フレームの向こう側は、私の知らない世界だった。
 私はカメラのほうを気にしながらも、演技をしないといけなかった。声をマイクが拾ってはいけないから、同じクラスメイトの役の子と一緒に、口パクで演技をする。
 今日はテストだね、いやになっちゃう。私はそんな演技をしていたけれど、向こうはどうだか知らない。クラスメイトの一番格好いい男の子の話題をしていたのかもしれないし、図画工作の時間がうっとうしいという話をしていたのかもしれない。
 私たちが口パクで演技をしている隣では、真剣にクラスメイトの演技がカメラで映されている。照明の温度が熱いけれど、それに気付く素振りを見せてはいけない。

「本当に、この事件の犯人はこのクラスにいると思う?」

 凜とした雰囲気のあの子は、普段は脚本を読み合わせのとき以外はグーグー寝ているとは、私たちしか知らない話だ。カメラはそんなことを拾わない。
 ただフレームに収められたこと以外は、決してお茶の間で流れることはないからだ。

「カット! お疲れ様! いやあ、いい演技だったね」
「ありがとうございます」

 はにかんだ笑顔をしているあの子のお母さんが、すぐに監督さんに頭を下げて、あの子の手を引いて去って行く。
 次はCM撮影らしい。あの子は引っ張りだこの子役だから。
 私はなにもかもが馬鹿らしくなりながら、同じように座っていたはずの保護者席にいるお母さんを見る。お母さんは悔しそうな顔で、あの子とあの子のお母さんを見送っているのが目に留まった。
 私の今日の演技、今度のドラマでワンカットでも使われたらいいけれど。残念。きっと今回もいらないからとカットされる。
 端役、ちょい役だったらまだフレームの向こう側に行けるけれど、私は一度もフレームの向こう側に行けた試しがない。
 あの子がいなくなったあとも、演技は続く。教室の雰囲気を取るためだ。私はまた、クラスメイトとくだらない会話をする。今度は口パクじゃないけれど、果たして使われるんだろうか。そう思っても、私とクラスメイトはくだらない話をして、笑っていた。
 心では笑っていなかったけれど、私はあの頃が一番よく笑っていた頃だと思う。

 その年を最後に、私は事務所をクビになった。
 子役というには年を食いすぎたけれど、女優に昇格できるほどのキャリアも演技力もなく、それでも事務所が手放したくないほど裏にコネもなく、美人でもない。
 大手事務所だったらそれでも端っこに置いてくれるかもしれないけれど、中堅事務所としてみれば一利もない子役を置いておく理由がない。
 お母さんは心底悔しがっていたけれど、私は泣くことも笑うこともなく、ただ今までお世話になったマネージャーさんと社長さんに頭を下げるだけだった。
 フレームの向こう側はいったいどうなっているのか、私は最後までわからないままだった。

