車が走っている。中は冷房が程よく効いて快適だ。
 蓮見さんの運転は、もっと乱暴だったと思うのに、思っているよりも優しい。振動が激しくないから、車酔いすることもない。
 私たちはワゴンに乗って、青野先生の実家を目指していた。
 都会から一転、どんどん森が広がってきて、なんだかノスタルジーを感じる雰囲気が通り過ぎていくのが見える。私がカメラを回していると、蓮見さんの隣で青野先生が楽しそうに笑う。

「あら、なんにもないところなのに、これ撮って大丈夫? 映画に使えるの?」
「いえ。綺麗です。なんだか懐かしいですし」
「あれ? 駒草さんって、地元は」
「私、ずっと東京に住んでますし、おばあちゃんも東京の人ですから、あんまり田舎とか故郷とかってわからないんですけど、懐かしい感じがします」
「そーう? ノスタルジーって遺伝子に刻まれてるって言うしねえ」

 そうしみじみした口調で言う青野先生。
 私の隣では、矢車さんがぐったりとしていた。これだけ快適な乗り心地だっていうのに、どうも長時間車に乗っていたせいで、悪酔いしてしまったみたい。

「おい、大丈夫か?」

 清水は怖々と矢車さんに話しかけるものの、矢車さんはなかなか返事もできずに、窓際に体を預けている。私はカメラを止めると、矢車さんの隣に座っている清水に声をかける。

「矢車さんにお茶をあげて。飴でもいいけど。矢車さん、飴とお茶だっらどっちがいい?」
「ご、めんなさい……お茶……多分飴だったら吐いちゃう」
「吐くなよ、絶対に吐くなよ、フリじゃなく吐くなよ」

 清水がぶんぶん首を振っているのに、また矢車さんが弱々しく「ごめんなさい……」と言うので、清水は慌てて「いいから! 寝ろ!」とペットボトルを差し出した。
 麦茶をごくごく飲んで、彼女は落ち着いたように体を窓に預けた。
 後ろのほうを気にしながら、蓮見さんはのんびりと言う。

「先生の家はもうちょっとだから、百合ちゃんももうちょっと待っててな」
「ごめんなさい……」
「謝らなくていいからな」

 のほほんと笑う蓮見さんに、私はほっとする。この人、わざわざロケのために有給を取ってくれたんだから、それに報いるものを撮らないといけないと思うと、自然と気合いが入る。
 私が気合いを入れ直している隣で、青田もまたのんびりと窓の外を眺めていた。

『うん、いいロケーションだよね』
「そう思うの、あんたも」
『だって田舎と都会が程よく混在していて、建物も低め。建物が低いってことは、空が高く撮れるってことだ。東京だったら高層ビルが多いから、どうしても空が狭くなっちゃうし、こういう場所は貴重だよね』

 なるほど、こっち側のプロも満足するんだ。
 私はそう納得して、空を見た。
 空の青は、私がカメラを回しはじめた頃とは異なっていた。深い青。白い雲がジェラートのように伸ばされて、淡いグラデーションをつくっている。
 この下で、矢車さんと清水はどんな演技をしてくれるんだろうか。私はこの空気を上手く撮れるだろうか。窓に落ちる日差しはきつく、きっと車を降りたときには一気に汗ばむんだろうと予感させた。
 しばらく車を走らせたところで、ようやく町が見えてきた。蓮見さんに青野先生がナビゲートして、一軒の家の前に停まる。青野先生がひと足早く車から降りて、ガレージの引き戸を開けてくれた。
 私たちは荷物を持って降りる。
 町並みを見て、もっと古めの家を想像していたのに、停まった先はずいぶんとおしゃれな家だった。庭木は夏でもしゃんと伸びていて、炎天下の中何日も水やりを怠ったら枯れてしまいそう。なるほどたしかに青野先生に家の面倒を見てくれと頼む訳だと納得した。
 青野先生は笑いながらあちこちのドアを開けてくれる。

「ごめんね、うちの叔父さん、ガーデニングが趣味で。夏場は水をやらなかったらすぐに駄目になるから、あんまり遠出できないのよ。でも叔父さんも年だから、旅行に行ける内に行けってことで、家の面倒を任されることになったのよ」
「納得しました。あ、先生。庭木を撮ってもいいですか?」
「別にいいけど。映画のワンシーンに使えそうな部分あった?」
「わかりません、ただ綺麗だったんでもったいないなと」

