求めてもいないのにギラギラと肌を焦がす太陽。誰も見る人はいないのにジャボジャボと音を立てて騒ぐ川。ミーンミーンと耳の中までも入り込むセミの鳴き声。ずっしりと腕から下半身にかかり鬱陶しいスイカの重さ。体の内側にこもる熱を連れていってくれる心地よい風。そんな風に吹かれ麦わら帽子が私の頭から離れていく。気づいた時には遅く、川で冷すために持ってきたスイカを持ったまま、半ば諦めた気持ちで行方を目で追う。その先には人がいた。20代くらいの男の人だ。
川のほとりに座って背中を丸ませながらジーンズを捲った足を川につけてノートに何かを書いている。髪は少しボワッとしていて、眼鏡が太陽の光を反射していた。その真剣な横顔に目が離せない。
若い男の人が身近な場所にいることはなんだか非日常のように感じられた。
少しの驚きと、少しの物珍しさで彼を見ていると彼に私の麦わら帽子がコロコロと向かっていって、とんっ、と優しく当たった。
手を止めて帽子を取る彼の元に慌てて向かう。
「す、すみません…。」
まさか「知らない人と話すな。」という親の言いつけを破る時が来るなんて思ってもみなかった。なによりも実行することが無かった。この田舎に静養に訪れる人もいるみたいだが少なくとも私が行く場所で出くわす事は無い。どうすればいいか分からず言葉をためらっていると、私の腕に抱えられたスイカを見て手が離せないと思ったのか彼は少し微笑んで私に帽子をかけてくれた。笑うとくしゃっとなる顔が印象的だ。
「あ、ありがとうございます…。」
普段と違ってなぜか消え入るような声しか出てこない。
「ここら辺の方ですか?」
彼の声は低いけど温かさがある様な、そんな声だと思った。
「は、はい。」
吹いた風でうなじの辺りにとても汗をかいていることを気づいた。
「いい場所ですね。のどかだし空気も綺麗で人が優しい。」
この田舎を外の人が良い場所と形容しているのを聞いたのは初めてだった。
「あ、あの…。」
ん?と、見つめてくる不思議そうな顔も美しかった。
「と、隣でスイカ冷してもいいですか…?」
「はい。どうぞ。」
スイカを置いた後、私も彼と同様に足を川につけてみると、ひんやりとした水の感触が気持ちよく、足先から伝わったように体の中の騒ぎが落ち着いてきた。
彼がノートに向かい合っているその横顔はなんだか見ていたいと思わせるような顔つきだ。
「何を書いているんですか?」
「スケッチです。」
真っ白なノートの上に鉛筆で書かれた黒い線がたくさんある。
「この風景を残しておきたくて。」
残したいならスマホがあるじゃないか、そもそもこんな山と田んぼと草と川しかない風景なんて残す価値があるのだろうか、と思ったが遠くの一点とノートに集中している彼にそんなことは言えなかった。
じっと見ていると、段々その線は厚みを増し、グラデーションになり、奥行きが生まれ、具体的な形のあるものに変わっていき、風景になった。
黒と白だけなはずなのに、なんだか他の色まで見える気がした。
「もしかして絵とか好き?」
突然の質問に戸惑う。
「真剣に見てたから。」
彼が微笑んだ。
確かに絵は好きだったが、最近は全く書いていない。
「下手だけどまあ、好きかな〜みたいな。下手ですけど。」
「書く?」
「え。」
まだ何も言ってないのに彼は鉛筆を渡してきた。ノートの黒いページ捲られ真っ白なページに変わる。
とりあえず近くの物を描いてみる。物と手元を交互に見つめながら、慎重に描いていく。なのに出来上がったのはとても貧相な絵だった。すぐに捨ててしまいたいような絵なのに、彼はじっとそれを見ている。
「良いじゃん。」
彼は微笑んだ。
「そうですか?」
「うん。良いよ。特徴が掴めてるし全然下手なんかじゃない。」
絵を褒められたのは初めての事だったので、嬉しいような恥ずかしいような、胸の中にボウリング球のような物がある気がした。
「遠近法を意識したらもっと良くなるかも。」
「もしかして画家の方ですか?」
「えっなんで。」
彼の目が大きくなった。
「なんでって…絵が上手なので。」
「こんなの上手いなんて言えないよ。上には上がいる。」
「いやいやいや…。」
十分上手いですよ、と言おうとしたがお世辞に聞こえるような気もして何も言えない。
「趣味で書いてる方が気楽だし。」
そういうもんなんだろうか。
「あの、なんで来たんですか?」
「うーん、独りでいれると思ったから。」
「あっごめんなさい。」
