ソラと海のアマテラス

 山森喜代彦は微笑みながら教室の窓の外を見下ろす。あいつ、男の顔になったな。
 知り合ったばかりの頃は大人しくて暗い印象だったけど、草薙夏帆が転校してきてから変わった――いや、本当の自分を見せるようになったと言うべきか?
 校門を出て消えていった優の背中を見送ると授業のため、席に着こうとした瞬間だった。
「山森君!」
 ミミナの凛とした声が教室に響くと再び生徒たちの視線が集中する、彼女の目は真っ直ぐ喜代彦を貫かんばかりに見つめて言い放つ。
「こんなことしてる暇あるの? 私たちも行くよ!」
「行くって……もしかして」
「当たり前よ! 授業と友達、どっちが大事なの!?」
 ミミナに強く諭される、どっちも大事だがそんなのは優柔不断な奴の答えできっと聞きたくないだろう、香奈枝や凪沙だってそうだろう。喜代彦は溜め息吐いて微笑み、頷いた。
「そうだな、追いかけるか」
 喜代彦は自分の机から鞄を取り、ついでに優の席からも置いてった鞄も取って教室を出ようとすると授業のため教室に入ってきた担任の赤城先生と鉢合わせした。
「山森君、潮海さん? どこへ?」
「すいません、草薙さんが目を覚ましたので俺と水無月君と潮海さんは早退します!」
 喜代彦がそれだけ言うと返事を聞く間もなく廊下に出て昇降口に急ぐと、香奈枝と凪沙が待っており、凪沙は待ちきれない様子で急かす。
「急いで急いで二人とも! 水無月君行っちゃうよ!」
「いや凪沙、多分もう優は汐電に乗ってると思うよ」
 香奈枝の方は比較的落ち着いた様子だ。
「大丈夫! 校門に迎えの車を呼んでるから!」
 流石は電鉄グループ会長のご令嬢だ。喜代彦はミミナをアニメに出てくるお嬢様キャラみたいだと思ってたが、草薙夏帆が転校してきてからはおしとやかなお転婆娘だと考えを改めていた。
「さっすがミミナ! 行き先は夏帆の病院ね!」
 凪沙の心から明るい笑顔を久しぶりに見た気がする、校門まで走ると待機していた黒い高級車の後部に乗って座り、助手席に座ったミミナが使用人の運転手に告げる。
森川(もりかわ)さん、敷島市立総合病院まで!」
「はい、かしこまりました。皆さんシートベルトをお締め下さい」
 運転手の森川さんに言われるまでもなく進行方向右から喜代彦、凪沙、香奈枝がシートベルトを締めると病院に向けて出発した。


 終点南敷島中央駅汐電を降りると優は扉が開くと同時に走り出し、一度改札口を抜けて敷島電鉄に乗り換えると運良く快速急行に乗って出発、敷島電鉄敷島駅に到着すると市営地下鉄に乗り換える。
 地下鉄を降りて地上に続く長い階段を全速力で駆け上がった瞬間、外は厚い雲に覆われていて優はスコールが降ると確信して外に出た瞬間、全開にしたシャワーのように一気に降り始める。
 構うな! 短時間で止む! ここから病院まですぐだ! 一分でも一秒でも早く草薙さんに会いたいんだ! 雨水に濡れたコンクリートの地面を踏み締めると何度も滑って転びそうになる、横断歩道の青信号が点滅しても構わず走り抜け、優は叫んだ。
「草薙さん!」
 一キロ以上を全力疾走して全身のあらゆる器官が悲鳴を上げるほど酷使する。
 辛い! 苦しい! だけど足を止めるな! 草薙さんに会いたいんだろ!? だったら走れ!!
 病院に到着してロビーに入ると、驚きの顔を見せる職員や他の面会者の視線に構わず、夏帆のいる病室へと向かう。エレベーターは待ってる時間を考えれば階段の方が早いと優は駆け上がる。
 六階の辿り着くと窓の外のスコールは止んでいた。
 優は夏帆が入院してるフロアに入ると肺や心臓、筋肉に酸素を行き渡らせて息を整える。
 汗臭いかも? タオル持ってこればよかったと思いながら今度は別の意味で心臓の鼓動が速まり、ドキドキさせながら一歩一歩踏みしめながら個室の前に立った。
 この中に目を覚ました草薙さんが……優は一歩一歩踏み締めて入った。
 その先にはベッドの上で上半身をギャッジアップして窓の外、視線の先には軌道エレベーターアマテラスに向けている夏帆の横顔と、黒い髪が見えて心の底から安堵する。
 よかった……草薙さん、本当に目を覚ましたんだ。
 だが、同時に抱え込んでいた罪悪感と自責の念に足取りが徐々に重くなる、すると微かな足音と気配に気付いたのか夏帆は振り向いて優と目が合い、そして見つめ合う。
「あっ……」
 夏帆は静かに驚いた眼差しでほんの一瞬の間だけ時間が止まると、次の瞬間にはゆっくりと澄み切った笑顔で迎えてくれた。
「いらっしゃい水無月君、目が覚めたばかりでまだ動けないから……窓、開けてくれる?」
 まるで何事もなかったかのように夏帆は頼み事をすると、優は「うん」と窓際に立って窓の鍵を外して開けた途端、南国の潮風が穏やかに吹き付ける。
 振り向くと夏帆は黒髪を靡かせて気持ちよさそうに微笑み、優を見つめている。
「ありがとう、学校は大丈夫なの?」
「そ……早退するって……言ってきたから」
 優は何を話せばいいかわからず、傍に置いてあった手近な丸椅子に座ると夏帆は訊いた。
「ミミナちゃんは大丈夫だった? あたしのこと凄く心配してたでしょ?」
「うん、一番心配してたけど一番心を強く持ってたよ」
「強いねミミナちゃん……多分あたしたちの中で一番気が――ううん、心が強いと思うよ」
「磯貝さんも……中野さんも……喜代彦も……みんな違った強さを持ってたよ――」
 言葉が出なくて俯く、あの時自分が早く気付いていれば、こんなことにならなかったかもしれないと目が覚めた時の一刻も早く会いたいという気持ちは、どこへ行ってしまったんだろう。
「――なのに……僕は……」
「いいのよ、水無月君は何も悪くないわ……二度も――ううん、今度も助けてくれたから」
「今度も?」
 優は思わずゆっくり顔を上げると、夏帆は母性さえ感じる温かな笑みでポンポンと膝を何度もゆっくり叩いて招く。
「水無月君、こっちにおいで」
 優は恐る恐る躊躇いながら身を寄せると、夏帆は身を乗り出して両腕を伸ばし、優の背中に回して抱き寄せられ、気付いた時には優は夏帆の胸の中で心臓の鼓動と柔らかな乳房の温もりを直に感じ取り、思わず困惑する。
「く……草薙さん?」
「眠っている間にね、暗い夢の中で水無月君の声が聞こえたの……それでこれは夢なんだって気付いて目が覚めることができたの。だからあたしを、辛くて、苦しくて、怖い夢から救ってくれて……ありがとう、優君」
 夏帆にギュッと強く抱き締められて優は長い長い一週間もの間、ずっと抱え込んでいたモノからようやく解放されて夏帆との繋がりを実感し、両目から今まで心に溜め込んでいた自責の念や罪悪感を洗い流すように抑えきれない涙が溢れてきた。
「草薙さん……僕……」
「泣いていいのよ……優君は強い子だってよく知ってるから」
「……うん……うう……」
 優は頷き、夏帆の胸の中で大粒の涙を流して泣いた。温かい……最後に泣いたのはいつだろう? 兵予学校に落ちた時も、草薙さんが事故に遭った時も泣かなかった……その分まで優は泣いた。


