1
「絃葉ー! もうすぐお夕飯だからねー! 今日はおばあちゃんお手製の角煮だよー! 手伝ってねー!」
「……できあがったら行くよ」
一階から大声で母に呼ばれる。小森絃葉は多分聞こえないであろう小さな声で気のない返事をして、そのまま慣れないベッドに突っ伏した。
祖母の家の二階、幾つもある部屋のうちいつもの一部屋を自分用に用意してもらったものの、特にやることもなく、中学の時に買ってもらって置きっぱなしになっていた漫画を読み返す。ストーリーは面白い、だが彼女の心は全くといって言いほど弾まない。何を見ても、何を聴いても、面白くない。「こんなはずじゃなかった」「本当は学校にいたはずなのに」そんな想いだけが絃葉の頭の中をぐるぐると巡る。
「もうやだ……」
肩まである黒髪が気だるげに揺れ、溜息に紛れた声が部屋に響く。標高の高い場所での夕方とはいえ、やはり八月の盛夏となれば冷房をつけないとそれなりに暑い。彼女は余計に何もする気がなくなって、二回目の溜息を枕に染み込ませた。
やがて、階段を駆け上がる音が聞こえてくる。ドアは閉められたまま、母親の声が廊下にぶつかった。
「ちょっと、絃葉! もうご飯できるって! 手伝って!」
「……わかった。すぐ降りるよ」
高一にもなって祖母のいる家で拗ねっぱなしになるのも気が引けたので、絃葉はしぶしぶ起き上がる。それでも、悲嘆にくれている自分にもう少し自分に配慮してくれてもいいのではと腹立たしさも覚えた。
そしてまたしても無意味な自問自答をしてしまう。なぜ自分はこんなところにいるのか、と。
八月八日、月曜日。お盆のこの時期は、絃葉の両親が仕事とパートを一週間休んで、この父方の祖母の家に泊まりに来ている。父母二人が生まれ育った、長野県諏訪郡の標高千メートルの村。都心で当たり前のように乗っている電車も地下鉄も近くにはなく、適当に歩こうものならコンビニはおろか自販機も見つからない。
祖母もこの期間は古くからの友人とやっている理容店をお盆休業にして家にいるので、毎年ここで五、六泊している。絃葉が中学に入る前に亡くなった祖父を弔いつつのんびりすごし、父母は周辺に住んでいる友人達とプチ同窓会をする。それが小森家の恒例だった。
でも、今年は本当は来るはずではなかった。吹奏楽部の練習があったから。中学のときはさすがに危ないと言われて出来なかったけど、高校になったら月~金の五日くらい親がいなくても大丈夫。パーリー(パートリーダー)と部長と顧問に頭を下げて練習を休むことなく、いっぱい練習して、束の間の一人暮らしの自由を謳歌したい。そう思ってたのに。
なんとなく自宅に置いていく気になれなくて車に積んできたホルンのケースを見る。去年買ってもらった、まだツヤの消えない黒い表面が寂しそうに光って、彼女は逃げ出すように部屋を出て階段に向かった。
「いとちゃん、どう? 美味しい?」
「……うん」
「絃葉、これ好きだったものね」
少しだけ味の薄い豚の角煮を食べながら、絃葉と両親、そして祖母の四人でテレビを見ながら食べる。普段は父親も遅いし、七月までは絃葉も遅くまで練習があったから、家族揃ってこうして食べるなんて稀なことだ。でもそんな久しぶりの食卓なのに、彼女の気は塞いだままだった。
「絃葉、食欲ないのか? せっかくおばあちゃんがたくさん作ってくれたんだから」
「うん、分かってる」
沈んだまま、父親への返事も御座なりになる。流れているバラエティーがつまらないからだろうか。いや、違う。「何を食べるかより、誰と食べるかが重要だ」なんてよく言うけど、実際のところはどういう精神状態で食べるかが一番大事で、今の彼女からしたら大画面の液晶画面もアボカドのサラダも、まるで彩りを欠いていた。
「ほら、見てみろ、絃葉。あのS字にカーブしてるのがさそり座だよ。家の周りじゃ全然見えないけど、さすがにここだとよく見えるな。さそり座で赤く光ってるのがアンタレスだな。赤いのは寿命が終わろうとしてる証で、『さそりの心臓』とか呼ばれたりしてる」
「あれか。見えたよ、うん」
食事とお風呂が終わった絃葉は、祖母を含む家族全員で星を見る。去年も見た夜空は相変わらず綺麗で、でもやはり心に響かない。強く吹いてきた風で湯冷めしないよう、彼女は適当に切り上げて階段を駆け上がり、自分の巣にでも戻るかのようにベッドに飛び込んでタオルケットを被った。
「もうやだ……」
夕方にも呟いたことをもう一度吐き出す。日中夢に逃げ込むように眠っていたので、寝たいのに寝られず、絃葉の中には七月までの嫌な思い出ばかりが浮かんだ。
中学で始めた吹奏楽部は楽しかった。初めての楽器、初めてのコンクール、初めてのコンサート。ホルンを鳴らすのがただただ楽しくて、県内でも吹奏楽の名門と呼ばれる高校に進学した。でも、そこは吹奏楽を楽しく奏でるだけの部活ではなかった。
部活のレベルも高い中で、必然的にレギュラーをかけた争いが起こる。その裏側には、感想という体の陰口が付きまとっていて、絃葉はいつもそれを暗い気持ちで聞いていた。そして、大勢の女子が集まることで、派閥も生まれていた。
絃葉たち一年生が本格的にパート練習に参加し始めた五月、突然先輩から部長派と副部長派のどっちに着くかと問われ、絃葉はただただ困惑した。そして返事を保留したまま、どっちにもつかずに練習していると、ある日を境に部長派だったパーリーからの当たりが強くなり、軽くハブにもされた。
練習したいのにちゃんとパーリーと話すこともできなくなって、吹奏楽部なのに吹奏楽以外に考えることや悩むことが多すぎて。気が付くと楽譜やチューナーより他の人の顔色ばかりの見るようになって、彼女は県大会のある夏を前に七月の初旬に部活を辞めた。
『大丈夫? みんな心配してるよ』
同じ中学から一緒に進学して仲の良かった、トランペットの友人である梨帆からのメッセージを見返す。無事に県大会も突破し、関東大会に向けて準備をしているようだ。色々情報を教えてくれる、思いやりが籠もったように見える文面も、今の絃葉は素直には受け取れない。大会が進むにつれ、また陰口も派閥争いも激しくなっていくのだろう。そんなことばかりが頭を駆け巡る。
絃葉は辞める直前に梨帆に相談したが、「でも強豪ってどこもそういうものだから……」やんわり諭されるように言われた。まるで聞き分けのない絃葉自身が悪いかのように。もう何もかも嫌になった。大好きな吹奏楽だったのに。中学の思い出まで黒く塗り潰された気がした。
部活を辞めてから、絃葉はずっとこの調子だ。何もかもつまらない。何も楽しくない。それは部活を辞めた自分のせいなのだ。こんなに退屈なのに、なんで学校に行く必要があるんだろう、となけなしの意味を探しているうちに、夏休みに入ってしまった。
「なんかアニメでも見るかな」
独り言ちながら、絃葉はスマホをスワイプしていく。今の彼女にとってサブスクの動画配信サービスは本当にありがたい存在で、無尽蔵に出てくるコンテンツを流し見しているうちに時間を消費することができた。
「あ、やば」
間違って隣のアプリを起動してしまう。以前、お気に入りのアーティストが出るというので一回だけ放送を聞くためにダウンロードしたラジオアプリだった。そのときから一回も触っていない。彼女はすぐ消そうとしたものの、時間が潰せるなら何でも良いと思い、少し中を眺めてみた。
「……あれ? そっか、関東と局が違うんだ」
表示されている放送局が、家で流したときと違うことに気付く。有料会員だと日本全国どのラジオでも聞けるのだが、そこまで興味を持っていない絃葉は無料会員だ。彼女は、長野のこのエリアで聞ける放送を探してみる。
スワイプを繰り返していたその時、突然時報の音が聞こえた。
「こんばんは。今日も始まりました、DJカオリのColor Your Life」
誤ってタップしてしまったのか、スマホから心地よいシンセサイザーのBGMと優しい声が流れ始めた。
