから、あれは脚本がよくって、蓮見さんの服がよくって……」

 矢車さんと来たら、画面で透明感のある女の子をこれでもかと演じていたのが嘘かと思うほど、顔をぐしゃぐしゃにして泣いていた。待って、たしかにお別れの話なんだけど、そこまで泣く要素はなかったと思うんだけど。
 清水はというと、ガシガシと頭を掻いている。

「はあ……あんなんになるんだなあ……俺、ただ立ってただけだと思うんだけど」
「そうね。あんた、主演なのに演技最悪だったし。セリフ棒読みだし、いいところちっともなかった」
「はあ!? なら誘うなっての!」
「でもあんた、びっくりするくらいカメラ映えしたのよ。顔がいいっていうか、カメラ映りがいいっていうか」
「それ褒めてんのか貶めてんのかどっちだ!?」

 どっちもなんだけど。最初はこいつをスカウトするんじゃないかと後悔したけど、こんなにカメラ映えする奴を手放すのも惜しくて、どうにかセリフなしで撮る路線に変えたんじゃないか。何度セリフ削るたびに青田が悲しげな顔をしてこっちを見てくるのを無視したのか言ってやりたい。青田って誰、で終わりそうだけど。
 蓮見さんは顎をさすりながら、目を細める。

「すごいなあ……なんというか、こそばゆい」
「こそばゆいですか……?」

 そういえば、こんなの今の私じゃないと撮れないとは、梨本さんも言っていたような。それに蓮見さんだけでなく青野先生まで同意したように頷いてくる。
 蓮見さんはギチッと音を立てて椅子を座り直すと、しみじみとした口調で言ってくる。

「なんというか、成人したら恥ずかしくって落としてくるようなものを全部拾い集めたみたいで、こんなもの成人だったらまず撮れないだろうなあってそう思ったよ。手伝いしてた俺が言うのも難だけどなあ」
「そうねえ。なんというか、うちの学校の子たちにどうにか見せてあげたいなあと思ったわ」
「うちの学校のって、大袈裟じゃないですか?」
「せめてコンクールに出したほうがいいと思うけど。動画サイトだったら、いろいろ難しいかもしれないけど」

 意外な反応で、私がきょとんとしていると、青野先生は頬杖を突きながら頷く。

「うちの学校の子って全体的に諦め癖がついてるから。取りこぼされた子たちが集まってるからかもしれないし、社会が全体的に余裕がなくなっているせいで、子供でいられる期間がどんどん短くなっているから。なにもね、資格を取るなとか、勉強するなって言っている訳じゃないの。ただ、馬鹿なことができる時間、羽目を外せる時間を大切にしなさいって言っているだけで。一度社会に組み込まれてから、なにかの拍子にはみ出ちゃったとき、本当なら別に死ぬことはないの。でも、一度も取りこぼされたことがない子って、一度レールから外れたら死ぬしかないって思い詰めちゃう子が多いのよ。全然そんなことはないのに。だから、取りこぼしたものを拾い集めるっていうのは、大事だと思うわ」

 青野先生の言っていることはちんぷんかんぷんで、私にはいまいちピンと来なかった。ちらっと見てみると、矢車さんは膝に視線を落としてしまったし、清水は気まずい顔で視線をふいっと修理している本の山に向けてしまった。どうにもふたりには心当たりがあるらしい。
 蓮見さんは穏やかに笑う。

「わからないなら、まだわからんでいいよ。ただ、この映画をこのままにするのはもったいないって先生も言っているだけだから。そうでしょう?」
「ええ。本当にそう思っただけだから。そういえば、また新しく撮るの?」
「えっと」

 皆の視線が私に集中したので、私は少しだけ考えてから、頷く。

「私も、前は脚本があったから撮れたけど、今度は脚本を書くところからはじめないといけないから、時間がかかると思う。でも、撮りたい話があります」
「え……もう次回作、あるの……? つ、ぎは……私、脚本書きたいな……」

 そう言っておずおずと矢車さんが手を挙げる。本が好きイコール文が書ける、脚本が書けるわけじゃないけど、私の書きたいイメージを具現化してもらえる手伝いがしてもらえるならありがたい。
 私は「よろしく、女優も」と言うと、矢車さんは顔を真っ赤にして首を横に振ってしまった。

