──ミーン、ミーン。
長窓の外では、蝉が大合唱を響かせている。しかし、この程度の蝉の声など私にはうるさいうちにも入らない。
明日が期末テストの最終日だった。
高校三年生のこの時期は、学内のテストより入試勉強に力を入れる生徒も多いけれど、指定校推薦での大学進学を考えている私は気が抜けなかった。
参考書片手に、リビングでノートにペンを走らせていた。
「あぁー、ぁああああ」
すぐ向かいでは、兄がソファの上で飛び跳ねながら奇声をあげていた。
兄の声は、蝉の声もかき消えるほどの音量だ。
私の兄には知的障害がある。兄の奇声や多動、自傷行為や他害すら、もう当たり前になっている。
「だめ。危ないよ、下りて」
兄がソファの背もたれに乗り上がろうとするのを横目に見て、私はすかさず腕を伸ばし兄の腰のあたりを引っぱって止める。とはいえ、相手は二十歳を超える青年男性で、結構な重労力だ。
「ぁあああーー!」
自分の行動を邪魔された兄は、ワシャワシャと頭を掻きむしって声を大きくした。
「あらあら、ヒロくん。またソファに乗ろうとしちゃったの? 危ないからだめよ、だーめ!」
洗濯物を取り込んで戻ってきた母が気づき、兄に言い聞かせる。
兄がどこまで理解できているのかは、わからない。ただ、何度言い聞かせても兄が行動を改めるには至らない。
「それじゃ朱音、お母さんこれから買い物に行ってくるから。ヒロくんのことよろしくね」
「いってらっしゃい」
母が足早に家を出ていくと、居間には兄とふたりだけが残される。
ノートに走らせていたペンを止め、見るともなしに兄を見ながら、ふと、思った。
私にとってすでに日常となり果てたこの暮らし。だけどこれは、いったいいつまで続くのだろうか?
大学に進学するまで? 就職まで?
……いいや、違う。この家にいる限り、永遠に続くのだ。
「あ、ぁ、ぁああー」
聞き流す術は、とうに身についているはずだった。なのに今、兄の奇声がどうしようもなく頭に響く。私の脳内に浸食し、心を蝕む。
……うるさい。
「っ、うるさいっ!!」
いつになく大きな私の声に、兄はキョトンとした顔を向けた。
無垢なその瞳が、無性に私をイラつかせた。
「お兄ちゃんはいいね。お兄ちゃんを中心にして、世界が全部回っているんだもん」
言ったってお兄ちゃんには響かない。わかっているのに、言葉が止まらなかった。
「でもね、私の人生にまで割り込んでこないでよ」
自分の人生なのに、自分がその中心にいられない。こんな寂しい日常が、永遠に続いていく。
親はいい。先に死ねる。
では、残された私は? 私はひとり、この兄を背負いながら生きていくの?
「お兄ちゃんなんか、いなければよかったのに!」
叫んでから、ハッとして口を噤む。
ひどい言葉をぶつけてしまった後ろめたさに兄の顔を直視できず俯きながら、胸に微かな違和感を覚えた。
……ううん、違う。四歳上の兄は、はじめからいたのだ。
「あぁ、そっか。『いなければよかった』のは、お兄ちゃんじゃない。私だ……ふふっ、ふふふふっ。あはははははっ!」
障害のある兄がいて、そして両親は四年後に私を生んでいる。そこにどんな意味があるのかなど、聞かずとも知れる。
この兄がいるからこそ、私がいる。
「ああっ、あぁあぁっ」
狂ったように高笑いする私を見て、兄も楽しそうに声を高くする。
目頭が熱を持ち、涙が頬を伝って落ちた。
そのまましばらく、涙があふれて止まらなかった。涙はノートに染みを作り、文字を滲ませていった。
──キィイイ。バタン。
玄関であがった物音に気づき、私は慌てて目尻を拭った。
「ただいまー」
買い物から帰宅した母を、私は何食わぬ顔で出迎える。
「おかえりなさい」
母は荷物を置くと私の横を素通りし、真っ直ぐに兄のもとに向かう。
「ヒロくん、いい子でお留守番できた?」
甲斐甲斐しく兄の世話を焼く母が、私の変化に気づくことはない。
涙はもう止まっていたけれど、心が軋みをあげていた。これ以上、この場にとどまることは困難だった。
「……お母さん。悪いけど、ちょっと集中したいから自分の部屋に行かせてもらうね」
「え?」
私の言葉に、母は目に見えてうろたえていた。
兄はじっとしていられないから、常に様子を見ていないといけない。兄を見ながら夕飯を作るのが大変だとわかっているからこそ、これまで帰宅後は勉強でもなんでも自分の部屋に行かずに居間でやっていた。母も、それを当たり前にしていた。
だけど今日はもう、限界った。
「ごめんね。明日のテスト、大事だから」
正直、テスト勉強なんてどうでもいい。
……だって私は、本当は指定校推薦なんて欲しくない。望んでいるのは両親だ。家から通える大学だから、そこに私を通わせておきたいと思っている。そうすれば、これまで通り私に兄の介助を任せられるから。全部全部、親と家の都合だ──!
「そ、そうね。指定校推薦がかかっているんだものね。テスト勉強、がんばってね」
母は言葉とは裏腹に、追い縋るような目をしていた。
私は母の視線を振り切るように、二階の自室に向かい階段を上っていった。
これまでずっと、兄と離れてひとりになれる時間が嬉しかった。兄の奇声を間近に聞かなくて済むことに、いつだってホッとしていた。
なのに今は、母の縋るような目が、網膜上にこびり付いてしまったみたいに離れない。兄の介助と夕飯の支度に右往左往する母の姿を想像すると、どうしようもなく胸がもやもやした。
……私、とんだ薄情者だ。
胸に渦巻く雑多な感情を振り払うように緩く首を振り、私は勉強に意識を集中させた。