2
「時刻は二三時半になりました。今日も三十分、ここで皆さんと悩みとゆったりと向き合い、明日が少しでも色づくよう優しく応援していきたいと思います」
ちょうど開始の時刻だったらしい。絃葉はアプリを見返してみる。放送局を見ると、聞いたこともないラジオ局だ。それもそのはず、それは県内限定で流れている地方ラジオだった。彼女の番組の詳細を見てようやく気が付く。月曜から金曜まで夜の三十分放送している、無名のパーソナリティーによる番組。彼女はとりあえずスマホを枕もとに起き、枕に首を埋めるようにしてうつ伏せになった。
三十歳くらいだろうか。落ち着いたパーソナリティーの声を、絃葉はリラックスしながら耳に吸い込んでいく。
「早速おたよりを紹介していきましょう。ラジオネーム『焼き肉プリン』さん。
『カオリさん、こんばんは』 はい、こんばんは。
『私は高校の進路で悩んでいます。将来のことを考え、レベルが高いところを受けたいという気持ちがあるのですが、一方で大親友が一段階下の高校を受けるようで、彼女と一緒に高校も過ごしたいという想いもあります。将来と友人、どちらを取れば良いでしょうか』
……なるほどね。これはね、昔からよくある悩みね。だからどっちが正解とも言えないの。自分がそうしたいと思う方を選べばいい。でも、それだと焼き肉プリンさんも困ると思うから、私だったらどうするかを話すね。
私が貴方だったら、レベルの高い高校を目指すと思う。高校って、本当に世界が広がるの。遊べる場所も増えるし、バイトすれば使えるお金も増える。それは大学に行けばもっと広がる。その中で、貴方は必ず新しい友達と出会うはず。今はそのお友達にこだわっていても、この先もっと趣味や価値観の会う、仲の良い友達ができる可能性があるのね。そのときに、『結局中学のあの時にこだわりすぎること無かったな』『もっと良い高校に行って、東京に出たりしたかったな』って思うかもしれない。
今の時点で大親友って呼べる子なら、多少疎遠になっても関係はずっと続くわ。『あの子と同じ高校に行っておけば良かったな』って後悔することはあんまりないと思う。だから、多分レベルで選んだ方が後悔しにくいかなって、私は思います。良かったら参考にしてね。
それではここで一曲聞いていただきましょう。Type-Hypeで『Dear Sunday』」
導眠剤として流しておくつもりでオフタイマーまでセットしていたのに、気が付くと絃葉は完全にラジオに聞き入っていた。上半身も少しだけ起こし、両肘を布団につくようにしている。
中高生向けの番組のようだが、絃葉が気に入ったのはパーソナリティーであるDJカオリの話すトーンだった。押し付けがましくもなく、かと言ってはぐらかすでもなく、きちんとリスナーに寄り添って、自分なりの回答を出している。おたよりを出した人も、嫌われないようどっちつかずな回答をされるより、よっぽど参考になるだろう。
そして、彼女がもう一つ気に入ったのは彼女の声だった。柔らかい音楽にマッチする、本の朗読なども似合いそうな高すぎない声は、この番組にピッタリだった。
「いいな、この番組」
彼女はまた独り言を漏らす。ここに来てから、家族以外と話していないことで、知らず知らずのうちに寂しさが募っていたのかもしれない。
そしてまたカオリさんは何通かおたよりを読み、合間に曲を流していく。恋愛や親との関係など、誰かに話しづらい相談と回答を聞いているうちにあっという間に時間が経ち、番組も残り五分となった。
「では、今日最後のおたよりとなります。ラジオネーム、『グレースカイ』さんからです。
『カオリさん、いつも楽しく聞いてます。自分は高二の女子ですが、夏休みに入ってから、毎日がつまらないです。そして、本当は高校二年生なんて受験もなくて一番楽しい時期のはずなのに、と思うと、つまらないのは自分のせいなんじゃないかと自己嫌悪してしまいます』」
自分の心の一部分を読まれたかのような悩みに、絃葉は思わず体が固まる。学年こそ一つ違えど、同じような気持ちを吐露している人が、今この同じ県にいるのかと思うと、彼女は不思議な気分になった。
「『なので、今日月曜日から金曜までの五日間、私は毎日新しいことを一つやると決めました。自分との約束を守るためにも、このラジオに投稿していきたいと思います。いつも聞いていたラジオに投稿する。これが今日の新しいチャレンジです』」
「すごい……」
絃葉の口から漏れ出たのは、隠せない本音だった。つまらない日常をパステルカラーの絵の具で塗るように、このリスナーは自分で目標を課した。それがとても驚きで、彼女は軽く嫉妬に似た感情すら覚える。そしてこのメールに対して、カオリさんが何と答えるのか気になって、彼女はグッと上体を起こした。
「グレースカイさん、素敵なおたよりありがとう。つまらないと思ったときに自分からアクションしてみるってすごくエネルギーのいることだと思う。私が高校で同じ状態だったら、きっと毎日寝て過ごしてると思うから」
彼女のコメントはそのまま今の自分自身で、思わず絃葉は苦味の大きい苦笑で口角を引き攣らせる。
「私もこの年まで、それこそグレースカイさんより十年以上長く生きてきて、退屈だなって思うときもあって、そういうときには新しいことしようって決めてる。でも、新しいことって意外と簡単なの。ピアノを始めたいとか、サーフィンやってみたいとか、そういうのは腰が重いと思うけど、例えば、いつもと違う道を行くだけでも、何か新しい発見があるかもしれない。もちろん、歩きにくい道を通ることになったり水たまりで靴を濡らしたりすることもあると思うけど、それっていつもと違うことをした結果だから。グレースカイさん、頑張ってくださいね! では、最後の曲を聞きながらお別れです」
こうして番組が終わり、絃葉はラジオのアプリを閉じて動画アプリを開く。そしてイヤホンを挿し、仰向けで寝る姿勢になった。
新しいこと、昨日までと違うこと。そんなこと、今の自分にはできそうにない。明日もこの何もない場所で何もせずに、去年の夏休みの練習を懐かしみながらぼんやり過ごすのだろう。仕方ない、部活を辞めたのに更に元気を出せというのが無理なんだ、仕方ないんだ。
そんな風に言い聞かせながら、彼女は古典を朗読する動画を聞き始めて目を瞑り、やがて浅い眠りに落ちた。
***
翌日の九日、火曜日。絃葉の父母は午後になると、買い出しのために祖母を連れて出かけた。一緒に来るかと絃葉も訊かれたものの、車で何十分もかけてホームセンターやショッピングモールに行くのもただ疲れるだけだと思い、一人で留守番する方を選んだ。
「……どっか行くかな」
置いてあった漫画も読み飽き、やることがなくなった絃葉は散歩に行くことにした。家と家の間隔も道路も広い村を、ハンカチで汗を押さえながらゆっくりと歩いていく。
八ヶ岳と諏訪湖の間に広がるこの辺りの村は標高が一千メートルで、地上に比べると五、六度ほど気温が低いらしい。避暑地の別荘みたいだと友達から言われたことがあるものの、テニスコートやBBQ場はあっても映画や本屋は歩ける場所にはなく、生活には不便な場所だと彼女は感じていた。
「ふう、ふう……」
細く短く呼吸しながら、去年も散歩した坂道を下っていく。ペンションが並ぶ場所を横切ると、分かれ道に出た。左に行けば、そのままぐるっと回って家に戻れる。合計三十分のちょうどいい運動量だ。右に行くとどこに向かうか分からないが、遠回りになることは間違いないだろう。気温も徐々に上がりつつある中で、別に行く選ぶ必要はなかった。
しかし。
『例えば、いつもと違う道を行くだけでも、何か新しい発見があるかもしれない』
絃葉の頭に、昨日のラジオの一部が流れる。
「……よし!」
自分に気合いを入れるように小さく叫んでから、彼女は右へ曲がって歩き出した。