 優君ってこんなに泣くんだと、夏帆は慈しむ眼差しで見下ろす。
 思う存分泣いた優はやがて、泣き疲れて膝枕にしたまま目蓋が重くなってそのまま眠ってしまいそうで、夏帆は可愛いとそっと優の頭に手を撫でる。
「潮風が気持ちいいね……優君」
「うん……温かい、ずっとこうしていたいな」
 今の優はまるで母親の膝元で安心しきった小さな子供みたいに思わず笑う。
「ふふふ……甘えん坊さんね」
「膝枕してもらうの……いつ以来かな? ねぇ……草薙さん」
「うん?」
「草薙さんのことさ……」
 優が何かを言おうと口を動かそうとした瞬間、一斉に雪崩れ込んできた。
「夏帆ぉぉぉぉぉっ!! 目が覚めたかぁぁぁぁ!!」 
 切羽詰まった顔で凪沙が真っ先に殴り込みするかのように病室に入ってきた。
「ちょっと凪沙ちゃん、病院では静かに! ええっ!?」
 ミミナの凛とした声が響くと彼女は二人を見た瞬間、歓声とも悲鳴とも言える短い声を上げて両目を見開いて顔を赤熱させ、口許を両手で覆う。
「お待たせ優、道路が渋滞して――」
 次に入ってきた喜代彦と目が合ってしまって病室内の空気が一瞬で凍り付き、状況を認識した他の二人も長く感じる一瞬の間に香奈枝が最後に入ってきた。
「みんなどうしたの? 固まって……」
 香奈枝が部屋を見渡し、優は動きたくても動けないようで夏帆は顔を真っ赤にしてると凪沙は改まった表情で「オホン」と咳き込んで踵を返す。
「夏帆、水無月君、日を改めてまた来るからごゆっくり」
「そ、そうね……今見たことは秘密にしておきましょう」
 ミミナは滅多に見られない貴重なシーンを間近で見られ、興奮を抑えたくても抑えきれないのか、裏返った声になりながら反転すると香奈枝は構わずニヤニヤしながらスマホで写真を撮ろうと構える。
「あらあら目が覚めて早々お熱いじゃない、この分なら大丈夫そうね」
「香奈枝」
 喜代彦は制止する口調になってカメラのレンズを手で遮ると、香奈枝は一瞥して「はいはい」とスマホを下ろすと優は起き上がってみんなにアイコンタクトした瞬間、凪沙は一瞬で泣きベソかいて夏帆に抱きついた。
「夏帆ぉぉぉぉぉっ! よぉぉぉぉがっっだぁぁぁぁぁっ!!」
「凪沙ちゃん、ごめんね心配かけて……ミミナちゃんも香奈枝ちゃんも」
 夏帆は凪沙を抱き締めながら二人に微笑むと、ミミナは嬉しさいっぱいで細い人差し指で涙を拭った。
「夏帆ちゃん、目を覚ましてくれてよかった」
「ホントよ退院したらアマテラスオープンフェスティバルに行こう、勿論みんなでね!」
 香奈枝の言う通りだと夏帆は頷くと、ふと香奈枝は何かを思い出したかのように夏帆に訊いた。
「そうだ夏帆、覚えてるかな? 臨海学校の時にオープンフェスティバル誘うって……」
「えっ? ああ……あれね――」
 夏帆は臨海学校の時、自分の方から優を誘うと言っていたのを思い出すが断言できることがある。
「――あたしの方から優君に誘われちゃった」
「えっ? いつ誘ったの?」
 ベッドの端に座ってる優は心当たりがないようだった、だから夏帆は優の片手を両手で包むように握って見つめ、みんなに目を行き渡らせる。
「あたしが眠ってる時にね、夢の中で聞こえたの……みんなでアマテラスオープンフェスティバルに行こうって……だからあたしも、みんなと一緒に行きたい!」
 夏帆の言葉にみんなは勿論と言わんばかりに頷く。
「そうだね……僕もみんなも同じ気持ちだ、草薙さん、目を覚ましてくれて……この世界に帰ってきてくれて、ありがとう」
 喜代彦が安堵の眼差しで感謝の気持ちを述べると、香奈枝が冷やかす。
「なんだよ喜代彦! この世界って異世界転生とかじゃあるまいし!」
「異世界転生? それって人生うまくいってないおじさん達が大好きな、前世で悲惨な人生を送った主人公が異世界でチートな力を持ってハーレム作る奴?」
 凪沙がさりげなくディスって言うと夏帆は思わずドキッとしてあたしがそうなんだよねと、思わずベッドから跳び上がりそうだった。
 目が覚めて二日後の木曜日、しばらくの間入院することになって昨日はみんなや先生、クラスメイトたちがお見舞いに来てくれた。
 昏睡から目覚めてからはリハビリが必要らしく、それまでは車椅子らしい。みんなが帰ると退屈に感じていて早く退院して学校行きたいと思っていた時だった。
「失礼します」
 知らない男の人の威厳のある声だ、誰だろう? 入ってきたのは真っ白な第二種軍装を一切の乱れなく身を包み、左手には脱いだ軍帽、腰には短剣を身に付けた海軍大佐――親睦会の時に見た水無月優のお父さんだった。
「初めまして、かな? 草薙夏帆さん、水無月優の父です」
「は、初めまして! 草薙夏帆です!」
 夏帆は思わず緊張すると彫りの深い威厳のある顔立ちで、以前見た時は凄く厳しくて怖そうな人だと思っていたが、優によく似た眼差しは鋭くも優しげで口調も凛々しくも穏やかだった。
「お怪我の方はもう大丈夫ですか?」
「はい、しばらく入院ですけど大丈夫です」
「よかったです。この(たび)は息子のために危険を顧みず身を挺して下さって、本当にありがとうございました!」
 水無月大佐は最敬礼する、軍人である以上に一人の父親として感謝してるのだろう。
「いいえ、水無月君――優君には何度も助けてもらいましたから」
「何度も……優は中学を卒業した後、周りの反対を押し切って敷島の叔父の家に住み着いて……私も優と向き合う機会も殆どなくなってしまいまして……海軍の任務が忙しくてなかなか家に帰れないというのもありますが」
 水無月大佐の眼差しと表情は海軍士官ではなく、息子との接し方に悩む一人の不器用な父親のだった。だから夏帆は切り出した。
「あの、優君のことお話ししますね」
 すると水無月大佐は嬉しそうに頷いて丸椅子に座る。
「是非、聞かせてくれますか?」
「はい、初めて会ったのは――」
 夏帆はまず最初に港湾地区でトラックに轢かれそうになった時、身の危険を顧みずに助けてくれたこと、偶然にも同じ学校でクラスメイトの幼馴染みの友達だったこと、二人になった時に水産高校の生徒に絡まれて守ってくれたことを話した。
 それを一通り話すと水無月大佐は鋭い眼差しを穏やかなものにして言う。
「そうだったんですね、私も人のこと言えませんが……全く無茶な真似をしおって……素行の悪い与太者から君を守って喧嘩したこと、全然話してくれないものでしてね……」
「でも、優君はお父さんのこと誇りに思い、尊敬してるって話してました……この前の臨海学校の時、同じ部屋の子達に海軍兵学校の五省を教えてました」
「五省を? 優がクラスメイトの友達に?」
 水無月大佐は興味と一緒に密かに嬉しさが入り雑じった眼差しになる。
「はい、山森君から聞いたんですけど、優君お父さんの教えを忠実に守ってみんなにも話していて……だから同時に、自分を責めていたんです」
 夏帆は優と星空を見上げたの臨海学校の夜を思い出すと、水無月大佐はその先を訊く。
「……責めていた?」
「はい、兵予学校の受験に失敗して家族みんなの期待――特にお父さんの期待を裏切ってしまったって、いたたまれなくなって敷島に来たって話してました」
 夏帆は話しよかったのだろうかと思ってると、水無月大佐は懐かしそうに思い出を話す。
「そうだったんですね、実は私も昔……普通の高校に行きたくて兵予学校の面接官にそれを見抜かれて不合格になったんです。血は……争えないか、まあ無理もありません、兵予学校は体力は勿論中学校でも成績トップな成績優秀スポーツ万能な子でもなかなか難しいですものから」
 成績優秀スポーツ万能の子という言葉に夏帆は何となく喜代彦を思い出す、普通の高校に行きたかったのは優も同じだった。夏帆は優と出会ってから今日までのことを思い返しながら話す。
「でも、それであたしは優君に出会えた。とても優しくて、強くて、笑顔が眩しい……優君は本当に素敵な男の子です」
 そう言うと水無月大佐は夏帆を何かを見抜いたかのように見つめると、やがて微笑む。
「夏帆さんこそ、あなたは本当に素敵なお嬢さんです……もっと聞かせくれますか? 優のことを」
「はい」
 夏帆は転校してから今日までのこと時間を忘れて話した、やがて一時間ぐらい話すと水無月大佐の顔はすっかり穏やかで優しい父親の顔になっていた。
「優は……妻に似て大人しくて争い事を好まない子でしたが、こんなにも強くなっていたんですね……さて、私もそろそろ基地に戻らないといけませんので……また明日、お伺いしますね」
「あの! 明日も来られるなら――」
 夏帆は一つ、水無月大佐に提案した。


