夜になったら、昼間の湿気の存在感がほんの少しだけなりを潜め、ジリジリと鳴く虫の音を耳にしながら浜辺を歩く。夜になったら、潮の香りがより一層際立つような気がする。浴衣は人の目を涼ませるものらしくって、着ているとちっとも涼しくない。汗でペタンと張り付いて気持ち悪い。
 私と矢車さんは浴衣を着て、清水と蓮見さんはTシャツ姿で私たちのほんの少し後ろを歩いてくれる。青野先生はというと「先生が青春の邪魔しちゃ駄目でしょー」と言って、家でひとりビール片手に手を振って私たちを見送ったのは、単純に今日一日くらいは羽目を外したいだけだと思う。
 花火の場所は昼間からブルーシートを張って場所取りをしていたのだろう。人がわんさか浜辺のほうに出て花火を待っている。花火がはじまったら撮影をしたいけれど、今は屋台の提灯を撮るので精一杯だろう。
 蓮見さんは人だかりになってしまっている浜辺のほうに手をかざす。

「先生によると、花火は海に出ている船から打ち上げられるんだと」
「ふーん。まあ後ろのほうからでも空見上げれば花火は見れんのか。あ、屋台でなに食うのお前ら」

 清水に聞かれて、矢車さんは「たこ焼き」私は「かき氷、いちご」と答えると、清水は心底嫌そうな顔で「たこ焼きとかき氷、遠いじゃねえか」とぼやく。それに蓮見さんが「なら俺がかき氷だから、清水はたこ焼きを矢車ちゃんと買ってきな」と提案する。それに清水はひるんだような顔をしてみせ、矢車さんはうろたえたような、助けを求めるような顔で私のほうを見てきた。
 ……人の惚れた腫れたなんて、私にどうすりゃいいの。私はちらっと青田を見ると、青田は透けた姿で屋台を見回し、のんびりと『どの時代も屋台の周りだけはあんまり変わらないよね』とぼやいていた。平成初期と今だったら、環境なんて全然違うだろうけれど、お祭りだけは一緒だったんだろうかと私はぼんやりと考えた。
 蓮見さんと一緒に私はかき氷を買いに来たら、かき氷屋の前は人だかりになっていた。

「おや、今日は暑いからって、ずいぶんと人多いなあ」
「そうですよね」

 私と蓮見さんが首を傾げていたところで、「あぁー!!」と甲高い声が飛んだ。

「麻ちゃん! もしかして麻ちゃんじゃないの!?」

 弾んだ声をかけられて、私の心臓は跳ね上がる。嫌な音を立てて鳴る鼓動のまま私は声をかけてきた甲高い声の子に振り返った。
 凹凸のはっきりした顔、化粧だとわからないくらいにきめ細やかにつくられたナチュラルメイクも彼女の可憐さを引き立てるスパイスにしかならない、髪はすとんと真っ直ぐなストレート。そして白い地に赤と黒の出目金が泳いでいる浴衣を着ていた。
 この子は……頭を探らなくても、嫌でも広告で目に付く女の子だった。
 夏川あやめ。私と一緒に子役オーディションを受け続けて、いち早く主演を射止めて、子役から女優に羽化した……同期で一番の出世株だ。
 蓮見さんもさすがに夏川さんのことは誰だかわかったらしく、ひたすら首を傾げている。

「ん? 駒草ちゃん、夏川あやめ……ちゃんと知り合いか?」
「麻ちゃん、このおじさん誰? まさか、麻ちゃんの……」

 いくら子役クビになったからと言っても、パパ活やるほどメンタルまで落ちぶれてはいないんだけど。そもそも真面目に高卒資格取ろうとしている蓮見さんに失礼だ。私はイラッとするのをどうにか胸の奥にしまいこんで、フォローを入れる。

「……同じ学校の人だよ」
「同じ学校って……ああ、先生ですか! すみません、早とちりしてしまって!」

 同級生だとは、どうも彼女は思わなかったらしい。彼女のハキハキとした態度に、蓮見さんは毒気を抜かれたように「どうも」とペコンと頭を下げる。
 周りは密やかに声が波打っていくのがわかる。

