ソラと海のアマテラス

 プロローグ

 赤道の潮風が吹く海沿いの大都市にある港湾地区、そこの丁字路にある横断歩道を渡ったところだった。
 坂道を下って暴走した無人のトラックに轢かれそうになった瞬間、ほんの一瞬にも満たない時間が長く引き伸ばされて草薙夏帆(くさなぎかほ)は目を見開き、自分の死を悟った。

――ごめんね……美由(みゆ)ちゃん(たえ)ちゃん、本当はもっと……もっと繋がりを深めて遊びたかったんだ。

 走馬灯が過って二人の友達――真島美由(ましまみゆ)井坂妙子(いさかたえこ)の眩しい笑顔が浮かんで後悔に満たされ、そして轢かれようとした瞬間、反対側にいた同い年――高校生くらいの男の子が決死の覚悟を決めた表情で脱兎の如く飛び出し、抱きつかれたと思った瞬間に宙を舞うような感覚。
「えっ……」
 トラックに撥ねられたのではない、男の子が抱きついてそのまま一緒に歩道に向かって跳んだのだ。
 ほんの一瞬の間に宙を舞い、太陽に熱せられた鉄板のようなコンクリートの地面に叩きつけられて左側頭部を打ち、激痛を感じた瞬間、頭の中を覆い尽くしたのは前の短い人生――つまり前世の記憶だった。
 およそ一八年の記憶がフラッシュバックし、脳に直接数億テラバイトの情報が流し込まれて頭が割れそうになるあまりに気が遠くなり、ほんの一瞬だけ意識を失った。
 そして最期の記憶は鮮明で生々しいものだった。
 幼い頃に引き離されて父の田舎に引き取られた飼い猫の最期を看取ることもできず、ショックのあまりに帰省してお墓参りにも行かなかったこと。
 たった一度のきりの夢を理不尽に奪われ、苦しみ抜いた末に自ら命を絶った親友を救えなかったこと。
 そして灰色の雲に覆われた空の下、夏服姿で三階校舎の屋上に上がり、金網をよじ登ってボロボロの布マスクを外し、それが風に流されると両腕を大きく広げ、身を委ねるようにそこから飛び降りたことを。
 一瞬にも満たない時間が一八年近く引き伸ばされた後、夢から覚めるように意識を取り戻してぼやけた視界に映るのは照り付ける眩しい南国の太陽と、どこまでも広がる青い空と白い雲に微かに潮の匂いがする湿った風、そして数センチ先には苦痛に耐えながら必死で意識を保とうとする男の子。
「君、大丈夫!? しっかり! 意識を保て……気を失うな!」
 男の子は自分自身にも言い聞かせてるような気を張った声だ。
「うっ……うう……」
 夏帆はうめきながら首を弱々しく首を縦に振る、ぼやけた視界徐々にクリアになってくるとその男の子の風貌もはっきりしてきた。
 適当に伸ばしがちの長く黒い髪は一見地味で大人しく、根暗な印象を与えるが、長い睫毛と相まってその鋭い瞳に見つめられればたちまち虜になりそうなほど涼やかで凛々しく、意志の強さを秘めており、透き通るような肌と少年特有のあどけなさ、そして男の逞しさを併せ持った顔立ちの美少年だった。
「僕の声が聞こえる? 痛いところは? 頭を強く打ったところはない?」
「聞こえます……頭を打って……屋上から飛び降りたみたい……」
 夏帆は弱々しく返事しながら上体を起こして周囲を見回すと、辺りは騒然としていて視線の先には暴走した無人のトラックがビルに突っ込んで車体の前半分がのめり込んでいた。
 周りの人たちは怯えながら港湾地区のビルに突っ込んだ無人のトラックや夏帆と少年を見つめたり、スマートフォンで警察や消防に通報したり、そのカメラで撮影してる人もいた。
 この世界でも野次馬はいるんだと痛みを堪えながら立ち上がると、この世界? あの世界もそうだったことに気付く。
 そして前世にはなかった、海の向こうにある巨大な建造物に目をやる。
 地球の赤道上に浮かぶ敷島(しきしま)諸島本島、三日月状の島の内側に面した敷島湾の真ん中には巨大なメガフロートのアースポートシティが浮かんでいる。
 その真ん中には高さ一八五二メートル、空に向かうにつれて先細りになっていく高い塔が聳え立ち、高さ一〇〇〇メートルと一七〇〇メートルの所に展望台となる巨大なリングで束ねられてる。
 内側には高さ約一二〇〇〇メートルにも及び、夜には赤く点灯する衝突防止灯付きの頑丈な風防は中心にある全長約一〇万キロのケーブルを守るために存在する。
 それは海から空へと続き、二つの展望台を越えて更に雲の向こう、大気圏を突き抜けて無限に広がる宇宙まで続く建造物。

 その名は、軌道エレベーターアマテラス。

 夏帆はもうすぐ開業の軌道エレベーターアマテラスを見上げながら前世の記憶を思い出した。
 完全にではないが最期は校舎の屋上から飛び降りて死んだこと、そして前世から見てこの限りなく現実に近い異世界に転生したことは確かだ。
 夏帆は前世の記憶と現世の記憶が入り雑じって混乱しそうになるが一つだけハッキリしてることがある。
 あたし、草薙夏帆は前世で死んでこの世界に再び草薙夏帆として生まれたのだ。
 これって前世で伯父伯母や祖父母と同居してる親戚の、三〇代後半にも関わらず独身職歴なしニートの従兄が熱狂していた異世界転生モノだよね? 夏帆は首を傾げる。でも私は私のままだし、古典的なRPGみたいに剣と魔法の世界じゃない。
 転移? と呼ぶには無理があるし異世界転生ならぬ、並行世界転生の方が近いかもと考えてるうちに救急車とパトカーが到着した。
 少年は救急隊員を手招きしながら夏帆に言う。
「救急車が来た、一緒に病院に行こう」
「あっ……大丈夫です、そんなに痛くないので――」
「駄目だ! 必ず受診しないと数時間後に症状が出て運が良くても後遺症が残るし、最悪明日の今頃は棺桶だ!」
 男の子の真っ直ぐな眼差しに見つめられながら強く諭され、夏帆はドキッとして頷くしかなかった。
 そうだよね。転生してもあたしは普通の人間、チート能力なんかないから言われるがまま救急車に乗って病院に搬送される。
「僕は水無月(みなづき)水無月優(みなづきすぐる)、君の名前は?」
「……草薙夏帆です」
「僕が話しておくから草薙さんは安静にしてて」
 水無月優と名乗った少年は車内で救急隊員に事情を話すと、夏帆は救急車のストレッチャーで横になり、思い出した前世の記憶を整理する。
 前世も女子高生で夏休みが近づいた日に校舎から飛び降りて死んだのは確かだが、何故自殺したのかしら? その理由だけはぽっかり抜け落ちていたのだ。
 なんでだろう? 自ら命を絶つほどだから思い出したくないのかもしれない。
 それにどうして異世界転生なんかしたんだろう? 普通なら天国か地獄に行くはずなのに、これ従兄のお兄さん……いや、おじさんが聞いたらどう反応するんだろう?
 あの人陰湿で嫉妬深いから「異世界転生するのはJKじゃなくておっさんが相場だろう! ポリコレに配慮しろ!」って発狂しそうだけど、きっと主人公になれなかったコンプレックスを抱えてたのね。
 夏帆はなんとなくスマホのスイッチを入れてパスワードを入力して鍵を開けると、前世にあったスマホのアプリはあるし検索履歴も見るとスターバックス等の大手コーヒーチェーン店の企業もある。
 マップアプリを開いて世界地図を見ると前世とは全く別の世界地図だった、やっぱりここは並行世界ではなく異世界だ。

 それも前世から見て限りなく現実に近い異世界に。
 第一章、新しい世界、新しい出会い、新しい友達

 病院で検査した結果は軽い怪我だけでどこにも異常はなく、帰りは迎えに来た両親の車に乗って帰ることになった。
 草薙夏帆は高速道路を走る日産エクストレイルの後部座席に座り、運転してる医者の父と助手席に座る看護師の母の会話を聞き流しながら、外の風景をボーッと眺める。
 視線の先にあるのは薄らと見える軌道エレベーターアマテラスだ。
「――とにかく夏帆はどこにも異常が無くてよかったわ。助けてくれた男の子……今度転校する学校の生徒さんだって?」
 看護師の母が言うと父も興味ありげに頷く。
「そうなんだな夏帆、もし会ったら改めてお礼を言うんだよ」
「うん……わかってる」
 夏帆は適当に聞き流して頷くと長いトンネルに入って、現世で今日までの記憶を整理する。
 この前までは四季折々で彩られた扶桑(ふそう)皇国(こうこく)本土――通称:内地の高校に通っていたが、高校一年の終わりに内地を離れて帝都である皇京(こうきょう)から飛行機で七時間かかる赤道の飛び地――敷島県に移住してきたのだ。
 引っ越し先は三日月状の敷島本島外側に位置する汐ノ坂(しおのさか)という海岸沿いの町だ。
 その海に面した村にある診療所で医師をしてる父の恩師が定年を迎えたため、父が後を継ぐことになったという。
「夏帆? さっきからボーッとしてて大丈夫?」
「うん大丈夫、考え事してるだけ」
 母親が心配した目で振り向いて見るがいつものことだ、看護師をしてるから観察眼は鋭い。
 だけど前世の記憶を思い出したって話しても信じてくれないだろう。
「美由ちゃん……妙ちゃん……元気にしてるかな?」
 夏帆は呟く、内地に残してきた二人の友達――真島美由と井坂妙子のことを思い浮かべる。

――草薙さん、こ、この後……一緒に街で食べて、遊びに行かない?

