「氷白様。お風呂の支度が整いましたよ。」
「様付けしなくて良いと前にも言わなかったか?」
「…ですが、」
「まさか、神使の命を蔑ろにするはずはないだろな?」
「分かりました、氷、白。」
最近では薄気味悪く笑う氷白に抵抗するのも億劫になってきた。
家の掃除も終わり、ゆっくりと茶を飲む。氷白が来てはや1ヶ月。
この前の騒動で、氷白は恐怖の対象となったが、美貌を見に来る者、もしくは陽香を陥れるためにいるのではと見当違いの噂が流れ陽香を按じて来る者もいて、追い返すのに大変だった。しかし、氷白の優しい人柄を知っていくとそんな噂もなくなり、今や村の美男王と言われている。
湊は氷白の礼儀の良い立ち振舞が大層気に入ったようで、一昨日又もやとんでもない事を言い出した。
「記憶が戻ったようで良かった。」
村で氷白の名が広まり、湊の耳にも入ってきたらしく、どうやら記憶が戻ったと思っているようだ。
…実際それは嘘なので乾いた笑いしか出てこなかった。
「お主のような者が、陽香を貰ってくれると良いのだがな。」
その途端、陽香は激しい頭痛がしてきた。
…きっと今のは聞き間違い…。
「私も陽香が貰えるのであれば幸せです。」
「…はい!?」
「そうかそうか!陽香にも立派な殿方ができたな。」
頭がついていかない。陽香が目眩に苛まれている間に勝手に話が進み、現在、何と正式に同居する事となった。
陽香が結婚は見極めてからと、お世話になった湊を悲しませないために嫌な気持ちを隠しながら意見した。不幸中の幸い、結婚の話は今のところ進展していない。
「陽香。」
「ひゃっ!」
耳元で急に名前を呼ばれ変な声が出た。振り返れば座っている陽香をまじまじと見ている。顔が近い。
「そんなに緊張しなくとも良い。」
悪戯が成功し、とても機嫌がいい。
……疲れる…。
「何でしょう?」
「私のところに嫁ぐのは嫌か?」
唐突に聞かれた質問に固まってしまう。
…聞き方が悪どい。これでは何と答えてよいかわからない。
「…嫌ではありませんが…。」
途中で口籠る。そこまで嫌ではないのは事実である。しかし、結婚しようかと言われても素直に頷く事はできない。
「嫌ではないのか?」
「はい。」
即答してしまい、思わず恥ずかしくなる。返事を聞いて氷白は嬉しそうに頬を上げる。
「それでは風呂に入ってくる。」
満足したのか陽香に背を向ける。陽香は結婚の話で赤くなってしまい少し外の空気を吸おうと立ち上がる。
チャリン。
鈴の音がした。氷白の方を振り向くと、歩みを止めている。
「何かございましたか?」
「………いやっ、大した事ではない。明日、私は用事があるのでここを留守にする。くれぐれもこの村から出るな。」
「……承知致しました。」
芳しくない顔で物を言う氷白に少し不安を覚えながら月を見上げた。
今日は少しだけ不気味に光る月を。