第五章 生命の息吹
「うわっ、蒸し暑い」
空港から出た途端にムワッとした湿気に襲われた。
セブ島での時刻は夜の九時。いかにもフィリピン人らしい人達が、夜の街を行き来していた。
「ソウ ト セイラ デスカ? ヨロシク デス!」
空港の前で僕達二人の名前を書いた看板を持った女性スタッフが出迎えてくれた。
「こんばんは」
「よろしくお願いします」
僕達は軽く挨拶をして、現地民らしく少し浅黒い肌をしたスタッフの車に乗り込んで、宿泊先のホテルへと向かった。
車内では、セブ島の治安のこと、外出時に気をつけなければいけない点なんかを説明された。治安は決して良いとは言えないらしい。僕達が高校生での二人旅ということで、その点は特に念押しをされた。
それは、車の窓から見える景色……まるでスラムのような街や、ほとんど裸の格好で物乞いをするかのように出歩く少年を見ても、想像ができた。そんな街や子供を見ていると、「本当に僕達はこの島の『闇』から目を背けて楽しんでいいのだろうか…」と、堪らない気持ちになった。それと同時に、この旅行中、絶対に星羅の側を離れてはいけないと……セブ島に着く前から既に、かっこ悪さを見せてしまったのだけれど……僕はそう、決意したのだった。
ホテルに着いて、宿泊やご飯なんかの説明をいくつか受けてから、僕達は部屋に案内された。
「わぁあ、綺麗」
星羅は目を輝かせた。とてもお洒落な白い壁の部屋だったのだ。
車の中で見たスラム街とは対照的なホテルの部屋に、僕も驚いた。
「それは、そうと。今更だけど……」
僕は素朴に口を開く。
「同じ部屋で二泊三日もして、星羅は本当に大丈夫? 流石に、ベッドは二つ分かれてはいるけど」
部屋に入ると、今まで不思議と意識していなかったことの実感が湧き、顔が火照り出した。
「そんなの、何の問題もないし、何も気にしないわ。うちの親も、蒼くんなら問題ないって言ってたし」
そう言いながら、「まぁ、うちの両親は基本、私に無関心なんだけどね」とつけ加えて舌を出した。
「そうなんだ……。星羅のとこのお父さんとお母さん、今も仕事ばかり?」
「まぁね。私が保育園の頃からだもん。もう、慣れっこよ」
慣れっこなんて屈託なく言う星羅の表情はどこか寂しそうで、胸の奥が痛んだ。
「そんなことより! 早く寝ないと、明日、スキューバダイビングの体験ができるんでしょ? 私、あれ、すごく楽しみなんだ。蒼は今日、吐いたんだし、体調悪くて出れないなんて言ったら、承知しないからね!」
寂しそうな表情は、すぐに希望に溢れた満面の笑みに変わった。彼女はいつも、こんな感じで僕の気持ちも切り替えてくれる。それが、僕にとっていつも救いなんだ。
その日は、溜まりに溜まった旅行疲れが、彼女と同室ということを意識させることもなく、瞬く間に僕を夢の中へと引き込んだ。
*
青い空、金色に照らす太陽。
果てしなく続く水平線……。
真っ白な砂浜を裸足で歩く彼女は、白い歯を見せてその水平線を指で差す。その笑顔はキラキラと輝いていて、でも、陽が眩しくて顔が見えない。
僕の心が求めていたのは、彼女なんだ……。
そう、彼女こそ……。
*
僕の顔を眩い光が射して、目が覚めた。
夢……でも、それはとても、鮮明で。まるで、目の前に広がっていた映像みたいで。
本当に、自分の目の前に『裸足の女神』が現れたみたいに、僕の視界を鮮やかに彩ってくれた……。
体を起こして、隣のベッドを見た。
そうだ。ここは、セブ島。昨日、到着して、隣のベッドに星羅が寝てて……。
「あ、やっと起きた!」
部屋のドアが開いて、キラキラと輝く笑顔が覗いた。その笑顔には、金色の光が射していて、眩しくて直視できなくて……。
「裸足の女神……」
僕の口からつい、その言葉が漏れた。
「何よ、それ。寝惚けてんの?」
