遡ること昨日の夜、お風呂から上がってスマホを見ると一女からLINEが来ていて、確認すると『今、電話で話せる?』とだけ来ていた。夏帆はどうしたんだろうと一女に電話をかけた。
「もしもし一女ちゃん?」
『夏帆ちゃん……ごめんねこんな夜遅くに』
 一女の声は以前よりも陰りのあるものだった、いつの頃からか彼女は笑わなくなって声も暗くなってしまった。
 一女の好きなアニメの話をしようにも、今ではラノベや漫画原作のアニメでさえキャラクターたちがマスクをしてソーシャルディスタンスを取っていて、巷やSNSでは「ポリコレに屈した」とか「消毒された」とかで炎上し続け、夏帆も一女も白けて見なくなってしまった。
「ううん、気にしないで……学校じゃ話せないこと、あるしね」
『そうだね、結局終わらないまま……息苦しいまま三年生になっちゃうね』
「うん入学してから体育祭や文化祭は縮小したり中止したり……修学旅行、行きたかったわね……沖縄」
『うん、一緒に(ちゅ)ら海水族館行きたかった、一緒に沖縄の海泳ぎたかった、親にコロナだからってバイト禁止されなければな……夏帆ちゃんと二人でこっそり行けたのに』
 一女の家は母親が在宅ワークで一方的にコロナ対策と称して門限を早い時間に決め、バイトも禁止してるという。一女は高校入ったらバイトしてそのお金で長期休みは夏帆や友達と旅行に行こう言っていた矢先にだ。
「あたしも、バイト禁止されちゃった……濃厚接触者になるからって」
『そうだよね、夏帆の親……医療従事者だから家が裕福でも親ガチャ大外れだよね! 私も大外れよ!』
 一女の口調が明らかにおかしい、前ならそんなこと言わなかったのに! 気の抜けていた夏帆は目の色と口調が緊迫に満ちたものに変える。
「一女ちゃん、何かあったの? 大丈夫?」
『大丈夫じゃないよ……親に話しても聞いてくれないし否定してきて、もう三年前から我慢ばっかりで嫌になっちゃった……もうマスクしたくない、あんな気持ち悪い光景なんかもう見たくない!』
 一女の声が震え始める、今にも泣き出しそうで夏帆は今すぐ駆け付けてやりたかった。
『高校生活楽しみにしてたのに全部取り上げられたってお父さんやお母さんに話したらさ……なんて言ったと思う? まだ受験勉強が残ってるって、辛くても笑おうって、どんな神経してるの!? 馬鹿じゃないの!? 私が高校受験で辛い思いしたの知ってる癖に!! 全然聞いてくれないのよ!!』
 どんどんヒステリックになって一女に夏帆は戦慄し、電話の声からは虚しい笑い声さえも混ざる。
『しかもさ……SNSで気持ち呟くとね……ざまあみろとかさぁ……自己責任だとか、恵まれない人もいるとか、ウクライナの人たちに比べれば遥かに恵まれてるから甘えるなとか……偉そうにアニメアイコンの人が言うのよ……きっと人の不幸が楽しくて楽しくてしょうがない……人生なにもかも上手くいってないおじさんたちがネチネチと偉そうに説教してくるのよ! 女子高生相手にこんなこと言ってみっともないと思わないの……ははははは……みんな私たちの声なんか聞いてくれない……あっはははははっはは……』
 一女は虚しく高笑いした声が、次第にヒステリックな嗚咽に変わる。
『ああ……もう嫌! こんな日々耐えられない! 今は我慢って! 来年はって! もう三年になるのよ!! 先生も親も、みんな言うのよ! 今我慢すれば夢を叶えられるって、もう私と夏帆ちゃんの夢は永遠に叶わないのよ!』
 そう、一女の言う通り夏帆の夢は高校入ったら青春アニメみたいに素敵な友達や彼氏を作って放課後は街でわいわいして休日は一緒に遊んで、一緒に文化祭や体育祭、修学旅行を楽しんで、沢山笑ったり、泣いたり、遊んだりして眩しくて、爽やかで、甘酸っぱい青春したかった。
『明けない夜はない、止まない雨はない、去らない冬はない、出口のないトンネルはない、そんな上っ面だけの綺麗事なんかもう聞きたくない! もう嫌……こんな夢……夢なら覚めて……覚めてよぉっ!! ……こんな怖くて苦しくて辛い夢もう嫌だよぉ……助けてよぉ……ねぇ……助けてよぉ……』
 一女は電話越しに声を上げて泣き、夏帆もいつの間にか唇を噛んで泣いてた。
 一女に何もできない悔しさ、一女を追い詰めた大人そのものへの怒り、そして憎悪はコロナそのものへの憎悪を遥かに上回ってボロボロと涙を溢して啜り泣く。
 どうしてこうなったの? どうしてこんな惨めな思いしなきゃいけないの? どうしてあたしたちが身も心も削り尽くして我慢し続けなきゃいけないの? 我慢するために生まれたの? あと何回惨めな思いすればいいの?