 翌日の放課後、優は夏帆からLINEで散歩の許可を貰ったから車椅子を押して欲しいというメッセージが来ていた、優は快諾してすぐに敷島市内に向かう。
 到着すると、すぐに散歩の用意をして辛うじて動ける夏帆は少し申し訳なさそうに言う。
「ごめんね、急に呼び出して頼んで」
「気にしないで、部屋に籠ってばかりじゃカビが生えるからね」
 優は慣れない手付きで車椅子を用意すると夏帆はベッドから車椅子に移る、水色のパジャマの上にサマーカーディガンを着て麦藁帽子を被ると、優は訊いた。
「お父さんやお母さんじゃなくてよかったの?」
「診療所の仕事も忙しいからね……三笠(みかさ)公園までお願いしていい?」
「うん、勿論」
 優は慣れない車椅子を押して病院を出ると、結構凸凹するんだなと思いながら車椅子を押して歩く、交通量の多い幹線道路を渡ると街路樹の下を通って敷島湾に面して静かな緑溢れる三笠公園に入る、芝生に囲まれて舗装された道を歩きながら優は訊いた。
「どこへ行く、軌道エレベーターが見える所?」
「うん、そこの道を真っ直ぐ行って桟橋の方に」
 夏帆の視線の先には敷島湾に面した開けた場所で、海に向かい合う形で横並びにいくつものベンチが設置されてる。
 優は芝生に挟まれた広い道を出ると潮風を夏帆と一緒に受けながら左に曲がって歩くと、軌道エレベーターアマテラスより更に向こうの空と海の果てを見ている白い制服の海軍士官が、凛とした姿勢で立っていた。
 父……さん? 優にはすぐにわかった。
 車椅子を押して歩く足が重くなっていき、やがてすぐ傍まで来ると父親の水無月定道が海の方を見たまま独り言のように言う。
「いい潮風だな優……この風はいつも、安らぎと希望を与えてくれる」
「……父さん」
 優は思わず車椅子を止めると、父は車椅子を押してる優の方を向いた。
「待っていたぞ、優」
「どうして……ここに?」
 優が思わず口にすると、夏帆は凛とした声で明かす。
「あたしが呼んだの」
「草薙さんが?」
「うん、昨日お父さんが見舞いに来てくれてね。いろいろお話ししたの」
 夏帆はそう言って父の方を向くと、父も歩み寄る。
「優、昨日夏帆さんからいろいろと話しを聞かせて貰ったよ」
「うん」
 優は思わず目を逸らす。父さんの期待に応えられなかったのに僕は父さんを求めている、なんて図々しいんだろうと思ってると、夏帆の芯の通った声が響く。
「優君――」
 車椅子に座ってる夏帆は振り向き、優に背中を押す母親のように優しい眼差しを見せる。
「――目を逸らさないで……」
「草薙さん?」
「お父さんと……向き合ってみよう」
 夏帆に諭された優は目を逸らすのをやめて頷き、歩み寄って父と向き合う。
「……父さん」
「優……夏帆さんから聞いたよ。父さんの教え、きちんと守っているんだな」
「うん、でも父さんの期待に応えられなかった……兵予学校には行けなかった」
 優は両手の拳を握り締める、本当は普通の高校に行きたかったことやそれを面接官に見抜かれていたことも、話さないといけないと唇を噛むと父は軽く一息吐いた。
「それは父さんも同じだ」
「えっ? 同じ?」
 優は思わず訊くと父は頷く。
「話すのは初めてだな、父さんはお前くらいの頃……本当は普通の高校に行きたかった、それを面接官に見抜かれてしまってね……お前は違ったのかもな」
 父は悔恨の眼差しになって見つめられると、優は胸の内を明かした。
「父さん……実は俺もそうなんだ! 俺も本当は普通の学校に行きたかった! だけどそんなこと言ったら……父さんを裏切ってしまうんじゃないかって! でも、結局……兵予学校に行けず……父さんを裏切ってしまった」 
 もう父さんとの繋がりは持てないのかもしれない、そう思いながら父を見つめてると彼は歩み寄ってきてポンと肩に手を乗せる。
「私は気にしていなかったが……やはりお前は違ったな、兵予学校に行けなかったこと、私が思ってる以上に自分を責めていたことを……優……苦しかったことに気付かなくて、本当にすまなかった」
 父の表情と眼差しは後悔と自責の念が籠っていた、優は首を横に振る。
「父さんは悪くないよ……兵予学校には行けなかったけど……俺……毎日が楽しくて、充実していて……草薙さんが転校してきてから本当の自分としてみんなとの繋がりを持つことができたんだ! 俺……敷島に来て本当によかった!」
 これは断言できる、優は真っ直ぐ見つめると父は今まで見たことないほどの穏やかで優しい微笑みを見せて肩に乗せていた手を降ろした。
「安心したよ優、お前が高校卒業して海軍兵学校に行こうが大学に行こうが、どこかの会社に就職しようが……真っ当に生きてる限り、お前は私の自慢の息子だ」
 家柄なんか気にせずお前は自由に生きろ、父さんにそう言って貰えた気がして、とても嬉しくて思わず微笑みを返した。
「うん……俺、父さんにとって恥ずかしくない立派な男になるよ!」
「優、もし生きる道に迷ったら海軍に来い――」
 父は敷島湾の方を向いて二・三歩進み、茜色に染まった空と海の向こう側を見るかのように遠い目になる。
「――このどこまでも広がる空と海が、お前を導いてくれる」
 どこまでも広がる空と海が、だけど優は思わず笑う。
「それ、海軍じゃなくてもよくない?」
「そうだな、だが……この広い空と海が私の生きる道を示してくれたのは本当だ」
 父は微笑み空を見上げる。父は海軍兵学校卒業後に艦上戦闘機の搭乗員(アビエイター)になり、空母航空団司令になっても多忙を極める中の今でも腕を磨くため、F/A18戦闘機を乗り回してるという。
 どこかで聞いた話だが、海軍の空母艦載機の搭乗員は海の男であると同時に空の男であると話を聞いたことある、父さんはまさにそれだった。
澎湃(ほうはい)()する海原の~大波砕け~散るところ~」
 父とのわだかまりが解けた優は清々しそうな表情で車椅子を押しながら凛々しい声で歌う、吹き付ける潮風を感じながら夏帆は微笑みながら水無月大佐に訊く。
「優君が歌ってる曲って、海軍の軍歌ですか?」
「ええ、海軍兵学校の校歌ではないんですが、事実上の校歌です。私が休暇でたまに部下や兵学校時代の同期や先輩後輩を連れて家に遊びに行き、酒に酔った時に必ず歌って、幼い優もよく一緒に歌ってましたよ」
 水無月大佐は懐かしそうに微笑みながら話すと、優も話しに加わる。
「子守唄は父さんの軍歌だったんだ、今でも軍艦マーチとか海行かばとか、歌詞を見ないで歌えるよ」
「優君やっぱり海軍の子ね、そりゃカッター部からも勧誘されるわけだよ」
 夏帆はクスリと微笑むと、水無月大佐が興味を示す。
「カッター部? カッターボートだな、優はカッター部に入らないのかい?」
「入れないし入りたくないよ、放課後アルバイトや古武道の稽古、週末にはタクトレもあるんだから……それに入ったら朝から晩まで週末は勿論夏休みまで休日返上で練習、まさに現代の月月火水木金金だよ」
「優が忙しいなら仕方ない、勉学に励み、鍛練を積んでるのなら何も言わん」
 水無月大佐は少し残念そうに溜め息吐く、優君のお父さんって厳しそうに見えて案外甘かったりしてと思っていた時だった。三笠公園を一通り回って来た道を戻って海沿いを歩くと、見覚えのある二人組の女の子が周囲を見回しながら歩いてる。
「えっ? 嘘……まさか」
 屈んで目を凝らして見るが間違いない、一目でわかった。
「美由ちゃん……それに――」
 一人はキャスケット帽を被り、紺色のショートボブで両耳の上にトレードマークとも言える二対の赤い髪留め。猫のような愛らしくも凛々しい目鼻立ちに、キュッと結んだ桃色の唇が目を引く女の子――真島美由だ。
「――妙ちゃんも」
 もう一人は幼顔に小柄な体格、栗色の長い髪で小学校高学年にしか見えず、見た目も性格も仔犬のように明るく誰とも仲良くする人懐っこい性格で、いつも美由と一緒に行動していた女の子――井坂妙子だ。
 夏帆は座っていると気付いて貰えない気がした。
「優君、止めて!」
「どうしたの草薙さ――ってどうしたの!?」
 強く言う夏帆に優は車椅子を止めると、ブレーキをかけて車椅子から立ち上がった。
 今見つけてもらえなかったら二度と会えなくなる気がしたのだ。
 一週間昏睡していただけで一歩一歩踏み締める足と、それ以上に体が重く感じる。リハビリの先生によればすぐ歩けるようだが、車椅子にしておいて正解だった。
 鉛でできた靴を履いてるかと思うほど重い足取りで精一杯叫ぶ。
「美由ちゃん! 妙ちゃん!」
 二人の女の子は声に反応してこっちを向いた! 遠くて表情はよく見えないけど、周囲を見回しながら歩いてることからなんとなく自分を探してるのは間違いない、だから力の限り叫んだ。

