「夏野先輩はどうして、こんなところにいるんですか?」
先輩だと示すものは何もなかったが、タメ口だということ、あとは高い身長を根拠に先輩だと結論づけた。
当たっていたのだろうか、夏野先輩はそれについて何も言わず「そうだなぁ」と口に出してから、
「どうしようもないくらいクラスで浮いたから、浮かない場所に来た。かな?」
どこか他人事のように言う先輩がおかしくて、固くなった表情が和らぐ。どうしようもないくらい、って何だ。
飄々としている彼女は、わたしの表情も気にせずに「花葉はどうして?」と問う。タメ口といい名前呼びといい、そうとうフレンドリーな人らしい。見た目もそれに相応しいのに、どうして浮くのだろうか。
「人を傷つけてしまったから、教室にいられなくなったんです」
不思議に思いつつも答える。ちくり、と二週間前の出来事がわたしの心を刺す。助けてもらえると思うな、罰から逃れられると思うな。だれのものかわからない声がわたしにささやく。
「ごめん、悲しい気持ちにさせたかったわけじゃないんだ。……花葉が人を傷つけるような人だとは思えないけど」
「それは……。わたしがうまく擬態しているだけというか。根っこはもっと悪い人で」
差し伸べられる手を振り払うように、わたしは言う。救われちゃダメだ、と自分に言い聞かせた。そうじゃないと、この手に縋ってしまう。
拒絶したわたしに、先輩は首を傾げる。
「悪人はそんなこと言わないよ」
まっすぐな言葉に、わたしは今度こそ否定もできなかった。先輩は言葉を重ねる。
「もっと楽観的に生きようよ。花葉の過ちは取り返しのつかないものじゃないでしょ?」
「そう、なのかもしれません」
起こったことを思い出す。たしかにわたしは人を傷つけてしまった。しかし取り返しのつかないことだとは──思わない。
何度も何度も謝れば、許してくれるかもしれない。
そう考えて、即座に希望をかき消す。もうわたしは何度も謝ったじゃないか。それで何ともならなかったから、わたしはこうやってまだ電車に乗っているわけで。そもそも許してくれても、被害者の心にはちゃんと傷がある。ただ、わたしの傷が癒えるだけだ。
……少なくともわたしが二度と教室に姿を表さなければ、被害者の心は癒える。退学でもすれば、あいつの人生はめちゃくちゃになったと思ってもらえるはずだ。
やっぱりわたしに、幸せになる資格なんてない。
「まーた表情が暗くなってる」
先輩の言葉にハッとする。せめて先輩を不快にさせないように振る舞わなければ。
「ま、暗い気分になりたいときは存分に浸ってみるのもアリだと思うけど。よくなる可能性が少しでもあるなら、そこに全部賭けてみるのもいいんじゃない?」
柔らかく笑う先輩が眩しい。それと同時に、不思議にも思う。どうしてそんな思考を身につけることができたのだろうか。
「先輩の悩みが、よくなる可能性はないんですか……?」
湧き出た問いに、先輩は固まった。やっぱり──。
よくなる可能性があるなら賭ける。そう言っているのに、先輩は今ここにいる。教室とはまったく異なるこの空間に。
重苦しい空気が、夏の爽やかな空気を上書きする。聞くんじゃなかった──後悔すると同時に、先輩は固く閉ざした口を開く。
「……そうだね」
放たれた声は、さっきよりも低い。わたしがあの出来事を思い出したように、先輩もまた辛いことを思い出してしまったのだろう。
「すみません。わたし、先輩のことなんて考えずに聞いて」
そんなことだから、わたしは。
グッと手の甲をつねる。その手をサッと先輩は撫でた。
「自分を傷つけないで。別に気にしてないから。……ただ、ちょっと怖かっただけ」
「怖い?」
先輩の容姿や振る舞いは『強い女性』を具現化したようなものだった。先輩とは似合わない言葉に、首をかしげる。
「うん。自分の欠点がバレてしまわないか、心配で心配で。教室にいられなくなったのも、それが原因だし」
よくなる可能性がない原因で、教室にいられなくなる。
それがどういうことか、わたしにはわからない。途轍もなく辛いことだということ以外は、何も。
「わたしは先輩にどんな欠点があっても、拒絶しませんよ」
「そう?」
勇気を出して放った言葉は、先輩には届かなかったのかな。浮かない表情で問われる。
「絶対に。わたしだって自分の悪行がバレたら、こんなふうに接してもらえないかもしれないって怖いんですよ」
「そっか。それならお互い様だね」
わたしが続けて言うと、先輩はやっと表情を綻ばせた。空気も重苦しいものではなく、涼やかなものになっている。
お互い様──その言葉が、やけに心に沁みた。最近、一方的に糾弾されることが多かったからかもしれない。
「見て、海が見えてきたよ」
先輩の爽やかな声に、窓を見やる。目の覚めるような青色が、わたしの心を晴らしてゆく。
「綺麗ですね」
「ああ」
ぽつんと呟いた感想に、先輩は短く同調する。
広い海を見ていると、教室に入れないことなんてどうでもいいことのように思えてきた。不安も恐怖も、水平線に吸い込まれてゆく。