 入学式の日、最初の自己紹介で一年後に敷島に引っ越すことを話したのにも関わらず真島美由は緊張しながらも精一杯の朗らかな笑みで声をかけてくれた。
 紺色のショートボブで両耳の上にトレードマークとも言える二対の赤い髪留め。猫のように愛らしくも凛々しい目鼻立ちに、キュッと結んだ桃色の唇が目を引く女の子だ。

――ボーッとしてると一年なんてあっという間だよ草薙さん! この時は今しかないんだから! 下を向いてても時間は過ぎていくよ!

 美由の友達である井坂妙子――幼顔に小柄な体格、栗色の長い髪で小学校高学年にしか見えず、見た目も性格も仔犬のように明るく誰とも仲良くする人懐っこい性格で、いつも美由と一緒に行動していた女の子で愛称は(たえ)ちゃんだ。
 二人は半ば強引に夏帆の手を引っ張り、休みの日も遊びに誘ってくれて、いつしか灰色の雲に覆われていた夏帆の心に光が射し、やがて青空がどこまでも広がって限られた一年間を、カラフルに美しく彩ってくれた。
 そして敷島へと引っ越す別れの日、美由と妙子はわざわざ空港まで見送りに来てくれた。

――夏帆ちゃん! 離れていても、あたし夏帆ちゃんのこと絶対に忘れないから!

 大人しいけど芯の強い美由は必死で涙を押し殺しながら笑顔で見送ってくれた。

――あたしも……もし内地に帰ってきたら……また……また……一緒に遊ぼうね!

 明るく前向きな妙子は人目を憚らず泣くじゃくりながら見送ってくれた。
 夏帆は悲しいお別れが来るのを最初からわかっていたのに、どうしてあんなに優しく、そして温かい陽の当たる場所へと連れ出してくれたんだろう? と理解できず、だけど声を震えさせながらぎこちない笑顔で感謝の言葉を述べた。

――元気でね……美由ちゃん、妙ちゃん……ありがとう。

 それだけしか言えなかった、いや言わなかったと言うべきかもしれない。
 今思えばなんて自分は薄情なんだろうと、自己嫌悪しながら汐ノ坂の町を眺める。
 前世で言うなら湘南と南国の気候を足して二で割ったような町で、ご丁寧に海岸沿いを走る汐ノ坂電鉄(しおのさかでんてつ)――通称:汐電(しおでん)というローカルでクラシックな電車や汐ノ島(しおのしま)という離れ小島があるほどだ。
 トンネルを抜けると澄み切った青空の向こうに着陸体勢に入った敷島航空のボーイング787が見える、敷島国際空港に着陸するのだろう。着陸する飛行機を視線で追うとやがて見なくなり、海と山に挟まれた小さな村の診療所兼自宅に帰り着いた。
 ここがあたしの家、表側が父と母が働く診療所となっていて裏が自宅だ。
 診療所の裏側にある駐車場に車を止め、夏帆は降りて家の引戸を開けて靴を脱いで上がると母親に一言。
「部屋で安静にしておくね」
「わかったわ……ご飯できたら呼ぶから何かあったら呼んでね」
 溜め息吐く母親の心配そうな眼差しを受けながら、夏帆は二階に上がって部屋に入ると縦長の全身鏡に目をやって歩み寄り、思わず手を伸ばして鏡面に触れる。
 背中までに伸ばした長い黒髪に人形のように整った顔立ちに白い肌、形のいい桃色の唇と伏し目がちな切れ長の瞳で、憂いの麗人と呼ぶに相応しい美貌。
 発育もスタイルも同年代の子たちに比べていい方で、内地にいた頃は男子たちからアプローチされたし帝都の繁華街――前世で言うなら東京の渋谷や原宿みたいな街でスカウトされたりナンパされたことがある程だ。
 間違いない、あたしは草薙夏帆だ。
 父は医者で母は看護師、これも前世と同じだ。
 夏帆は机の上にあるパソコンを立ち上げて取り出してウィキペディアにアクセスする。
 この世界にもウィキペディアがあるんだと感心ながら扶桑皇国の歴史について調べると、前世でいう太平洋戦争――こちらでは東亜大戦(とうあたいせん)と呼ばれて正和(せいわ)二〇年始めに連合国に当たる勢力と全面講和を結んで終結。
 統治支配していた南方はこの敷島諸島を除いて撤退したという。
 無条件降伏ではなく全面講和……どう違うんだろう?
 その後、前世の日本とは似ているようで異なる歴史を歩み、元号の正和、平正(へいせい)を経て令化(れいか)の時代となり今に至るという。
 更に夏帆は次に「新型コロナウイルス COVID19」と検索しようとするがエンターキーを押す前にハッとして指が止まり、気付いた。
 どうして存在しないウイルスなんかを調べようとしてるんだろう? 夏帆は現世の趣味と前世の趣味を入念に思い出すが……前世と現世の趣味は変わってない、SNSで写真をアップしたりアニメを見たり好物はタピオカドリンクだ。
 夏帆は一度消して「パンデミックの歴史」と書き換えて恐る恐るクリックした。
 翌日の始業式前日のお昼、両親が診療所で仕事してる隙に夏帆は白いワンピースに着替えてキャプリーヌを被り、愛用のショルダーバッグを肩にかけると、マスクを着けなきゃと一瞬探そうとしたが、この世界では必要ないことに気付く。
 そうだよね、こんな暑い中マスクだなんて変だもんね。
 代わりに虫除けシートを手足に塗って感染症対策、ここではコロナよりマラリアの方がよっぽど怖いのだ。
 ところでコロナって? 夏帆は一瞬首を傾げたがそれも忘れて水色のミュールを履くと引戸を開けて外に出る。
 南国の太陽に熱せられた空気に包まれる心地好さを感じながら、どうしても確かめたいことがあって汐ノ島辺りに行ってみようと、近くの汐ノ坂電鉄山海(さんかい)駅へと向かう。
 新しく引っ越してきた家はリフォームしてるとはいえ古臭いタイプの木造二階建ての家だ。
 内地に住んでた頃、帝都近郊の家の方がよかったなと夏帆は内心ぼやきながらのどかな道を歩くと、近所で農家をしてるお婆さんが挨拶してきた。
「こんにちわ、あんた草薙先生とこの娘さんだね?」
「あっはい、どうもこんにちわ」
 夏帆は作り笑いで挨拶する、ああもうすぐ電車が来るのに……五分おきに来た内地とは違って電車は一二分に一本だ。
「聞いたよ、昨日は災難だったわね。でも明日から高校二年生よね、磯貝(いそがい)さんとこの凪沙(なぎさ)ちゃんや潮海(しおみ)さんとこの美海(みなみ)ちゃんも、同じ学校に行くから仲良くしてね」
「……はい」
 夏帆は引き攣った笑みで相槌を打ちながら耳を傾ける。初めて聞く名前だし顔も見たこともないからなんとも言えない。
 ここ山海村(さんかいそん)は文字通り山と海に挟まれた半農半漁(はんのうはんぎょ)の村で、農家をやってる家もあれば漁業で生計を立ててる家もある。
「――それじゃ気を付けてね」
「はい……どうも」
 夏帆は一礼して村の真ん中にある山海駅へと早歩きで急ぎ、溜め息吐いてぼやく。
「はぁ……なんでこんな田舎に引っ越したんだろう?」
 ここはとにかく内地とのギャップが激しい。
 以前は帝都皇京の近郊で暮らしていて、コンビニも近所に二~三ヶ所あったし電車も五分~一〇分おきに来て、それに乗って通学していた。
 この村は三日月状の島の内側に遊ぶ所が山ほどある敷島市に三〇分~四〇分で行けるからいいけど……コンビニやスーパーは駅前に一件のみ、スターバックスやタリーズコーヒー等の行きつけのコーヒーショップチェーンもない。
 浮かない顔して歩くとまたしても近所で農家をしているお爺さんが挨拶してきた。
「こんにちわ、この前引っ越してきた草薙さんとこの夏帆ちゃんかい?」
「あっ、はい……どうもこんにちわ」
 ああ、またかと夏帆は内心うんざりしてることを悟られないよう微笑みながら一礼する、母親から愛想良くするようにと口を酸っぱくして言われた。
 こんなことならマスクしとけばよかったと後悔しながら、お爺さんの世間は話を聞く。
「――昨日は災難だったね、助けてくれた男の子……会えたらお礼を言うんだよ」
「はい、勿論です」
 田舎は人間関係が面倒臭いうえに独自の情報網やローカルルールがある。
 それは現世で知ったのか前世で知ったのかはわからない。初対面の人に名前も知られてるし、愛想良くしないと即情報が村中に広まって両親の耳に入りそうだ。
「――それじゃ気を付けて出掛けるんだよ、いってらっしゃい」
「はい……いってきます」
 たった三〇秒程度なのに夏帆はうんざりだった。ああもう! いくらお父さんの恩師だからってこんな田舎に引っ越すことないじゃない! ああ内地に帰りたい! という願望は現世のものだろう。
 夏帆はようやく汐電山海駅に到着すると、そこへ折よく緑色のクラシックな四両編成の電車がやってきた。
 地元民の足であり観光列車でもある汐電の山海駅は降りる人が少なく、地元の人だけで観光客は殆ど素通りしていた。
 小さくて狭い山間部の村を抜けると広いわだつみ海の大海原が広がり、汐ノ島が浮かんでいて、観光客の中にはスマホを構えて撮影する人もいる。
「汐ノ島……本当に江ノ島みたいね」
 夏帆は呟きながら前世の記憶で両親に連れられて行った鎌倉花火大会を思い出す。
 あの頃は本当に楽しくて幸せだったことを覚えてる……この世界の人たちは見ず知らずの他人同士なのに物理的な距離が近い――ソーシャルディスタンスって言葉ないんだ。
「ソーシャルディスタンス……そんな発想もないのかな?」
 夏帆は独り言を呟いて気付いた。なんでそんな言葉知ってるんだろう? 前の世界の言葉だけど思い出したくない気がする。
 途中の汐ノ坂高校前駅に停車すると、明日から通う高校の生徒たちが乗ってきて他愛ないお喋りしてる。

