第七章 新学期

 新学期が始まり、一ヶ月経った。
 少し日焼けは引いたが、それでも充分に小麦色をした肌を見せ合うように、キラキラと笑い合うクラスメイト達。去年までは彼らを遠巻きにしか眺めることができなくて、磨りガラス越しの存在だった僕だけど……今年は違う。
 何たって僕の隣には、星羅……『裸足の女神』がいるんだから。
 まぁ、普段はソックスも靴も履いているわけだけど。
 いつも通りの六限終わり……ホームルームを待つ間、そんなことを思って隣の席を見ると、長い睫毛をした瞳と目が合った。
「どうしたの?」
「いや、別に」
 僕は、彼女のパチクリとした瞳に微笑んだ。
「分かりやすいなぁって」
「分かりやすい?」
「だって、ほら。夏休み前はあいつ……相模の隣の席だったのに、新学期初日の席替えで星羅、僕の隣を希望したじゃん」
「まぁね。もう、あいつとは顔を合わせたくもないし、それに……」
 長い睫毛の美しい目がニーっと横に広がった。
「私は蒼……あなたとずっと一緒にいたいの」
 その言葉に、カァッと顔が熱くなる。だから、照れ隠しにすっと目を瞑って言った。
「いつも聞いてるけど、星羅は僕でいいの? 人気者の星羅が僕なんかといたら、人気が下がるでしょ」
「何言ってんの? 蒼はもう、クラスの人気者じゃない。友達も多いし、付き合ってるって言ったら、美香ちゃん達も凄く羨ましがっていたんだから」
 言われてみれば。自分ではあまり意識していなかったけど、新学期から星羅が常に隣にいることもあってか、少しずつクラスメイト達も話しかけてくるようになっていた。
 最初は恐る恐るだった僕だけど……すぐに、以前のようにクラスメイト達とも打ち解けて何でも話せるようになっていたのだった。
(あれ、そういえば……)
 僕は振り返り、教室の後ろの方の席を見た。後ろから二番の列の端っこの席では、相模がポツンと孤独に座っていた。

「なぁ、星羅」
「ん?」
「あいつ……相模。この頃、誰ともつるんでなくない? 水泳部もやめたみたいだし」
 僕が尋ねると、星羅は目を丸くした。
「あれ、蒼。知らないの?」
「え、何を?」
 すると星羅は眉を顰め、声を潜めた。
「あいつさ、最低なんだよ。夏休み……クラスの女の子を取っ替え引っ換え家に呼んでさ。エッチなことしたんだって」
「え、うそ!」
「しっ! 声が大きい」
 星羅に言われ、僕は声を潜めた。
「それで……水泳部もやめたの?」
 星羅は頷いた。
「噂が広まって、居場所がなくなったんでしょうね。それでさ、新学期始まって最初の日……あいつ、私に何て言ったと思う? 『俺、別れて初めてお前じゃないといけないって分かったんだ。俺達、もう一度やり直そう』って。そう言ったのよ」
「信じられない……」
「もうホント、プッツンときてさ。私、あいつ引っ叩いて、『私は更科と付き合ってるの。もう、話しかけないでくれる?』って言ってやったのよ。そしたら、あいつ、ポカンと口開けて呆然としてさ。そんな奴だから、もう誰も相手にしないのよ。ざまぁ見ろって感じ」
 そこまで言って、星羅は少し俯いた。
「なんて……私、最低かなぁ? 騙されてたとは言え、好きだった人にこんなことして」
「いいや、全然!」
 僕はきっぱりと言った。
「最低なのは、あいつだよ。僕、今からでもあいつ殴ってぶっ飛ばして来る!」
 怒りに任せて今にも席から立ちそうな僕を止めて、星羅はいつものように悪戯な目を細めた。
「大丈夫。私のビンタ、滅茶苦茶痛いんだから。それに、蒼に人をぶっ飛ばすなんてできないでしょ?」
「あ、言ったな! 僕でも一応男だし、これでも力があるんだ」
 そんなことを言って無理くり力こぶを作って見せている間にチャイムが鳴り、担任の高東が教室に入った。

「今日は、みんなにお知らせがある」
 高東は教壇で、目を細めて白い歯を見せながら言った。この先生がこの表情をする時は、大概良い知らせだ。
 夏休み前には、その良い知らせさえも恐れてビクビクしていたが、もう何も恐れることはない。
 僕は、皆と同じく希望に溢れた眼差しを向けた。そんな僕と目が合った高東は、少し微笑んだかに見えた。
「この夏休み。このクラスで、油画を全国高校生絵画コンクールに出した者がいる。そして、その絵はコンクールで金賞を取った」
(えっ、それって、もしかして……)
 僕は、期待で目を大きく見開いた。
「その絵のタイトルは、『BLUE SKY~裸足の女神~』。出した者は……もう、分かるよな?」
 高東がそこまで言った瞬間……!
「蒼! やったじゃん。やった、やったぁ」
 隣の席……星羅が歓声を上げた。そして、その教室からも……あちらこちらから、クラスメイト達の歓声が上がったんだ。



「蒼。本当に、凄いよ。まさか、絵画コンクールで金賞を取るなんて。それに……」
 並んで歩く帰り道。星羅が、希望で光り輝く眼差しを僕に向けた。
「それが、私を描いてくれた絵なんだもん。私、嬉しくて仕方がない」
「うん」
 僕は頷いた。
「自分でも……信じられないよ」
 星羅は、そんな僕を真っ直ぐ見つめた。
「ねぇ、蒼。あなたが中学生の時ハブられてたのってさぁ、みんな、あなたを恐れてたんだと思うよ」
「恐れてた?」
 星羅は真剣な瞳のまま頷いた。
「だって、蒼……持ってるもの。誰にもない才能。こんなに素敵で……誰もに希望を与える絵が描けるんだもの。そりゃあ、みんな、嫉妬するよ」
「そう……なのかな?」
 呟く僕の顔に、星羅はそっと顔を近づけた。
「そうよ。人間は哀しい生き物よ。自分より才能がある人……凄い人がいると、不安になる。不安になって、引き摺り降ろそうとする。それに、私だって、不安。蒼がこのまま、私の手の届かない所に行ってしまわないかなって……」
 僕の目の前の美しい瞳はそっと閉じられ、その唇を僕の唇に重ねた。僕も暫し、目を閉じる……。
「だから、私も。あなたが手の届かない所に行ってしまわないように、ずっと捕まえてる。いつまでも、ずっと……」
 星羅の吸い込まれそうな瞳。オレンジ色の夕焼け空の下、僕は彼女と見つめ合う。
 彼女の胸元では、放課後すぐにつけられたネックレスのペリドットが夕陽を反射して美しく煌めいていた。