「つ、次は、駒草さんが女優をやったほうが……!」
「この間、知り合いに言われたの。私は撮られるほうよりも撮るほうが向いてるって」
「え、誰だよ。それ」
「知り合い」

 いくらテレビやドラマを見なくっても、名前くらい聞いたことがある俳優の名前を出したらひっくり返ってしまうだろうから、梨本さんの名前を出すのは控えておいた。
 新しい映画を撮るんだったら、次はいったいどんな場所で撮ろう。時期は。場所は。そんなことを話し合いながら、休み時間は終了したのだ。

****

 もう鈴虫の鳴き声が聞こえているのにも関わらず、未だにクーラーは現役のままだった。空調のブオンという音が、ときどき私の机の上に散らばったプリントを吹き飛ばそうとするので、重りとしてスマホを上に乗せていた。
 私はパソコンで検索をかけ、気になった項目はプリントして、それらをまとめてホッチキスで留めている。脚本を書いてくれる矢車さんに、資料として渡そうと思ったんだ。
 荒唐無稽が過ぎる話だから、せめて説得力があるように書きたいと、あれこれと資料をかき集めている最中。梨本さんに話を聞けたらそれが一番いいんだろうけれど、引退されている方にそう何度も何度もご足労かけるのも忍びなかった。
 部屋のドアが鳴った。

「なに?」
「お母さんだけど。麻、少し話があるんだけど」

 今度はいったいなにを言うつもりなんだろう。鉛を飲み込んだ気分になりながら、私はリビングへと出て行った。
 お母さんは私が子役をクビになってから、すっかりと老け込んでしまった。一時期は本当にギラついていて、私以上に他の子役の子を憎々しげに見ていたのを、私は悲しく思っていた。
 友達にはなれなかったけれど、一緒にレッスンを受けて、一緒にオーディションを受けた相手だ。それをそんな目で見て欲しくはなかった。
 今はあれだけ髪の色に気をつけて、栗色の髪をキープしていたお母さんの髪は、すっかりと白くなってしまった。アッシュグレイといえば聞こえはいいけど、それよりももっと白髪がピンピンと混ざっている。

「なに?」
「麻。あんた、大学はどうするつもり?」

 それに私はなんとも言えなくなる。
 青野先生が言っていた言葉を思い出す。子供でいられる時間が短くなっているっていう。今は大学に行ったら行ったですぐに就職活動だと言うし、普通の高校でもすぐに大学受験を視野に入れた人生設計を強要されている。
 そのほうが賢いから。一度失敗したらやり直しが利かないから。そう何度も何度も刷り込まれて、追い詰められていく。
 私は少しだけ考えてから、口を開いた。

「行きたい」
「そう……なら、そろそろ予備校に行くことを考えないと。だってこのままだったら高卒資格しか取れないでしょう?」
「予備校には行かない。でも大学受験はする」
「なんでそんなことを言うの」
「……お母さん」

 もしこれらをずっと見ていた青田は、なんと言うのかを考えた。青田の生きていた時代は、まだバブル崩壊もしていなかったし、もっといろんなものが安かった時代だと思うけど。今ほど閉塞感はなかったんじゃないかな。
 私は。

「お母さん、私はお母さんじゃないよ」
「……なに言ってるの。麻がお母さんな訳ないでしょ」
「そうだけど、そうじゃなくって。私は、お母さんじゃないから、お母さんのやりたいことを全部はできないよ」

 そうだ。それが一番言いたかったことだ。
 私を生かしてくれている。私を単位制高校に入れてくれたこと。そこは感謝している。でも私はお母さんがいいと思ったレールにそのまま乗って生きられるとは思えない。

「私、女優にはなれないと思うし向いてなかったと思う。でも、撮るほうは好きだよ。学校に入って、撮るほうをもっと勉強したいと思ってる」
「……なに言ってるの。それで食べていけると思ってるの?」
「私、ただ生かされているのは嫌だよ。それ、死んでいるのとなにが違うの。私、生きてたいよ。お母さん。私を生きてる人間にしてよ」

 私は、お母さんの人生の代替品じゃないよ。失敗してリセットしてリライトすれば、いつかお母さんの思い通りに生きられる人間になれるわけじゃないんだよ。
 そう思った言葉は、喉の奥に押し留めて吐き出すことはしなかった。
 お母さんは一瞬喉を詰まらせてこちらを睨んだあと、深く息を吐いた。