「明日から新学期か……春休み練習ばっかりだったな」「もうホントだよ、そういえば聞いた? 今度カッター部に来る新しい顧問の先生、海軍の元教官だって」「うぇぇぇ……たまんねぇ絶対スパルタ式だしうちの顧問も感化されたら溜まったものじゃないし部活辞めようかな?」「それより今年も新入生来てくれないかな?」「そうそう、可愛い女子マネージャーとか来て欲しいな!」

 そうか、ここは常夏だから一年中夏服なんだね。
 ネクタイやリボンの色が赤・青・紺色で違いは何だろう? 夏帆は不安六割期待四割な気持ちで、同級生になるかもしれない子たちを一瞥すると数分で汐ノ島駅に到着して降りる。
「暑い……人多いわね」
 夏帆は南国の太陽に不思議と不快感を感じることはなかった。マスクしてたら確実に窒息するか熱中症になるわね、そこで夏帆は確かめたいことが何かを気が付いた。
 みんなマスクせずに楽しく中には時折、密集して大声で笑いながらお喋りしてる人たちもいて夏帆は安堵の笑みを浮かべながら思わず呟く。
「飛沫感染とか大丈夫なのかな?」
 どうして昨日から感染症なんか気にしてるのかしら? 自分でも不思議だった。
 この島には蚊を媒介とするマラリアやデング熱に気を付けなきゃいけない。だけど感じてる違和感には嬉しさが混ざり、同時に安堵していた。
 ぼんやり覚えてる気がする。
 すれ違う人たちがみんな暑苦しそうにして、いつも通りに笑顔で振る舞ってるように見えるけど、瞳の奥底には心が深い闇に包まれてるのを。
 目に映る人たちみんなマスクをしていて生理的嫌悪感を煽られて、気持ち悪いと感じていたことを。

 だけど、この世界にはない。

 長く艶やかな黒髪を靡かせる爽やかな南国の潮風、眩しい太陽の光、そして行き交う人々がそう教えてくれた気がして、夏帆は思わず晴れやかな笑みを浮かべて瞳を輝かせて足取りも自然と軽くなった。


 午後三時を回ると、汐ノ坂近郊にある内地からの観光客向けの実弾射撃体験や、地元の警察や軍関係者が訓練で利用する屋外シューティングレンジ兼ガンショップである江藤銃砲(えとうじゅうほう)で、水無月優は銃の分解清掃や商品の搬入のアルバイトが終わって一段落する。
「優、もう上がっていいぞ。お疲れちゃん……ってこれからだな」
 店主であり叔父さんの江藤弘樹(えとうひろき)が言う通り、これからは自己鍛練の時間だと優はエプロンを脱ぐ。
「うん、これからだよ叔父さん」
 優は店の詰め所に入ると、ロッカーから各種装備が入ったキャリーバッグを開けて中身をテーブルに載せる。
 自動拳銃と突撃銃(アサルトライフル)のマガジンを取り出して黙々と弾を込めてると、バイト仲間で同じクラスの友達である山森喜代彦(やまもりきよひこ)が入ってきた。
 背の高い容姿端麗のイケメンで成績優秀スポーツ万能、陽気で真面目な性格も相まってクラスでは男女問わず人気者の優等生だ。
「おっこれからレンジ? 弾込め手伝おうか?」
「いいよ、自分で弾を込めることに意義があるんだ」
 優は慣れた手付きでマガジンに五・五六ミリ弾を込めながら言うと、喜代彦は苦笑して着替えながら昨日のことを話す。
「……店長から聞いたよ、トラックに轢かれそうなところを助けたんだって?」
「うん、あと一瞬遅かったら二人とも死んでた」
 あの時は本当に幸運だったと次に自動拳銃のマガジンに弾薬を込め始めると、喜代彦は苦笑する。
「一人じゃ……ないんだね、二人揃って仲良く異世界転生してたかも」
「それって喜代彦君の好きなアニメやラノベの話し? 確かに書店やアニメショップでラノベコーナーに行くと異世界モノで溢れてるよね」
「ああ、確かに玉石混淆(ぎょくせきこんこう)だけど、面白いものもちゃんとあるよ」
 喜代彦は学校でクラス内の階級(スクールカースト)でも上位に入るが、実はアニメオタクの一面もある。幼馴染みの中野香奈枝(なかのかなえ)曰く「キモヲタの皮を被ったイケメン、或いはイケメンの皮を被ったキモヲタよ」とのことだ。
「それだけ競争率も凄そうだね」
「ああ、テンプレ通りに書けばいいってものじゃないよ。例えば――」
 そこから喜代彦は長い話を饒舌に始めて優は耳を傾けながら、仲良くなったきっかけを思い出す。
 高校に入学して間もない頃、優は敷島電鉄(しきしまでんてつ)南敷島(みなみしきしま)中央(ちゅうおう)駅前の商店街にあるアニメショップに何となく立ち寄っていた時、アニメグッズをどっさり抱えてご丁寧に変装した喜代彦とバッタリ鉢合わせしたのだ。

――た、頼む! このことは学校のみんなには黙っていてくれ! 俺がオタクだと知られたら、俺は終わりだ!