なぜそんなことをしたのか、彼女自身にもよく分かっていない。ただなんとなく、結果の見えていることをしたくない、という想いが心に渦巻いていて、彼女を「新しいこと」へと突き動かした。だからこそ、絃葉はスマホで地図を確認したりもせず、ただただ気の向くままに足を動かしていった。
「うっわ、最悪……」
結果的に、選んだ道はハズレだった。途中からアスファルトで舗装された道路は途切れ、風で土埃の舞う畦道を歩く羽目になり、彼女のお気に入りの靴はみるみるうちに茶色になっていった。ただ、一つだけ思わぬ収穫もあった。
「あれ、こんな店があるんだ」
土を固めた道を抜けた先は、またアスファルトになっていて、そこに小ぢんまりとしたお店があった。手作りの看板で「ハーバリウムショップ」と書かれている。カフェのようにも見える洋風な作りの、如何にも趣味でやっていますというお店だ。
絃葉は緊張しながらドアを開ける。ベルの心地よい音色がカランコロンと響き、四十歳くらいの女性が出迎えてくれた。
「こ、こんにちは」
「いらっしゃいませ。ゆっくりご覧になってください」
サテン素材のベージュのチュールスカートに薄クリーム色のニットシャツという洗練された格好、そして田舎特有の距離の近い話し方ではない接客に、絃葉は緊張しながらも嬉しくなる。
店内に綺麗にディスプレイされた赤、青、オレンジと色とりどりのハーバリウムは、見ているだけで心にかかった雲が晴れていく。昨日は星空にも心動かなかった彼女にとって、それは小さいながらも確実な変化だ。それなりに値段もするので買わなかったものの、手作り教室のビラやこの近くにある喫茶店の貼り紙なども見ながら、彼女は久々に心躍る時間を過ごした。
「またいらしてください」
「ありがとう、ございました」
ただ、店を出た後に彼女を待っていたのは、何も生み出さない自問自答だった。
確かに、幸運にも素敵な店を発見できた。でも、これは夏までに積み重なった不幸の裏返しのようでもある。五月頃から続いていた部活のストレスと辞めることになった悲しみを考えたら、こんなちっぽけな幸せなど焼け石に水のような出来事だ。
陰鬱な思考を脳内に広げていると、快晴に反比例するように気が沈んでいく。彼女は、ひしゃげた心を映したように背中を丸めて、溜息をつきながら長い長い帰路を歩いて行った。
***
その日の夜、絃葉は寝自宅をして早々にベッドに潜り込む。昼間の散歩の疲れからすぐに寝られるかと思ったものの、つい時刻が気になってスマホをちらちら見てしまう。そして二三時二八分になったとき、彼女は寝ることを諦め、昨日のラジオアプリを立ち上げた。
「こんばんは。今日も始まりました、DJカオリのColor Your Life。時刻は二三時半になりました。今日も三十分、ここで皆さんと悩みとゆったりと向き合い、明日が少しでも色づくよう優しく応援していきたいと思います」
同じ挨拶でラジオが始まる。その後も、幾つかのおたよりを読んでは感想や意見を話して曲を流すという、昨日と同じ構成だった。きっと、ずっとこのスタイルでやっているのだろう。
そして、番組も後半に差し掛かったとき、絃葉は思わずスマホに顔を近づけた。
「はい、昨日に引き続き、今日もグレースカイさんからおたより頂いています」
つまらない日々を変えたくて、昨日から毎日一つでも新しいことをしようと決めて過ごしているという、名前も顔も知らないリスナー。絃葉は、なぜか彼女のおたよりが気になって、この放送に二日連続で足を運んでいたのだった。
「『カオリさん、こんばんは。今日も何か新しいことをしようと思って、でもそんなすぐには思い浮かばなくて、スマホに入っている曲をランダムで再生してみました。すると、前聞いて微妙だと思ってた曲が流れてきたのですが、その歌詞と大サビが気に入ってしまって大好きになりました。それ以外の時間は退屈だったけど、一つ良いことがあったので今日は私の勝ちです笑』」
聞いていた絃葉は、目から鱗が落ちたような気になる。好きなアーティストや好きなアルバムでランダム再生することはあるけど、全曲をランダムにしたことはない。確かに、この一年全く聞いていない曲などにも巡り合えそうだ。
パーソナリティーであるカオリさんの話は続く。
「おたよりありがとう。これね、実は私もやったことあるのよ。ホントにしんどいときにランダムで流したことがあって。そうするとね、好きな曲が流れたら嬉しいし、グレースカイさんが書いてるみたいに、思ったより好きになる曲もあるし。もちろん、何回聞いてもイマイチな曲もあるんだけど、そのときは五分後に次の曲が流れるのが楽しみになるの。動画と違って好みに合わせて似たようなものばっかり流さないから、自分で新しいことをするエネルギーがないときに、ランダム再生ってすごく良い方法なのね。
多分リスナーのみんなは薄々気付いてると思うけど、人生ってね、面白くないこともいっぱいなんだ。そういうときって、幸せの閾値が下がってる。幸せを感じるハードルが低くなってる、って感じかな。だから、逆に幸せを感じやすいの」
「幸せの閾値、かあ」
絃葉はパーソナリティーの言葉を復唱する。自分が幸せじゃないと感じるときがあっても、その時の方が逆に幸せを感じやすくなっているなんて、人間は不思議な生き物だなと思いながら彼女は横になる。程よい低音のカオリさんの声が心地よかったからか、番組終わりまで聞いてすぐに、彼女は夢の世界へと誘われた。
3
「あれ、絃ちゃん、どっか行くのかい?」
「うん、ちょっと散歩してくる」
玄関先で祖母と言葉を交わし、絃葉は午前から家を出た。父母には何も言っていないが、高校生がこの家にずっといても退屈だということは分かってもらえるだろう。
「暑い……」
八月十日、水曜日。昨日よりも雲が少ない空で、邪魔者がいなくなった太陽が思う存分熱を出して暴れていた。まだ十時台なのに随分気温が高い。午後のより暑い時間帯に出なくて正解だろう。絃葉は歩きながら日焼け止めを塗り、昨日は直進した道を右に曲がって進んでいった。
しばらくはペンションと民家、そして田畑があるだけの平地が広がっていた。東京で遊ぶと、ちょっと裏道を行くだけでも面白いカフェや雑貨屋が見つかったりするのに。彼女は環境の違いを強く実感する。人通りも少なく、ここまでも五十代くらいの女性二人組や自転車に乗った母子とすれ違った程度だった。
休めるところを探していた彼女は、更に十分ほど歩き、ようやく木製のベンチと自販機を見つけた。ICカードなんて使えず、彼女はポケットに入れておいた財布から小銭をガチャガチャと勢いよく入れる。
「えいっ!」
誰も聞いていないのを良いことに、絃葉はちょっとだけ大声を出しながらレモンサイダーのボタンを押した。そして、自分のした謎の行動に思わず吹き出してしまう。
田舎は周囲の人との関わりが濃厚だというけれど、それはこの土地にずっと馴染んでいる人の中での話であって、彼女のようにたまに遊びに来る人間にとっては、どこか閉鎖的なコミュニケーションや人口の少なさが寂しさを生み出す。今の絃葉は孤独で、だからこそ一人でおどけたりしているのだ。
「うん、酸っぱくて美味しい」
車の排気音だけがけたたましく響く中で、彼女は感想を声に出す。それはさながら、部活でもこの村でも居場所を見つけられなかった自分の存在を示しているようだった。
「えっと、ランダム再生は、と」
絃葉はグレースカイさんを真似して、スマホの音楽アプリで普段使わないシャッフルのボタンを押して設定してみる。再生してみると、早速聴いたこともない曲が流れた。シングルだけ好きでアルバムごとダウンロードしたアーティストのアルバム曲だった。多分、一回は聞いたことがあると思うが、当時もそんなに心に引っ掛からなくて一番で飛ばしたのか、聴いたことも忘れていた。