立ち去ろうと思ったら「違うよ」と止められた。
「東京って孤独なくせに人が多すぎて本当の意味で1人きりになることもできないんだ。」
東京はこことは正反対だ。この田舎には年を取った人しかいない。女子校の私の高校には若い男の先生なんていないし、かろうじてここから遠くの高校に通っていた男子も、大学に受かるとみんなあれよあれよと外に出ていってしまう。数時間に一本しか来ない電車に乗って遠くに行って帰ってこない。電車が消えるあの壁の向こうは希望であり恐怖だ。毎日高校の登下校は母の車の私にとって、その壁を超えることも触れたり近づくことさえできない。
「あっ、もう行かなきゃ…」
そろそろ戻らないと何してたんだと母に言われるかもしれない。
「あの、また絵のこと教えて貰ってもいいですか?」
*
もう私は川に用事が無くても一日に一回は川に来てるようになっていた。絵を描いたノートは、小学生の頃に使っていた自由帳のようにぐちゃぐちゃで、でもページが後半に行くにつれて絵が上達していることは明らかだった。これも全て絵を教えてくれる彼のおかげだ。彼は学校の先生のように理屈をただ説明したりせず、実際に描いたりしてそれを見せてくれるからとても分かりやすかった。今日はまだ彼は川に居ないみたいだ。川に足をつけてみる。やっぱり気持ちいい。
ノートを開いて鉛筆を持つ。身の回りの物は全て描き尽くしてしまった。その時、彼の笑顔が頭に浮かんだのでそれを描いてみることにした。風景画と人物画はやっぱり全然違って難しい。何かが違う。彼はこんな顔じゃない。
消すのも面倒くさくなってページを捲ったところで足音が聞こえた。
「あっ。」
私の体を突き抜けるような低くはっきりした声に振り返ると彼がいた。
早速家で描いてきた絵を見せる。彼はいつも肯定してくれて、それがとても嬉しかった。絵の話を少しすると、今日は天気がいい、だとか、彼が東京にいた時の身の回りで起きた話を面白おかしく話してくれたりなど世間話の方が多かった。でもそんな会話をするのがとっても楽しかった。
「1000万分の1の奇跡?」
私が不思議そうに聞いても、彼はずっと落ち着いていた。
「なんかの本で言ってたんだよ。東京は1000万人住んでるから、東京で出会った男女は1000万分の1の奇跡だって。でもその本ちょっと古くて、今はインターネットが発達してるから1000万分と思えるほどの奇跡は感じられないよね。」
「インターネットか、やりたいな…」
「インターネットに触れたことないの?」
彼が驚いたように言う。
「親がまだ必要ないって言ってて」
インターネットに触れた事が無いのがそこまで驚かれるほど少数派だとは思っていなかった。ここが田舎だからなのか。
「都会ってどんな感じなんですか?私1回もこの街から出たことなくて」
「人が多くてたまに鬱陶しいのに孤独なところ」
そう言った彼は少し悲しげな顔をしていた。
「なんて言ったらどんなところだよって思われるかもしれないけど、色んな意味で全然違うよ。ここはのどかでゆっくりでいいところだよね」
彼はそのあと何も言わなかった。私も口を開く気になれなかった。彼は山の方見ている。私も山の方を見た。私にとっては当たり前のこの景色を彼はどう思ってみているんだろう。
彼が鼻歌を歌った。彼も鼻歌を歌うんだという少し驚きと、珍しいところを見れた嬉しさで楽しい。
「なんの歌ですか?」
最近流行っている歌らしい。
「知らない?テレビとかでもよく流れてるけど」
「そんなにテレビ見ないんです」
またも彼は少し驚いたような顔をした。
「テレビを見ていると、もっと勉強してと母に怒られるので」
本当は昔からテレビが大好きで、家にいる時はずっとテレビを見ていた。でも、いつからかテレビを見ると怒られるようになり私がテレビを見ることも減って行った。
「まあ、勉強はした方がいいと思うけど…」
「大学に行って高給取りになって、と言われてて」
「高給取りって久しぶりに聞いたなぁ」
笑った彼の顔は、普段の端正な彼の顔とは全然違う。柔らかくて、穏やかで、暖かくて。そんな彼が好き。
「将来の夢ってある?」
将来の夢どころか、どこの大学に行きたいかさえまだ決めきれていなかった。
「私は一体、何になりたいんだろう…」
つい心の声が漏れてしまった。
「何にでも、どんなものにもなれるよ。君なら」
トンボが高く飛んでいる。
突然吹いた風は私の麦わら帽子を連れ去る。
「あっ私の帽子が…」