 入学直後に人気者のポジションを得たとはとは思えない程の動揺ぶりだった。
 オタクが市民権を得て早数十年経ったが、未だにオタク=軟弱者という偏見が消えることはない。彼のように陽キャだけど実は隠れオタクというのも珍しくないのだ。
 すると喜代彦は適当なところで話を切り上げて話題を変える。
「それと……さっき香奈枝(かなえ)からLINEが来たんだが、明日うちの学校に転校生が来るらしいぞ。男か女かわからないし、どこのクラスになるかわからないけどね」
「まあ、うちのクラスになるとは限らないし、ましてや女の子とは限らない……でもみんなが可能性を期待する気持ちはわかるし、否定はしないよ」
 優は肯定も否定しないつもりだ。弾を込め終えると立ち上がって各種装備を身に付けてヒップホルスターに四五口径自動拳銃の1911――フルカスタムしたモデルを納める。
 そしてそしてマガジンをポーチに納めると髪を後ろにやり、凛々しい眼差しの美少年の顔になると銃器メーカーのロゴキャップを被ってイヤーマフを首にかける。
「優の本当の顔を学校のみんなが知ったらチヤホヤするだろうな」
「目立つのは苦手なんだ――」
 二人が通う汐ノ坂高校で優はクラスでは目立たない陰キャな男子生徒で通ってる、喜代彦とは正反対だ。
「――それに父さんのこともあるし」
「まだ仲直りできてないのかい?」
「忙しくてなかなか帰れないんだ」
 優はそう言ってアサルトライフルのAR15に付けた負い紐(ガンスリング)を首に通して肩にかけると、詰め所を出た。
 翌日、今日から新学期で夏帆は緊張しながらも軽やかな足取りで家を出る。
「行ってきます!」
 マスクをしないで外に出るのがこんなにも素晴らしいなんて!
 晴れやかな気持ちで外へと一歩踏み出して、軽やかに駅へと向かうと昨日の農家のお婆さんとすれ違う。
「おはよう夏帆ちゃん、いってらっしゃい」
「おはようございます、いってきます!」
 夏帆は爽やかな笑みで挨拶した。
 同じ学校の制服の子は数える程度で山海駅に入ってホームで待つ、電車が来るまで一〇分ある。いつもの癖で待ってる間にスマホのSNSをチェックしようとすると、夏帆は視線を感じた。
 ん? 誰かしら?
 その方向に向くと、二人の女の子がドキドキした表情で歩み寄って来て、そのうちの一人が興味津々の眼差しで歩み寄ってきた。
「ねぇ、君ってもしかしてこの前内地から引っ越してきた診療所の子?」
 南国の太陽を浴びて育ったことを示す小麦色の肌に真っ白な八重歯。小柄だが無駄なく鍛えられた四肢とショートカットの髪も相まってボーイッシュな顔立ち、まるで女子高生の制服を着た悪戯好きの男の子みたいだった。
 夏帆はなんとなく井坂妙子と重ねて見てしまい、思わず懐かしげな眼差しで頷く。
「う、うん……今日から汐ノ坂高校に通うの」
「一緒だ! あたしは磯貝凪沙(いそがいなぎさ)! この子は潮海美海(しおみみなみ)よ!」
 凪沙は嬉しさでいっぱいの笑って瞳を輝かせると後ろの女の子に一瞥し、潮海美海という女の子は一礼する。
「は、初めまして……潮海美海です」
 おどおどした口調だが、同時に芯の強さを秘めた眼差しは真島美由を思い出させる。
 セミロングでお嬢様結びの黒髪に上品で大人びた凛々しい顔立ちに透き通るような白い肌、背丈も夏帆より高く、スレンダーなシルエットとピンとした真っ直ぐな姿勢は育ちの良さを伺わせる。
 凪沙は興味津々の眼差しでぐいぐい踏み込んで訊いてきた。
「ねぇねぇ君も同じ二年生でしょ?」
「ええっ!? どうして?」
 夏帆は思わずソーシャルディスタンス! 口に出しそうな言葉を飲み込んで困惑すると、凪沙は胸元のリボンに触れる。
「二年生は赤で一年生は青、三年生は紺色なんだ!」
「そうなんだね……あたしは草薙夏帆、よろしくね磯貝さん、潮海さん」
「凪沙でいいよ夏帆! ようこそ汐ノ坂へ!」
 人懐っこい凪沙はニッコリ笑いながら顔を近づけてくると、夏帆は柔らかな笑みで頷いた。
「じゃあ……よろしくね、な……凪沙ちゃん!」
 勇気を出して名前で呼ぶと、凪沙は白い八重歯を光らせると美海も歩み寄ってくる。
「私も、みんなは私のことをミミナって呼んでるわ、よろしくね夏帆ちゃん!」
「うん、よ……よろしく……ミミナちゃん!」  
 早速友達ができると心強い。
 一緒のクラスになれるといいなと期待しながらお喋りして待ってると、クラシックな四両編成の電車が周辺の高校の生徒たちをぎっしりと乗せて停車する。
 夏帆は電車に乗ると中はエアコンが効いててひんやりして涼しい、窓も開けて換気してる様子もなく、みんな楽しそうに顔を合わせて近い距離でお喋りしてる。
 自分もその中にいると思うと夏帆は思わず嬉しくなり、そんな当たり前の光景がかけがえのないものに見えた。
 話しを聞いてみると、凪沙の家は漁師で時折漁船に乗って仕事を手伝ったり、潜り漁をしてるという。
 ミミナの方は村の奥にあるお屋敷に住んでいて、凪沙曰く敷島電鉄グループ会長の孫娘でまさに深窓の令嬢そのものだ。
 電車の中で連絡先を交換して海沿いの汐ノ坂高校前駅で降りる。
 登校する生徒たちに混じって坂道を登り、校門に入るとそこで一度凪沙たちと別れて、前世と変わらない校舎の正面玄関に入って事務員の人に出迎えられ、応接室に案内されてソファーに座ると担任となる先生が入ってきた。
「初めまして草薙夏帆さん、内地の方からよく来てくれたね」
「は……はい。よ、よろしくお願いします」
 夏帆は立ち上がって緊張気味に一礼する。
 担任となる米島隼人(よねしまはやと)先生は三〇歳で物理担当だという。
「早速だけどもうすぐホームルームが始まるから教室に行こう、みんなが待ってるよ」
「はい」
 夏帆は緊張気味にソファーから立つと、米島先生と一緒に廊下に出る。夏帆の緊張を解そうとしてるのか気さくに話しかけてくれる。
「――前は皇京に住んでたって聞いてるよ、汐ノ坂の暮らしは少し不便かもしれないけど……すぐ慣れるし、一年中砂浜で遊べるから退屈しないよ」
「そ、そうなんですね」
 一年中夏だから日焼け止めとかが必需品になるだろうなと考えてると、二年四組の教室前で立ち止まり、いよいよだと緊張感が最高潮になる。
「ここで少し待ってて……おはようみんな、席に着いて! ホームルームを始めるよ」
 米島先生は教室の扉を開けてみんなに着席を促すと、騒がしい教室内が静まり返って扉越しに米島先生や生徒の声が聞こえる。
「もう噂で聞いてる人もいると思うが、今日から転校生がこのクラスに加わる」
 たちまち教室内で「おお~っ!」と歓声が上がって生徒たちが質問攻めにする。

「先生! やっぱり女子?」「どこから来たの!? 可愛い子!?」「ちょっと男子! なんで女子前提なのよ、男子かもしれないわよ!」「どんな奴? イケメン? それともアイドル系?」「とにかくどんな奴か、わくわくするぜ!」

 なんか凄い期待されてる、ガッカリさせたらどうしようと心臓の鼓動が最高速にまで上がって破裂しそうだった。
「みんな落ち着いて、もう来てるから詳しくはその子に聞いて。それじゃあ入っていいよ」
 先生の合図で夏帆は深呼吸して覚悟を決めると四組の教室の扉が開けて入り、たちまちみんな静まり返り、緊張で滲み出た汗のおかげで教室の冷房でひんやりと利いてるように感じる。
 夏帆の一歩一歩踏みしめる足音が教室に響かせ、教壇の横に立って教室内に視線を行き渡らせる。
 教室内には生徒が三〇人で男女半々と言ったところだろう、みんな一斉にあたしを見ていていろんな三〇通りの顔立ちの子がいる。夏帆は不思議な安堵感と高揚感に満たされてた。
 よかった……みんなマスクしてないし、分散登校することなくみんないる、机には飛沫防止のアクリルボートもない。
 夏帆が教室に入って教壇の横に立つ間、米島先生は黒板に綺麗な字で「草薙夏帆」と名前を書く。
「えっと……皆さん初めまして、皇京から来ました草薙夏帆です。よろしくお願いします」
 挨拶を無難に済ませるとみんな興味津々の表情で拍手。
 あとで何を訊かれるんだろう? そう思うと不思議と悪い気がしなかった。
「草薙さんは家の事情で敷島に引っ越してきたんだ、みんな仲良くしてやってくれ。草薙さん、あそこの空いてる席に座って」
「はい」
 夏帆は米島先生に促されて空いてる向かう間――特に男子生徒からの熱い視線を浴びながら席に座ると、隣にいる角刈りの大柄ないかにも体育会系の男子生徒に小声で声をかけられる。
「よろしくな草薙、俺は吉澤(よしざわ)って言うんだ。カッター部なんだけどさ……よかったらマネージャーになって欲しいんだ」
 早速部活のマネージャーとして勧誘されるがカッター部ってなんだろう? 内心気になってると、米島先生は聞き逃さなかった。
「吉澤君、口説くのはホームルームが終わってからね」
 たちまち教室内が笑い声で溢れると男子生徒の一部が文句の声を上げる。
「抜け駆けなんてずりぃぞ吉澤!」
「そうだそうだ、マネージャーになって欲しいのはあくまで口実だろう!」
 ああ、そうかもしれない。
 夏帆はふと気付いたが、みんな声を上げて笑ったりしてる。
 改めてこの世界にはマスクも、ソーシャルディスタンスも、そして三密も気にしなくていいんだと実感する。
 それだけで夏帆は安心感に包まれた。
 朝のホームルームが終わると、早速クラスメイトたちに囲まれる。

「ねぇねぇ草薙さんって家はどこ?」「入る部活とかもう決めてる? よかったらバレー部に来ない?」「LINEの連絡先交換しよっ!」「皇京ってどんな所だった? やっぱり、遊ぶ所とか人多かった?」

