第二章 希望への片道チケット

 その夜。僕は、今まで描いてきた絵を見つめていた。
「足りない……やっぱり」
 どこか、足りない。
 これらの絵は、ただ風景をなぞっただけ。僕の心を描ききれていない。
 そして……クラスメイト達の輪から外れて絵に没頭してもなお、こんな絵しか描けないことに遣る瀬無さを感じたのだった。
 どうして……いつから、僕はこうなってしまったんだろう。
 昔は、何気ない日常の全てが輝いて見えた。
 朝の陽射し、青い空、海を眺めながら歩く通学路、校庭に植えられている向日葵……。
 それらの何気ないことに、心から喜ぶことができた。
 自分を取り巻くもの全てを無頓着に信じていた僕は、クラスメイトは皆、信頼できると思っていた。
 しかし……『あの時』を境に、僕は磨りガラス越しにしかクラスメイト達を見ることができなくなった。ただ、眩しい……直視することもできないものになった。
 そして、僕の日常はまるで霞がかかったかのように、全ては色褪せて、モノクロ画像のようにしか見えなくなったのだ。
 全ての者は信頼できない。『あの時』、そう悟ってからは……。



 中学生の頃は、クラスに溶け込めていた。普通に皆と話して、皆と同じように先生の話す冗談に笑って、休み時間には流行りのテレビ番組の感想を言ったりもして。
 こんな普通の日々が続くものだと思っていた。
 しかし、僕が『普通』でいることを、皆……いや、一部の人間かも知れないが……どうしても許せなかったらしい。
 ある時、突然に僕の存在はクラスから抹消された。誰に何を話しても……助けを求めても、いないものとして扱われるようになった。
 最初は、そんなことには気付かなかった。しかし、その状況を理解し、飲み込むにつれて、僕は『本当の自分』であらざるをえなくなった。
 それまでの、皆に歩調を合わせて、皆に溶け込んでいた自分ではなく……人との関わり方が分からずに、誰一人心を許せる人のいない自分。
 僕がクラスでそんな状況に陥っていた時には、星羅は違うクラスだった。
そして、僕は星羅にだけはその状況を気付かれないように、強がりにいつも通りに振舞っていたのだった。



 朝がきた。
 夏休み初日の朝。皆、楽しくて仕方ない長い休みの始まりに、ウキウキと心躍らせていることだろう。
 しかし、僕にとってはいつも通りに過ぎない、そんな朝……。
「蒼。夏休みだからって、いつまでも寝てないでシャキッとなさい」
「分かってるよ」
 夏休みの決まり文句を言いに部屋へ来た母にふくれっ面で答えて、僕は階段を降りてリビングに入った。いつものようにトーストを焼き、ハチミツをつける。
(今日は……いや、この夏休み、一体どうやって過ごそう)
 そんなことを考えると気が遠くなる。