 私はそう言って、先生に会釈してから、カメラを回しはじめた。
 皆は先に先生についていって、泊まる部屋の確認をしていた。ときどき開けられた窓から「うわ、家の中にエレベーターがある!」とか、「カラオケマシーンある家って初めて見た!」とか、清水の素っ頓狂な声が下に落ちてくるのを聞きながら、私は思う存分絵を撮った。
 隣で青田が笑っている。

『明日から撮影だよね。イメージ固まった?』
「もっとど田舎かなと思っていたけど、田舎が過ぎたら畑と田んぼ以外で、なかなかふたりの感情の揺れまでは撮れない。いろんな知らないものを見て、新鮮な表情を収めたほうが、いい映画になると思うんだ」
『なるほど、程よく都会から離れて、程よく田舎過ぎない、平々凡々な町に逃げ込んだふたりが、ひと夏を思う存分楽しむ。うん、いい解釈だと思うよ』
「原作者。私がいろいろとロケーションや人選で脚本さんざん変えてるけど、怒らないの? あんた、これの撮影が終わらないと成仏できないんでしょ?」

 私がちらっと青田を見ると、青田は涼やかな顔で庭木を眺めている。庭木に透けている幽霊は絵になるけれど、こいつはカメラを回しても撮れない。
 青田は私に横顔を眺められたまま、涼やかに言った。

『前にも言ったと思うけど、これは麻の映画だ。僕は原作者だけど、麻の世界に全部干渉できないから、麻が思う通りに撮ればいい』
「あんたは……私の世界に干渉しないの?」

 思わずぽろりと零れた言葉に、ようやく青田はこちらを向いた。

『僕は、麻の力になりたいけど。もう死んでいるから無理だよ』

 ごくごく当たり前なことを言われて、私は頷いた。
 青田は、私にいろいろ頼む癖して、最終決定権は全部私にくれる。それが私にとっては居心地がいい。
 私はいつだって誰かの敷いたレールの上を走っていた。
 芸能界にいたのだって、私の意思じゃない。私の意思じゃないけれど、一生懸命私なりに頑張ってきて、芽が出なかった。
 普通の生活に戻ったけれど、私はとっくの昔に世間一般で言う普通とは考え方がずれてしまっていた。ひとりで宙ぶらりんのまま浮いていた。
 今は、青田に頼まれて、映画を撮っている。最初は訳がわからず、なんとか断る動機を並べ立てたけれど、それでも押されてしまった。それでいやいやカメラを回してみたけれど。
 私が生きてきた人生の中で、初めて手応えを感じている。なんでこんなに楽しいと思っているのかがわからない。シーンは全部バラバラでしか撮影できなくって、脚本を読み込んでいる皆だって、今がどこのシーンなのかわからないまま撮っていると思う。私は撮った絵を見ながら、それをひとつひとつ絵コンテに合わせて入力していって、ピースを当てはめていっている。
 そこから浮き上がってきたものを拾って、繋いで、削って、それでひとつの生き物が生まれる。それが映画なんだ。
 私はこの作業がひどく美しく思える。初めて、自分がここにいてもいいって思える。
 相変わらず、私はフレームの向こう側には行けないけれど、初めて、向こう側の景色を眺められるような、そんな気がするんだ。

****

「まさか廃線までこうして残ってるなんてなあ……」
「ここって、素人がカメラを回しに来ても大丈夫なんですか?」

 次の日、私たちは撮影のとき、一番「こんな場所どこで撮るんだ」と悩んだ場面を撮りに来ていた。
 シーン自体は五分ほどの、廃線をゆらゆらと歩く女の子と、それに付き従う男の子のシーンだったけれど、地元には廃線なんてない。そもそも線路は立入禁止なんだから、そんなところで撮影できないし、危ない。
 このシーンをどこで撮るかと言っていたら、青野先生が名乗り出てくれて、ロケの場所として教えてくれたんだから。
 案内してくれた青野先生はカラカラと笑う。

「この辺りねえ、新幹線が通った関係でこの辺りの私鉄が軒並み廃線になっちゃったのよ。もっとも、この辺りも中途半端に都会で中途半端に田舎だから、地元民全員車を持っている関係で、あんまり必要を感じなくってねえ」
「なるほど……じゃあ、この辺りはそのまんまで?」
「そうよ。この辺りをならしちゃうのもお金がかかるから、本当にそのまんま。アマチュア商業問わず映画の撮影に使われてるの」