明るさに慣れた目に、いつものようにクスッと笑う、悪戯な瞳が映った。
「星羅……」
「おはよ! 蒼。見て見て! 昨日は分からなかったけど、凄く綺麗」
部屋から出ると、そこには朝の眩い光に照らされて輝く海が一面に広がっていた。
「ホントだ、綺麗。このホテル、こんなに海に面していたんだ」
「ねぇ、ほら。テーブルに朝食が用意してあるわよ」
『これから』を期待させるのに充分なほどの景色に囲まれて、トーストとコーヒーの用意されたテーブルについた。
「本当、感激。ほら、見て。テーブルに飾ってるお花も、めっちゃ綺麗」
「ホントだ、綺麗」
青にピンクに赤にオレンジ……。鮮やかに色とりどりに輝く花びら。
しかし、それにうっとりと見惚れる星羅の表情はもっと綺麗で。僕はそっと呟いた。
「なぁ、星羅」
「ん?」
星羅は瞬く星のように輝かせた瞳を僕に向ける。
「本当にさ、今日、明日は……嫌なことも辛いことも、何もかも全部忘れて楽しもうな」
すると、円らな瞳はニッと横に細長く広がった。
「うん!」
そして、太陽の笑みは僕を明るく照らした。
「ついに、待ちに待ったスキューバダイビングね! 私、早速、水着に着替えるから。絶対、覗かないでよね」
「い、いや。覗かないって!」
さっさとトーストを頬張った太陽は、全身を火照らせてモタモタとトーストを食べる僕を置いて、部屋に戻りドアを閉めた。
「蒼! 早く、早く!」
潜る海岸の砂浜で、白いビキニにエメラルドグリーンのパレオをはいた星羅が大きく手を振った。
「はい、はーい!」
僕は早足の彼女に付いてゆく。
彼女の底抜けの明るさは、青い空に白い砂浜、透き通るような海にぴったりと似合っていて、見ている僕も気持ちが弾んだ。ギラギラと眩しく輝く太陽はジリジリと肌を焼くようで、でも僕にとってはとても心地よく感じられた。
「すっごーい。ウェットスーツって、こんなに分厚いんだ」
星羅ははしゃぎながら、ビキニの上にウェットスーツを着る。こんな何でもないようなことでも、僕達にとっては凄く楽しかった。
水中マスクとゴーグル、大きい酸素ボンベを装着しての水中での呼吸や耳抜きの練習を終え、船に乗った。船の上で僕達を吹き抜ける風は清々しくて美味しくて、対岸の緑の葉をつけるヤシの木が南国特有の情緒を醸していた。
「綺麗……こんな海で初めてのスキューバダイビングができるなんて、夢みたい」
僕の女神は白く輝く歯を見せて笑った。こんな海の真ん中で潜るのなんて初めてで、この美しい島の澄んだ自然に触れられることに胸が弾んだ。
*
「はい、ここで潜ります! このロープを伝って潜降して下さい」
インストラクターが潜降場所を指示して、ついにダイビングが始まった。先に星羅が降り、次いで僕がロープを伝って降りる。
熱帯の暑い気温とは対照的に海水は冷んやりとして、透き通る海の深い部分まで沈むのがとても心地よかった。
(すごい……この島の海って、こんな風になってるんだ)
青いスズメダイに、赤色に白筋が入ったクマノミ、クマノミが隠れる緑色のイソギンチャク……目の前に広がる、彩り鮮やかな生命の息吹に目を奪われた。
しかし、それ以上にその自然……色とりどりの小魚の群れやイソギンチャク、ヒトデやカニなんかと戯れる星羅に心奪われた。
美しい緑色の小魚をそっと手の平で包み込む彼女……それは、優しさ溢れる人魚のようで。この綺麗に透き通った海の中でも、一番美しい。そう思った。
その時だった。ゴーグルの奥で彼女は驚きと歓喜に溢れた目を見開き、僕の背後を指差した。
僕が振り向くと、そこには……青い体に雪を散らしたかのような模様をつけた、とっても大きなジンベエザメがゆったりと泳いでいたのだ。
僕達は、澄んだ海中の大自然の中の神秘的な光景……最大の生命の息吹を、うっとりと眺めていた。