久しぶりに流したイマイチな曲はやっぱりイマイチで、彼女は歌詞を見ながら次の曲を待つ。曲を送るボタンを押せばすぐにでも変えられるけど、それをやるのはルール違反な気がして、律儀に一曲終わるまで待った。次はどんな曲が流れてくるのか楽しみになる。グレースカイさんやカオリさんの言っていた意味が彼女にもよく分かった。
「あ、これ!」
次に流れてきたのは、昔好きだった曲だった。最近はめっきり活動が減ったアーティストで、流したのも2年ぶりくらいだ。友達とうまくいかなかったときに、歌詞に共感して延々とリピートしていたのを彼女は思い出す。今聞き直しても、色々うまく進んでいなくて立ち止まっている自分に歌詞がしっくりきて、ささくれ立った心に優しくやすりをかけるように染み込んできた。
自分のお気に入りの曲が思いもよらない形で復活した喜びに、絃葉は木製のベンチから立ち上がってグッと伸びをしてみる。ちょうどそのタイミングで、目の前を同い年くらいの女子がすれ違う。ワイヤレスイヤホンを耳にはめている彼女がひょっとしてグレースカイさんかもしれないと思うと、絃葉は自然と口元が綻んだ。
そのまま座り直した彼女は、相変わらずランダムで流れている曲を聞きながら、ぼんやりと空を見上げる。部室の窓から見えた青空が重なり、思考が自分の内側へ内側へと入っていくにつれて、音楽はどんどん意識の埒外へと消えていった。
私はどうすれば良かったのだろうか。相槌だけでも陰口に参加すれば良かったのだろうか。ポーズだけでも、部長か副部長のどちらかにつけば良かったのだろうか。そういうことがその場のノリでできない不器用さが悪かった? あるいは学校選びを間違えた? 自問自答しては、心の中にいる真っ直ぐな自分が首を横に振る。自分はただ、楽しく吹きたかっただけなのに。その想いが膨らんで抑えきれなくなって、飲み終えたペットボトルをベンチの淵に打ち付けるとカツンと気の抜けた音を立てた。
「暑くない? 今から演奏ってやばい!」
「待って、水筒もう空っぽなんだけど!」
女子二人の笑い合う声が聞こえ、絃葉が遠くに目を凝らすと、楽器が入っているであろうバッグを背負った制服姿の女子二人が、自転車を立ち漕ぎしてこちらに向かって走っていた。よく見ると、二人の制服は色もデザインも違う。夏休みの部活の練習が終わり、旧友同志で練習でもするのだろうか。勝手に自分と比較して、彼女は落胆の溜息をつく。耳を澄ませると自分の好きな音楽がイヤホンから流れていて、彼女は殻に閉じこもるようにグッとうずくまって、そのLとRの世界に浸った。
***
夕飯とお風呂と、すっかり見飽きた夏の星座の鑑賞を終えて、彼女は自分の部屋に戻る。すぐ寝ることもできたけど、スマホでネットニュースや動画を見ながら時間を潰して、二三時半を待った。目的はもちろん、あのラジオだ。
「こんばんは。今日も始まりました、DJカオリのColor Your Life」
この県内でしか流れていないラジオ。今日すれ違った楽器を持った女子二人もひょっとしたら聞いているかもしれないと思うと、なんだかラジオ自体に親近感が湧いてくる。
「では早速、おたよりを紹介していきたいと思います」
番組に寄せられたメッセージが読まれるが、絃葉はほとんど上の空で聞いていた。お目当てのリスナーがいるからだ。
「では続いて、この方のメールを楽しみに待っていた方もいるんじゃないかな? 今日もグレースカイさんのおたよりを読んでいきたいと思います」
「よしっ!」
肘で上半身を支えるようにうつ伏せになっていた彼女は、喜色を湛えて思わず声をあげる。読まれることというより、リスナーの彼女が今日も何か報告できるような新しいチャレンジをしたのだろうということが自分のことのように嬉しかった。
「『カオリさん、暑いですが元気ですか? 去年みたいに夏バテしてませんか?』はい、なんとか元気にやってます。といっても昼はちょっと夏バテ気味で、かけ蕎麦を食べてましたね。食べるラー油入れて辛くすると、するするとお腹に入るんですよ。私はつけ蕎麦だとわさび派なんですけど、かけ蕎麦の時はラー油をがさっと乗せると……ってすみません、だいぶ脱線しましたね」
蕎麦について熱く論じたカオリさんに、絃葉は小さく笑いをこぼした。
「続けます。『新しいことチャレンジの三日目ですが、せっかく夏休みで昼に時間があったので、初めて夏休みにご飯を作ってみました。家に野菜があったので、牛肉を買ってきて肉じゃがを作りましたよ。スマホでレシピを見ながら調理してたんですけど、野菜とか全然切り慣れてなくて、特に玉ねぎを櫛形に切るのとかすごく手間取っちゃいました。調理時間二五分くらいって書いてあったんですけど、倍の時間かかりましたね笑
でも自分で作ったものはやっぱり美味しい!って言えれば良いんですけど、実際はぼんやりした薄味になっちゃって……母親の料理とかスーパーのお惣菜とかすごいなって改めて実感しました』」
「肉じゃがかあ。切るの大変そう」
まるでグレースカイと対話するように、絃葉は相槌を打つ。調理実習以外でほとんど料理をしたことがない彼女からすると、煮込む行程のある和食を作るのはとても難しいことに思えた。
「『何かを作るって、結構良いリフレッシュになりますね。今日はみんな出かけていて、一人でいるとつい悶々と考えてしまうんですけど、調理に没頭して忘れることができました。
実は、先月はクラスでうまくいってなかったんです。入っていた女子グループの中でちょっとトラブルがあって、爪弾きにされてしまいました。夏休み前の数日は遅刻や欠席が多くて、少し不登校っぽくなっちゃってたんですが、平日家にいる時間はすごく寂しかったので、夏休み明けからちゃんと復帰したいなと思いました』」
彼女の突然の告白を、絃葉は目を丸くして聞いていたものの、どこか予想がついていた。何の理由もなく、夏休みがつまらなくなることなど考えられない。絃葉自身と同じように辛いことがあったからこそ、抜けるような青空も灰色に見えてしまうのだろう。絃葉は、彼女に勝手に親近感を覚えていた。
「おたよりありがとう。辛いことも吐き出してくれてありがとう」
カオリさんは、これまでよりも柔らかい声でお礼を口にした、
「何かを作るって、もちろんすごく楽しいんだけど、グレースカイさんが言ってるように没頭できるっていうのも大きいよね。夢中になってる間は、辛いことも忘れられる。もちろんゲームとかも没頭できるんだけど、私が今まで経験したことを伝えるなら、ゲームとかドラマを見るのって、終わった後に虚無感が襲ってきたりすることがあるんだ。なんか無駄な時間過ごしちゃったって。だから、できたら消費じゃなくて、何かを作ってみると良いと思う。料理とか手芸とか、手を使う作業をすると没頭しやすいかな。
それで、今のうちに作る楽しさと、難しさを知ってほしい。特に人数が増える場合かな。一人より二人、二人よりグループの方が、何かを作り上げるって大変になっていくから」
「うん、大変だよ」
絃葉は、またもや一方的に話しているだけのラジオに返事をする。放送局には何も届かないのに、本当に話に共感できて、声に出さずにはいられなかった。
大勢で一つのことを作り上げるのは難しい。吹奏楽も正にそうだと、彼女はよく理解していた。お互いタイミングやボリュームを合わせないと綺麗なハーモニーにならない、という技術的なことももちろんだけど、そもそも全員が同じ目標に向けて一致団結していないと部活自体が立ち行かない。仲違いや悪口が蔓延るなかでパート練習と全体練習をやっていくこと自体が無理なことに近かった。
「没頭……没頭できることかあ……」
自分が明日できることがあるだろうか。絃葉は想像を膨らませながら水色のタオルケットに包まる。彼女自身は気付いてなかったが、それは久しぶりの「明日を楽しみに寝る」という一日の終わりだった。
