クーラーを効かせてもなお蒸し暑い車内から、どっと人が吐き出された。ガラガラのホームは白いセーラー服の群勢に埋め尽くされ、改札を目指しうごめいている。
本来ならわたしも降りるべき駅だ。
降りようとすると、足がすくむ。ガクガクと震える足が、これから先に進むなとささやいていた。
このせいで、わたしはあの日から一歩だって進めていない。
ぐわんぐわんと、車内のアナウンスが響く。ドアが閉まります──声は無常に告げた。
ああ。
今日もまた、学校へ行けなかった。
ガシャン。電車の扉が閉まり、だんだん窓から見える景色が移り行く。学校とわたしの距離が、ものすごい勢いで離れていった。
カタンカタン。無味乾燥とした音が車内に響く。
快速電車は、わたしをどこか知らない土地へと誘う。どこまで行こうか、どこで止まろうか、どこで終わろうか──。どこか現実離れした現状に、絶望の色が混じる。ひと月前ならば、自分で命を絶つことなんて微塵も考えなかったのに。
今は入水自殺が確実に訪れる未来のような気さえしてくる。
「さむ……」
人のいない電車内は、真冬のように肌寒かった。その寒さが、わたしの心をより下へ下へ引っ張る。煉炭自殺もいいかもしれない。
「ねぇ」
「え?」
下か窓しか見ていなくて気づかなかったが、目の前にわたしと同じ白いセーラー服を着ている高校生が立っていた。ショートカットに凛とした顔、まばゆい太もも。見た目は陸上部のエースのようだった。面識がないから、そうではないのだろうけれど。
彼女は低い声で、わたしに問う。
「学校、行かないの?」
「そういうあなたこそ、学校行かないんですか? 同じ学校ですよね?」
彼女はわたしの問いには答えず、隣の席に座る。ちょっとだけ、寒さがなりを潜めたような気がした。シトラスの爽やかな香りが鼻腔をつつく。
「行きたくないから行かない。……わかってくれるよね?」
ちらりと艶かしさすら感じる目線を送られる。……いや、艶かしいのではない。理解してほしいという熱が、目線に帯びているんだ。
「はい。行きたくないというか、行けないというか。行こうとすると、足がガクガク震えて」
「ああ、わかるよ。さっきも見てたし」
にやりと笑う彼女に、わたしはきょとんと首をかしげる。
「そんな前からいたんですか?」
「うん、ずっと。何なら二週間前から、きみの葛藤を見てた。話しかけようとは今までしてなかったけど……」
「けど?」
今まで見られていた恥ずかしさより、翳りのある表情が気になって聞く。美形はこんな憂いのある顔も絵になるものだな、と半ば感心しつつ。
「自殺、考えてたでしょ?」
違う?
彼女は続けて問う。ギュッと、心臓を握り潰されるような感覚を抱く。
たらり。こめかみから冷や汗が垂れた。わたしはどんな表情をして、どんな雰囲気を纏っていたんだ。クッと、唾液を飲み込む。
この電車に乗っていたかもしれないクラスメイトは、わたしのことをどんなふうに思っただろうか。
ざまあみろ? お前なんかそうなって当然だ? ……そう、わたしをほくそ笑んだだろうか。勝ち誇ったような学級委員長の顔が頭をよぎった。
何も言わないわたしを見かねてか、彼女が慌てたように言う。
「違ってたらごめん。今まで学校行けてない感じだったし、足震えてて。苦しそうな顔だったから、もしかしたらなって思っただけ。それも微妙な感じだったし」
軽く笑う彼女に、わたしは安心する。パッと見て軽蔑されるようなものではなかったらしい。
それにわたしがいくら惨めな気持ちになっていても、もう遅い。わたしが二週間連続で欠席しているのは、クラスメイトにバレているのだから。
「心配させて悪いです。当たりですよ」
へへ、と軽く笑って答える。
最後の最期に、自分の苦しみをわかってくれる人がいてよかった。それだけで今まで憎くて仕方がなかった晴天も、青い空も、わたしがあの世へ旅立つ日を祝福してくれるように思える。
「死なないで」
彼女の双眸が、まっすぐにわたしの両目を見据える。幾重になった覚悟が、ぐらりと揺れた。
「泣かないで」
重ねられる言葉に、やっと泣いていることを自覚する。頬に伝う涙の感触が、いやに気持ち悪かった。
「すみません、わたし、泣く資格なんて、ないのに、ごめ、すみ、ま、せ」
「謝らなくていいから。……それに、どんな悪人にだって泣く権利くらいはあるよ。医者を名乗るわけじゃないんだから、そんなのに資格は存在しないし」
泣いて詰られた二週間前を思い出して、また震えた。あの人たちを悪者にすると、余計わたしが悪い人のように思えてくる。だからこの感情──どうしてわたしがこんな思いをしなきゃいけないんだという感情はひたかくしにしていたのに。
どういうわけか、同じ学校の見知らぬ少女に感情をあらわにしていた。
「深呼吸しよう」