「あの可愛い子誰?」
「あやめちゃんの友達?」
「でもあやめちゃんって子役時代からずっと芸能界にいるんじゃ?」
「同じ学校だったとか?」

 そのさざめきが私には不愉快だった。嫌な波紋が、私の中に広がる。私の心境なんて当然夏川さんにはわかる訳もなく、楽しげに言葉を続ける。

「あのね、今日はロケ来てたんだよ。で、ご褒美として屋台巡りしてこいって」
「それって映画で使うの? スタッフロールとか」
「使わない使わない。でも私が声かけられたりしないようにって、ADさんとかはずっと私についてきてるんだけどね、ほら」

 彼女が指差した先には、たしかによれよれのTシャツに冴えない雰囲気の男の人がいた。こちらが顔を向けると、誰この素人という顔できょとんとしてから会釈してくる。
 夏川さんは呑気に言う。

「ほんっとう、映画って楽しい。晴れ渡る空、青い海。なんか牧歌的な町。虫の鳴き声。作り物だらけの場所で、作り物じゃないものがいっぱい並んでるのって、楽しい!」

 彼女があまりにキラキラしていて、まぶしくて……だんだん私は吐き気がしてきた。私は蓮見さんに「すみません、ちょっとトイレに行ってきていいですか?」と声をかけると、蓮見さんは困った顔で頭を下げる。

「女の子に可哀想だけど、途中まで着いていっていいかい? こんな人だかりじゃ、スマホの電波が届かんだろ」
「大丈夫です、ひとりで行けます……ごめん、夏川さん。私、ちょっとトイレ……」
「あ、ごめんね……麻ちゃん。今楽しい?」

 最後にそう聞かれたけれど、喉の奥からだんだん咽付いてきて、これ以上ここに立ってはいられなくなった。私は「ごめん」とだけ謝ると、浴衣の裾が乱れるのも構わずに走り出していた。
 トイレは当然ながら混雑していたけれど、私があまりに青い顔をしているので、皆驚いて道を空けてくれた。洗面所は女の子たちが一生懸命髪を直している上に、私のものを見せるのは可哀想で、そのまま個室に飛び込むと、そのまま便器に顔を近付けていた。
 ……胃液の苦い味、酸っぱい臭いが通っていき、便所の臭いも、浴衣の裾のことも、気にしている余裕なんてなかった。
 思い出すのは、小さい頃、何度も何度もオーディションを受け続けた記憶。覚えたセリフを言っても、演技をしてみても、審査する大人たちはしかめっ面をしているだけだった。最初はどんぐりの背比べだったのに、どんどん突出した子が出てくる。その差はどんどん埋められなくなっていく。
 それでも。私はそれでもそこを離れたくなかった。
 お母さんに言われたから? わからない。
 それしか生き方を知らなかったから? 覚えてない。
 頭の中がぐるぐるしてきて、口元をトイレットペーパーで拭って、どうにか立ち上がる。浴衣の裾を正してから、トイレを流して立ち上がった。ときおり私のことを怪訝な顔で見る子たちに出会うのは、私が戻したことに気付いたのかもしれない。

『ねえ』

 女子トイレの前に、ぽつんと立っていた青田が声をかけてきた。用を足してないにもかかわらず、律儀に外にいたらしい。私は声を上げる気力もなく、青田を見る。

『麻はさっきの綺麗な子と知り合いだったんだよね?』
「……子役やっていたときの知り合い。大手の事務所にスカウトされて、本人はそれにかまけることなく演技を磨いて、可愛くて……本当に、全然叶わない」
『そう? でもあの子は輝いてたね、好きなことをしているせいなのかな』

 青田がなにを言いたいのかがわからず、私はだんだんとイライラしてきた。

「もう、置いてくよ」
『でも僕は麻も同じくらいに輝いて見えるけど』
「……え?」

 意味がわからない。勝手になにかに怒って、イライラして、全然可愛げのない私にそんなことを言う青田が信じられず、思わず凝視する。
 青田は屋台の提灯を透かしながら、いつもの調子で穏やかに笑っていた。

『僕はずっと見てきたよ。脚本に手を加えている様も、コンテを切っているときも、セリフ合わせを手伝ったり、カメラを回したり、新しいカットを考えているのも、全部見てきた。どれも麻は、輝いていた』
「……気持ち悪いこと言わないで。あんたが、私のなにを知っているというの?」
『出会う前の麻のことは知らないよ。でも出会ってから今までの麻のことは、僕はよく知ってる。今まではどんなに一生懸命脚本を書いたものが放ったらかしにされてても。どこか楽観的だったんだ。誰も脚本に気付いてくれないってことは、誰も捨てないってことだから、ずっとひとりでいる代わりに消えなくても成仏しなくってもいいんだってそう思ってたから。でも今は違うんだ』
「違うって……あんた、本当になんなの。いったいなにが言いたいの」
『どうして僕、死んじゃったんだろうって思ったんだ。映画監督になれなくってもいい。なにかの形で映画に携わっていたら、映画を通して麻に出会えたのにって』