「あたしは……ここよぉっ!」

 その瞬間的、二人の女の子が感極まって泣きそうな顔で駆け寄って来る、ああ間違いない……美由ちゃんと妙ちゃんだ。夏帆は確信した瞬間、膝が曲がって崩れ落ちる。
「夏帆ちゃん! いきなり立っちゃ駄目よ!」
 気付いた妙子が叫びながら走り寄る、妙子と美由の動きがスローモーションに引き伸ばされて両膝を付く。
「二人共……会いに来てくれたの?」
 一緒に両膝付いて視線を同じ高さにした美由が安堵と嬉しさに満ちた笑みで頷く。
「うん……目が覚めたって訊いたから……来ちゃった」
「いても立ってもいられなかったのよ、美由ちゃんったら昨日今すぐ会いに行こうって」
 妙子も嬉しそうに微笑みながら頷く。でもどうして? ここまで来るのに大変だったはずだ。夏帆は突然の再会に受け止めきれなかった。
「……美由ちゃんが?」
「うん、言い出したら聞かないのは相変わらずよ」
 妙子は誇らしげに言うと、美由も首を縦に振りながら暴露する。
「妙ちゃんったら夏帆ちゃんが目覚めたって一報が来たら大泣きしたのよ」
「ちょっと美由ちゃん! それ恥ずかしいから言わないでよ!」
 妙子は恥ずかしげに頬を赤らめると、美由は夏帆の瞳を真っ直ぐ見つめて笑う。
「ふふふ……やっと……夏帆ちゃんの顔を見れてよかった、写真で見た時に凄くいい顔をしてたから」
「じゃあ……どうしてわざわざ?」
 夏帆はずっと胸の奥底に突き刺さってる痛みが強くなるのを感じながら訊くと、美由は凛とした眼差しになる。
「あたしも妙ちゃんも、オンラインやリモートで顔を見たって安心しないわ……離れていても繋がってるなんて言葉、あたし大っ嫌いなの――」
 そう夏帆もあの世界で強く感じていた気持ちだ。
「――だって、どんなに強く繋がっても……会いたい時に会えないんじゃ、何の意味もないから!」
 その瞬間、ずっと夏帆の胸に引っ掛かっていたものが離れ始める。
 そうだよね、どんなに遠く離れていて強く繋がっていても、会いたい時に会えないんじゃ何の意味もないもんね……。
 それが離れてやがて消えて行くと、同時にずっと溜め込んでいたものが外へと流れて行く。
「美由ちゃん……妙ちゃん……ごめんね……あたしあの時、二人が手を差し伸べてくれた意味がやっとわかったわ――」
 それは涙となって溢れだし、温かく頬を伝って流れ落ちる。
「――あたしね……一年でさよならしちゃうのが……凄く寂しくて、お別れの時が辛くなるのが怖くて……冷たくしちゃったの」
 そう、あの時二人が差し伸べてくれた手を払い除ける選択肢だってあったはず、だけど夏帆は少なくとも二人の手を払い除けなかった。美由は温かい笑みで頷く。
「うん……知ってた。夏帆ちゃん本当は寂しがり屋さんだって」
「それに冷たくなんかなかったよ、ただ……ほんの少し怖がってただけ」
 妙子はポケットからスマホを取り出して見せると、内地にいた頃の写真を見せる。
 その写真は一緒に三人でどこかへ出掛けた一枚で、明らかに隠し撮りしたものだった。
「これって……」
 写真の夏帆の横顔は、心から笑っている笑顔だった。妙子は悪戯してやったっという笑みになる。
「えへへへ……こっそり撮っちゃった、夏帆ちゃん笑うと凄く可愛いんだね」
「他にもいっぱいあるよ、そりゃあ数え切れないくらいね」
 美由も悪戯っ子のように笑う。ああ、そうかあたしはちゃんとあの時、心から笑ってたんだと夏帆は安堵すると同時に今ここで伝えるべきだと決意する。
「美由ちゃん……妙ちゃん……あの時……手を差し伸べてくれて……友達になってくれて、本当に……ありがとう!」
 夏帆は泣きながら満面の笑顔で一番伝えたかったことを言葉にした。
 涙を拭って心が一層晴れやかになって顔を上げると、美由が右手を伸ばす。
「立てる? 夏帆ちゃん?」
「あたしたちが支えるから」
 妙子が左手を伸ばす、夏帆の心はようやくこの後悔と決別する時だと両手をゆっくり伸ばし、二人の手に触れると繋ぎ、それを支えにして立ち上がった。