黒いハンカチが、優しくわたしの頬を撫でる。こんなに優しくされたのはいつぶりだろうか。
じんわりと心が弛緩してゆく。言われるがままにすぅっと息を吸い込むと、思考がクリアになっていった。美しい顔立ちも、数秒前よりはっきりしている。
「うん。泣いてないほうがかわいいよ」
「たらしですか」
にっこりと王子のようなスマイルを見せる彼女に、軽口を言う余裕も生まれる。自殺願望も、今はなりを潜めていた。
「たらしだったらいいな。付き合ってくれるの?」
「まあ、うん、どうだろう……」
「はいと言えよ」
さすがにわたしも会ってすぐの人と付き合える、なんて無責任なことは言えない。この人となら付き合っても楽しい日々が送れそうだとは思えるが。
愉快な、けれど悲しそうな色も見える笑顔に、きゅっと胸が締め付けられた。彼女もまた何か悩み事があって、学校へ行かないのだろう。
もっと知りたい。絶望の淵から救ってくれた人を、わたしもひとまずは救えたら。
傲慢な感情を抱き、それを振り払うように手の甲をつねった。その傲慢さが原因で、わたしは教室から追い出されただろ。
「どこまで行く?」
次の駅のアナウンスが終わり、彼女が口を開く。彼女はまだ、わたしと一緒にいてくれるみたいだ。
「じゃあ、とりあえず海まで」
「了解」
何も考えずに口に出した提案に、彼女は楽しそうに頷いた。ふっと、安心する。何の話題も提供できないわたしを、彼女は受け入れてくれるんだ。
「あの、わたし、海瀬花葉です」
せめて名前を知れれば。普通の学校生活を送れるようになったとき、また彼女と交わることができたなら。
一縷の希望に、わたしは全身を委ねる。彼女は「ああ、そういえば自己紹介がまだだったね」と歌でも歌うように言ってから。
「夏野晴翔だよ」
「……え」
彼女の瞳は、窓の外を向いていた。開いた扉から流れ込んできた風が、彼女の白いセーラー服の袖を靡かせる。
短い黒髪と、キリリと整った顔立ち。貴公子のような佇まいと、涼やかな雰囲気。女子校には似合わない名前なのに。
「似合う……」
思わず口に出した。そんじゃそこらの女の子らしい名前よりも、よほど。
「そうかな。ありがとう」
晴翔ははにかむと、ポリポリ頭を掻く。その仕草すらも格好よく感じる。
シュー、ガチャン。電車の扉が閉まると、車内の時間は再びゆっくりと流れていった。
本来ならわたしも降りるべき駅だ。
降りようとすると、足がすくむ。ガクガクと震える足が、これから先に進むなとささやいていた。
このせいで、わたしはあの日から一歩だって進めていない。
ぐわんぐわんと、車内のアナウンスが響く。ドアが閉まります──声は無常に告げた。
ああ。
今日もまた、学校へ行けなかった。
ガシャン。電車の扉が閉まり、だんだん窓から見える景色が移り行く。学校とわたしの距離が、ものすごい勢いで離れていった。
カタンカタン。無味乾燥とした音が車内に響く。
快速電車は、わたしをどこか知らない土地へと誘う。どこまで行こうか、どこで止まろうか、どこで終わろうか──。どこか現実離れした現状に、絶望の色が混じる。ひと月前ならば、自分で命を絶つことなんて微塵も考えなかったのに。
今は入水自殺が確実に訪れる未来のような気さえしてくる。
「さむ……」
人のいない電車内は、真冬のように肌寒かった。その寒さが、わたしの心をより下へ下へ引っ張る。煉炭自殺もいいかもしれない。
「ねぇ」
「え?」
下か窓しか見ていなくて気づかなかったが、目の前にわたしと同じ白いセーラー服を着ている高校生が立っていた。ショートカットに凛とした顔、まばゆい太もも。見た目は陸上部のエースのようだった。面識がないから、そうではないのだろうけれど。
彼女は低い声で、わたしに問う。
「学校、行かないの?」
「そういうあなたこそ、学校行かないんですか? 同じ学校ですよね?」
彼女はわたしの問いには答えず、隣の席に座る。ちょっとだけ、寒さがなりを潜めたような気がした。シトラスの爽やかな香りが鼻腔をつつく。
「行きたくないから行かない。……わかってくれるよね?」
ちらりと艶かしさすら感じる目線を送られる。……いや、艶かしいのではない。理解してほしいという熱が、目線に帯びているんだ。
「はい。行きたくないというか、行けないというか。行こうとすると、足がガクガク震えて」
「ああ、わかるよ。さっきも見てたし」
にやりと笑う彼女に、わたしはきょとんと首をかしげる。
「そんな前からいたんですか?」
「うん、ずっと。何なら二週間前から、きみの葛藤を見てた。話しかけようとは今までしてなかったけど……」
「けど?」
今まで見られていた恥ずかしさより、翳りのある表情が気になって聞く。美形はこんな憂いのある顔も絵になるものだな、と半ば感心しつつ。
「自殺、考えてたでしょ?」
違う?