 何も言えず一頻(ひとしき)りに夏帆は啜り泣き、一女は電話越しに泣き叫んでいた。
 やがて泣き顔でぐしゃぐしゃになった夏帆は涙が枯れ、永遠とも言える沈黙が続いた後に、一女は静かにお礼を言う。
『ナギちゃん……話し聞いてくれて……ありがとう』
「一女ちゃん、何も力になれなくて……ごめんね」
『ううん、気にしないで……私、ナギちゃんと友達になれてよかった……』
「あたしもよ一女ちゃん、もう寝るね」
『うん……おやすみなさい』
「おやすみ……一女ちゃん」
 電話が切れる、繋がりが切れてしまってそれが最期の会話だった。

 今にして思えば、お別れを言ってるような口調だったと夏帆は思い知り、呟く。
「……一女ちゃん、多分……最期にあたしの声を聞きたかったんだと思います」
「……峰岸さんの最期の言葉……親御さんにお伝えます、聞かせてくれませんか?」
 赤城先生も教え子を亡くした悲しみを精一杯押し殺した口調だ、夏帆は唇を震えさせる。
「言ったら……葬儀に参列させてくれますか?」
 夏帆の言葉に赤城先生はゆっくりと少しの間目を伏せ、それを長く感じてると全てを左右する重大な決断を下す国家元首のようにゆっくりと目を見開く。
「峰岸さんの親御さんに交渉します……峰岸さんと誰よりも仲が良かった草薙さんを、クラスの代表として参列させたいと、今日一日待ってくれますか?」
「はい……お願いします」
 夏帆は実感が沸かないまま頷くと、教室に戻って遅れて一時間目の授業に出た。

 放課後になると赤城先生は親族から了承してもらったと伝えられ、クラスの代表として夏帆は翌日の通夜や告別式に参列することになった。その間、夏帆は悲しみに打ちのめされる一女の両親になんて伝えようかと考える気もせず通夜、告別式を経て火葬を終える。
 その間に夏帆が涙を流すことなんて一度もなかった、ただどうしてあんなに明るくて、優しい一女が死ななきゃいけなかったのか? それで頭がいっぱいだった。
 葬儀が一通り終わり、参列者が多くいる中で赤城先生がご両親に参列させてくれたことへの感謝を伝えていた。
「――まだ……草薙さんが立ち直るのは当分後の話しになりそうです」
 赤城先生は振り向いて夏帆を一瞥すると、一女の両親が憔悴し切った微笑みで歩み寄ると母親が一礼して感謝の言葉を述べる。
「草薙さん、生前は一女のこと良くしてくれて本当にありがとう……一女も来てくれてきっと喜んでるわ」
 その瞬間、ハッと我に返った気がして停滞していた夏帆の心が動き出した。
 何? このドロドロと渦巻くような感じは? そう感じてる間に娘を失ったショックで年齢以上に老け込んだ父親が、憔悴し切った声で言う。
「一女も草薙さんに出会えて幸せだったよ」
 喜んでる? 幸せだった? それなら最初から命を絶ったりしない、心臓に火が点いた気がしてそれが何かわからなかった。夏帆に両親の言葉が理解できず、言葉が出なかった。
「赤城先生から聞きました、前夜に電話してたって……一女はなんて言ってました?」
 母親は縋るような眼差しで訊く、それがどうして無神経に聞こえるんだろう? 高温に加熱された灼熱の心臓からマグマのような血液が全身を巡る。
「娘の、最期の言葉を教えてくれないかい?」
 父親は屈んで俯く夏帆の顔を覗き込もうとする、夏帆は溢れそうになる何かの衝動を必死に抑え込みながら顔を上げ、震わせながら逆に訊いた。
「……一女ちゃんの言葉に、耳を傾けましたか?」
 夏帆の言葉に沈黙した空気が流れる、両親はまるで訊かれたくないことを訊かれてしまったかのような表情になり、赤城先生は何かをグッと堪えてるようだった。
「……一女ちゃんと向き合いましたか?」
 夏帆は問い詰め、込み上げてくる感情を抑えながら最期の会話を思い出しながら口にする。
「一女ちゃんは最期まで……苦しんで……悲しんで……大声で泣いてました……先生や親、誰に……相談しても、頭から否定してばかりで誰一人耳を傾けてくれなかったって」
「そ……そう……だったのね」
 一女の母親は憔悴してるが同時に後ろめたさを感じてるようで、夏帆はそれを見逃さなかった。
「……どうして聞いてくれなかったんですか?」
「それに関しては私も家内も悪かったと思ってる、みんなコロナで大変だったんだ」
 一女の父親はおろおろして明らかに動揺してるが、見苦しい言い訳にしか聞こえなかった。
「みんな大変だった? あたしも一女ちゃんも、夢を全部奪われて……苦しめられて、その一言で全部……有耶無耶にしてしまうんですね!」