 始業式の全校集会のため教室から体育館に移動する数分の間にも、新しいクラスメイトたちに色々質問されたうえ、他のクラスの生徒たちも自分のことをチラチラと見ていた。
 凪沙ちゃんとミミナちゃん、一緒のクラスじゃなかったな……と思ってると他のクラスにいる凪沙と目が合い、彼女はニコリと笑って手を振ってくれた。
 全校集会が終わると大掃除にロングホームルームだ。優はクラスメイトたちと一組の教室に戻る間、前を歩いてるのはクラスの中心である陽キャグループが歩いていて、四組にやってきた転校生が話題になっていた。
 特に坊主頭で筋肉質な野球部の本田駿(ほんだはやお)は声が大きいから嫌でも耳に入ってくる。
三上(みかみ)! 内地からの転校生見たか!? すげぇ可愛かったぞ!」
「ああ見た見た、ぶっちぎりで可愛いしスタイルも良かったぜ!」
 三上一輝(みかみかずき)は何度も首を縦に振る、彼も長身で筋肉質の鍛えられた体に、垂れ目だが鋭い目つきに坊主頭がそのまま伸ばしたような髪でテニス部に属しており、内地のインターハイにも出場するほどの実力者だ。
「四組のクラスじゃ争奪戦が始まるのも近いな」
 喜代彦が言うと三上と本田は「あり得るな」と苦笑しながら頷く。
 喜代彦は普段、男子たちのスクールカースト上位の所謂陽キャグループに属していて学校で話すことはあまりないのだ、すると陽キャグループのリーダー各である水島誠太郎(みずしませいたろう)が言う。
「その転校生、草薙夏帆って名前らしいぜ!」
 それで優は思わずピクリと反応するが誰もそれに気付く人はいない。
 草薙夏帆? 春休みに敷島市の港湾地区でトラックに轢かれそうなところを助けた女の子だ、まさか?
 こんな偶然があり得るのか? 静かに戦慄しながら教室に戻るとそのまま大掃除になるが、ここで水島がみんなに提案する。
「なぁなぁ、大掃除まで少し時間あるし例の転校生を見に行こうぜ!」
 真っ先に話しに乗ったのは三上だった。
「その話し乗った行こうぜ本田!」
「おうよ! 山森、お前も来いよ!」
 本田も後に続くと喜代彦も「ああ」とついて行くと、他の何人かのクラスメイトも続く。
 優もこっそり紛れ込んでクラスメイトたちの後ろについていくと、人間考えることは同じのようで他のクラスの男子生徒たちも美少女転校生を一目見ようと四組の教室前に群がって千客万来(せんきゃくばんらい)

「ねぇねぇ転校生ってどの子だ?」「あそこの髪の長い子らしいぜ! すげぇ可愛いていうか美人じゃん!」「内地から来たんだって! しかも帝都からだってよ、潮海とは違う意味で見るからにいい所のお嬢様って感じじゃない?」「うん、そんな気がするぜ!」

 優はこれじゃ見れないなと思いながら隙間から覗こうとすると、一瞬だけ草薙夏帆の姿が見えた。
「あっ……」
 間違いない、彼女だ。そして目が合う刹那、周りの生徒たちの動き、時を刻む時計、流れる空気までもがスローモーションなって、時間が引き伸ばされるのはこういうことなのかと感じる。
 その瞬間、彼女は「あっ」と少し口を開けて驚いた様子だったが、微笑んで軽く一礼すると心が温かいものに優しく包まれた気がした。
 見に来た男子生徒たちも同じ気持ちなのか歓声を上げる。

「なぁなぁ今俺に笑ってくれなかった!?」「お前の勘違いだろ、絶対俺だと断言するぜ」「ないない、あの転校生に知り合いでもいたんじゃないの?」「ええっ!? じゃあ誰か草薙と知り合いの奴いるの? 俺に紹介してくれ!」「だったとしても素直に紹介する奴がいるか?」

 騒ぐ男子生徒たちを背にして優は無事に学校に来れたなら大丈夫だろうと、安心して教室へと戻った。


 ほんの一瞬だけだったが、この前助けてくれたあの大人しくて凛々しい美少年と目が合った気がして思わず微笑んで一礼した。

――この前はありがとうございました。

 ただ微笑んで軽く一礼しただけで廊下があんなに大騒ぎになるなんて、前世ではなかったね。
 もしそんなことになれば生徒指導や担任の先生とかがカンカンに怒って「密だ! 密!」とか「ソーシャルディスタンス!」だなんて、喚くかもしれないと思ってると女子生徒の一人が声をかけてきた。
「ねぇねぇ誰か気になる人でもいたの?」
 栗色のショートカットで女子生徒にしては背が高くてスポーツ選手のように四肢も引き締まってスタイルも良く、真っ直ぐで曲がったことが大嫌いだと言いそうなエッジの効いた眼差し、顔立ちも勝ち気な美人という印象だ。
「えっ? 気になる子というか……以前助けてくれた人がいたような気がしたの」
 夏帆はオドオドしながら言うと、新しいクラスメイトは興味心身な眼差しで微笑む。
「ふぅ~ん……あたし中野香奈枝(なかのかなえ)よ。草薙さん、放課後一緒に寄り道しない? その話し詳しく聞かせてくれる?」
「う、うん……一緒に帰る約束した友達ともいい?」
「随分手が速いね草薙さん、この分だと彼氏もすぐできるかもよ?」
 香奈枝は冗談のつもりだろうが、夏帆は思わず頬を赤らめた。