帽子はすぐ近くの川の大きな石に引っかかった。
足を滑らせないよう帽子を取りに行くと、じゃぶじゃぶと音を立てて水が足を撫でていく。
「綺麗な長い黒髪だね」
私の髪なんかよりも、彼の髪の方が綺麗だ。この世界で1番価値がある髪だとさえ思う。
「でも髪が長いと暑いし、シャンプーも時間かかるし面倒ですよ。髪が短い子に憧れます」
「切らないの?」
「お母さんが、私に1番似合う髪型だからこれがいいって。私、一人っ子でお父さんもいないからお母さんには私しかいないんです。でも、本当は赤毛とかくせっ毛とかも憧れるし、大人になったらショートカットにしてみたいな…」
言ってからまるでお母さんの事が嫌いと思われるような事を言ったのではないかと思った。でも、ロング丈が嫌なのは昔から思っていた事で、何も間違っていなかった。
「別にショートカットでも似合うと思うんだけどなあ。」
「そうですか?」
かがんで帽子を取った。
「君の人生は、君の人生だからさ。好きなようにしたらいいと思うよ」
川底にどろどろ張り付いている藻のせいで滑って転びそうになる。滑りそうになった右足を間一髪耐えたと思ったら、大きく左足がズルッと滑った。
バッシャーン!という音と共に視界が水しぶきで埋まる。
目を開いた時には私は下半身が水に浸かってしまっていた。
家に帰って怒られないか心配になる。
「大丈夫!?」
彼がすぐさま靴を脱いでこっちに来てくれた。
しかし私と同じように転んだ。
「大丈夫ですか!?」
彼は何も言わない。水に濡れた髪の毛が顔にかかっているため顔がよく見えない。
「ふっ…ふはは!」
水も滴る良い男とはまさに彼のことだと思う。
「大丈夫大丈夫!いやー、恥ずかしいな」
「私と全く同じでしたね」
川の流水音にまぎれて笑い声が響く。
笑いながらお互いの手を掴んで立ち上がろうとして、力が入っていなかったのでそのまま川に倒れ込んだ。
私たちの笑い声がさっきよりも響く。
全身びしょ濡れになってしまったので細かい事はどうでもよくなった。バタバタして水しぶきをわざと出してみる。久しぶりに心から楽しいと思えた。
全身びしょ濡れで家に帰るともちろん怒られたが、今までよりは引きずらなかった。うっかり転んだと言い訳したので彼と川で会っていることはバレなかった。しかし、「今度から川に行く時は一緒に行くから」と言われてしまい、全力で拒否したが母はそれを了承してくれなかった。彼と2人きりで会いたいのに母がいたら自分らしくいられない。母の目を盗んで川に行っても彼がいない事が続き、今日も彼はいなかった。彼を思いながら、彼の絵を描いていると、気づけば辺りがかなり暗くなっていた。母にバレたら大変だ。慌てて帰ろうと走り出した私の手からノートが落ちる。日記を掴もうとした手はただ空を切るだけで、雑草しか掴めない。ノートは見つからず、翌日母がまだ寝ている朝に昨日無くしたノートを探そうと川に来た。
朝だがもう陽はかなり出ていて、太陽がジリジリと私の肌を照りつける。日記は雑草の上ではなく目立つ岩肌の上に置いてあった。駆け寄ると中に1枚の紙が挟まっていた。
「今日始発の電車で帰ることにしました。お別れの言葉を直接言えなくてごめんなさい。ここであなたと過ごした夏は楽しかったです。あなたにはこの先長く、そして輝く未来があります。自分の信じる道を突き進んでください。どうか、お元気で。」
1本1本の線が長くシュッとした綺麗な字。間違いなく彼の字だった。
きっと早朝にここに来たのだろう。私の日記を読んだのだろうか。私が彼を好きだから、彼は怒って帰ってしまったのか。でも、怒っているとは思えなかった。字はいつもの通り伸びやかなままだ。怒りを成長に使うような優しくて誠実な彼。彼は今の現状を冷静に見てダメだと思ったのだろうか。だったらちゃんと本音が聞きたい。傷つけてもいいから気を遣わないで欲しい。
彼は東京に住んでいて、私は田舎で足に杭を打たれたように過ごしている。この時はずっと続かない。なんでこんな簡単な事に気がつかなかったのか。
始発の電車まではまだ時間があるはずだ。考えるよりも先に体が動いていた。
緑しかないこの街を全力疾走する。こんなにも全力で走ったのはいつぶりだろう。こんなにも夢中でなにかに向かったことはあっただろうか。こんなにも強い思いを抱いた事はあっただろうか。疲れを訴える体を無視して走る。肺が苦しい。体が重い。辛い。もっと早く走りたいと願うほどにスピードは落ちていく。このままだとどうにかなってしまうんじゃないだろうかと思う。もうどうにでもなってしまえ。駅の近くまで来た時、ホームのベンチに1人の男性が座っているのが見えた。一瞬にして全身にのしかかっていた苦痛が全て無くなった。