「うわっ、蒸し暑い」
空港から出た途端にムワッとした湿気に襲われた。
セブ島での時刻は夜の九時。いかにもフィリピン人らしい人達が、夜の街を行き来していた。
「ソウ ト セイラ デスカ? ヨロシク デス!」
空港の前で僕達二人の名前を書いた看板を持った女性スタッフが出迎えてくれた。
「こんばんは」
「よろしくお願いします」
僕達は軽く挨拶をして、現地民らしく少し浅黒い肌をしたスタッフの車に乗り込んで、宿泊先のホテルへと向かった。
車内では、セブ島の治安のこと、外出時に気をつけなければいけない点なんかを説明された。治安は決して良いとは言えないらしい。僕達が高校生での二人旅ということで、その点は特に念押しをされた。
それは、車の窓から見える景色……まるでスラムのような街や、ほとんど裸の格好で物乞いをするかのように出歩く少年を見ても、想像ができた。そんな街や子供を見ていると、「本当に僕達はこの島の『闇』から目を背けて楽しんでいいのだろうか…」と、堪らない気持ちになった。それと同時に、この旅行中、絶対に星羅の側を離れてはいけないと……セブ島に着く前から既に、かっこ悪さを見せてしまったのだけれど……僕はそう、決意したのだった。
ホテルに着いて、宿泊やご飯なんかの説明をいくつか受けてから、僕達は部屋に案内された。
「わぁあ、綺麗」
星羅は目を輝かせた。とてもお洒落な白い壁の部屋だったのだ。
車の中で見たスラム街とは対照的なホテルの部屋に、僕も驚いた。
「それは、そうと。今更だけど……」
僕は素朴に口を開く。
「同じ部屋で二泊三日もして、星羅は本当に大丈夫? 流石に、ベッドは二つ分かれてはいるけど」
部屋に入ると、今まで不思議と意識していなかったことの実感が湧き、顔が火照り出した。
「そんなの、何の問題もないし、何も気にしないわ。うちの親も、蒼くんなら問題ないって言ってたし」
そう言いながら、「まぁ、うちの両親は基本、私に無関心なんだけどね」とつけ加えて舌を出した。
「そうなんだ……。星羅のとこのお父さんとお母さん、今も仕事ばかり?」
「まぁね。私が保育園の頃からだもん。もう、慣れっこよ」
慣れっこなんて屈託なく言う星羅の表情はどこか寂しそうで、胸の奥が痛んだ。
「そんなことより! 早く寝ないと、明日、スキューバダイビングの体験ができるんでしょ? 私、あれ、すごく楽しみなんだ。蒼は今日、吐いたんだし、体調悪くて出れないなんて言ったら、承知しないからね!」
寂しそうな表情は、すぐに希望に溢れた満面の笑みに変わった。彼女はいつも、こんな感じで僕の気持ちも切り替えてくれる。それが、僕にとっていつも救いなんだ。
その日は、溜まりに溜まった旅行疲れが、彼女と同室ということを意識させることもなく、瞬く間に僕を夢の中へと引き込んだ。
*
青い空、金色に照らす太陽。
果てしなく続く水平線……。
真っ白な砂浜を裸足で歩く彼女は、白い歯を見せてその水平線を指で差す。その笑顔はキラキラと輝いていて、でも、陽が眩しくて顔が見えない。
僕の心が求めていたのは、彼女なんだ……。
そう、彼女こそ……。
*
僕の顔を眩い光が射して、目が覚めた。
夢……でも、それはとても、鮮明で。まるで、目の前に広がっていた映像みたいで。
本当に、自分の目の前に『裸足の女神』が現れたみたいに、僕の視界を鮮やかに彩ってくれた……。
体を起こして、隣のベッドを見た。
そうだ。ここは、セブ島。昨日、到着して、隣のベッドに星羅が寝てて……。
「あ、やっと起きた!」
部屋のドアが開いて、キラキラと輝く笑顔が覗いた。その笑顔には、金色の光が射していて、眩しくて直視できなくて……。
「裸足の女神……」
僕の口からつい、その言葉が漏れた。
「何よ、それ。寝惚けてんの?」