 始業式の一日が終わると明日から本格的な授業が始まる。
 夏帆は香奈枝と教室を出て昇降口で凪沙やミミナと合流すると、凪沙と香奈枝はどうやら知り合いのようでお互い驚いた顔を見せる。
「あれ? 凪沙じゃん!」
「おおっ! 香奈枝! 夏帆と一緒だなんて意外!」
「ちょっと意外って何? それより草薙さん、早速話を聞かせてくる?」
 香奈枝は挨拶もそこそこにして昇降口に向かいながら夏帆に促す。
「うん、実は春休みにね――」
 夏帆は春休みに敷島市の港湾地区を一人で歩いてた時、暴走したトラックに轢かれそうになったところを水無月優という男の子に助けられたことを話した。
「水無月君って私のクラスメイトよ! でも凄い! 咄嗟に助けられるなんて」
 ミミナは驚きの眼差しになると、凪沙も同調するように羨望の眼差しで何度も首を縦に振る。
「うんうん、まさに運命の出会いって感じだよね!」
「あの……凪沙さん、その水無月優に幻想を抱いてるところ悪いんだけど……」
 だが香奈枝だけはどこか気まずそうな顔をしていて凪沙は思わず首を傾げると、香奈枝は衝撃的なことを口にする。
「……その水無月君……あたしの幼馴染みの友達なんだけど」
 一瞬だけ時間が止まった気がして次の瞬間、凪沙は「ええーっ!?」と驚きの声を上げて捲し立てるように質問しまくる。
「それ本当なの香奈枝!? 部活入ってる!? ルックスは!?」
「凪沙落ち着いて! 今から呼び出すから!」
 香奈枝は鞄からスマホを取り出して操作する、呼び出す? 呼び出すって……それって……夏帆はハッとして思わず慌てる。
「ええっ!? 今から呼び出すの!?」
「そうよ、助けてもらったんでしょう? 直接お礼も言わなきゃ! あっもしもし喜代彦? 今さぁ優も一緒? あのね――」
 本当にスマホで呼び出してる! ちょっと中野さん! いきなりスマホで呼び出して大丈夫なの? 夏帆はあたふたしてると、凪沙は落ち着くように諭す。
「そんなにおどおどしなくてもいいよ夏帆、人との繋がりは大事にしなくちゃ」
「人との繋がり?」
 夏帆が呟くと、ミミナが頷く。
「うん、お祖父様も言ってたの。人と人との繋がりは大事にしようって」
「それって……敷島電鉄グループの会長をしてる方のお祖父様?」
 凪沙はにやけながら訊くとミミナは凛々しい眼差しで頷く。
「うん、お祖父様が言ってたの。人との繋がりが希薄になってしまった今の時代からこそ、繋がりを大事にしなくちゃいけない。今、自分がこうしていられるのは沢山の人との繋がりがあったから、もうすぐ開業するアマテラスの建設だって沢山の人との繋がりがあったから完成することができたんだって」
 外に出てミミナが見上げる方向は敷島市の方向、つまり軌道エレベーターアマテラスがある方向だ。
「繋がり……か」
 夏帆は呟きながら、前世のことを思い出す。
 確かにSNS全盛の現代――前世もそうだった。只でさえ人との繋がりが希薄にしまったのが更に希薄になり、そして失われてしまった……なんだろう、思い出せない――いや、思い出したくないのかもしれない。
「――うん、わかった蒲池(かまち)駅の時計台ね。そんじゃみんな、蒲池駅に行くよ」
 香奈枝がスマホを直すと凪沙は「レッツラゴー!」と期待に満ちた表情で歩き出すが、香奈枝は気まずそうに言う。
「凪沙……あんまり期待しない方がいいわよ、優って結構地味だし」
「その地味な水無月君が、夏帆ちゃんを危ないところ助けたんだよね?」
 優のクラスメイトであるミミナの言う通りだ。確かに地味な風貌だったけど、長い髪に隠されたあの綺麗な顔立ちに真っ直ぐで凛々しい瞳の美少年だと夏帆は思い浮かべながら言う。
「そうだよね、それにあんなこと誰にでもできるようなことじゃない」
 もし自分があんな場面に遭遇したらきっと凍り付いて動けないだろう。
 夏帆はぼんやりと思いながら四人で他愛ない話をして汐ノ坂高校前駅で電車に乗ると、下校する生徒や観光客でぎゅうぎゅう詰めになってお喋りしてて、エアコンも効いてるから窓を開けてる様子もない。
 完全に密集・密接・密閉の三密だが夏帆で思わず苦笑しながら呟く。
「やっぱり……三密って言葉ないんだね」
「えっ? 何それ?」
 香奈枝は首を傾げながら訊く改めて実感する。ああ、やっぱりここは異世界なんだと夏帆は安堵しながら、微笑みながら首を横に振る。
「ううん、なんでもない」
 夏帆は思い出せないけど、これだけは言える。
 凪沙やミミナ、そして香奈枝にはあんな閉塞し切った世界で息苦しくて辛い思いをして欲しくない、それだけは確かだった。
 電車の中で話していくうちに香奈枝ともすぐに打ち解け、いつの間にか「夏帆」「香奈枝ちゃん」と呼び合うようになった。
 終点である蒲池駅に到着すると合流場所は駅前の時計台で、そこには汐ノ坂高校の制服を着た二人の男子生徒がスマホを弄りながら待っていて、香奈枝は見つけるなり大きく手を振る。
「いたいた! お~い喜代彦! 優!」
 声に気付いた二人の男子生徒は駆け寄ってくるなり、香奈枝は紹介する。
「紹介するわ、幼馴染みの山森喜代彦よ」
「初めまして香奈枝の幼馴染みの山森です、よろしくお願いします」
 山森喜代彦はにこやかに挨拶する。身長一八〇センチ後半なうえに肩幅が広く、爽やかなイケメンと言っていいほどで、夏帆も思わず緊張気味に「よろしくお願いします」と一礼すると、水無月優と目が合う。
「え、えっと……」
 思わず言葉が途切れる。夏帆はこの前助けてくれた彼になんて声をかけたらいいかと迷っていた時、凪沙が小声で耳打ちする。
「ほら、行ってちゃんと自分の言葉で伝えなよ夏帆」
「う……うん」
 夏帆は勇気を振り絞って歩き出す。こんなに勇気を出すシチュエーション、前世にはなかったわ……ひたすら息苦しくて、暗い高校生活だった気がする。
「あ、あの……水無月君だよね?」
「うん、草薙さん怪我の方はもう大丈夫?」
 優は男の子にしては柔らかく、心を包み込むような優しい笑顔と声だった。
「こ、この前は……危ないところを助けてくれて……あ、ありがとう……ございました」
 夏帆は思わず頬を赤くする、見た目は大人しくて地味な見た目だけど伸びた黒髪から覗く凛々しくも鋭い眼差し、もし髪型を整えたりしたら美形なのは間違いない。
 山森君がイケメンなら水無月君は美少年だ。
「どういたしまして草薙さん、実は僕も一年前に内地から来たんだ……と言っても南九地方の田舎からなんだけどね」
「そうなんだ……あたしは帝都の方に住んでたから」
 優は内地の南にある南九地方から来たという、前世で言うなら丁度九州に当たる所だ。
 そこで言葉が途切れ、優は仄かに頬を赤くしながら目を逸らすと凪沙が声を上げる。
「さぁてみんな! お腹空いたから何か食べよう!」
「うん、そこにあるマクミランで何か食べよう!」
 香奈枝もそれに乗ると、一行は駅の近くにあるファーストフード店のマクミランバーガーに向かうことになり、夏帆はそっと優の横顔を覗くと喜代彦に安堵したような笑みを見せて訊いた。
「喜代彦君は何食べるの? 僕はフィッシュバーガーかな?」
「うぇぇよく魚食べられるね、俺ダブルチーズバーガーにするよ」
 喜代彦はたまらないという表情を見せると、凪沙がジト目になって問い詰める。
「山森君、もしかして魚嫌いなの?」
「うん、そうだよ。喜代彦ったら骨を取って調理した魚すら食べられないのよ」
 香奈枝がニッコリ笑顔で暴露すると、ミミナは何かを察したかのように表情が固まって喜代彦は狼狽する。
「香奈枝! 余計なこと言うなよ!」
「ほほう……それは聞き捨てなりませんな、それでよく今日まで敷島に暮らしていけたわね」
 小柄な凪沙は威圧感満載の満面の笑みで喜代彦に詰め寄る。
「な、な、な、磯貝さんがなんで?」
「家が漁師さんで凪沙ちゃんも時々潜り漁をやっているの」
 ミミナの言う通り凪沙の家は漁師だ、魚嫌いは放っておけないだろう。すると凪沙はみんなに目で合図すると、香奈枝は微笑んで気心の知れたミミナはわかってると苦笑して頷いた。
 なんのことだろう? と首を傾げながらマクミランバーガーで申し合わせたかのように同じものを注文する。
「あたしフィッシュバーガー!」
 凪沙が注文すると香奈枝もそれに乗る。
「そんじゃあたしもフィッシュバーガー!」
「私もフィッシュバーガーにするわ、夏帆ちゃんもそれにする?」
 ミミナも同じものだ、夏帆も面白そうだからと頷く。
「それじゃあ、あたしもフィッシュバーガーにするわ!」
「ええ……」
 喜代彦は青褪めた表情になると、優も悪い意味で空気を読む様子もなく。
「僕もフィッシュバーガーで喜代彦君もそれにする?」
「す・る・よ・ね?」
 凪沙は威圧的な笑みを見せると、香奈枝もジーッと見つめて喜代彦は涙目になる。
「ええ……」
 同調圧力ダメ絶対! 夏帆は内心ツッコミを入れながら喜代彦に同情しながら、トレイを持って混み合った店内を見て、夏帆は思わず苦笑しそうになる。マスクもせずにアクリルボードもなくて飛沫感染なんか気にする様子もない人々。
 そして前世で友達と一緒にこうしてランチを食べてなかったことに気付く、それどころか放課後友達と街に寄り道してタピオカを飲みながら遊ぶことも叶わなかった。
 両親ともに医療従事者だったから「草薙さんの両親は凄い」と持て囃されていたけど同時に周りからよそよそしく避けられていたし、自分が感染して両親に移すわけにはいかなかったから、高校生活は独りぼっちではなかったけど寂しく過ごしたんだっけ?
 現世――皇京にいた頃、高校入学と同時に敷島に引っ越すことが決まっていずれ別れが来るとわかってしまったから、自らクラスメイトたち距離を取って壁を作ってしまったという後悔の念が沸いてくる。
 それでも美由と妙子はほどよい距離で優しく接してくれて、一緒に遊びに行った。
「草薙さん、どうしたの?」
 優が覗き込むと夏帆は食べかけのフィッシュバーガーに視線を落としたままボーッとしていたことに気付いた。
「あっ、ううん……またこんな風に友達と食べることができるなんて……思わなかったの」
「そうか」
 優はそう言って詮索する様子もなくウーロン茶を啜るが、凪沙と香奈枝は聞き逃さなかった。しかも凪沙は何かを思い付いたらしく、悪戯を思い付いた小さい男の子のようにニヤニヤする。
「へへぇ……それじゃあ男の子とのデートとかは?」
「えっ? う、うん……なかったわ」
 皇京にいた時もそうだったし前世もそんな甘酸っぱいことは欠片もなかった。
 そう考えてると凪沙は香奈枝に耳打ちする。
「香奈枝! ちょっと耳貸して!」
「うん、なになに? ……んふふ~ん、わかったわ」
 香奈枝も意図を理解したのかにやけると、ミミナは首を傾げて喜代彦も何かよからぬことを思いついたのを察したのか、怪訝な目で見つめた。 