彼女は続けて問う。ギュッと、心臓を握り潰されるような感覚を抱く。
たらり。こめかみから冷や汗が垂れた。わたしはどんな表情をして、どんな雰囲気を纏っていたんだ。クッと、唾液を飲み込む。
この電車に乗っていたかもしれないクラスメイトは、わたしのことをどんなふうに思っただろうか。
ざまあみろ? お前なんかそうなって当然だ? ……そう、わたしをほくそ笑んだだろうか。勝ち誇ったような学級委員長の顔が頭をよぎった。
何も言わないわたしを見かねてか、彼女が慌てたように言う。
「違ってたらごめん。今まで学校行けてない感じだったし、足震えてて。苦しそうな顔だったから、もしかしたらなって思っただけ。それも微妙な感じだったし」
軽く笑う彼女に、わたしは安心する。パッと見て軽蔑されるようなものではなかったらしい。
それにわたしがいくら惨めな気持ちになっていても、もう遅い。わたしが二週間連続で欠席しているのは、クラスメイトにバレているのだから。
「心配させて悪いです。当たりですよ」
へへ、と軽く笑って答える。
最後の最期に、自分の苦しみをわかってくれる人がいてよかった。それだけで今まで憎くて仕方がなかった晴天も、青い空も、わたしがあの世へ旅立つ日を祝福してくれるように思える。
「死なないで」
彼女の双眸が、まっすぐにわたしの両目を見据える。幾重になった覚悟が、ぐらりと揺れた。
「泣かないで」
重ねられる言葉に、やっと泣いていることを自覚する。頬に伝う涙の感触が、いやに気持ち悪かった。
「すみません、わたし、泣く資格なんて、ないのに、ごめ、すみ、ま、せ」
「謝らなくていいから。……それに、どんな悪人にだって泣く権利くらいはあるよ。医者を名乗るわけじゃないんだから、そんなのに資格は存在しないし」
泣いて詰られた二週間前を思い出して、また震えた。あの人たちを悪者にすると、余計わたしが悪い人のように思えてくる。だからこの感情──どうしてわたしがこんな思いをしなきゃいけないんだという感情はひたかくしにしていたのに。
どういうわけか、同じ学校の見知らぬ少女に感情をあらわにしていた。
「深呼吸しよう」
黒いハンカチが、優しくわたしの頬を撫でる。こんなに優しくされたのはいつぶりだろうか。
じんわりと心が弛緩してゆく。言われるがままにすぅっと息を吸い込むと、思考がクリアになっていった。美しい顔立ちも、数秒前よりはっきりしている。
「うん。泣いてないほうがかわいいよ」
「たらしですか」
にっこりと王子のようなスマイルを見せる彼女に、軽口を言う余裕も生まれる。自殺願望も、今はなりを潜めていた。
「たらしだったらいいな。付き合ってくれるの?」
「まあ、うん、どうだろう……」
「はいと言えよ」
さすがにわたしも会ってすぐの人と付き合える、なんて無責任なことは言えない。この人となら付き合っても楽しい日々が送れそうだとは思えるが。
愉快な、けれど悲しそうな色も見える笑顔に、きゅっと胸が締め付けられた。彼女もまた何か悩み事があって、学校へ行かないのだろう。
もっと知りたい。絶望の淵から救ってくれた人を、わたしもひとまずは救えたら。
傲慢な感情を抱き、それを振り払うように手の甲をつねった。その傲慢さが原因で、わたしは教室から追い出されただろ。
「どこまで行く?」
次の駅のアナウンスが終わり、彼女が口を開く。彼女はまだ、わたしと一緒にいてくれるみたいだ。
「じゃあ、とりあえず海まで」
「了解」
何も考えずに口に出した提案に、彼女は楽しそうに頷いた。ふっと、安心する。何の話題も提供できないわたしを、彼女は受け入れてくれるんだ。
「あの、わたし、海瀬花葉です」
せめて名前を知れれば。普通の学校生活を送れるようになったとき、また彼女と交わることができたなら。
一縷の希望に、わたしは全身を委ねる。彼女は「ああ、そういえば自己紹介がまだだったね」と歌でも歌うように言ってから。
「夏野晴翔だよ」
「……え」
彼女の瞳は、窓の外を向いていた。開いた扉から流れ込んできた風が、彼女の白いセーラー服の袖を靡かせる。
短い黒髪と、キリリと整った顔立ち。貴公子のような佇まいと、涼やかな雰囲気。女子校には似合わない名前なのに。
「似合う……」
思わず口に出した。そんじゃそこらの女の子らしい名前よりも、よほど。
「そうかな。ありがとう」
晴翔ははにかむと、ポリポリ頭を掻く。その仕草すらも格好よく感じる。
シュー、ガチャン。電車の扉が閉まると、車内の時間は再びゆっくりと流れていった。