――やっと……本当の意味で心を繋ぐことができたんだ。

 夏帆は二人の素敵な友達との繋がりを実感してると、優がゆっくりと車椅子を押しながら歩み寄って来ると美由と妙子に一礼した。
「草薙さん、大丈夫?」
「うん、大丈夫よ優君……紹介するね」
 夏帆は美由と妙子に介助されながら車椅子に座る。
「内地の友達、真島美由ちゃんと――」
 美由は「初めまして」と優と水無月大佐に一礼する。
「――井坂妙子ちゃんよ」
 妙子の方はニヤニヤを堪えてる様子で交互に夏帆と優に視線を向ける、優の方は車椅子のハンドルを握ったまま一礼する。
「初めまして、水無月優です」
「優の父です」
 水無月大佐も本物の紳士そのものの気品ある一礼を見せると、堪えきれくなったのか妙子はニヤニヤしながら夏帆に迫って訊いた。
「ねぇねぇ夏帆ちゃん、もしかして水無月君と……付き合ってるの?」
「ええっ!? いきなりどうして!?」
「だって……水無月君のこと、名前で呼んでたじゃない!」
 妙子に言われて夏帆はやってしまった! と今更気付いた。
「そうなの夏帆ちゃん!?」
 美由は裏返った声で訊く、しかもお父さんの前で! 優も思わず頬を赤くして俯くと、水無月大佐は興味津々の眼差しで訊く。
「それは本当なのか優?」
「いや……その……付き合ってるってわけじゃないけど……」
 優は愛らしい女の子のように頬を赤らめて目を逸らすし、左手側面を唇に当てる。
「私はいいと思うぞ」
 水無月大佐は穏やかな笑みでそう言って夏帆の前に出て片膝着き、見つめる。
「夏帆さん、あなたは本当に気立てのいい素晴らしいお嬢さんです……もしよろしければ、高校か大学を卒業したら――」
 水無月大佐は一呼吸置いて、夏帆に告げた。

「――水無月家に、嫁いで来てくれませんか?」

 一瞬、なんて言われてるのかわからなかった。
 その一瞬が長い時間に引き伸ばされ、嫁いで来てくれないか? ってそれって夏帆は困惑する。
「それって……優君と……」
「はい、水無月家の長男――いいえ、優の妻になってくれませんか?」
 止まっていた時間が動き出し、優、美由、妙子、夏帆の四人は声を揃える。

「「「「えええええーっ!?」」」」

「と、父さん! 何言ってるんだよ! もうそういう時代じゃないんだよ!」
 優は顔を真っ赤にしながら声を上げると、水無月大佐は立つ。
「わかっているさ、だけど優……こんな素敵なお嬢さんを逃すのは勿体ないと思うぞ」
「わ、わかってるよ……く、草薙さんそろそろ病院に戻らないと看護師さんたちが心配するから! 行こう」
 優はそれだけ言うと顔を仄かに赤らめて目を逸らしながら車椅子を押す、その帰りに妙子は明らかに優にも聞こえる声で訊いた。
「ねぇねぇ夏帆ちゃん、水無月君ってどんな子?」
「妙ちゃん、今は訊かないであげて」
 返答に困る夏帆の代わりに美由が咎めるが、水無月大佐が豪快に笑って答える。
「はっはっはっはっ! 私の自慢の息子だ、立派な皇国男児(こうこくだんじ)のお手本と言っていいぞ」
 水無月大佐の言うことには古臭さを感じるが、優君は強くて優しい男の子なのは確かだった。
 きっと前世では絶対に出会えないだろうな。
 それから数週間後の朝、自分で歩けるようになって退院した夏帆は長い黒髪を編んでエメラルドグリーンの帯を巻き、水色を基調とした赤と白のツツジの花で彩られた浴衣姿になり、下駄を履いて巾着袋を提げて出掛ける。
「それじゃいってきます!」
 今日は待ちに待ったアマテラスオープンフェスティバルだ、汐電山海駅でミミナや凪沙と合流して南敷島中央駅に向かって喜代彦と香奈枝と合流、その辺りから敷島市辺りに向かう人で溢れていた。
 スマホでネットの生中継を見ながら特別快速の臨時列車で敷島市に行くと、この前優やミミナと三人で出掛けたアースポートシティへと今回は地下鉄で向かう。
 既にオープニングセレモニーのテープカットも終えて軌道エレベーターアマテラスも一般客で賑わい、一〇〇〇メートルの展望台や一七〇〇メートルの空中回廊も満員で凡そ四時間待ちらしい。
 満員電車並の地下鉄を降りるとスペースライナーに乗り、窓の外を見ると歩道は大勢の人でひしめき合っていて喜代彦は静かに驚きの声を上げる。
「うわぁ……初めて来るけど滅茶苦茶多いんだな」
「なんたってオープンフェスティバルだからね! この前はどうだった?」
 テンション高めな香奈枝が訊くとミミナは感慨深そうに答える。
「この前も混んでたけど、今日は別格ね……なにしろお祖父様たちが三〇年の歳月をかけて作った軌道エレベーターだから」
「そうね、この人だかりだとこの前のがスカスカに感じるわ」
 夏帆は思わず一女が生前興味を示していた東京ビッグサイトのイベント――コミックマーケット(通称:コミケ)みたいだと思いながら窓の外を見る。優は内地から遊びに来た家族と四人で過ごして、花火の時間が近づいたらに合流するという。
 すると凪沙が興味津々の眼差しで顔を出して訊く。
「ねぇねぇ夏帆、水無月君よくお見舞いに来てくれたんだって?」
「えっ? う……うん、来てくれたわ」
 夏帆は思わず明後日の方向を向きながら頷く、入院中優は頻繁にお見舞いに来て車椅子押してくれたのは確かだ、すると凪沙は夏帆の浴衣を一瞥するとニヤける。
「夏帆……ツツジの花言葉って知ってる?」
「えっ? ええっ? な、なんのことかなぁ?」
 夏帆は全身から汗が噴き出してはぐらかすと、ミミナがこそばゆい声で言う。
「ふふふ……夏帆ちゃん、白いツツジはね、初恋――」
 夏帆はドキッとする。
「――そして赤いツツジは……恋の喜びだよ」
 ミミナはまるで自分のことのようにキュンキュンしてるようで、夏帆はそれ以上に心臓バクバクだった。
 スペースライナーを降りてみんなとアースポートシティの一大イベントを心の底から楽しむ、どこもかしも人・人・人の三拍子でみんな笑顔で瞳を輝かせ、三密とかソーシャルディスタンスなんて頭にないんだろう。
「……よかった、帰ってこれて」
 夏帆はあの世界のことを思い出しながら口にすると、オープン記念に皇国空軍の練習機T4で構成されたブルーインパルスと、皇国海軍の練習機T45Jで構成されたホワイトアローズのアクロバットチームがスモークを焚きながら上空を通過する。
 思わずみんなで「おおーっ!」と歓声を上げる。みんなで集まって、大声でお喋りして、お互いに触れ合って、ありのままの笑顔を見せて繋がりを感じ合う。