 マクミランバーガーを出ると、凪沙は露骨に用事を思い出したような演技をする。
「ああ~大変! 急用を思い出したからミミナ! 一緒に来てくれる?」
「う、うん……いいわ」
 ミミナはぎこちない笑みで頷くと、香奈枝もそれに続く。
「あっそうそう! あたしも! 喜代彦、ちょっと買いたいものがあるから付き合って!」
「ああ、わかってるよ」
 喜代彦も頷いて香奈枝の傍に歩み寄ると、凪沙は明らかな棒読み口調で二人に言う。
「ごめん夏帆、水無月君、あとは二人で楽しんできて!」
「ああわかった、気を付けてね」
 優はあっさりと受け入れて四人を送り出す。
 ええええーっ!? 水無月君、明らかに演技なの気付いてない!? それとも気付いてない振りしてるの!? 夏帆は内心困惑するが、去り際に凪沙は健闘を祈ると言わんばかりに笑顔でウィンクする。
 ど、どうしよう男の子と二人だけになるなんて……前世は勿論だけど、現世でもそんな経験ないし、どうしよう……夏帆は顔を赤くして頭から水蒸気し、今にも爆発しそうな火山みたいな気分になった時、優は何食わぬ顔で訊いた。
「草薙さん、どこか行きたい所とかある? タピオカ屋さんとか」
「う、うん……この辺にあるかなぁ?」
 夏帆はぎこちない口調になりながら言うと、蒲池駅前通りを歩くことになる。
 すれ違う人たちは扶桑皇国の人々は勿論、敷島の原住民族やそのハーフに外国人観光客と人種や言語、民族もバラエティに富んでいて明らかに英語ではない言葉を話す人も多くいた。
 やっぱりここは異世界なんだと夏帆は実感しながら歩くと、タピオカ屋さんを見つけてタピオカミルクティーを注文、優の方はどれにすればいいか迷ってるようだ。
「えっ……えっと……僕は……」
「まずはタピオカミルクティーから飲んでみるといいわ」
「じゃあ僕もそれで」
 夏帆は思わずアシストすると優も同じものを注文して、近くにあるのどかな公園のベンチに座って一緒に飲む。うん、ひんやりと冷たくてモチモチしてて美味しいと夏帆は表情を綻ばせるが、優は物珍しそうに中身を見つめている。
「そんなに珍しいの?」
 夏帆はそう言ってストローで啜ると、優は真剣な眼差しで中身を見つめながら頷く。 
「うん、美味しいけどなんか……カエルの卵みたい」
「ぶぅぅうううううううーっ!!」
 夏帆は思い切り噴き出した、ちょっと水無月君! それだけは言っちゃ駄目だよ!
「ああっ! 大丈夫!? 草薙さん!」
「水無月君……タピオカはキャッサバっていう芋の一種から作られるんだよ」
 夏帆はハンカチで口元を拭きながら言うと、優は爽やかな微笑みで頷く。
「うん、知ってる。それに飲み込むんじゃなくて食べないとね、タピオカは消化しにくいから飲み過ぎて胃腸に無数のタピオカがぎっしり詰まって病院送りってなったっていう事例もあるから」
「そ、そうなんだ……たまに飲むくらいがいいかも?」
 夏帆は思わず青褪めて吸い込んだタピオカを噛むことを意識する。
 ひぃぃぃぃいいいいいいっ!! なにそれ!? 下手なホラーより怖い! 噛んでおいてよかった! そういえばそんな話し前世でも聞いたことがあるような気がする。
「草薙さんの場合は大丈夫だよ、見たところちゃんと噛んでるみたいだから」
 優の微笑みは涼やかで愛らしくて、男の子にしてはお世辞抜きで可愛いと感じる。イメチェン――いや少し整えたら間違いなく爽やか系の美少年だろう、夏帆は思わず目を逸らして仄かに頬を赤くしながら艶やかに微笑んだ時だった。
 南国の光が射すベンチに突然影が覆いつくし、思わず見上げると夏帆は神経を尖らせた。
「ねぇねぇ彼女、もしかしてこの地味な陰キャと付き合ってるの?」
 視線の先には他の学校の制服を着崩して浅黒い肌に体格のいい男子生徒で、他に髪を金髪に染めたチャラい奴と、丸刈りに無精髭を生やした奴の二人を連れていた。
「そんな奴放っといて、俺たちと一緒に遊ぼうぜ」
 金髪のチャラ男がニヤニヤしながら近づくと、危険を感じた夏帆は鞄に付けてる防犯ブザーに手を伸ばし、睨みながら冷たい眼差しと声で制止する。
「近づかないで、鳴らすわよ……行こう水無月君」
「うん」
 夏帆は優の手を取って睨みながらその場を後にしようとする。帝都で繁華街に遊びに行った頃、何度か与太者にナンパされたことがあったが相手にしないのが一番だ。だが夏帆は優の手を取って引こうとした瞬間、一瞬だけ隙を見せてしまった。
「その防犯ブザー貰った!」
 丸刈りの無精髭の奴が長い腕を伸ばし、夏帆の鞄に付けてる防犯ブザーを乱暴にちぎり取ってしまった。
「ああっ!」
 ちぎり取られた防犯ブザーに気を取られた夏帆に、浅黒い肌の男子生徒の丸太のように太い腕が伸びて夏帆の左手首を掴もうとする。
「ついでに彼女も!」
 掴まれる! 逃げられない! 背筋が凍り付いてしまいそうになった瞬間、優が鮮やかに素早く、前に出て右腕で鞭のように男子生徒の太い腕を弾くと彼は威圧するような声。
「!? なんだお前? ……いい根性してるな」
「触らないでくれないか、ナンパなら他を当たってくれ」 
 夏帆から優の表情は見えないが、声色が柔和のものから毅然としたものに変わった。
 第二章、親睦会

 水無月優と草薙夏帆が公園で三人組の不良グループに絡まれてる丁度その頃、数十メートルの物陰から潮海美海は観察していた。制服を着崩してるが間違いない、彼らだと確信しながらみんなに伝える。
「あの人たち……水産高校の制服よ!」
「よりにもよってあいつらか! 航海実習前にナンパして遊ぶならまだわかるけど、デートの邪魔するなんてそんなに共学が憎いのか!?」
 凪沙は憎たらしそうに嘆く、三人組の正体は近くにある蒲池水産高校の生徒だ。
 一応共学だが男女比率が九・五対〇・五の実質男子校状態だから、噂では周辺の共学校の生徒を目の敵にしているという話しを聞いたがどうやら本当らしい。
「二人が危ないわ喜代彦! 加勢するわよ!」
 肝の据わった香奈枝が飛び出そうとした瞬間、喜代彦が「待て」と手をかざして制止すると美海は凪沙と一緒に思わず喜代彦に視線を向け、香奈枝は困惑する。
「喜代彦何のつもり!? 黙って見ているの!?」
「ああ、あいつなら大丈夫だ」
 喜代彦は精悍な笑みすら浮かべ、優を信頼してるような眼差しだ。どういうこと?
 美海はオロオロしていると凪沙も動揺する。
「何言ってるの山森君! いくら夏帆を助けたとはいえ、あのガタイ良くて柄の悪い――見るからに喧嘩慣れしてる奴ら三人、相手にもならないわよ!」
「あいつは只の陰キャじゃない、軟弱な俺と違ってな」
 喜代彦が断言する口調と眼差し、そして不敵な笑みで「まあ見てみろ」と言ってるような気がして、視線を夏帆と優に向けると美海は思わず目を見開き、そして凪沙は言葉を失った。