「絃葉ー! もうすぐお夕飯だからねー! 今日はおばあちゃんお手製の角煮だよー! 手伝ってねー!」
「……できあがったら行くよ」
一階から大声で母に呼ばれる。小森絃葉は多分聞こえないであろう小さな声で気のない返事をして、そのまま慣れないベッドに突っ伏した。
祖母の家の二階、幾つもある部屋のうちいつもの一部屋を自分用に用意してもらったものの、特にやることもなく、中学の時に買ってもらって置きっぱなしになっていた漫画を読み返す。ストーリーは面白い、だが彼女の心は全くといって言いほど弾まない。何を見ても、何を聴いても、面白くない。「こんなはずじゃなかった」「本当は学校にいたはずなのに」そんな想いだけが絃葉の頭の中をぐるぐると巡る。
「もうやだ……」
肩まである黒髪が気だるげに揺れ、溜息に紛れた声が部屋に響く。標高の高い場所での夕方とはいえ、やはり八月の盛夏となれば冷房をつけないとそれなりに暑い。彼女は余計に何もする気がなくなって、二回目の溜息を枕に染み込ませた。
やがて、階段を駆け上がる音が聞こえてくる。ドアは閉められたまま、母親の声が廊下にぶつかった。
「ちょっと、絃葉! もうご飯できるって! 手伝って!」
「……わかった。すぐ降りるよ」
高一にもなって祖母のいる家で拗ねっぱなしになるのも気が引けたので、絃葉はしぶしぶ起き上がる。それでも、悲嘆にくれている自分にもう少し自分に配慮してくれてもいいのではと腹立たしさも覚えた。
そしてまたしても無意味な自問自答をしてしまう。なぜ自分はこんなところにいるのか、と。
八月八日、月曜日。お盆のこの時期は、絃葉の両親が仕事とパートを一週間休んで、この父方の祖母の家に泊まりに来ている。父母二人が生まれ育った、長野県諏訪郡の標高千メートルの村。都心で当たり前のように乗っている電車も地下鉄も近くにはなく、適当に歩こうものならコンビニはおろか自販機も見つからない。
祖母もこの期間は古くからの友人とやっている理容店をお盆休業にして家にいるので、毎年ここで五、六泊している。絃葉が中学に入る前に亡くなった祖父を弔いつつのんびりすごし、父母は周辺に住んでいる友人達とプチ同窓会をする。それが小森家の恒例だった。
でも、今年は本当は来るはずではなかった。吹奏楽部の練習があったから。中学のときはさすがに危ないと言われて出来なかったけど、高校になったら月~金の五日くらい親がいなくても大丈夫。パーリー(パートリーダー)と部長と顧問に頭を下げて練習を休むことなく、いっぱい練習して、束の間の一人暮らしの自由を謳歌したい。そう思ってたのに。
なんとなく自宅に置いていく気になれなくて車に積んできたホルンのケースを見る。去年買ってもらった、まだツヤの消えない黒い表面が寂しそうに光って、彼女は逃げ出すように部屋を出て階段に向かった。
「いとちゃん、どう? 美味しい?」
「……うん」
「絃葉、これ好きだったものね」
少しだけ味の薄い豚の角煮を食べながら、絃葉と両親、そして祖母の四人でテレビを見ながら食べる。普段は父親も遅いし、七月までは絃葉も遅くまで練習があったから、家族揃ってこうして食べるなんて稀なことだ。でもそんな久しぶりの食卓なのに、彼女の気は塞いだままだった。
「絃葉、食欲ないのか? せっかくおばあちゃんがたくさん作ってくれたんだから」
「うん、分かってる」
沈んだまま、父親への返事も御座なりになる。流れているバラエティーがつまらないからだろうか。いや、違う。「何を食べるかより、誰と食べるかが重要だ」なんてよく言うけど、実際のところはどういう精神状態で食べるかが一番大事で、今の彼女からしたら大画面の液晶画面もアボカドのサラダも、まるで彩りを欠いていた。
「ほら、見てみろ、絃葉。あのS字にカーブしてるのがさそり座だよ。家の周りじゃ全然見えないけど、さすがにここだとよく見えるな。さそり座で赤く光ってるのがアンタレスだな。赤いのは寿命が終わろうとしてる証で、『さそりの心臓』とか呼ばれたりしてる」
「あれか。見えたよ、うん」
食事とお風呂が終わった絃葉は、祖母を含む家族全員で星を見る。去年も見た夜空は相変わらず綺麗で、でもやはり心に響かない。強く吹いてきた風で湯冷めしないよう、彼女は適当に切り上げて階段を駆け上がり、自分の巣にでも戻るかのようにベッドに飛び込んでタオルケットを被った。
「もうやだ……」
夕方にも呟いたことをもう一度吐き出す。日中夢に逃げ込むように眠っていたので、寝たいのに寝られず、絃葉の中には七月までの嫌な思い出ばかりが浮かんだ。
中学で始めた吹奏楽部は楽しかった。初めての楽器、初めてのコンクール、初めてのコンサート。ホルンを鳴らすのがただただ楽しくて、県内でも吹奏楽の名門と呼ばれる高校に進学した。でも、そこは吹奏楽を楽しく奏でるだけの部活ではなかった。
部活のレベルも高い中で、必然的にレギュラーをかけた争いが起こる。その裏側には、感想という体の陰口が付きまとっていて、絃葉はいつもそれを暗い気持ちで聞いていた。そして、大勢の女子が集まることで、派閥も生まれていた。
絃葉たち一年生が本格的にパート練習に参加し始めた五月、突然先輩から部長派と副部長派のどっちに着くかと問われ、絃葉はただただ困惑した。そして返事を保留したまま、どっちにもつかずに練習していると、ある日を境に部長派だったパーリーからの当たりが強くなり、軽くハブにもされた。
練習したいのにちゃんとパーリーと話すこともできなくなって、吹奏楽部なのに吹奏楽以外に考えることや悩むことが多すぎて。気が付くと楽譜やチューナーより他の人の顔色ばかりの見るようになって、彼女は県大会のある夏を前に七月の初旬に部活を辞めた。
『大丈夫? みんな心配してるよ』
同じ中学から一緒に進学して仲の良かった、トランペットの友人である梨帆からのメッセージを見返す。無事に県大会も突破し、関東大会に向けて準備をしているようだ。色々情報を教えてくれる、思いやりが籠もったように見える文面も、今の絃葉は素直には受け取れない。大会が進むにつれ、また陰口も派閥争いも激しくなっていくのだろう。そんなことばかりが頭を駆け巡る。
絃葉は辞める直前に梨帆に相談したが、「でも強豪ってどこもそういうものだから……」やんわり諭されるように言われた。まるで聞き分けのない絃葉自身が悪いかのように。もう何もかも嫌になった。大好きな吹奏楽だったのに。中学の思い出まで黒く塗り潰された気がした。
部活を辞めてから、絃葉はずっとこの調子だ。何もかもつまらない。何も楽しくない。それは部活を辞めた自分のせいなのだ。こんなに退屈なのに、なんで学校に行く必要があるんだろう、となけなしの意味を探しているうちに、夏休みに入ってしまった。
「なんかアニメでも見るかな」
独り言ちながら、絃葉はスマホをスワイプしていく。今の彼女にとってサブスクの動画配信サービスは本当にありがたい存在で、無尽蔵に出てくるコンテンツを流し見しているうちに時間を消費することができた。
「あ、やば」
間違って隣のアプリを起動してしまう。以前、お気に入りのアーティストが出るというので一回だけ放送を聞くためにダウンロードしたラジオアプリだった。そのときから一回も触っていない。彼女はすぐ消そうとしたものの、時間が潰せるなら何でも良いと思い、少し中を眺めてみた。
「……あれ? そっか、関東と局が違うんだ」
表示されている放送局が、家で流したときと違うことに気付く。有料会員だと日本全国どのラジオでも聞けるのだが、そこまで興味を持っていない絃葉は無料会員だ。彼女は、長野のこのエリアで聞ける放送を探してみる。
スワイプを繰り返していたその時、突然時報の音が聞こえた。
「こんばんは。今日も始まりました、DJカオリのColor Your Life」
誤ってタップしてしまったのか、スマホから心地よいシンセサイザーのBGMと優しい声が流れ始めた。