 もう、あの世界にはできないことだ。

 夏帆は今、自分が暮らす前世から見て限りなく現実に近い異世界に転生できた理由はわからない。
 だけどこの瞬間を楽しもう、精一杯。
 夕暮れの時間になると軌道エレベーターの真正面にあるコンベンション・センター、アマテラス・セントラルモール前にある広い防災公園の噴水広場にあるベンチで休憩も兼ねて優と待ち合わせする予定で、あと一五分ほどだった。
 防災公園の噴水広場で待ち合わせに利用してる人たちは少なく見積もっても一〇〇人以上は確実で、スマホの時計を見る凪沙は不満げに唇を尖らせる。
「遅いなぁ水無月君、遅くても二〇分前には着いておかないとね」
「そうよそうよ、ねぇ喜代彦!」
 香奈枝はまるで絶対首を縦に振るように! と言わんばかりに眼光で喜代彦に視線を向けると、彼は棒読み気味だった。
「そ、そう……だね……近くで迷子になってるかも?」
「それなら探してみよう! 夏帆ちゃん、ここのベンチから動かないでね!」
 ミミナがそう言って立ち上がると、夏帆はみんなに言う。
「それじゃあ、優君来たら連絡するね!」
「頼んだよ!」
 そう言って凪沙は走り去るがみんな同じ方向だ、大丈夫だろうか? 
 
 夏帆は下駄を履いてる足をブラブラさせながら待ってると前世ではこんな楽しいことなかったと振り返る、ただ優君のクラス担任が赤城先生だったのは驚いた。さすがに前世のことは覚えてなかったが、優君が目に見えて落ち込んでいたと伝えてくれた。
「優君まだかな?」
 夏帆は深呼吸しながら宇宙まで続く軌道エレベーターを見上げる。
 マスクしないで吸う空気は美味しい、こうやってマスクせずにソーシャルディスタンスや三密も気にせず、建物に入る時もディストピア小説のように体温を監視されず、手指の消毒を促されて手荒れも気にしなくていいんだと思うと、不思議な解放感に満たされる。
「この世界にも……いるのかな?」
 夏帆は呟きながら視線を防災公園に戻すと、懐かしい横顔が見えた気がした。
「えっ……まさか……もしかして」
 思わず立ち上がってその背中を視線で追う、次の瞬間には人混みの中に消えて二度と会えなくなる気がした。夏帆は躊躇うことなく履き慣れない下駄で足を踏み出す、一瞬だけ顔が見えた気がする。
 人違いかもしれない、それでも確かめずにはいられなかった。
 浴衣では走れない、できるだけ足取りを速くして声が届く距離まで詰める。
「一女ちゃん……峰岸一女ちゃん!」
 夏帆は前世で自ら命を絶った友達の名前を叫ぶ、その背中が立ち止まって振り向くときょとんとした顔をしていた。黒縁眼鏡に童顔だが前世に比べて大人っぽく、髪も長くなっていていた。
 この世界の彼女にとって見知らぬ子に声をかけられたので、当然ながら首を傾げながら見つめる。
「えっ? えっと……」
「峰岸……一女ちゃん……だよね?」
「はい……そうですけど、どちら様ですか?」
 夏帆は躊躇しながら訊くと、一女が必死に過去の記憶を辿ってるような表情でゆっくりと頷いた瞬間、夏帆は嬉しさのあまりに涙が溢れそうだった。
 よかった、一女ちゃん生きてる……この世界でまた会えた! 夏帆は名前を口にする。
「草薙夏帆です」
「草薙……夏帆……ナギちゃん!?」
 一女は微かに思い出したかのような素振りを見せて夏帆は胸が高鳴るが、次の瞬間には「ハッ」として謝る。
「あっ、ごめんなさい……思わず出ちゃって私にもわからないの」
「ううん、昔……友達にそう呼ばれていたの」
 夏帆はせっかくこの世界で再会した友達に涙を見せまいと微笑み、一女も微笑む。
「不思議ね……なんだか、凄く懐かしい響き……初対面なのに草薙さんとはずっと昔から友達だった気がする……どこかで会ったかな?」
 友達だったんだよ、一女ちゃん……一緒に学校に通ってたんだから。
 一女が覚えてないのは当然だ。そして夏帆にはあの誰一人理解してくれない苦しみを思い出して欲しくない、だから自分との思い出と引き換えにこの世界でかけがえのない思い出で上書きして欲しいと願う。
「ううん、あたしのこと覚えてなくて当たり前よ……一女ちゃん、お友達できた?」
「うん、放課後にね……街で友達のみんなとワイワイするのが楽しみなの」
 無邪気に頷く、それは一女が前世に抱いていた夢の一つだった。
 夏帆は頷いて更に訊く。
「彼氏できた?」
「うん! 決してかっこいい人じゃないしクラスでは目立たないけど、素朴で優しくて芯が通ってる人だよ」
 一女の好きなタイプの男の子だ、きっと優みたいな子だろう。
「毎日楽しい?」
「勿論! あたし二年生になったばかりだけど高校入ってから毎日が楽しくて、彼氏や友達と一緒に大声で笑って、泣いて、時には怒ったり、喧嘩して……まだまだ夢のような日々が待ってるんだって思うと、ワクワクするの!」
「よかったわね一女ちゃん、夢が叶って」
「ナギちゃんは?」
「あたしはね――」
 興味ありげに微笑みながら訊かれると、夏帆の脳裏に敷島に来てあの世界を思い出した日のことが走馬灯のようによぎる。
「――一女ちゃんに負けないくらい楽しい毎日を送ってるわ、ずっと憧れてた青春アニメみたいにね」
「一緒だ! あたしもそうなの! ナギちゃんも彼氏できたの?」
「ううん、でもね……好きな男の子ができたの……これから一緒に花火を見るわ」
「そう、よかった。それじゃあ……そろそろ行くねナギちゃん」
「うん、頑張ってね……一女ちゃん」
「じゃあね」
 一女はそう手を振ると足早に人混みの中に消えていった、まるで最初から存在しなかったように。
 これでよかったのよ……だって自分と一緒にいたらあの辛い記憶を思い出してしまいそうだから、夏帆は踵を反して歩き出すと、指先が震える。
「……一女ちゃん、さようなら……」
 夏帆は別れの言葉を口にした瞬間、ずっと塞き止めいたものが決壊して涙が溢れ始めたが俯くことなく、振り向くことなく、前を向いて足を進めた。