彼がいる。優しくて、誠実で、いつも何か考えていて、知的で、背が高くて、スタイルが良くて、本が好きで、文章が上手くて、顔が綺麗で、字が綺麗で、まつ毛が長くて…
彼の良いところを挙げれば、キリがないほどある。そんな彼がいる。やっと会えた。
にやける顔を抑えてぎゅっと口を結ぶ。駆け寄りたいこの気持ちを抑えて、しっかりとした足取りで着実に彼のもとへ向かっていく。ホームに上がると、彼はやっぱり絵を描いていた。彼との距離が近くなるにつれて逆にどう声をかければいいのか分からなくなってくる。分からないまま彼の至近距離まで向かうと、気配で気づいたのか彼がこちらを見た。
目を大きく開かせて、どうしてという顔をしている。
「私に会いたくなくて始発の電車にしたのかもしれませんけど、残念ながらここの始発電車は東京みたいに早くないんですよ」
「うん…」
目が合わない。彼の目線が下にある。彼が私のことを怒っていなかったとしても、こんなことをしたら嫌われるのは目に見えていた。
「ごめんなさい!」
深く頭を下げた。地面と私と彼の足元しか見えない。
「私が勝手に好きになっただけなのに、迷惑かけてしまって。本当に私って最悪…」
「…じゃない」
「この日記も捨てます。だから迷惑なら正直にいってほし…」
「違う、そうじゃない」
予想外の言葉に顔を上げた。
「別に迷惑だから帰るわけじゃないから、日記は捨てないで」
「そ、そうなんですか…?」
「君は何もかも経験が浅くて小さいコミュニティでしか生きたことがない。それが悪いこととは思わないけど、でもこの世界には本当にたくさんの色んな人がいる。一時的な恋愛感情によって突き進んで後悔して欲しくなかった。俺だけだなんて思って生きて欲しくなかった」
そんなこと言われたらやっぱりずっとここにいて欲しいなんて思ってしまうじゃないか。
「私、この毎日が本当にすごく楽しかったんです!だから、だから…」
次に紡ごうとする言葉が口の中をもがいて消えてゆく。
いつの間にか頬が濡れていた。
「泣かないでよ…」
彼が困ったように涙を拭ってくれた。
「前にここがいい所って言ってたじゃないですか。でも、なんだか私はそう思えなくなってきて」
ゆっくりと遠くから電車がやってくる。
「見慣れた景色の中にずっといるんじゃなくて、多くの人に会って色んな世界が見たいです。まだまだ私が知らないこと、もっとたくさん知りたいです」
彼は私の言葉をゆっくり相槌しながら聞いている。
「東京にいつか行きます。だから、私の恋はもう終わらせるけど、目標として追いかけさせてください」
電車が到着した。
「分かった。いつか、会えるといいね」
1000万分の1の奇跡という言葉を思い出す。
彼が電車に乗りこむとドアが閉じられた。電車が遠くへ向かって動きだす。このずっと先に彼の住む町がある。
電車が壁の向こうに消えた後も私はずっと電車の残像を見つめていた。
風が私を通って電車の方に向かっていく。
この瞬間に私の夏は終わった。
涙はもう乾いていた。
*
夏になると10年前の思い出が蘇る。本当は夏じゃなくても、スケッチブックを開く度に思い出してるけど。
あの頃と比べると私も少しは成長したと思う。趣味で書いている方が気楽だよ、という彼の言葉をひしひしと実感する。しかし、目標として追いかけると決めてしまった以上、引き返す訳にも諦める訳にもいかないのだ。一種のしがらみでもあるが、これが楽しいことであることは間違いなかった。
東京に住んでもう何年も経つが、まだ彼に会えたことは無い。やはり1000万分の1の確率は早々に起こらないみたいだ。
“いつか”は来てくれるのだろうか。ここまでなると来るかどうかはもはや関係なかった。いつかはいつかであって、その未来を追いかけている間はずっといつかが存在する。私はそのいつかをずっと待ち続ける。
「絵、上手いっすね。」
ベンチに座って絵を描いていると後ろから聞き覚えのある声がした。私の体を突き抜けるような低くて、落ち着いていて、安心しそうなのにドキドキしてしまう声。理解する前に体が反応してその声を探していた。あの頃に見た姿を一つずつ丁寧に思い浮かべ振り返る。
