第四章 初めてのフライト

「蒼! 早く! 乗り遅れたら、アウトよ」
「分かってるって。荷物、重いんだよ」
 僕はスーツケース二つを引き摺って急ぐ。男らしさを見せるために「荷物、星羅のも持つよ」なんて言ったのが失敗だった……。
 そんな後悔をしながらも、新幹線に乗り込む。
「すごぉい! 私、新幹線に乗るのなんて、小学生の修学旅行以来かも!」
「僕も。っていうか、海外行くのなんて生まれて初めてだよね?」
「うん。すっごい楽しみ!」
「うーん。僕は、フィリピンから本当に生きて帰れるかの方が心配だけどね」
「なーに、壮大に後向きなこと言ってるの! この旅行は、とことん楽しむわよ! 私、そのつもりなんだから」
 星羅は期待に胸を躍らせて車窓から見える風景を楽しんでいる。
 僕も、楽しみで仕方なかった。生まれて初めての海外……青い空、白い砂浜、透明な海。それを、一番大好きな星羅と一緒に見られるんだから。
 それに、荷物の中には勿論、キャンバスと油絵の具も入っていた。
 僕はこの旅行の中で、何を描けるだろうか。もしかしたら、今までの僕の絵には足りないもの……僕の絵を生き生きと鮮やかに彩ってくれる、そんな『何か』に出会えるかも知れない。そんなことを考えると、胸がワクワクと高鳴った。

「ねぇ、蒼」
 車窓から景色を眺めていた星羅は、長い睫毛の瞳をそっと僕に向けた。
「ありがとうね」
 彼女は春の陽射しのように美しく、柔らかな微笑みを向けてくれた。
「傷ついてた私を元気づけるために、旅行に誘ってくれたんだよね」
「いや、まぁ……他に行ってくれそうな人がいなかったからだけど」
 僕は照れ隠しにそう言った。
 彼女の言うことも本当だし、他に行ってくれそうな人がいないのも本当だったけど。一番の理由は、僕が星羅を好きだから、一緒に行きたいのは星羅だけだから……そんなこと、今の僕には言えなかった。
 すると、星羅は美しい瞳をそっと細めた。
「蒼……昔から、そうだったね。私が落ち込んだり泣いたりしてた時には、いつもそれとなく励まして、元気づけてくれて。私、その優しさに甘えてばかりだったなぁって」
 細められた美しい瞳が潤んだ。
(僕の方こそ、星羅にいつも助けられていた。星羅が僕の心を明るく照らしてくれてたんだ……)
 そんな言葉は照れ臭くて、僕の口から出るのを躊躇った。だから、僕は星羅を見つめてにっこりと笑った。
「ううん。折角の南の島なんだし、嫌なことも辛いことも全部忘れて、思い切り楽しもうな!」
 すると、彼女の細められた目も美しい曲線を描き、にっこりと笑った。
「うん。蒼、ありがとう!」



 空港に着いた僕達は、おっかなびっくりだった。周りの旅行客は、家族連れや社会人のようなカップル……必ず、成人した大人が混じっていた。
「星羅。今更だけど……高校生二人で海外旅行って、入国審査に引っ掛かったりしないかな? 日本で引っ掛かるならまだしも、海外で刑務所に入れられて、帰って来れなくなったり……」
「ちょ、ちょっと、物騒なこと言わないでよ。ネットで調べたら、高校生一人で海外行ってたような人もいたし、大丈夫よ」
「ま、まぁ、大丈夫か。それに、僕も英語はそれなりに話せるし、どうにか言葉も通じるはず」
「でも……フィリピン人って、英語話せるのかな?」
「だ、大丈夫だよ。英語は国際共通語なんだし」
「本当に、頼むわよ。私、英語なんて全然話せないし、蒼だけが頼りなんだからね」
 そんな話をしているうちにどうにかパスポートの審査も通り、大韓航空の飛行機に乗り込むことができた。セブ島へは、韓国のソウル空港経由で行くのだ。
 飛行機は重力に逆らい、離陸する。急な気圧の変化の衝撃とともに、フワッと浮く感覚にとらわれた。
 飛行機に初めて乗る僕達は、離陸して暫くの後、窓の外を恐る恐る眺めた。
「うわぁ、すっごーい! 雲の中を飛んでる!」
 星羅が目を輝かせた。
「ホントだ! 雲の中って、こんななんだ」
 雲の中のホワイトアウト……それは、時に人の視界を奪う恐ろしい現象になりうるが、今の僕達には美しい未知の世界へ渡る架け橋のように感じられた。
 初めて飛行機から見る風景に感動しているうち、あっという間にソウル空港へ到着した。乗る前は「墜落しないか……」なんて要らぬ心配をして、星羅に笑われていた僕だったが、一時も恐怖を感じることなく初フライトを満喫できた。