 青野先生のそのひと言で、胸がチリチリした。
 ……馬鹿馬鹿しい。私は一瞬走った痛みに叱咤する。
 あの人たちが、既にクビになった私のことを覚えている訳がない。私が勝手に怒っても仕方がない話だ。ううん、違う。そうじゃない。
 私が芸能界にいたってことを、皆に知られるのが嫌なだけだ。芸能界でみじめだった頃のことを、子役をしていてもカメラに映してもらえなかったことを、ただ撮られている子を羨ましがっていたことを、知られたくないんだ。

「あ、あの。駒草さん?」

 恐る恐る矢車さんに尋ねられて、はっとした。
 今日の撮影で日に焼けてしまうかもしれない。他の時期に撮った絵と整合性が取れなくなったら困ると、矢車さんにはしっかりと日焼け止めを指示し、撮影前も彼女には薄手のカーディガンを羽織ってもらって日焼け対策をしていた。
 ……勝手に思い出して、勝手に怒ってるんじゃないよ。集中。集中。
 私は矢車さんと清水に手早く指示を出し、「アクション!」と声を張り上げた。
 矢車さんのゆらゆらと歩く様に、その手を取って歩く清水。そこに蜃気楼が揺らめいて、それだけで艶やかな花になる構図だ。
 それを蓮見さんがうんうんと頷いてみている。清水に蓮見さんの手持ちらしい程よくよれたバンドTシャツを着せたら、驚くほど様になった。ふたりがゆらゆらと歩いて行く様をさんざん撮ってから、私はペットボトルを傾け「カット!」と声を上げる。

「よかった、今のシーン」

 私のねぎらいの声に、矢車さんが顔を赤らめて、清水は憮然とする。日焼け止めをうんと塗ったけれど、それでも汗っかきのせいか、すぐに流れるから、蓮見さんにタオルで乱暴で体を拭われたあと、ベタベタと日焼け止めを塗られる。「だあ……! 自分でできるっつうの!」と悲鳴を上げているのをよそに、私はタイムスケジュールを確認する。

「それで、この次なんだけれど、その先の海で撮影をしたいんだけど」
「あ……あの、そのこと、なんだけど、駒草さん」
「なに?」

 青野先生によると、その先の海は普通に海水浴OKなところらしいけれど、地元民は来ないし、海の家なども出ていないいい加減な場所だから、わざわざここまで来て泳ぐ人がいないらしい。この時期になったら浜辺なんてどこもかしこも人だらけだし、人が映り込んでしまったら面倒だから、とてもありがたかったのだけど。
 矢車さんはもじもじしながら、膝を摺り合わせてから、意を決して口を開いた。

「ご、めんなさい……水着、ちょっと着れなくって」
「あれ? ごめん」

 私はそろっと矢車さんに耳打ちする。男ばっかりだと、なかなか女子同士みたいに大っぴらなことは言えない。

「ごめん、生理だった?」
「ち、違くて……」
「じゃあなに?」
「あ、あの……私、水着着たら、すごく、目立つから」
「目立つって、なにが?」
「あ……」

 矢車さんはプルプルと震えた。
 これってまさか。私はちらっと青田を見ると、青田は『ちゃんと聞いてあげたら?』と促してきた。
 私は聞く。

「……前に言ってた、いじめが原因?」

 そこでようやく、矢車さんが首を縦に振った。今にも泣き出しそうなくらい目尻を下げるのに、私は軽く背中をさする。
 迂闊だった。普段は着替えしているときでも、彼女は制服の下に透けないランニングやTシャツばかり着てるから、こちらも見抜けなかった。買った水着は、昭和の流行りを見ながら選んだ。露出はさすがに抑えたものの、どうしても背中が大きく開いてしまう。……矢車さんをいじめていた奴ら、まさか体に痣が残るまでやるなんて。そりゃ彼女の滑舌が悪くなるし、自信だって必要以上になくなる。
 自己肯定できなくなるまで、人を否定していい訳がない。
 私はギリッと歯を噛みしめると、「じゃあ、このシーン書き換えるから、ちょっと待ってて」と言った。
 清水を呼ぶと、私が「ちょっと追加のシーンがあるから、すぐにそっち覚えて」と言う。途端に清水は反抗的な顔をしてみせた。

「なんだよ、またシーン撮るのかよ」
「そこまで怒らないで。トラブルが入ったんだから」
「女って面倒くせえ」

 清水がそう毒づくと、案の定と言うべきか、矢車さんがプルプルと震えはじめた。泣かないといいけど。泣いたら涙で日焼け止めが落ちるし、下手に擦ったら目が充血する。

「ご、ごめんなさ……」
「ああー、もう! 別に泣くこたねえだろ!? ただちょっと言ってみたかっただけというかで!」
「ごめんな……さ……」
「だから! 泣くな!」