「あ、ありがとうございます。」
私のことには気づいていないらしい。
「でも、全部あなたが教えてくれたんですよ。」
彼は大きな目を更に見開いていて、やっぱり何も変わらないなと思った。
「1000万分の1の奇跡、起きましたね。」
川のほとりに座って背中を丸ませながらジーンズを捲った足を川につけてノートに何かを書いている。髪は少しボワッとしていて、眼鏡が太陽の光を反射していた。その真剣な横顔に目が離せない。
若い男の人が身近な場所にいることはなんだか非日常のように感じられた。
少しの驚きと、少しの物珍しさで彼を見ていると彼に私の麦わら帽子がコロコロと向かっていって、とんっ、と優しく当たった。
手を止めて帽子を取る彼の元に慌てて向かう。
「す、すみません…。」
まさか「知らない人と話すな。」という親の言いつけを破る時が来るなんて思ってもみなかった。なによりも実行することが無かった。この田舎に静養に訪れる人もいるみたいだが少なくとも私が行く場所で出くわす事は無い。どうすればいいか分からず言葉をためらっていると、私の腕に抱えられたスイカを見て手が離せないと思ったのか彼は少し微笑んで私に帽子をかけてくれた。笑うとくしゃっとなる顔が印象的だ。
「あ、ありがとうございます…。」
普段と違ってなぜか消え入るような声しか出てこない。
「ここら辺の方ですか?」
彼の声は低いけど温かさがある様な、そんな声だと思った。
「は、はい。」
吹いた風でうなじの辺りにとても汗をかいていることを気づいた。
「いい場所ですね。のどかだし空気も綺麗で人が優しい。」
この田舎を外の人が良い場所と形容しているのを聞いたのは初めてだった。
「あ、あの…。」
ん?と、見つめてくる不思議そうな顔も美しかった。
「と、隣でスイカ冷してもいいですか…?」
「はい。どうぞ。」
スイカを置いた後、私も彼と同様に足を川につけてみると、ひんやりとした水の感触が気持ちよく、足先から伝わったように体の中の騒ぎが落ち着いてきた。
彼がノートに向かい合っているその横顔はなんだか見ていたいと思わせるような顔つきだ。
「何を書いているんですか?」
「スケッチです。」
真っ白なノートの上に鉛筆で書かれた黒い線がたくさんある。
「この風景を残しておきたくて。」
残したいならスマホがあるじゃないか、そもそもこんな山と田んぼと草と川しかない風景なんて残す価値があるのだろうか、と思ったが遠くの一点とノートに集中している彼にそんなことは言えなかった。
じっと見ていると、段々その線は厚みを増し、グラデーションになり、奥行きが生まれ、具体的な形のあるものに変わっていき、風景になった。
黒と白だけなはずなのに、なんだか他の色まで見える気がした。
「もしかして絵とか好き?」
突然の質問に戸惑う。
「真剣に見てたから。」
彼が微笑んだ。
確かに絵は好きだったが、最近は全く書いていない。
「下手だけどまあ、好きかな〜みたいな。下手ですけど。」
「書く?」
「え。」
まだ何も言ってないのに彼は鉛筆を渡してきた。ノートの黒いページ捲られ真っ白なページに変わる。
とりあえず近くの物を描いてみる。物と手元を交互に見つめながら、慎重に描いていく。なのに出来上がったのはとても貧相な絵だった。すぐに捨ててしまいたいような絵なのに、彼はじっとそれを見ている。
「良いじゃん。」
彼は微笑んだ。
「そうですか?」
「うん。良いよ。特徴が掴めてるし全然下手なんかじゃない。」
絵を褒められたのは初めての事だったので、嬉しいような恥ずかしいような、胸の中にボウリング球のような物がある気がした。
「遠近法を意識したらもっと良くなるかも。」
「もしかして画家の方ですか?」
「えっなんで。」
彼の目が大きくなった。
「なんでって…絵が上手なので。」
「こんなの上手いなんて言えないよ。上には上がいる。」
「いやいやいや…。」
十分上手いですよ、と言おうとしたがお世辞に聞こえるような気もして何も言えない。
「趣味で書いてる方が気楽だし。」
そういうもんなんだろうか。
「あの、なんで来たんですか?」
「うーん、独りでいれると思ったから。」
「あっごめんなさい。」
立ち去ろうと思ったら「違うよ」と止められた。
「東京って孤独なくせに人が多すぎて本当の意味で1人きりになることもできないんだ。」