「ちょっと、蒼。食べ過ぎよ! 韓国料理ってしつこいし、そんなに食べたら気分悪くなるわよ」
 初フライトを無事に終えて調子に乗った僕は、ソウル空港でのお昼にビビンバをバクバク食べていた。
「だって、辛い料理好きだし、美味しいんだもん」
「よくそんなに食べられるわね」
 辛いものが苦手な星羅は、眉間に皺を寄せて嫌そうに、キムチが盛られた皿を見ていた。
「食べない方がどうかしてるよ。いらないのなら、貰うよ!」
「ちょっと! 私も一応、お腹は空いてるんだからね」
 ソウル空港からセブ島へ向かう便が出るまでは、到着してから五時間近くあった。だから、僕達は空港内でショッピングしたり、チマチョゴリを着た韓国女性のパレードに付いて行って、一緒に写メを撮って貰ったりと、充実した待ち時間を過ごした。
 しかし……空港内を休みなく歩き過ぎたのがよくなかった。僕の胃の中で、お昼に食べた韓国料理がチャプチャプと踊り、頭がズキズキと痛くなってきたのだ。
「星羅……ちょっと、休もう」
「えー。韓国なんて滅多に来れないんだし、飛行機がくるまで、もっと空港内を探検しようよ」
「いや、探検て……」
 僕は彼女に連れ回され、そのまま空港内を巡り歩いた。歩き回るにつれて頭のズキズキと胃のムカムカは増してゆく。
 ソウル空港に到着した飛行機に乗り込んだ時には、もう限界近くになっていた。
「あー、楽しかった。韓国も、結構、いいもんね」
「うん……」
 僕は、韓国料理が逆流しそうになるのを堪えて言った。
 何はともあれ、これで到着するまでは飛行機の中で休むことができる……。僕は目を瞑り、眠ろうとした。
 しかし……そんな状態での飛行機は過酷極まりなかった。離陸して重力から解き放たれる瞬間……もうダメかと思った。どうにか逆流を堪え、堪え……。
「ねぇ、蒼。映画、面白そうなのが見れるよ!」
「ああ……そうだね」
 無邪気にはしゃぐ星羅の隣で、普通に見せるように振る舞うのがやっとだった。しかし……機内食が運ばれた途端に、限界を超えた。
「やった! 韓国料理ほとんど食べられなかったから、お腹空いてたの!」
 星羅がアルミを開けたハンバーグの香りがこちらに漂ってきた途端……僕は、徐に立ち上がった。
「蒼?」
 星羅の不思議そうな顔を尻目に、僕はトイレに直行した……。

「かっこ悪……」
 トイレで、昼に食べた料理の殆どをもどした僕の口から、その言葉が漏れた。
 こんなの、星羅に気付かれたらかっこ悪過ぎる。彼女の前では、何ともなかったように振る舞おう……。
 僕はうがいをして口の中をすすぎ、何事もなかったかのように座席に戻った。

「蒼、遅かったじゃない。どうしたの?」
「ああ、ごめん。トイレ、混んでて」
「え、いや。トイレ行ってたの、蒼だけだったと思うけど?」
「そうだっけ?」
 惚けて誤魔化そうとする僕に、星羅は猫のような口を結び、笑いを堪えるような表情で錠剤を二つ渡した。
「はい、これ」
「何、これ? 薬?」
 星羅は頷く。
「胃腸薬と、酔い止めよ。あなた、韓国料理を吐いてたんでしょ」
「えっ……」
 彼女は目をニーっと細め、いつもの悪戯な狐になった。
「だって、後先考えずにあんなにバクバク食べてたんだもん。そりゃあ、気分悪くなるわよ。私の言うこと聞かなかった罰よ」
「なぁんだ、気付いてたの?」
 僕は座席で頭を掻く。
「そりゃあね。蒼とは、何年の付き合いだと思ってんの?」
「気付いてたなら、もっと、休ませてくれるとかさ……」
「私もひもじい思いさせられたんだから、おあいこよ」
「ったく……」
 僕は座席で額に手を当てた。
「かっこ悪い……」
「私にゲロぶっかけなかったから、まだセーフよ」
「ゲロとか言うな、ゲロとか」
 僕は錠剤を飲んでホッと一息吐き、この悪戯っ子を見つめる。彼女はフフンと笑って僕と目を合わせた。
 彼女の悪戯な所は昔から何も変わらない。でも、彼女のそんな所が僕には心地よくもある。
 胃と頭の痛みが引いてきた頃、飛行機はついに目的地のセブ島に到着した。