 私はなにが言いたいのかわからず、ただ目を見開いていた。
 なに言ってるの。青田の書いた脚本を見つけなかったら、私は青田に出会うことなんてなかった。映画を撮ろうなんて思わなかった。本当になにを言っているの。
 私が困惑しているのを気にする素振りも見せず、青田はいつもの調子で言葉を続ける。
 口調こそ穏やかなものの、青田は頑固でいじけ虫で、自分勝手な奴だ。でも。

『だって麻が悔しがってるのって、こんなに楽しいところから引き離されたからでしょう? 女優になりたかったのか、映画を撮りたかったのかはわからないけど、君にとって一番楽しいのは、この課程でしょう?』
「あ……」

 ようやく。私の中でもやもやしていたものが、くっきりと言語化されたのがわかった。
 子役をクビになってから、私はずっと燻っていた。
 努力が実らなかったから? あれだけオーディションを受け続けたのに落ち続けたから? 端役をもらってもカメラに映してもらえなかったから?
 ……違う。私は。
 カメラを見ていると、いつもその向こう側の景色が見てみたくて、ずっとそれの向こうで遊んでいた。
 フレームの向こう側が見てみたい。それは、私はずっと女優になりたかったからだとそう思っていた。でも、違う。私は。
 役になりきる人々をフレームに収めたい。ここでこんな絵が欲しい、ここでこんな音楽を流したい、ここはもっと引いて、俯瞰して……。
 単純なことだったんだ。私は、ただ。映画をつくるという、フレームの向こう側をつくる作業がしたかった、それだけだったんだ。
 気付いた途端に、涙が溢れてきた。
 私が燻っていたのも、消化不良のまま、ただフレームの向こう側への憧れだけを抱いていたのも全部。青田の脚本に出会うためだったんだ。初めてだったんだ、自分でカメラを手にして撮ってみたいと思ったのは。
 青田は笑いながら言う。

『僕はもっと長く生きたかったな。そしたら、もっと早くに麻と出会えて、もっと一緒に映画をつくれたのに』
「……なに言ってるの、ばっかじゃないの」

 私は涙を必死で拭いながら言う。
 潮の匂いと一緒に、火薬の匂いが漂ってきた。そろそろ花火大会がはじまるんだろう。置いてきてしまった蓮見さんに謝りたいし、矢車さんと清水とも合流したい。

「……あんたがいなかったら、あんたの脚本じゃなかったら、今の私はいないの」
『僕はもう、死んでる人間だよ?』
「それでも、今のあんたじゃなかったらいけなかったんだ」

 既に死んでいる人間に、そんなひどい話はあったもんじゃないと思う。それでも言わずにはいられなかった。
『空色』の脚本じゃなかったら、私はここまで頑張れなかった。
 同じクラスメイトの矢車さんに声をかけることも、年の離れた同級生の蓮見さんに怒られることも、校舎裏でくすぶっている清水を巻き込むことだってなかったんだ。
 それをさせたのは、青田だったんだから。

「ありがとう」

 その素直な言葉がポロリと零れた。
 青田は見ているだけだし、ムカつくし、脳天気なことを言うけれど、それでもこいつじゃなかったら、私は映画を撮っていなかったんだから。
 青田は少しだけ驚いた顔をして、こちらを見た。
 やがて。真っ黒な空に、しゅるしゅると白い煙が立ち昇った。
 ポン。と夜空に花が咲く。それに青田は我に返って破顔した。

『ああ、はじまっちゃったね。そろそろ戻ろう。撮影、するんでしょう?』
「するよ。なんのためにここに来たんだかわかりゃしないから」
『じゃあ行こう』

 青田は私の手を取って引っ張ろうとするけれど、当然ながら透けて私の手は掴めない。それでも私は、透けている彼の手を取っていた。
 端から見たら、きっと手を不自然に浮かせているように見えるだろうけど、皆夜空の花火に夢中だ。きっと気にしない。私たちは、急いで元来た道を戻りはじめたのだ。