東京はこことは正反対だ。この田舎には年を取った人しかいない。女子校の私の高校には若い男の先生なんていないし、かろうじてここから遠くの高校に通っていた男子も、大学に受かるとみんなあれよあれよと外に出ていってしまう。数時間に一本しか来ない電車に乗って遠くに行って帰ってこない。電車が消えるあの壁の向こうは希望であり恐怖だ。毎日高校の登下校は母の車の私にとって、その壁を超えることも触れたり近づくことさえできない。
「あっ、もう行かなきゃ…」
そろそろ戻らないと何してたんだと母に言われるかもしれない。
「あの、また絵のこと教えて貰ってもいいですか?」
*
もう私は川に用事が無くても一日に一回は川に来てるようになっていた。絵を描いたノートは、小学生の頃に使っていた自由帳のようにぐちゃぐちゃで、でもページが後半に行くにつれて絵が上達していることは明らかだった。これも全て絵を教えてくれる彼のおかげだ。彼は学校の先生のように理屈をただ説明したりせず、実際に描いたりしてそれを見せてくれるからとても分かりやすかった。今日はまだ彼は川に居ないみたいだ。川に足をつけてみる。やっぱり気持ちいい。
ノートを開いて鉛筆を持つ。身の回りの物は全て描き尽くしてしまった。その時、彼の笑顔が頭に浮かんだのでそれを描いてみることにした。風景画と人物画はやっぱり全然違って難しい。何かが違う。彼はこんな顔じゃない。
消すのも面倒くさくなってページを捲ったところで足音が聞こえた。
「あっ。」
私の体を突き抜けるような低くはっきりした声に振り返ると彼がいた。
早速家で描いてきた絵を見せる。彼はいつも肯定してくれて、それがとても嬉しかった。絵の話を少しすると、今日は天気がいい、だとか、彼が東京にいた時の身の回りで起きた話を面白おかしく話してくれたりなど世間話の方が多かった。でもそんな会話をするのがとっても楽しかった。
「1000万分の1の奇跡?」
私が不思議そうに聞いても、彼はずっと落ち着いていた。
「なんかの本で言ってたんだよ。東京は1000万人住んでるから、東京で出会った男女は1000万分の1の奇跡だって。でもその本ちょっと古くて、今はインターネットが発達してるから1000万分と思えるほどの奇跡は感じられないよね。」
「インターネットか、やりたいな…」
「インターネットに触れたことないの?」
彼が驚いたように言う。
「親がまだ必要ないって言ってて」
インターネットに触れた事が無いのがそこまで驚かれるほど少数派だとは思っていなかった。ここが田舎だからなのか。
「都会ってどんな感じなんですか?私1回もこの街から出たことなくて」
「人が多くてたまに鬱陶しいのに孤独なところ」
そう言った彼は少し悲しげな顔をしていた。
「なんて言ったらどんなところだよって思われるかもしれないけど、色んな意味で全然違うよ。ここはのどかでゆっくりでいいところだよね」
彼はそのあと何も言わなかった。私も口を開く気になれなかった。彼は山の方見ている。私も山の方を見た。私にとっては当たり前のこの景色を彼はどう思ってみているんだろう。
彼が鼻歌を歌った。彼も鼻歌を歌うんだという少し驚きと、珍しいところを見れた嬉しさで楽しい。
「なんの歌ですか?」
最近流行っている歌らしい。
「知らない?テレビとかでもよく流れてるけど」
「そんなにテレビ見ないんです」
またも彼は少し驚いたような顔をした。
「テレビを見ていると、もっと勉強してと母に怒られるので」
本当は昔からテレビが大好きで、家にいる時はずっとテレビを見ていた。でも、いつからかテレビを見ると怒られるようになり私がテレビを見ることも減って行った。
「まあ、勉強はした方がいいと思うけど…」
「大学に行って高給取りになって、と言われてて」
「高給取りって久しぶりに聞いたなぁ」
笑った彼の顔は、普段の端正な彼の顔とは全然違う。柔らかくて、穏やかで、暖かくて。そんな彼が好き。
「将来の夢ってある?」
将来の夢どころか、どこの大学に行きたいかさえまだ決めきれていなかった。
「私は一体、何になりたいんだろう…」
つい心の声が漏れてしまった。
「何にでも、どんなものにもなれるよ。君なら」
トンボが高く飛んでいる。
突然吹いた風は私の麦わら帽子を連れ去る。
「あっ私の帽子が…」
帽子はすぐ近くの川の大きな石に引っかかった。
足を滑らせないよう帽子を取りに行くと、じゃぶじゃぶと音を立てて水が足を撫でていく。
「綺麗な長い黒髪だね」
私の髪なんかよりも、彼の髪の方が綺麗だ。この世界で1番価値がある髪だとさえ思う。