 この世界で幸せに生きていくために、夏帆は二度も親友を失った。
 夏帆はベンチに座って人目を憚らず溢れ出る涙を流し続けていると、誰かが歩み寄ってきてまるで絵本の王子様のように片膝ついてハンカチを差し出す。
「草薙さん……大丈夫? 何かあったの?」
 声の主は水無月優で、くしゃくしゃの顔を上げると夏帆は頷いて信じてくれないことを承知で口を開いた。
「優君……あたしね……ずっと昔に別れた友達に偶然会ったの」
「うん」
「その子はね、もうあたしのことを覚えてなかったの」
「……思い出して……くれなかった?」
 優の柔らかい眼差しと口調でゆっくり訊くと、夏帆はハンカチを受け取って涙を拭きながら首を横に振る。
「そうじゃないの……あたしのこと思い出したら……辛い記憶も一緒に思い出しちゃうから……だから……忘れたままでよかったの」
 前世の辛い記憶をこの世界に持ち込んではいけない、だけど同時にあの世界の大切なモノも一緒に忘れてしまわないといけなかった。
 優はゆっくりと語りかけるように気持ちを代弁する。
「だけど……大切な思い出も一緒に忘れてしまったから、辛いんだよね?」
「うん」
「それならさ、せめてその子のこと覚えておいてあげよう……いつかまた会った時、思い出して辛い記憶と向き合えるようにね……」
「うん、ありがとう……優君」
 夏帆は涙を拭う。もう……泣くのはやめよう、あたしに前世の記憶を呼び起こし、恋を与えてくれた男の子のために。
 少しの間に優は隣に座ってくれて、一緒に辛い別れを乗り越えてくれた気がした。そして夏帆は前へ進もうと言わんばかりに勢いよく立ち上がって、南国の太陽のように眩しい笑顔になる。
「行こうか優君! ところで凪沙ちゃんやミミナちゃんたちと会わなかった?」
「うん、草薙さん一人だけ?」
 優も立ちながら訊くと二人のスマホが同時に通知音が鳴った、見ると一通のLINEメッセージだった。

『二人だけで楽しんでおいで!』

 思わず夏帆は優と顔を向け合い、微笑む。
「楽しんでおいでって……」
「うん、楽しんじゃおうか!」
 優は愛らしく頬を赤らめ、夏帆も実は心の内では心臓が跳び出しそうになってドギマギする。優も同じ気持ちだろう。
「と言っても……楽しむって……何だろうねあ」
「決まってるじゃない! オープンフェスティバル……っというか――」
 夏帆は思わず笑ったその瞬間、最大級の勇気を振り絞って艶やかで晴れやかな笑みと甘い声で告げる。
「――デート!」
「う……うん」
 優は頬を赤らめながら目を逸らさず、彼もきっと精一杯の勇気を振り絞って包むように夏帆の手を握る。
「草薙さん、手……離さないでね」
 ああやっぱりこの子、あたしに恋をしてると心地良い胸の鼓動を感じながら夏帆は艶やかに、そして無邪気に微笑んで頷いた。
「……うん、優君もね」
 そして二人で手を繋いで歩き出す、もう一人じゃないんだと実感しながら花火を見るのに良さそうな場所を探す。
「優君、ミミナちゃんが教えてくれたんだけど、あの辺がよくない?」
「うん、あそこならまだ空いてるね」
 夏帆の指差す先にあるのは公園の小高い丘だ、夏帆は優の手を引っ張って緩やかな斜面の階段を登ると、空いてるスペースに腰を下ろした。
 やがて日が落ちるとアマテラスがライトアップされ、各所に設置されたモニターやビジョンカーの映像が切り替わって人々の視線が集まり、リニアクライマー第一便の出発式が始まった。

『皆さん、大変長らくお待たせいたしました。ただいまより出発式を執り行います。(わたくし)、本日司会進行をさせていただきます柴谷(しばたに)でございます。どうぞよろしくお願いいたします――』

 モニタービジョンにはインカムを装着した背の高いショートカットの女性が現れ、主催者である敷島電鉄グループ会長でミミナの祖父である潮海一蔵(しおみいちぞう)が主催者挨拶を行い、来賓祝辞を経て、与圧服姿の宇宙飛行士四人がにこやかに手を振りながら現れる。
 その中には四組担任の米島先生の弟――米島涼の姿もあった、低軌道ステーションに向かうリニアクライマーに全員が乗り込む間、主催者や来賓がテープカットの準備に入る。
『それではテープをお持ちになってご準備ください』
 リニアクライマー全員が乗り込んでシートベルトを締めると、いよいよ第一便の出発だ。
『皆様、準備が整ったようです。私が「どうぞ」と申し上げましたら、テープにハサミをお入れください。それでは、アースポートシティ発静止軌道ステーション行きのリニアクライマーが発車します! どうぞ!』
 テープがカットされた瞬間、盛大なファンファーレが鳴ると同時にリニアクライマーが宇宙に向けて出発、最初はゆっくりと昇りやがて天に向かって徐々に加速し始めると同時に一八五二メートルの塔の下から上の順に色鮮やかな花火が放たれる。
「始まったよ! 草薙さん!」
 優は無邪気な表情を輝かせ、甲高い口笛のような音をいくつも響かせながら、夜空に大輪の花をいくつも咲かせる。花火が夜空を輝かせるたびに、夏帆はふとあの世界で得られなかったことを、今この世界で得ていることを改めて実感する。

 マスクも着けずに人の素顔や表情が直に見える喜び。

 直に手を触れ合い、心を繋ぎ、通わせ合うこと。
 
 直に顔を合わせて、集まって、お喋りして、笑い合うこと。

 直に友達と抱き合った時の温もり、優君と手を繋いだ時のときめき。

 全てもうあの世界では得られないことだ。
 夏帆はオンラインやリモートではなく、夜空に煌めく大輪の花火を直に自分の目で焼き付け、耳に響かせ、感じながらこの世界に転生させてくれた神に祈る。

――神様、どうかお願いします。コロナ禍のあの世界で自ら命を絶った人たちが、あたしのように幸せに暮らせる世界に連れて行ってあげてください。

 やがて花火がインターバルに入って辺りが静寂に包まれると、周囲の人たちが家族や友人、恋人とでお喋りを始めると夏帆も優の方を向く。
「優君、花火……優君? どうしたの?」
 優の横顔を見ると、彼は顔を真っ赤にして極限までの緊張に必死に耐えながら笑顔で平静を装ってるのがすぐにわかる。
「大丈夫、花火……凄く綺麗だね」
「うん、あたしも優君と一緒に見られて凄く嬉しい」
 だから夏帆は背中を押すつもりで微笑む、頑張って優君。
「く、草薙さん……俺さ……」
「うん」
 夏帆は見つめながら頷くと、優は緊張を落ち着かせようと呼吸を二~三回深くした瞬間、心を貫くような鋭い眼差しで頬を真っ赤にしながら告げた。
「あの時から、君のことを知りたい、触れたい、繋がりたいって気持ちがなんなのか……ようやくわかった。これは恋なんだって――」
 優はそっと胸を右手に当てて気持ちを直に伝える。

「――俺、草薙さんのことが……好きだ!」

 覚悟を決めて顔を真っ赤にする優に、夏帆は嬉しさに満ちた笑みになる。
「うん、ずっと前から知ってた。だって……眠ってる時に聞こえてたの」
「そ、そうなんだ……」
 優は必死に目を逸らさないように見つめてる。その瞬間、インターバルが終わって甲高い音を響かせながら花火が何発も打ち上げられ、夏帆の答え決まっていた。