 夏帆の声が徐々に刺々しくなり、一女の母親は困惑しながら夏帆を宥めようとする。
「有耶無耶だなんてそんな、それでも一女はあなたと友達になれてよかったわ」
 母親の一言で、夏帆は今自分が抱いてる感情を心の底から理解した。

 高純度のどす黒い、目に映るもの全てを焼き尽くす程の憎悪と憤怒だ。

 その瞬間、夏帆の全身の血液が激しく沸騰して抑えていたものが決壊してゆっくりとマスクを外し、あらゆる負の感情が凝縮された能面のようになった素顔を露にした瞬間、般若のような形相になった。
「ふざけるな……一女ちゃんの気持ちを勝手に決めつけて……ふざけるなぁっ!!」
 夏帆の怒声が響くと参列者の視線が一ヶ所に集中するが、それに構わず血涙を流さんばかりに泣き叫ぶ。
「一女ちゃんは苦しみ抜いて、あんたちを恨んで、憎んで、そして死んだのよ!! あんたたちが殺したのも同然よ!! だからあんたたちを許さない!! これから長く生きて死んだ後も永遠に苦しめ!! それが嫌なら友達を! 一女ちゃんを返して!!」
「草薙さん! 落ち着いて!」
 赤城先生は困惑しながら夏帆を止めようとするが、構わず叫ぶ。
「あんたたちはそのまま一女ちゃんの分まで抱えきれない苦しみと後悔に押し潰されながら生きていけ!! あたしと一女ちゃんの、たった一度の夢を奪った報いよ!! あんたたちのこと、永遠に恨んで憎んでやる!!」
 夏帆はそう吐き捨てると赤城先生の制止を振り切って逃げるように火葬場を飛び出した。
 外は雨にも関わらず夏帆は全身がずぶ濡れになり、水溜まりに足を突っ込んでも構わず、涙を流しながら走る。
 どうして? どうして一女ちゃんはこんな悲しい思いを抱えて理不尽な死に方しないといけないの!?
 その問いに答えてくれる人はいない。
 一女を喪った悲しみと救えなかった悔しさ、自分の不甲斐なさと自分自身への怒り、そして一女を死に追いやった全てのものへの憎しみが夏帆の全身に激しく巡り、回る。
 雨の中をローファーで走ると足を勢いよく滑らせ、そのまま激しくアスファルトの地面に叩きつけられ、全身に鈍い激痛が走ってしばらくそのまま俯せになったままになる。
「うっ……痛い……痛いよぉ……一女ちゃん……痛いよぉ……」
 両肘と両膝を激しく打って擦りむいたうえに頬がズキズキと痛む、夏帆は啜り泣きながら痛む体を引き摺って歩く、途中道行く人とすれ違って声をかけられたが無視しながら家に帰り着くと、早出勤務から帰ってきた母親が玄関まで駆け寄ってくる。
「お帰りなさい夏帆、赤城先生から――どうしたのその傷!?」
「……なんでもない」
「なんでもないわけないじゃない! こんなにずぶ濡れになって怪我までして、破傷風になったら大変よ! 体拭いて上げるからリビングで座って待ってなさい!」
 母親は急患が来たかのように手早く家に置いてある救急箱を取ってリビングで怪我の手当てを受ける。両肘両膝に包帯が巻かれたり、絆創膏が貼られ、頬にも擦過傷ができたようでそこにも大きめの絆創膏が貼られた。
「赤城先生から連絡があったわ、火葬場を飛び出したんだってね……一女ちゃんを喪って辛いのはわかるわ……だけどね、人間どんなに辛くても、苦しくても、悲しくても、生きていかなきゃいけないのよ」
 瞳から光を失った夏帆に母親の言葉は届かないが、最後の一文だけは頭に焼き付いた気がした。
 どんなに辛くても、苦しくても、悲しくても、生きていかなきゃいけない? 簡単に言わないでよ!
 服をピンク色の部屋着に着替えてホットはちみつレモンを飲んで温まり、自室に入ると最初に目に入ったのは部屋に置いてある縦長の全身鏡で、夏帆は思わず目を見開いた。
 ほんの一瞬だった。
 写ったのは部屋着姿で頬に絆創膏を貼り、瞳から光を失ってやつれた自分ではなく、知らないどこかの学校の制服――胸元の赤いリボンの夏服姿で表情も眼差しも光輝いていた。
「えっ? 今の……あたし?」
 瞬きにも満たないほんの一瞬だったが、脳裏に焼き付いて鮮明に見えていた。
 その瞬間から、夏帆は不思議な違和感を感じた。
 あれ? おかしい、あたしはあたしなのにまるで何かが違う……現実にいるのに現実じゃない違和感、だが夏帆はその考えを振り払った。
 疲れてるのよ。一眠りしよう、そうすれば夢から覚める一女ちゃんがいなくなって……夏帆はこれ以上考えるのをやめて布団に潜り込んだ。