「でも髪が長いと暑いし、シャンプーも時間かかるし面倒ですよ。髪が短い子に憧れます」
「切らないの?」
「お母さんが、私に1番似合う髪型だからこれがいいって。私、一人っ子でお父さんもいないからお母さんには私しかいないんです。でも、本当は赤毛とかくせっ毛とかも憧れるし、大人になったらショートカットにしてみたいな…」
言ってからまるでお母さんの事が嫌いと思われるような事を言ったのではないかと思った。でも、ロング丈が嫌なのは昔から思っていた事で、何も間違っていなかった。
「別にショートカットでも似合うと思うんだけどなあ。」
「そうですか?」
かがんで帽子を取った。
「君の人生は、君の人生だからさ。好きなようにしたらいいと思うよ」
川底にどろどろ張り付いている藻のせいで滑って転びそうになる。滑りそうになった右足を間一髪耐えたと思ったら、大きく左足がズルッと滑った。
バッシャーン!という音と共に視界が水しぶきで埋まる。
目を開いた時には私は下半身が水に浸かってしまっていた。
家に帰って怒られないか心配になる。
「大丈夫!?」
彼がすぐさま靴を脱いでこっちに来てくれた。
しかし私と同じように転んだ。
「大丈夫ですか!?」
彼は何も言わない。水に濡れた髪の毛が顔にかかっているため顔がよく見えない。
「ふっ…ふはは!」
水も滴る良い男とはまさに彼のことだと思う。
「大丈夫大丈夫!いやー、恥ずかしいな」
「私と全く同じでしたね」
川の流水音にまぎれて笑い声が響く。
笑いながらお互いの手を掴んで立ち上がろうとして、力が入っていなかったのでそのまま川に倒れ込んだ。
私たちの笑い声がさっきよりも響く。
全身びしょ濡れになってしまったので細かい事はどうでもよくなった。バタバタして水しぶきをわざと出してみる。久しぶりに心から楽しいと思えた。
全身びしょ濡れで家に帰るともちろん怒られたが、今までよりは引きずらなかった。うっかり転んだと言い訳したので彼と川で会っていることはバレなかった。しかし、「今度から川に行く時は一緒に行くから」と言われてしまい、全力で拒否したが母はそれを了承してくれなかった。彼と2人きりで会いたいのに母がいたら自分らしくいられない。母の目を盗んで川に行っても彼がいない事が続き、今日も彼はいなかった。彼を思いながら、彼の絵を描いていると、気づけば辺りがかなり暗くなっていた。母にバレたら大変だ。慌てて帰ろうと走り出した私の手からノートが落ちる。日記を掴もうとした手はただ空を切るだけで、雑草しか掴めない。ノートは見つからず、翌日母がまだ寝ている朝に昨日無くしたノートを探そうと川に来た。
朝だがもう陽はかなり出ていて、太陽がジリジリと私の肌を照りつける。日記は雑草の上ではなく目立つ岩肌の上に置いてあった。駆け寄ると中に1枚の紙が挟まっていた。
「今日始発の電車で帰ることにしました。お別れの言葉を直接言えなくてごめんなさい。ここであなたと過ごした夏は楽しかったです。あなたにはこの先長く、そして輝く未来があります。自分の信じる道を突き進んでください。どうか、お元気で。」
1本1本の線が長くシュッとした綺麗な字。間違いなく彼の字だった。
きっと早朝にここに来たのだろう。私の日記を読んだのだろうか。私が彼を好きだから、彼は怒って帰ってしまったのか。でも、怒っているとは思えなかった。字はいつもの通り伸びやかなままだ。怒りを成長に使うような優しくて誠実な彼。彼は今の現状を冷静に見てダメだと思ったのだろうか。だったらちゃんと本音が聞きたい。傷つけてもいいから気を遣わないで欲しい。
彼は東京に住んでいて、私は田舎で足に杭を打たれたように過ごしている。この時はずっと続かない。なんでこんな簡単な事に気がつかなかったのか。
始発の電車まではまだ時間があるはずだ。考えるよりも先に体が動いていた。
緑しかないこの街を全力疾走する。こんなにも全力で走ったのはいつぶりだろう。こんなにも夢中でなにかに向かったことはあっただろうか。こんなにも強い思いを抱いた事はあっただろうか。疲れを訴える体を無視して走る。肺が苦しい。体が重い。辛い。もっと早く走りたいと願うほどにスピードは落ちていく。このままだとどうにかなってしまうんじゃないだろうかと思う。もうどうにでもなってしまえ。駅の近くまで来た時、ホームのベンチに1人の男性が座っているのが見えた。一瞬にして全身にのしかかっていた苦痛が全て無くなった。