心が夏の温度に染まった。
先輩だと示すものは何もなかったが、タメ口だということ、あとは高い身長を根拠に先輩だと結論づけた。
当たっていたのだろうか、夏野先輩はそれについて何も言わず「そうだなぁ」と口に出してから、
「どうしようもないくらいクラスで浮いたから、浮かない場所に来た。かな?」
どこか他人事のように言う先輩がおかしくて、固くなった表情が和らぐ。どうしようもないくらい、って何だ。
飄々としている彼女は、わたしの表情も気にせずに「花葉はどうして?」と問う。タメ口といい名前呼びといい、そうとうフレンドリーな人らしい。見た目もそれに相応しいのに、どうして浮くのだろうか。
「人を傷つけてしまったから、教室にいられなくなったんです」
不思議に思いつつも答える。ちくり、と二週間前の出来事がわたしの心を刺す。助けてもらえると思うな、罰から逃れられると思うな。だれのものかわからない声がわたしにささやく。
「ごめん、悲しい気持ちにさせたかったわけじゃないんだ。……花葉が人を傷つけるような人だとは思えないけど」
「それは……。わたしがうまく擬態しているだけというか。根っこはもっと悪い人で」
差し伸べられる手を振り払うように、わたしは言う。救われちゃダメだ、と自分に言い聞かせた。そうじゃないと、この手に縋ってしまう。
拒絶したわたしに、先輩は首を傾げる。
「悪人はそんなこと言わないよ」
まっすぐな言葉に、わたしは今度こそ否定もできなかった。先輩は言葉を重ねる。
「もっと楽観的に生きようよ。花葉の過ちは取り返しのつかないものじゃないでしょ?」
「そう、なのかもしれません」
起こったことを思い出す。たしかにわたしは人を傷つけてしまった。しかし取り返しのつかないことだとは──思わない。
何度も何度も謝れば、許してくれるかもしれない。
そう考えて、即座に希望をかき消す。もうわたしは何度も謝ったじゃないか。それで何ともならなかったから、わたしはこうやってまだ電車に乗っているわけで。そもそも許してくれても、被害者の心にはちゃんと傷がある。ただ、わたしの傷が癒えるだけだ。
……少なくともわたしが二度と教室に姿を表さなければ、被害者の心は癒える。退学でもすれば、あいつの人生はめちゃくちゃになったと思ってもらえるはずだ。
やっぱりわたしに、幸せになる資格なんてない。
「まーた表情が暗くなってる」
先輩の言葉にハッとする。せめて先輩を不快にさせないように振る舞わなければ。
「ま、暗い気分になりたいときは存分に浸ってみるのもアリだと思うけど。よくなる可能性が少しでもあるなら、そこに全部賭けてみるのもいいんじゃない?」
柔らかく笑う先輩が眩しい。それと同時に、不思議にも思う。どうしてそんな思考を身につけることができたのだろうか。
「先輩の悩みが、よくなる可能性はないんですか……?」
湧き出た問いに、先輩は固まった。やっぱり──。
よくなる可能性があるなら賭ける。そう言っているのに、先輩は今ここにいる。教室とはまったく異なるこの空間に。
重苦しい空気が、夏の爽やかな空気を上書きする。聞くんじゃなかった──後悔すると同時に、先輩は固く閉ざした口を開く。
「……そうだね」
放たれた声は、さっきよりも低い。わたしがあの出来事を思い出したように、先輩もまた辛いことを思い出してしまったのだろう。
「すみません。わたし、先輩のことなんて考えずに聞いて」
そんなことだから、わたしは。
グッと手の甲をつねる。その手をサッと先輩は撫でた。
「自分を傷つけないで。別に気にしてないから。……ただ、ちょっと怖かっただけ」
「怖い?」
先輩の容姿や振る舞いは『強い女性』を具現化したようなものだった。先輩とは似合わない言葉に、首をかしげる。
「うん。自分の欠点がバレてしまわないか、心配で心配で。教室にいられなくなったのも、それが原因だし」
よくなる可能性がない原因で、教室にいられなくなる。
それがどういうことか、わたしにはわからない。途轍もなく辛いことだということ以外は、何も。
「わたしは先輩にどんな欠点があっても、拒絶しませんよ」
「そう?」
勇気を出して放った言葉は、先輩には届かなかったのかな。浮かない表情で問われる。
「絶対に。わたしだって自分の悪行がバレたら、こんなふうに接してもらえないかもしれないって怖いんですよ」
「そっか。それならお互い様だね」
わたしが続けて言うと、先輩はやっと表情を綻ばせた。空気も重苦しいものではなく、涼やかなものになっている。
お互い様──その言葉が、やけに心に沁みた。最近、一方的に糾弾されることが多かったからかもしれない。
「見て、海が見えてきたよ」
先輩の爽やかな声に、窓を見やる。目の覚めるような青色が、わたしの心を晴らしてゆく。
「綺麗ですね」
「ああ」
ぽつんと呟いた感想に、先輩は短く同調する。
広い海を見ていると、教室に入れないことなんてどうでもいいことのように思えてきた。不安も恐怖も、水平線に吸い込まれてゆく。
心が夏の温度に染まった。