 他のクラスメイト達のように、友達といついつに海に行く、キャンプに行く、街へ出るなんて約束はない。星羅のように恋人と甘い時間を過ごす約束なんてない。
 勿論、苦痛な学校へ行かなくてよいと思うと幾分気は楽だ。しかし、僕には何もやることはない。何もせずにただただ自分を老化させるだけの時間……それは経過するごとに真綿のようにじわりじわりと首にまとわりついて僕を息苦しくさせる。
 僕はそれを振り払うかのように……なるべくそんなことを考えないように、冷たい水で顔を洗い、庭の小屋の前で尻尾を振りながら正座している豆柴のルルの散歩に出た。
 ルルは散歩好きだ。どこまで散歩しても、嬉しそうに尻尾を振りながら付いて来る。
 時折、僕の方を向いてニコッと口角を上げてくる。
 僕は、そんなルルを見ていると癒されるとともに、羨ましくもなる。
 そして、ルルの散歩の間は僕も頭を空っぽにすることができる。ひたすら空っぽで息苦しさを感じることもない……だから、僕はこいつの散歩が好きなんだ。
 空っぽになって歩いていた時。ルルが尻尾をはち切れんばかりに振り、リードを前へピンと張って立ち上がった。
「キャハッ、ルル。お久しぶり!」
 前を向くと……水色のワンピースに麦藁帽子を被った星羅が美しい目を狐のように細めてルルの頭を撫でていた。彼女は悪戯な瞳を僕に向ける。
「いいお天気。絶好のお散歩日和ね、蒼」
「僕には眩しいよ。嫌んなる」
「全くもう! 相変わらず、後ろ向きなことしか言わないわね」
 いや、本当に……僕には星羅が眩しすぎて、直視できない。そう言いたかったけれど、やめておいた。
「しょうがないよ。それより、何処に行くの? やっぱり、あいつとデート?」
 かまをかけてみると、星羅は頬を桃色に染めて俯いた。
 何だ、図星か。
 僕は溜息が出そうになるのを我慢した。
「デートというか……家に呼ばれたの」
「え、家!?」
 驚いて声を上げると、星羅はさらに赤くなって頷いた。
「夏休み入ってから、暫くは両親が旅行に行って家に誰もいないから、来いってさ」
「いや、家に来いって……付き合ってからまだ三ヶ月も経ってないじゃん? 大丈夫?」
「大丈夫って?」
「急に家に上げて、相模の奴……星羅に変なことしたりとか」
 すると、星羅の目はキッと吊り上がった。
「大丈夫よ。仁は、そんな人じゃないわ」
「分からないよ。ああいう人気者に限って、二人きりになると豹変したりもするし」
「たとえ、そうなったとしても」
 星羅は凛と澄んだ瞳を僕に向けた。
「私達、付き合ってるのよ。仁が私に何をしたって、構わないわ」
「え、いや、まだ早いって……」
「何よ、あんた。妬いてるの?」
 星羅は、睫毛の長い目を艶やかに細めて僕に向けた。彼女の初めて見せる妖艶な表情に、金縛りにあったように僕は動けなくなった。
「私が他の男のものになるって知って、惜しくなったの~?」
 星羅は妖艶な瞳を横に細長くし、いつもの狐になった。ムードをジョークに変えた彼女に、緊張が一気に解ける。
「だーれが! 星羅みたいな狐女!」
 僕はルルのリードを引き、彼女の横を通り抜けた。
「星羅の方が、相模を襲ったりしそうだし。 何しろ、狐の化け物だから。相模の方が心配だ」
「ちょっと、何それ。どういう意味よ?」
「そのまんまの意味だよ」
 頬を膨らます彼女を置いて、プイと足早にその場を去った。彼女のことが気になって仕方がない……しかし、妬いているって思われるなんて、癪だった。
 青々とした海を見るのも億劫になり、僕はいつもの散歩コースを外れて町の商店街に向かった。

 この町の商店街は、僕が小学生の頃から変わらない。決して繁盛しているわけではない。
 シャッターが下がっている店もちらほらとあるが、賑やかすぎるわけではなくて。生き残っている店は、本当に客のことを考えていて、人情味があるから、固定客がついている。
「あらぁ、蒼くん。お久しぶりね」
 声をかけられて振り向いた。西瓜や葡萄、さくらんぼ、桃……色とりどりの果物の並ぶ青果店で、店員と思われる若い女性がにっこりと笑っていた。
「もしかして……ミヨさん?」
 彼女は僕達が小学生の頃には、高校生だった。
 僕や星羅に気さくに話しかけてくれたお姉さん……彼女が今では、この青果店で働いてるなんて、知らなかった。
 またも尻尾をはち切れんばかりに振るルルに、ミヨさんも目を細めた。
「ルルちゃんも、久しぶり! あれ、あなたの相方の星羅ちゃんは?」
 僕は顔を曇らせた。
「星羅は……今では、相方ではないんです」
 すると、ミヨさんはバツが悪そうな顔をして頭を掻いた。
「あらぁ、悪いこと聞いちゃったわね。あなた達、お似合いに見えてたから、つい」
「いえ、そんな……」
「お詫びと言ったら何だけど、福引き引いてかない? 本当は千円の買い物しなきゃ引けないけど、マケといたげる」
「いえ、いいですよ」
「いいから、いいから」
 ミヨさんは店頭のガラガラの前で白い歯を見せた。
 あまり気が進まないながらも、僕はガラガラを回した。すると、出た玉は……何と、赤だったのだ。
『チリン、チリン!』
 ミヨさんの鳴らすベルが、人通りの斑なその商店街に響いた。
「すごいじゃん、蒼くん! 大当たり!」
「えっ……」
「一等賞!」
「そうなんですか?」
 当たったなんて言われてもあまりに実感がなく、当然、感激も何もなかった。
「ええ。あなたが当てたのは、何と……フィリピン、セブ島旅行のペアチケットよ!」
「へぇ……」
 興奮するミヨさんと、状況を把握しきれていない僕。二人の間には、明らかな温度差があった。
 だって、フィリピン旅行のペアチケットなんて当てても、一緒に行く人なんていないし、第一、高校生だけで海外なんて行っていいものなのかも分からない。まるで自分が当てたかのように大はしゃぎするミヨさんを、ただ冷静に見つめていた。
 しかし、僕は気付いていなかった。この日に当てたペアチケットは、僕のモノクロの毎日を鮮やかな青色に彩る……そんな希望への片道チケットだったんだ。