彼がいる。優しくて、誠実で、いつも何か考えていて、知的で、背が高くて、スタイルが良くて、本が好きで、文章が上手くて、顔が綺麗で、字が綺麗で、まつ毛が長くて…
彼の良いところを挙げれば、キリがないほどある。そんな彼がいる。やっと会えた。
にやける顔を抑えてぎゅっと口を結ぶ。駆け寄りたいこの気持ちを抑えて、しっかりとした足取りで着実に彼のもとへ向かっていく。ホームに上がると、彼はやっぱり絵を描いていた。彼との距離が近くなるにつれて逆にどう声をかければいいのか分からなくなってくる。分からないまま彼の至近距離まで向かうと、気配で気づいたのか彼がこちらを見た。
目を大きく開かせて、どうしてという顔をしている。
「私に会いたくなくて始発の電車にしたのかもしれませんけど、残念ながらここの始発電車は東京みたいに早くないんですよ」
「うん…」
目が合わない。彼の目線が下にある。彼が私のことを怒っていなかったとしても、こんなことをしたら嫌われるのは目に見えていた。
「ごめんなさい!」
深く頭を下げた。地面と私と彼の足元しか見えない。
「私が勝手に好きになっただけなのに、迷惑かけてしまって。本当に私って最悪…」
「…じゃない」
「この日記も捨てます。だから迷惑なら正直にいってほし…」
「違う、そうじゃない」
予想外の言葉に顔を上げた。
「別に迷惑だから帰るわけじゃないから、日記は捨てないで」
「そ、そうなんですか…?」
「君は何もかも経験が浅くて小さいコミュニティでしか生きたことがない。それが悪いこととは思わないけど、でもこの世界には本当にたくさんの色んな人がいる。一時的な恋愛感情によって突き進んで後悔して欲しくなかった。俺だけだなんて思って生きて欲しくなかった」
そんなこと言われたらやっぱりずっとここにいて欲しいなんて思ってしまうじゃないか。
「私、この毎日が本当にすごく楽しかったんです!だから、だから…」
次に紡ごうとする言葉が口の中をもがいて消えてゆく。
いつの間にか頬が濡れていた。
「泣かないでよ…」
彼が困ったように涙を拭ってくれた。
「前にここがいい所って言ってたじゃないですか。でも、なんだか私はそう思えなくなってきて」
ゆっくりと遠くから電車がやってくる。
「見慣れた景色の中にずっといるんじゃなくて、多くの人に会って色んな世界が見たいです。まだまだ私が知らないこと、もっとたくさん知りたいです」
彼は私の言葉をゆっくり相槌しながら聞いている。
「東京にいつか行きます。だから、私の恋はもう終わらせるけど、目標として追いかけさせてください」
電車が到着した。
「分かった。いつか、会えるといいね」
1000万分の1の奇跡という言葉を思い出す。
彼が電車に乗りこむとドアが閉じられた。電車が遠くへ向かって動きだす。このずっと先に彼の住む町がある。
電車が壁の向こうに消えた後も私はずっと電車の残像を見つめていた。
風が私を通って電車の方に向かっていく。
この瞬間に私の夏は終わった。
涙はもう乾いていた。
*
夏になると10年前の思い出が蘇る。本当は夏じゃなくても、スケッチブックを開く度に思い出してるけど。
あの頃と比べると私も少しは成長したと思う。趣味で書いている方が気楽だよ、という彼の言葉をひしひしと実感する。しかし、目標として追いかけると決めてしまった以上、引き返す訳にも諦める訳にもいかないのだ。一種のしがらみでもあるが、これが楽しいことであることは間違いなかった。
東京に住んでもう何年も経つが、まだ彼に会えたことは無い。やはり1000万分の1の確率は早々に起こらないみたいだ。
“いつか”は来てくれるのだろうか。ここまでなると来るかどうかはもはや関係なかった。いつかはいつかであって、その未来を追いかけている間はずっといつかが存在する。私はそのいつかをずっと待ち続ける。
「絵、上手いっすね。」
ベンチに座って絵を描いていると後ろから聞き覚えのある声がした。私の体を突き抜けるような低くて、落ち着いていて、安心しそうなのにドキドキしてしまう声。理解する前に体が反応してその声を探していた。あの頃に見た姿を一つずつ丁寧に思い浮かべ振り返る。
「あ、ありがとうございます。」
私のことには気づいていないらしい。
「でも、全部あなたが教えてくれたんですよ。」
彼は大きな目を更に見開いていて、やっぱり何も変わらないなと思った。
「1000万分の1の奇跡、起きましたね。」