 夏帆は優が毅然とした態度で、絶対に君を守るという強い意思を背中で語ってるのを感じた。それが気にくわないのか、金髪のチャラ男がヘラヘラ笑いながら言い寄ってくる。
「おいおい彼女の前でカッコつけたい気持ちはわからないけどよ、相手を見て選びなよぉっ! このイキり陰キャが!」
 チャラ男が怒鳴りながら優の胸ぐら掴みかかった次の瞬間、彼は何をされたのか一回転して背中から硬い地面に叩きつけられた。
「ぐぼあっ!」
「なぁっ! ふざけやがってこの野郎!」
 殴りかかってきた坊主頭に無精髭の拳を紙一重でかわすと、優は目にも止まらぬ速さで拘束したかと思えば一瞬で背中から地面に叩きつけた。
「うぼあっ!」
 短い悲鳴を上げる坊主頭の無精髭。
「な、なんなんだよお前!?」
 狼狽えるリーダー格の丸太男、優はそれを見逃さず体重差一・五倍以上はある丸太男に一瞬で詰め寄って投げ技を決めた。
「があっ!」
 硬い地面に背中を叩きつけられた丸太男、金髪チャラ男の胸ぐらを掴んで五秒かそれよりも短い時間だった。
 夏帆は思わず目を見開いてしまうと、優に細い手首を掴まれて引っ張られる。
「ええっ!? ちょっと水無月君!?」
「走れ! のびてる今のうちに逃げるぞ!」
 優は凛とした声を響かせ、躊躇う様子もなく夏帆の手を引っ張って走る。
 ちょっ――結構速い! 公園を出る前に肺、心臓を中心に全身が悲鳴を上げてこんなことならもっと運動しておけばよかったと後悔した。
 公園を出て蒲池駅前に戻り、夏帆は息切れして全身が汗だくになってベンチに座ると優は気を利かせて自販機からスポーツドリンクを買ってきてくれた。
「はい草薙さん、もう大丈夫だよ」
「はぁ……はぁ……ありがとう」
 夏帆はお礼を言ってペットボトルの蓋を開けると一気に半分を飲み干す、生き返るとはこういうことだと感じてると優は隣に座る。
「気を付けてね草薙さん、あいつら水産高校の奴らだ」
「だから制服を着てたんだね」
「小耳に挟んだ話しだけど実質男子校状態になってるから、デート中のカップルばかり狙って彼氏が醜態晒して破局するように仕向けてるって――」
「ええ……」
 あの体格の割には器は小さいとアニメの雑魚キャラみたいで思わず失笑してしまいそうだった、だけど優は油断してはいけないと鋭い眼差しにある。
「――だけどあいつらはまだ可愛い方だ、敷島は内地に比べて治安があまり良くない。俺たちぐらいの歳で組織犯罪や強盗殺人に手を染めたり、警官隊と銃撃戦を繰り広げたり、テロ事件を起こす奴らもいる」
 夏帆は思わず背筋が凍りそうになって改めてここは内地とは違い、そして前世とは違う異世界であることを実感する。それにしても水無月君のあの無駄のない動きとあの鋭い眼差し、まるで武道の達人そのものに見えて夏帆は試しに訊いてみた。
「水無月君って……部活とか入ってるの?」
「ううん、放課後は叔父さんの銃砲店でアルバイトしたり近くの道場で色々習ってる。そろそろ帰って三時からアルバイトや道場にも行かないといけないから、僕はこれで……帰りも気を付けてね」
 優はベンチから立ち上がる、時計を見ると二時半近くだった。
「うん、今日はありがとう。気を付けてね」
 夏帆は優の背中を見送ると、タイミングを見計らったように凪沙を先頭に四人がベンチの後ろ気配を感じさせることなく現れた。
「凄かったね水無月君! あんなガタイのいいヤンキー三人を一瞬で倒すなんて!」
「ええっ? 凪沙ちゃんたちどうして?」
 タイミングよく現れた四人に夏帆は思わず怪訝な表情を見せる、もしかしてずっと見ていた? 香奈枝の方は驚きの表情を見せて称賛する。
「凄かったわ! 優のこと見直したわ! ただの地味で大人しいオタクっぽい奴かと思ったけど! あんなに逞しいなんて!」
「ねぇ山森君、水無月君って何か習い事とかしてる? あれどう見ても古流柔術の動きよ」
 ミミナは喜代彦に訊くと彼は思い出すように答える。
「うん……優は幼稚園の頃から柔術、剣術、居合術等の古武道を習って最近はタクティカルトレーニングも受けてるんだ」
「へぇ水無月君ってもしかして軍人や武士の家系?」
 凪沙は何気に訊くが喜代彦は気まずそうに答える。
「さぁ……これ以上は……」
「何か隠してない?」
 凪沙はジト目で見つめると、喜代彦は知ってるのか必死な様子で首を横に振って簡単には口にしない。
「守秘義務が課せられてるから優本人に訊いて!」
「まぁそれが一番よね」
 香奈枝の言う通りで、凪沙は何かを考えてる様子だった。
「それなら……誘ってみるか」
 夏帆は何を考えてるんだろう? と首を傾げた。


 翌日、優はいつものように学校に来ると周囲から妙な視線を感じながら校門を通って昇降口で上履きに履き替え、そして教室に入るとクラスメイトたちからの視線を一身に受ける。
 みんな好奇の眼差しで自分を見ている。優は思わず表情を険しくしようとした瞬間、水島が見直したような眼差しで歩み寄って来ると興奮しながら訊く。
「おはよう水無月! 聞いたぜ! 昨日水産高校の奴ら三人をぶちのめしたんだって!?」
 ああ、昨日僕と草薙さんに言い寄ってきたあの三人を返り討ちにしたこと、誰かに見られてたのかもしれない。
 優は気まずいと思いながら正直に頷く。
「ああ、うん……返り討ちにした隙に逃げたんだけどね」
「それでもすげぇよ水無月! あいつらには日頃からデカイ面されてムカついてたから聞いた時はスカッとしたし、水無月がやったって聞いた時は嘘だろって驚いたよ!」
 瞳を輝かせ、いつもよりテンション高めの水島に三上も称賛する眼差しで頷く。
「水無月、俺お前のこと大人しくて暗い奴かなと思ってたけど、見直したよ」
「そう……なんだ」
 優はなんて言えばいいかわからないと困惑してると、本田が問い詰めるような眼差しで訊いてきた。
「水産高校の奴らに絡まれた時にさ、昨日転校してきた草薙夏帆と一緒だったみたいだけどいつの間に口説いたんだ?」
「えっと……口説いたわけじゃないんだ……そのなんて言ったらいいかな?」
 優は全身から冷や汗を噴き出す。言えない、春休みに交通事故に巻き込まれそうになったところを助けたなんてとても言えないと思ってると、担任の先生が入ってきた。
「皆さん、ホームルーム始めますので席に着いて下さい」
 エリート官僚みたいな担任の先生が教室を見渡しながら言うとみんなそそくさと席に着き、優は安堵したがまだ安心できない状況だった。
 休み時間になるとクラスメイトたちに囲まれ、喜代彦が間に入ってくれたが昼休みになると他の学年やクラスの生徒も押し掛けてきた。

「話しは聞かせてもらった! 是非、柔道部に来てくれ!」「水産高校の奴らを懲らしめた時に武道の達人みたいな動きをしてるって聞いたぞ! 剣道部に入って一緒に切磋琢磨しようじゃないか!」「空手部はどうだ!? 君がいれば全国大会出場も夢じゃないぞ!」

 弁当と水筒を持ってどこか人目につかない場所で食べようと教室を出た瞬間、部長を名乗る三年生の先輩たちに囲まれて優は困惑する。どうしよう放課後、柔術や剣術、抜刀術等の古武道を習ってるって口にしたら却って火に油を注ぎそうだった。
「やめてください!」
 間に割って入ってきたのは同じクラスの潮海美海で、体格のいい三人の先輩を前にしても毅然とした表情と眼差しで言い放つ。
「水無月君困ってます! しつこい勧誘はやめてください! 昼休みと放課後、私たちと一緒に過ごす約束をしてますので! 行きましょう水無月君!」
 三人の先輩が困惑した隙を見逃さずミミナは優の手を取って足早に歩き去り、優も困惑しながら引っ張られる。
「あ……ありがとう潮海さん」
「お、お礼を言うのは私の方です、昨日は夏帆ちゃんを守ってくれてありがとう」
 ミミナは仄かに頬を赤くしながら微笑んでいる、きっと自分でも驚くような大胆な行動をしてるのかと自覚してるのかもしれない。連れて行かれた先は屋上で、そこは園芸部と緑化委員会が共同で維持管理をしてる屋上庭園となっていて、昼休みは憩いの場となっている。
「みんな、水無月君連れてきたよ」
 屋上庭園の一角、日陰になってる所で夏帆と凪沙がレジャーシートを敷いて待っていて、凪沙が讃えるような笑みで快く出迎えてくれた。
「やぁ水無月君、昨日の活躍見させてもらったよ!」
「ああ……あれはその……僕が……草薙さんを守らないといけないと思ったから」
 優は頬を赤らめながら言うと、夏帆は手招きする。
「水無月君、一緒に食べよう」
「う、うん……」
 女の子たちとこんな風に食べるなんて初めてだと思いながら、上履きを脱いで座ると弁当を開け、女の子たちの話しに耳を傾けながら食べてると凪沙が訊いてきた。
「それで山森君が教えてくれたけどさぁ、水無月君って小さい頃から古武道を習ってるって聞いたけど本当?」
 いきなり踏み入ったことを訊く。優は水筒のウーロン茶を飲みながら、喜代彦の奴、余計なことを言いやがってとぼやきたいところだがきっと問い詰められたんだろうと、内心同情しながら頷く。
「うん……僕の家は武家だから毎日アルバイトしながら道場で鍛えてる」
「ええ……それならいつ遊んでるの? 夜?」
 凪沙はたまらなさそうに水筒のお茶を口にして訊くと、優は頷く。
「寝る前の二時間と土曜の午後と日曜かな? 物心ついた頃には稽古に通っていたから」
「うぇぇぇ……ってことはユーチューブとかツィッターあんまり見る暇なさそう、何か大会とか目指してるの?」
 凪沙は更に苦い顔をして訊くと、優は横に振る。
「ううん、たまに演武大会とかに出るけどね……休みの日は一人で過ごしてる」
「よし! 一人ならさぁ今度の日曜日一緒に遊びに行こう」
 凪沙からの誘いに優は思わず「えっ?」と困惑して箸を止めると、ミミナも同調する。
「もちろん香奈枝ちゃんや山森君も誘って! 夏帆ちゃんも行きましょう!」 
「うん……ところで今度の日曜日、どこに遊びに行くの?」
 夏帆は頷いて訊く、優もどこへ遊びに行くんだ? もし喜代彦が一緒じゃなかったらどうしようという安堵と、服何を着ていこうという不安が混じった思いで止めていた箸を動かした。