「……お母さん、麻をそんな風に育てる気はなかったのに。もう好きにしなさい」

 それが、「もう好き勝手にしていい」という意味なのか、「もう好きに生きていい」って意味なのかが、わからなかった。
 お母さんがそのまま去って行くのを見ながら、私は息を整えた。
 バイトをして、少しでもいいから貯金して、ここを出て行こう。ただ生きているだけの人間だったら、きっと春先までの私みたいに、ただ性格が悪いだけのいい加減な人間になるところだった。
 今だったら、まだ間に合うから。
 図書館の予備室で、私と矢車さんは向かい合って資料と睨めっこしていた。青野先生があれこれと参考になる本を見つけてくれて、それをコピーして広げ、私がプリントしておいた資料も広げて、それをめくっている。

「幽霊の男の子に頼まれて、映画を撮る話なんだ……でもこれ、カメラで撮るのって難しくない? だって幽霊なんでしょう?」
「幽霊がずっと恋人の近くで見守っている映画はあったでしょう? あとホラーでも幽霊に足を捕まれたりするものもあるし、地縛霊に付きまとわれるコメディーもあるから、そこはあんまり問題ないと思う」
「うん、そうなんだけど……」

 私の要望をメモに取りながら、矢車さんは眉をひそませて資料を眺めていた。
 女優になるように育てられた女の子が事務所をクビになり、自棄を起こしたせいで定期制高校に編入。ひとりになれる場所を探していて脚本を見つける。そこでかつて映画部に所属していて脚本を書いていた男の子から映画を撮ってくれるように頼まれる……。
 私が印刷してきたのも、女優のオーディション現場や編入手続きについての質疑応答、あとロケに安く使えそうな場所の参考資料だった。ちなみに青野先生が探してくれた資料は、映画内で撮る著作権の切れている純文学だ。
 矢車さんはそれに頭を悩ませながら、少しずつ土台になる設定を詰めていた。

「幽霊は映画を撮り終わったら最後、成仏するって方向でいいの? 恋愛ものだったら、永遠の愛を誓っていなくなったりするし、コメディーによっては背後霊になってそのまんまっていうのもあるけど」
「成仏するほうが綺麗かな」
「なるほど……青春映画って感じになるのかな」

 矢車さんはメモを書き留めてから、ふとこちらを見る。

「なに?」
「うん……駒草さんはすごくミステリアスな人だから、この話の一割でも本当のことが混ざってたら面白いなと思っただけで」
「……そんなこと言ってたら、ミステリー小説家は皆殺人を犯してなかったらいけないし、恋愛小説家は皆不倫経験がないと駄目だし、ホラー小説家は皆霊感持ちで幽霊が見えてないといけないんだけど」
「あはは……それはないね、たしかに」

 そう言って誤魔化しきれたことにほっとしていたら、矢車さんはメモに書き留めてから「あと」と言う。

「この映画、タイトルはどうするの?」
「そうだね……『フレームの向こう側』がいいかな」
「フレーム? カメラで撮るんだったらファインダーじゃないの?」
「映画は今でこそ全部デジタルで撮られていたけど、昔はフィルムに一秒ごとに24コマで撮影されてたの。で、そのコマのことを英語でフレームと呼ぶ」
「ああ! テレビで映画を見てるとき、番宣のときに出てくるフィルムのアニメが出てくるけど」
「うん。あれがフレーム。フレームの向こう側を知りたいって渇望している女の子と、そのフレームの向こうへと連れて行ってくれる男の子の話が撮りたいんだ」

 私はそう言うと、矢車さんは目を細めて、それらを書き込んでいった。

「うん。『フレームの向こう側』。いいタイトルだと思う。ねえ、この私たちのやり取りも脚本の中に組み込んでもいいかな?」
「別にいいけど。でも監督は私だから、もしかしたらカットするかもしれないけど」
「できる限りカットされないように、話の主軸に組み込んでみるから……駒草さんは、やっぱりミステリアスな人だね」

 そう言ってうっとりとした顔で笑う矢車さんに、私もつられて笑った。
 自分はたいした人間じゃない。ただ、人とはちょっと違った人生を歩いていただけだ。

 私には、こんな人生は無縁だってそう思っていた。でも、こんな生き方もあるんだって、この夏に初めて知った。
 青田。あんたに会わなかったら、今の私はいなかった。唇に触れても、なんの感触もないけれど。あんたに会えたこのことだけは、決して忘れてやらない。

<了>

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