2
「時刻は二三時半になりました。今日も三十分、ここで皆さんと悩みとゆったりと向き合い、明日が少しでも色づくよう優しく応援していきたいと思います」
ちょうど開始の時刻だったらしい。絃葉はアプリを見返してみる。放送局を見ると、聞いたこともないラジオ局だ。それもそのはず、それは県内限定で流れている地方ラジオだった。彼女の番組の詳細を見てようやく気が付く。月曜から金曜まで夜の三十分放送している、無名のパーソナリティーによる番組。彼女はとりあえずスマホを枕もとに起き、枕に首を埋めるようにしてうつ伏せになった。
三十歳くらいだろうか。落ち着いたパーソナリティーの声を、絃葉はリラックスしながら耳に吸い込んでいく。
「早速おたよりを紹介していきましょう。ラジオネーム『焼き肉プリン』さん。
『カオリさん、こんばんは』 はい、こんばんは。
『私は高校の進路で悩んでいます。将来のことを考え、レベルが高いところを受けたいという気持ちがあるのですが、一方で大親友が一段階下の高校を受けるようで、彼女と一緒に高校も過ごしたいという想いもあります。将来と友人、どちらを取れば良いでしょうか』
……なるほどね。これはね、昔からよくある悩みね。だからどっちが正解とも言えないの。自分がそうしたいと思う方を選べばいい。でも、それだと焼き肉プリンさんも困ると思うから、私だったらどうするかを話すね。
私が貴方だったら、レベルの高い高校を目指すと思う。高校って、本当に世界が広がるの。遊べる場所も増えるし、バイトすれば使えるお金も増える。それは大学に行けばもっと広がる。その中で、貴方は必ず新しい友達と出会うはず。今はそのお友達にこだわっていても、この先もっと趣味や価値観の会う、仲の良い友達ができる可能性があるのね。そのときに、『結局中学のあの時にこだわりすぎること無かったな』『もっと良い高校に行って、東京に出たりしたかったな』って思うかもしれない。
今の時点で大親友って呼べる子なら、多少疎遠になっても関係はずっと続くわ。『あの子と同じ高校に行っておけば良かったな』って後悔することはあんまりないと思う。だから、多分レベルで選んだ方が後悔しにくいかなって、私は思います。良かったら参考にしてね。
それではここで一曲聞いていただきましょう。Type-Hypeで『Dear Sunday』」
導眠剤として流しておくつもりでオフタイマーまでセットしていたのに、気が付くと絃葉は完全にラジオに聞き入っていた。上半身も少しだけ起こし、両肘を布団につくようにしている。
中高生向けの番組のようだが、絃葉が気に入ったのはパーソナリティーであるDJカオリの話すトーンだった。押し付けがましくもなく、かと言ってはぐらかすでもなく、きちんとリスナーに寄り添って、自分なりの回答を出している。おたよりを出した人も、嫌われないようどっちつかずな回答をされるより、よっぽど参考になるだろう。
そして、彼女がもう一つ気に入ったのは彼女の声だった。柔らかい音楽にマッチする、本の朗読なども似合いそうな高すぎない声は、この番組にピッタリだった。
「いいな、この番組」
彼女はまた独り言を漏らす。ここに来てから、家族以外と話していないことで、知らず知らずのうちに寂しさが募っていたのかもしれない。
そしてまたカオリさんは何通かおたよりを読み、合間に曲を流していく。恋愛や親との関係など、誰かに話しづらい相談と回答を聞いているうちにあっという間に時間が経ち、番組も残り五分となった。
「では、今日最後のおたよりとなります。ラジオネーム、『グレースカイ』さんからです。
『カオリさん、いつも楽しく聞いてます。自分は高二の女子ですが、夏休みに入ってから、毎日がつまらないです。そして、本当は高校二年生なんて受験もなくて一番楽しい時期のはずなのに、と思うと、つまらないのは自分のせいなんじゃないかと自己嫌悪してしまいます』」
自分の心の一部分を読まれたかのような悩みに、絃葉は思わず体が固まる。学年こそ一つ違えど、同じような気持ちを吐露している人が、今この同じ県にいるのかと思うと、彼女は不思議な気分になった。
「『なので、今日月曜日から金曜までの五日間、私は毎日新しいことを一つやると決めました。自分との約束を守るためにも、このラジオに投稿していきたいと思います。いつも聞いていたラジオに投稿する。これが今日の新しいチャレンジです』」
「すごい……」
絃葉の口から漏れ出たのは、隠せない本音だった。つまらない日常をパステルカラーの絵の具で塗るように、このリスナーは自分で目標を課した。それがとても驚きで、彼女は軽く嫉妬に似た感情すら覚える。そしてこのメールに対して、カオリさんが何と答えるのか気になって、彼女はグッと上体を起こした。
「グレースカイさん、素敵なおたよりありがとう。つまらないと思ったときに自分からアクションしてみるってすごくエネルギーのいることだと思う。私が高校で同じ状態だったら、きっと毎日寝て過ごしてると思うから」
彼女のコメントはそのまま今の自分自身で、思わず絃葉は苦味の大きい苦笑で口角を引き攣らせる。
「私もこの年まで、それこそグレースカイさんより十年以上長く生きてきて、退屈だなって思うときもあって、そういうときには新しいことしようって決めてる。でも、新しいことって意外と簡単なの。ピアノを始めたいとか、サーフィンやってみたいとか、そういうのは腰が重いと思うけど、例えば、いつもと違う道を行くだけでも、何か新しい発見があるかもしれない。もちろん、歩きにくい道を通ることになったり水たまりで靴を濡らしたりすることもあると思うけど、それっていつもと違うことをした結果だから。グレースカイさん、頑張ってくださいね! では、最後の曲を聞きながらお別れです」
こうして番組が終わり、絃葉はラジオのアプリを閉じて動画アプリを開く。そしてイヤホンを挿し、仰向けで寝る姿勢になった。
新しいこと、昨日までと違うこと。そんなこと、今の自分にはできそうにない。明日もこの何もない場所で何もせずに、去年の夏休みの練習を懐かしみながらぼんやり過ごすのだろう。仕方ない、部活を辞めたのに更に元気を出せというのが無理なんだ、仕方ないんだ。
そんな風に言い聞かせながら、彼女は古典を朗読する動画を聞き始めて目を瞑り、やがて浅い眠りに落ちた。
***
翌日の九日、火曜日。絃葉の父母は午後になると、買い出しのために祖母を連れて出かけた。一緒に来るかと絃葉も訊かれたものの、車で何十分もかけてホームセンターやショッピングモールに行くのもただ疲れるだけだと思い、一人で留守番する方を選んだ。
「……どっか行くかな」
置いてあった漫画も読み飽き、やることがなくなった絃葉は散歩に行くことにした。家と家の間隔も道路も広い村を、ハンカチで汗を押さえながらゆっくりと歩いていく。
八ヶ岳と諏訪湖の間に広がるこの辺りの村は標高が一千メートルで、地上に比べると五、六度ほど気温が低いらしい。避暑地の別荘みたいだと友達から言われたことがあるものの、テニスコートやBBQ場はあっても映画や本屋は歩ける場所にはなく、生活には不便な場所だと彼女は感じていた。
「ふう、ふう……」
細く短く呼吸しながら、去年も散歩した坂道を下っていく。ペンションが並ぶ場所を横切ると、分かれ道に出た。左に行けば、そのままぐるっと回って家に戻れる。合計三十分のちょうどいい運動量だ。右に行くとどこに向かうか分からないが、遠回りになることは間違いないだろう。気温も徐々に上がりつつある中で、別に行く選ぶ必要はなかった。
しかし。
『例えば、いつもと違う道を行くだけでも、何か新しい発見があるかもしれない』
絃葉の頭に、昨日のラジオの一部が流れる。
「……よし!」
自分に気合いを入れるように小さく叫んでから、彼女は右へ曲がって歩き出した。