「あたしもね、優君のことが……好き!」

 優と心を通じ合い、繋いだ瞬間、この夜空に一瞬しか咲かない大輪の花を爆音と共にいくつも一斉に咲かせ、そして儚い命のように消えて行く。
 それは人類が宇宙への新たな道を開き、一つの恋を実らせた二人を祝福するかのように。
 夏帆は花火の爆音に負けないように大声で叫んだ。
「あたし、これからやってくる楽しいことや、嬉しいこと、優君と一緒に見て、聞いて、感じて行きたい! だから、付き合おうっ!」
「うん、勿論! これからよろしくね草薙さん!」
 優は嬉しさで胸いっぱいの笑みだった。
 夏帆は夜空にきらめき輝く花火を優と手を繋いで見上げる。恋、友情、青春、様々な形の人との繋がりに満たされた気持ちを、この世界で得たのだ。

 宇宙と空という二つの意味が込められた、ソラと海のアマテラスが聳え立つ世界で。
 エピローグ

 オープンフェスティバルの翌日、夏帆はいつものように登校して山海駅でミミナや凪沙と合流する。
「おはよう凪沙ちゃん、ミミナちゃん!」
「おはよう夏帆ちゃん!」
 丁度ミミナや凪沙も来たばかりのようだった。
「おはよう夏帆! 昨日は楽しかったね!」
「うん、花火凄く綺麗だったわ」
 夏帆は汐電に乗って昨日のオープンフェスティバルのことを喋りながら登校する。
 前世での息苦しく辛い世界にはもう二度と行きたくないし、一女ちゃんが自分のことを覚えてないのは凄く寂しくて悲しいけど、思い出してよかったと思う。
 そんな思いに浸ってると凪沙がニヤニヤしながら言い寄ってくる。
「と~こ~ろ~で~昨日は水無月君とどうだったの?」
「コラコラ凪沙ちゃん駄目だよそんなことに訊いちゃ……気になるけど」
 ミミナは咎めるが同時に気になるような眼差しだった。
「う、う~んとても楽しかったよ」
 夏帆は笑って誤魔化しながらはぐらかす、まさか告白して付き合うなんて今はちょっと言えない。
 そう思いながら校門に入ると優と喜代彦を連れた香奈枝と鉢合わせし、駆け寄ってお互いに「おはよう」と挨拶を交わす。
 夏帆は昨日のこともあってか口調がぎこちなくなる。
「お、おはよう……優君」
「草薙さんおはよう」
 優の方も若干上ずった声になる、昨日から付き合うことになったがこのことは秘密にしておこうと約束したのだが、この分だといつバレてもおかしくない。
「夏帆、優、昨日はどうだったの?」
 香奈枝は歩きながらニヤニヤと早速興味津々の眼差しで訊いてくると、夏帆はまた笑って誤魔化してはぐらかす。
「えっ? どうだったって……」
「だって優が機密事項だって喋ってくれないもん」
 香奈枝も凪沙と同じく気になるらしく、不満げに唇を尖らせると喜代彦が溜め息吐きながら訊く。
「それならどうして昨日草薙さんと優を二人っきりにしたんだい?」
「そうね……夏帆が転校してきてから優、変わり始めたからよ」
 香奈枝はそう言うと、喜代彦は首を横に振る。
「優は変わったというよりも本当の自分を見せるようになった……俺はそう思うね」
 夏帆の方も優と出会えたことで変わることができたと微笑み、優に眼差しを向けると彼は照れ臭そうな顔になる。
「変われたかどうかはわからないよ、でも……草薙さんと出会えたおかげで僕は前よりも沢山の人たちと話すようになったし何より……父さんと向き合うことができたんだ!」
 やがて優の表情は晴れやかで爽やかな微笑みになる。
 夏帆はそっと優と見つめ合い、涼やかに微笑んで頷くと喜代彦はヘッドロックをかける。
「クサイ台詞! でも優、いい顔してるじゃねぇか!」
「そんなことないよ喜代彦、放さないと投げ技かけるよ」
 優は満更でもない表情で喜代彦とじゃれ合いながら校舎に入ってまたいつもの、だけどかけがえのない一日が始まる。
「おはようみんな」
 みんなに挨拶する香奈枝と教室に入るとアクリルボードに隔たれず、ソーシャルディスタンスやマスク着用という概念を持たずに直に表情を見せ合って笑い合うクラスメイトたち、それが以前より尊く見える。
 すると香奈枝が来るのを待っていたのか女子生徒が駆け寄ってくる。
「ねぇねぇ香奈枝聞いて聞いて! 昨日のオープンフェスティバルにさ、空野さんが三組の桐谷(きりたに)君と歩いてたのよ!」
「ちょっと広めないでよ! 偶然会っただけだから!」
 追いかけてきた空野零が顔を真っ赤にして弁解し、香奈枝はおちょくる。
「ええでも零、顔真っ赤だよ」
 こんなに真っ赤な顔、マスク着けてたらきっと見られないわねと思わず笑みを溢しそうになりながら席に着いて鞄を置き、空いた窓の外から吹き付ける南国の潮風。
 広がる空と海を夏帆はほんの一瞬の間、眺める。

――あたしも優君に出会えたことであの世界の記憶を思い出し、変わることができた。
 
 あの時、優君に助けられなかったら色々な後悔を残したままこの世を去っていただろう。
 この世界が美しいことも、人との繋がりがこんなにも素晴らしいことも、何より恋を知ることもできなかった。
 どうして自殺したあたしがこの世界に転生したのかはわからない、だけど前世の記憶を思い出したことで今まで目に映る当たり前の光景が、かけがえのないものに見えて世界が鮮やかに色づいていた。
 夏帆はそれを噛み締めながら一日を過ごし、家に帰る。
「ただいま」
 靴を脱ぐと母親が出迎えてくれた。
「お帰りなさい夏帆、そっちの部屋に入ってごらん」
「えっ? もしかして」
 夏帆は期待を込めて口にすると母親はすぐに一階和室の襖を開けようと手を伸ばすと、愛らしい仔猫の鳴き声が響く、それも何度も。夏帆は思わず母親に期待の視線を向ける。
「お母さんもしかして!」
「うん、元気な男の子よ」
 母親が微笑みながら襖を開ける、数日前に買い揃えて置いた猫用ゲージの中に一匹の仔猫の陰が出して言わんばかりに懸命に鳴いてる。夏帆は両膝着いて覗こうとすると同時に母親がケージを開ける。
「えっ? まさか……嘘」
 夏帆は思わず呟き、目を見開いて出てきた仔猫を見つめる。
 出てきたのは一匹のキジトラ猫だった。しかも小さいとはいえ前世で会えないまま他界した雄のキジトラ猫で小さいとはいえ、目付きも色も模様も小さい頃のツナギそのものだった。
「ツナギ?」
 夏帆は思わず口に出すと、仔猫は嬉しそうに鳴いて駆け寄って来て夏帆の胸に跳び込んできて夏帆はしっかりと抱き止めた。
「ツナギ! 会いに来てくれたのね! ツナギ……あたしのこと、覚えてる?」 
 仔猫は嬉しそうに何度も鳴いて覚えてるかどうかは本当のことはわからない、だけどわかることが一つだけある。あの世界で天寿を全うしたキジトラ猫のツナギが、再びこの世界に生まれてそして再び夏帆と出会ったのだ。
 夏帆はその奇跡と喜びを噛み締め、そして温かい涙が溢れていた。

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