****

「……ん」

 喉を鳴らす。寝ていたせいか、痰が絡んで声が通らない。
 窓は開けっぱなし、カーテンがそよいで、窓の外の影がタップダンスを踊っているのを見せてくれていた。
 既にチャイムが鳴ったのか、教室には誰もいない。誰も起こしてくれなかったんだ。私の机の上には、かろうじてプリントが乗せられ、私の寝相で落ちないように筆箱をおもりにして置いてある。おもりを付けるくらいだったら起こしてくれればよかったのに。そう思いながら、私は口元によだれの跡がついてないかを確認し、次に時計を確認した。
 ホームルームはとっくの昔に終了。掃除も終わったらしいと判断し、私はのそりと起き上がった。ポーチの中から鏡で自分の顔を見る。机に頬を引っ付けて眠っていたせいか、よだれはついてなくても、机の跡は付いている。それに私は「あちゃあ……」とごちた。
 うちの学校は単位制高校で、行きたいときに行けばいいし、行きたくなかったら行かなくていいという緩い校風だった。生徒の年齢層もバラバラで、社会人と高校生が一緒くたに授業を受けているのはちょっと面白い。社会人のほとんどは夜から来るらしいけれど、たまに昼から授業を受けている人もいる。
 なによりもありがたいのは、ここでは人間関係が希薄でも、熱心に「友人がいないと人生の損失だ」という教師もいなければ、「ぼっち可哀想」と憐れむ女子もいないということだ。この学校に通っているのは皆訳ありなんだから、放っておけばいいんだ。中学時代はそのせいでひどく嫌な思いをしたんだから。
 私は机の跡が引いたのを確認してから、プリントを束ねて鞄の中に押し込み、ようやく教室を出た。教室の戸締まりは見回りの先生がやってくれるから、開けっぱなしで帰っても怒られないのも、うちの学校の緩いところのひとつだ。
 うちの学校で数少なく活動している野球部の、緩いかけ声が響いている。やる気があるのかどうかは、私は知らない。
 夢を追いかける。そういう風なのがないのがありがたかった。
 人生の半分、芸能界の端っこにいたせいで、夢の大半が幻想だと思い知ってしまった私は、いまいちそういう暑苦しいものを信じることができなかったから。
 子役をしていると、今まで私と同じように端役だった子が、ある日突然抜擢されて、テレビで見ない日がないくらいに目まぐるしく活躍するのだって、逆にある日を境に昨日までしゃべっていた子がスタジオに来なくなることだって見る。
 事務所の力だとか、親が大物芸能人だとか、単純にプロデューサーの目に留まり抜擢されたシンデレラなのか。
 目立たなかったら消される。干される。それもひっそりと。
 シンデレラは皆から持てはやされてそれのおべんちゃらをさせられたこともあるけれど、いなくなった人のことを口にするのはマナー違反だと、誰も口にしないのが怖いところだった。
 次は自分かもしれない、そう思うのはどっちのことなのか、ときどきわからなくなった。ただ、自分が立っている場所はとてつもなく不安定なことだけは、よくわかった。
 私は子役と名乗ってはいたものの、名前のある役をもらえたことは、事務所をクビになるまでに一度だってなかった。
 子役を卒業して、義務教育の中学校に通ってみても、ちっとも楽しくなかった。
 普通の中学生が当たり前に知っているマンガの名前も、やっているゲームのキャラも、きゃーきゃー言いながら応援しているアイドルの顔と名前も、なにひとつわからなかったのだから。
 最初は世間知らずだと判断した私を、あれやこれやとお世話してくれる女の子はどこにでもいたけれど、私の言葉の節々でイラついて、次々と離れていった。
 アイドルグループのオーディションに履歴書を出したとこっそり打ち明けてくれた子に、私は思わず言ってしまった。

「あそこ、一度採用されたからと言って、カメラに映れる訳じゃないよ? 採用された中でさらにオーディションがあるんだから」

 声優になりたいと夢を語る子に、私は思わず言ってしまった。

「顔が可愛い子が優先されるし、アニメのキャラが第一に来たら、他のことは全部ないがしろにされるようになるからね」

 私はクラスメイトの夢を否定したかったんじゃなく、見てきたことをそのまま口にしただけだったけれど、オブラートに包んで言うということがてんでできなかった。
 ただでさえ義務教育がまともにできていない状態だったのに、世話焼きの子たちはどんどんと遠ざかっていった。気付けば私は、いてもいなくっても同じ状態の透明人間状態で、いろんな情報を回してもらえない状態になってしまった。
 地元の高校の情報はおろか、クラスの小テストの情報まで回ってこず、私の成績は急降下していった。……元々丸暗記以外は不得手だったから、数学や国語は壊滅的だったんだ。記憶力頼りの科目まで落としていたんじゃ、テストの点だって上がる訳がない。
 地元の高校は公私共に全滅。唯一受かった学校が単位制高校だったというわけだ。
 私がどんどんと落ちぶれていくのを、お母さんはすごい形相で睨んでいた。私が事務所をクビになってからはお母さんとすっかりとギクシャクしてしまい、朝と夜の食事のとき以外はほぼ、一緒にいることはなくなってしまっていた。
 そんなことを思い返しながら、私は人気のなくなった廊下をてくてくと歩く。
 空の色が鮮やかだった。こんな色をカメラに収められたら……そう思ってスマホをかざしてみる。充電が厳しくって、録画機能を使うことができなくっていっつも撮影機能だ。パシャンとカメラに収まった絵を見ながら、私は満足した。
 鮮やかなオレンジ色の雲に、青い空のコントラスト。
 それにいい気分になりながらスマホをポケットに入れたとき。
 風がぶわりと吹いた。私の背中の鞄がはためく……うん、はためく? どうも寝ぼけてきちんと留めていなかった鞄がはためいて、中に入れていたプリントを奪い去っていく。

「ちょっと……待って!」

 プリントの内容は大したものではなかったけれど、渡さなかったらお母さんが怒る。私は慌てて飛んでいったプリントを追いかけていった。