なぜそんなことをしたのか、彼女自身にもよく分かっていない。ただなんとなく、結果の見えていることをしたくない、という想いが心に渦巻いていて、彼女を「新しいこと」へと突き動かした。だからこそ、絃葉はスマホで地図を確認したりもせず、ただただ気の向くままに足を動かしていった。
「うっわ、最悪……」
結果的に、選んだ道はハズレだった。途中からアスファルトで舗装された道路は途切れ、風で土埃の舞う畦道を歩く羽目になり、彼女のお気に入りの靴はみるみるうちに茶色になっていった。ただ、一つだけ思わぬ収穫もあった。
「あれ、こんな店があるんだ」
土を固めた道を抜けた先は、またアスファルトになっていて、そこに小ぢんまりとしたお店があった。手作りの看板で「ハーバリウムショップ」と書かれている。カフェのようにも見える洋風な作りの、如何にも趣味でやっていますというお店だ。
絃葉は緊張しながらドアを開ける。ベルの心地よい音色がカランコロンと響き、四十歳くらいの女性が出迎えてくれた。
「こ、こんにちは」
「いらっしゃいませ。ゆっくりご覧になってください」
サテン素材のベージュのチュールスカートに薄クリーム色のニットシャツという洗練された格好、そして田舎特有の距離の近い話し方ではない接客に、絃葉は緊張しながらも嬉しくなる。
店内に綺麗にディスプレイされた赤、青、オレンジと色とりどりのハーバリウムは、見ているだけで心にかかった雲が晴れていく。昨日は星空にも心動かなかった彼女にとって、それは小さいながらも確実な変化だ。それなりに値段もするので買わなかったものの、手作り教室のビラやこの近くにある喫茶店の貼り紙なども見ながら、彼女は久々に心躍る時間を過ごした。
「またいらしてください」
「ありがとう、ございました」
ただ、店を出た後に彼女を待っていたのは、何も生み出さない自問自答だった。
確かに、幸運にも素敵な店を発見できた。でも、これは夏までに積み重なった不幸の裏返しのようでもある。五月頃から続いていた部活のストレスと辞めることになった悲しみを考えたら、こんなちっぽけな幸せなど焼け石に水のような出来事だ。
陰鬱な思考を脳内に広げていると、快晴に反比例するように気が沈んでいく。彼女は、ひしゃげた心を映したように背中を丸めて、溜息をつきながら長い長い帰路を歩いて行った。
***
その日の夜、絃葉は寝自宅をして早々にベッドに潜り込む。昼間の散歩の疲れからすぐに寝られるかと思ったものの、つい時刻が気になってスマホをちらちら見てしまう。そして二三時二八分になったとき、彼女は寝ることを諦め、昨日のラジオアプリを立ち上げた。
「こんばんは。今日も始まりました、DJカオリのColor Your Life。時刻は二三時半になりました。今日も三十分、ここで皆さんと悩みとゆったりと向き合い、明日が少しでも色づくよう優しく応援していきたいと思います」
同じ挨拶でラジオが始まる。その後も、幾つかのおたよりを読んでは感想や意見を話して曲を流すという、昨日と同じ構成だった。きっと、ずっとこのスタイルでやっているのだろう。
そして、番組も後半に差し掛かったとき、絃葉は思わずスマホに顔を近づけた。
「はい、昨日に引き続き、今日もグレースカイさんからおたより頂いています」
つまらない日々を変えたくて、昨日から毎日一つでも新しいことをしようと決めて過ごしているという、名前も顔も知らないリスナー。絃葉は、なぜか彼女のおたよりが気になって、この放送に二日連続で足を運んでいたのだった。
「『カオリさん、こんばんは。今日も何か新しいことをしようと思って、でもそんなすぐには思い浮かばなくて、スマホに入っている曲をランダムで再生してみました。すると、前聞いて微妙だと思ってた曲が流れてきたのですが、その歌詞と大サビが気に入ってしまって大好きになりました。それ以外の時間は退屈だったけど、一つ良いことがあったので今日は私の勝ちです笑』」
聞いていた絃葉は、目から鱗が落ちたような気になる。好きなアーティストや好きなアルバムでランダム再生することはあるけど、全曲をランダムにしたことはない。確かに、この一年全く聞いていない曲などにも巡り合えそうだ。
パーソナリティーであるカオリさんの話は続く。
「おたよりありがとう。これね、実は私もやったことあるのよ。ホントにしんどいときにランダムで流したことがあって。そうするとね、好きな曲が流れたら嬉しいし、グレースカイさんが書いてるみたいに、思ったより好きになる曲もあるし。もちろん、何回聞いてもイマイチな曲もあるんだけど、そのときは五分後に次の曲が流れるのが楽しみになるの。動画と違って好みに合わせて似たようなものばっかり流さないから、自分で新しいことをするエネルギーがないときに、ランダム再生ってすごく良い方法なのね。
多分リスナーのみんなは薄々気付いてると思うけど、人生ってね、面白くないこともいっぱいなんだ。そういうときって、幸せの閾値が下がってる。幸せを感じるハードルが低くなってる、って感じかな。だから、逆に幸せを感じやすいの」
「幸せの閾値、かあ」
絃葉はパーソナリティーの言葉を復唱する。自分が幸せじゃないと感じるときがあっても、その時の方が逆に幸せを感じやすくなっているなんて、人間は不思議な生き物だなと思いながら彼女は横になる。程よい低音のカオリさんの声が心地よかったからか、番組終わりまで聞いてすぐに、彼女は夢の世界へと誘われた。
3
「あれ、絃ちゃん、どっか行くのかい?」
「うん、ちょっと散歩してくる」
玄関先で祖母と言葉を交わし、絃葉は午前から家を出た。父母には何も言っていないが、高校生がこの家にずっといても退屈だということは分かってもらえるだろう。
「暑い……」
八月十日、水曜日。昨日よりも雲が少ない空で、邪魔者がいなくなった太陽が思う存分熱を出して暴れていた。まだ十時台なのに随分気温が高い。午後のより暑い時間帯に出なくて正解だろう。絃葉は歩きながら日焼け止めを塗り、昨日は直進した道を右に曲がって進んでいった。
しばらくはペンションと民家、そして田畑があるだけの平地が広がっていた。東京で遊ぶと、ちょっと裏道を行くだけでも面白いカフェや雑貨屋が見つかったりするのに。彼女は環境の違いを強く実感する。人通りも少なく、ここまでも五十代くらいの女性二人組や自転車に乗った母子とすれ違った程度だった。
休めるところを探していた彼女は、更に十分ほど歩き、ようやく木製のベンチと自販機を見つけた。ICカードなんて使えず、彼女はポケットに入れておいた財布から小銭をガチャガチャと勢いよく入れる。
「えいっ!」
誰も聞いていないのを良いことに、絃葉はちょっとだけ大声を出しながらレモンサイダーのボタンを押した。そして、自分のした謎の行動に思わず吹き出してしまう。
田舎は周囲の人との関わりが濃厚だというけれど、それはこの土地にずっと馴染んでいる人の中での話であって、彼女のようにたまに遊びに来る人間にとっては、どこか閉鎖的なコミュニケーションや人口の少なさが寂しさを生み出す。今の絃葉は孤独で、だからこそ一人でおどけたりしているのだ。
「うん、酸っぱくて美味しい」
車の排気音だけがけたたましく響く中で、彼女は感想を声に出す。それはさながら、部活でもこの村でも居場所を見つけられなかった自分の存在を示しているようだった。
「えっと、ランダム再生は、と」
絃葉はグレースカイさんを真似して、スマホの音楽アプリで普段使わないシャッフルのボタンを押して設定してみる。再生してみると、早速聴いたこともない曲が流れた。シングルだけ好きでアルバムごとダウンロードしたアーティストのアルバム曲だった。多分、一回は聞いたことがあると思うが、当時もそんなに心に引っ掛からなくて一番で飛ばしたのか、聴いたことも忘れていた。