明るさに慣れた目に、いつものようにクスッと笑う、悪戯な瞳が映った。
「星羅……」
「おはよ! 蒼。見て見て! 昨日は分からなかったけど、凄く綺麗」
部屋から出ると、そこには朝の眩い光に照らされて輝く海が一面に広がっていた。
「ホントだ、綺麗。このホテル、こんなに海に面していたんだ」
「ねぇ、ほら。テーブルに朝食が用意してあるわよ」
『これから』を期待させるのに充分なほどの景色に囲まれて、トーストとコーヒーの用意されたテーブルについた。
「本当、感激。ほら、見て。テーブルに飾ってるお花も、めっちゃ綺麗」
「ホントだ、綺麗」
青にピンクに赤にオレンジ……。鮮やかに色とりどりに輝く花びら。
しかし、それにうっとりと見惚れる星羅の表情はもっと綺麗で。僕はそっと呟いた。
「なぁ、星羅」
「ん?」
星羅は瞬く星のように輝かせた瞳を僕に向ける。
「本当にさ、今日、明日は……嫌なことも辛いことも、何もかも全部忘れて楽しもうな」
すると、円らな瞳はニッと横に細長く広がった。
「うん!」
そして、太陽の笑みは僕を明るく照らした。
「ついに、待ちに待ったスキューバダイビングね! 私、早速、水着に着替えるから。絶対、覗かないでよね」
「い、いや。覗かないって!」
さっさとトーストを頬張った太陽は、全身を火照らせてモタモタとトーストを食べる僕を置いて、部屋に戻りドアを閉めた。
「蒼! 早く、早く!」
潜る海岸の砂浜で、白いビキニにエメラルドグリーンのパレオをはいた星羅が大きく手を振った。
「はい、はーい!」
僕は早足の彼女に付いてゆく。
彼女の底抜けの明るさは、青い空に白い砂浜、透き通るような海にぴったりと似合っていて、見ている僕も気持ちが弾んだ。ギラギラと眩しく輝く太陽はジリジリと肌を焼くようで、でも僕にとってはとても心地よく感じられた。
「すっごーい。ウェットスーツって、こんなに分厚いんだ」
星羅ははしゃぎながら、ビキニの上にウェットスーツを着る。こんな何でもないようなことでも、僕達にとっては凄く楽しかった。
水中マスクとゴーグル、大きい酸素ボンベを装着しての水中での呼吸や耳抜きの練習を終え、船に乗った。船の上で僕達を吹き抜ける風は清々しくて美味しくて、対岸の緑の葉をつけるヤシの木が南国特有の情緒を醸していた。
「綺麗……こんな海で初めてのスキューバダイビングができるなんて、夢みたい」
僕の女神は白く輝く歯を見せて笑った。こんな海の真ん中で潜るのなんて初めてで、この美しい島の澄んだ自然に触れられることに胸が弾んだ。
*
「はい、ここで潜ります! このロープを伝って潜降して下さい」
インストラクターが潜降場所を指示して、ついにダイビングが始まった。先に星羅が降り、次いで僕がロープを伝って降りる。
熱帯の暑い気温とは対照的に海水は冷んやりとして、透き通る海の深い部分まで沈むのがとても心地よかった。
(すごい……この島の海って、こんな風になってるんだ)
青いスズメダイに、赤色に白筋が入ったクマノミ、クマノミが隠れる緑色のイソギンチャク……目の前に広がる、彩り鮮やかな生命の息吹に目を奪われた。
しかし、それ以上にその自然……色とりどりの小魚の群れやイソギンチャク、ヒトデやカニなんかと戯れる星羅に心奪われた。
美しい緑色の小魚をそっと手の平で包み込む彼女……それは、優しさ溢れる人魚のようで。この綺麗に透き通った海の中でも、一番美しい。そう思った。
その時だった。ゴーグルの奥で彼女は驚きと歓喜に溢れた目を見開き、僕の背後を指差した。
僕が振り向くと、そこには……青い体に雪を散らしたかのような模様をつけた、とっても大きなジンベエザメがゆったりと泳いでいたのだ。
僕達は、澄んだ海中の大自然の中の神秘的な光景……最大の生命の息吹を、うっとりと眺めていた。