 こいつ、多分根は悪くないんだろうけれど、人を泣き止ませるのが絶妙なまでに下手だ。私は溜息をつきながら、手持ちのボールペンとメモで脚本の走り書きをはじめた。それを蓮見さんと青野先生が覗き込んでくる。

「トラブルかい?」
「ちょっと海での水着撮影が難しそうなんで、それっぽいシーンに修正しようかと。青野先生、今日ってなにかありますか?」
「そうねえ……明日だったら、花火大会だから昼間も場所取りで人が増えると思うけど、一日前はボランティアの人たちに追い返されるから人気はないはずよ」
「ああ……あそこって、自分たちで花火をするのは禁止ですか?」

 最近だと花火の持ち込み禁止の浜辺も増えているからややこしい。持ち帰るんだったらOKな場所もあるけど。私が思いついたシーンを走り書いていると、青野先生が「うーん……」と人差し指をくっつけながら言う。

「たしか、大丈夫だったと思う」
「ありがとうございます。あ、バケツと水、欲しいです。あと花火セットはコンビニで売ってますよね?」
「そりゃあるけど……でも、さっきも言ったけど夜は明日の花火大会のために全面的に立入禁止よ?」
「いえ、昼間に花火のシーンを撮りたくって」
「昼間って……昼間だったら花火しても、煙しか出なくない?」
「はい」

 そのシーンを走り書いていると、隣で私のメモを覗き込む青田だけは『なるほど』と顎に手を当てていた。

『花火できるシーンをつくることで、海辺のシーンを必要あるシーンにしたんだね?』
「最近だったら、公園のほとんどは火気厳禁だし。この辺りざっと見たけどバーベキュー場なんてないし、それだったら海辺に行くシーンをつくれる」
『真昼に花火のシーンの意図は?』
「無意味なことをするのに、意味があるの」

 女の子と男の子は、無意味なことをして、その馬鹿らしさを笑い合うことで、余計に別れのシーンがノスタルジーあるものになるんだ。無意味なシーンなんだから、あくまで当たりだけ走り書いて、セリフは全部アドリブ。そんなでたらめな脚本を書いて、矢車さんと清水に見せた。

「昼間に花火って……正気か?」
「正気。これで無意味に笑ってる映像が欲しいから」
「海のシーンも相当馬鹿だと思ってたけど、それの上行ってねえか!?」
「行ってると思う。だから頑張って」
「バーカ!!」

 清水はセリフは棒読み過ぎて撮れないものの、顔芸のために一応の脚本内容は頭に叩き込んでいる。それでこんなシーンを当てられたんだから、そりゃ怒りたくなるだろうと、私は耳を引っ掻きながら思う。
 一方矢車さんはというと、目を潤ませている……頼むから、泣かないで、化粧が落ちる。

「駒草、さん……あり、がとう……」

 さっきまで嗚咽を上げていた子がもう笑っている。そのおかしさに私は肩を竦ませてから、蓮見さんに頼んだ。

「コンビニに寄って買い物したら、そのまま海まで走らせてください」
「先生、コンビニは?」
「海の手前。あ、駐車場まで行ってね、花火大会の準備でルール違反にピリピリしてるから」

 こうして、私たちはコンビニで花火を買い込むと、それを持って海へと向かった。
 たしかに明日は花火大会みたいで、まだ屋台は出てないものの、あちこち張り紙や看板で「場所取り厳禁」と書かれているのが見える。
 矢車さんと清水に花火を持ってもらい、それをカメラに映すけれど、夜だったら鮮やかにいろんな色が見える花火が、見事なまでに白煙しか残さなかった。
 それでも私は一生懸命カメラを回す。それを後ろから見ていた青野先生がぽつんと言った。

「まるで大きな線香ね」

 青い空、くっきりとした海、人気のない浜辺。そこで花火の白煙は妙に際立ち、青と白のコントラストがひどく鮮やかに見えた。
 うん、いい絵が撮れた。本来の脚本だったら、海で走り回る男の子と女の子で、水しぶきを鮮明に撮らなかったらぼやけてしまう画面が出来上がるところだった。でもこっちのほうが、わかりやすい。

「カット! お疲れ!」

 私の声と一緒に、バケツに花火を放り込んだ。
 この辺りは木が低いせいか、蝉の鳴き声は聞こえない。それでももうもうと立ちこめる湿気だけが、夏を教えてくれた。