久しぶりに流したイマイチな曲はやっぱりイマイチで、彼女は歌詞を見ながら次の曲を待つ。曲を送るボタンを押せばすぐにでも変えられるけど、それをやるのはルール違反な気がして、律儀に一曲終わるまで待った。次はどんな曲が流れてくるのか楽しみになる。グレースカイさんやカオリさんの言っていた意味が彼女にもよく分かった。
「あ、これ!」
次に流れてきたのは、昔好きだった曲だった。最近はめっきり活動が減ったアーティストで、流したのも2年ぶりくらいだ。友達とうまくいかなかったときに、歌詞に共感して延々とリピートしていたのを彼女は思い出す。今聞き直しても、色々うまく進んでいなくて立ち止まっている自分に歌詞がしっくりきて、ささくれ立った心に優しくやすりをかけるように染み込んできた。
自分のお気に入りの曲が思いもよらない形で復活した喜びに、絃葉は木製のベンチから立ち上がってグッと伸びをしてみる。ちょうどそのタイミングで、目の前を同い年くらいの女子がすれ違う。ワイヤレスイヤホンを耳にはめている彼女がひょっとしてグレースカイさんかもしれないと思うと、絃葉は自然と口元が綻んだ。
そのまま座り直した彼女は、相変わらずランダムで流れている曲を聞きながら、ぼんやりと空を見上げる。部室の窓から見えた青空が重なり、思考が自分の内側へ内側へと入っていくにつれて、音楽はどんどん意識の埒外へと消えていった。
私はどうすれば良かったのだろうか。相槌だけでも陰口に参加すれば良かったのだろうか。ポーズだけでも、部長か副部長のどちらかにつけば良かったのだろうか。そういうことがその場のノリでできない不器用さが悪かった? あるいは学校選びを間違えた? 自問自答しては、心の中にいる真っ直ぐな自分が首を横に振る。自分はただ、楽しく吹きたかっただけなのに。その想いが膨らんで抑えきれなくなって、飲み終えたペットボトルをベンチの淵に打ち付けるとカツンと気の抜けた音を立てた。
「暑くない? 今から演奏ってやばい!」
「待って、水筒もう空っぽなんだけど!」
女子二人の笑い合う声が聞こえ、絃葉が遠くに目を凝らすと、楽器が入っているであろうバッグを背負った制服姿の女子二人が、自転車を立ち漕ぎしてこちらに向かって走っていた。よく見ると、二人の制服は色もデザインも違う。夏休みの部活の練習が終わり、旧友同志で練習でもするのだろうか。勝手に自分と比較して、彼女は落胆の溜息をつく。耳を澄ませると自分の好きな音楽がイヤホンから流れていて、彼女は殻に閉じこもるようにグッとうずくまって、そのLとRの世界に浸った。
***
夕飯とお風呂と、すっかり見飽きた夏の星座の鑑賞を終えて、彼女は自分の部屋に戻る。すぐ寝ることもできたけど、スマホでネットニュースや動画を見ながら時間を潰して、二三時半を待った。目的はもちろん、あのラジオだ。
「こんばんは。今日も始まりました、DJカオリのColor Your Life」
この県内でしか流れていないラジオ。今日すれ違った楽器を持った女子二人もひょっとしたら聞いているかもしれないと思うと、なんだかラジオ自体に親近感が湧いてくる。
「では早速、おたよりを紹介していきたいと思います」
番組に寄せられたメッセージが読まれるが、絃葉はほとんど上の空で聞いていた。お目当てのリスナーがいるからだ。
「では続いて、この方のメールを楽しみに待っていた方もいるんじゃないかな? 今日もグレースカイさんのおたよりを読んでいきたいと思います」
「よしっ!」
肘で上半身を支えるようにうつ伏せになっていた彼女は、喜色を湛えて思わず声をあげる。読まれることというより、リスナーの彼女が今日も何か報告できるような新しいチャレンジをしたのだろうということが自分のことのように嬉しかった。
「『カオリさん、暑いですが元気ですか? 去年みたいに夏バテしてませんか?』はい、なんとか元気にやってます。といっても昼はちょっと夏バテ気味で、かけ蕎麦を食べてましたね。食べるラー油入れて辛くすると、するするとお腹に入るんですよ。私はつけ蕎麦だとわさび派なんですけど、かけ蕎麦の時はラー油をがさっと乗せると……ってすみません、だいぶ脱線しましたね」
蕎麦について熱く論じたカオリさんに、絃葉は小さく笑いをこぼした。
「続けます。『新しいことチャレンジの三日目ですが、せっかく夏休みで昼に時間があったので、初めて夏休みにご飯を作ってみました。家に野菜があったので、牛肉を買ってきて肉じゃがを作りましたよ。スマホでレシピを見ながら調理してたんですけど、野菜とか全然切り慣れてなくて、特に玉ねぎを櫛形に切るのとかすごく手間取っちゃいました。調理時間二五分くらいって書いてあったんですけど、倍の時間かかりましたね笑
でも自分で作ったものはやっぱり美味しい!って言えれば良いんですけど、実際はぼんやりした薄味になっちゃって……母親の料理とかスーパーのお惣菜とかすごいなって改めて実感しました』」
「肉じゃがかあ。切るの大変そう」
まるでグレースカイと対話するように、絃葉は相槌を打つ。調理実習以外でほとんど料理をしたことがない彼女からすると、煮込む行程のある和食を作るのはとても難しいことに思えた。
「『何かを作るって、結構良いリフレッシュになりますね。今日はみんな出かけていて、一人でいるとつい悶々と考えてしまうんですけど、調理に没頭して忘れることができました。
実は、先月はクラスでうまくいってなかったんです。入っていた女子グループの中でちょっとトラブルがあって、爪弾きにされてしまいました。夏休み前の数日は遅刻や欠席が多くて、少し不登校っぽくなっちゃってたんですが、平日家にいる時間はすごく寂しかったので、夏休み明けからちゃんと復帰したいなと思いました』」
彼女の突然の告白を、絃葉は目を丸くして聞いていたものの、どこか予想がついていた。何の理由もなく、夏休みがつまらなくなることなど考えられない。絃葉自身と同じように辛いことがあったからこそ、抜けるような青空も灰色に見えてしまうのだろう。絃葉は、彼女に勝手に親近感を覚えていた。
「おたよりありがとう。辛いことも吐き出してくれてありがとう」
カオリさんは、これまでよりも柔らかい声でお礼を口にした、
「何かを作るって、もちろんすごく楽しいんだけど、グレースカイさんが言ってるように没頭できるっていうのも大きいよね。夢中になってる間は、辛いことも忘れられる。もちろんゲームとかも没頭できるんだけど、私が今まで経験したことを伝えるなら、ゲームとかドラマを見るのって、終わった後に虚無感が襲ってきたりすることがあるんだ。なんか無駄な時間過ごしちゃったって。だから、できたら消費じゃなくて、何かを作ってみると良いと思う。料理とか手芸とか、手を使う作業をすると没頭しやすいかな。
それで、今のうちに作る楽しさと、難しさを知ってほしい。特に人数が増える場合かな。一人より二人、二人よりグループの方が、何かを作り上げるって大変になっていくから」
「うん、大変だよ」
絃葉は、またもや一方的に話しているだけのラジオに返事をする。放送局には何も届かないのに、本当に話に共感できて、声に出さずにはいられなかった。
大勢で一つのことを作り上げるのは難しい。吹奏楽も正にそうだと、彼女はよく理解していた。お互いタイミングやボリュームを合わせないと綺麗なハーモニーにならない、という技術的なことももちろんだけど、そもそも全員が同じ目標に向けて一致団結していないと部活自体が立ち行かない。仲違いや悪口が蔓延るなかでパート練習と全体練習をやっていくこと自体が無理なことに近かった。
「没頭……没頭できることかあ……」
自分が明日できることがあるだろうか。絃葉は想像を膨らませながら水色のタオルケットに包まる。彼女自身は気付いてなかったが、それは久しぶりの「明日を楽しみに寝る」という一日の終わりだった。