ソラと海のアマテラス

 選択授業が終わって(おか)に戻ると、すっかり夕方だ。
 菊水島自然の家に戻ると夕食になり、入浴を済ませて夜の集いを終えると今日の選択授業のことを話し合う。夏帆は隣のベッドにいる空野零(そらのれい)が訊かれた。
「ねぇねぇ草薙さん、お姉ちゃんから聞いたよ。今日のダイビングでホホジロザメに会ったんだって?」
 二つ結びの黒髪ロングで夏帆以上の背丈に豊満な乳房を持ち、上品な美貌とスタイルに反してお転婆な空野零に夏帆はもしかしてと口にする。
「まさか空野さんって名前のダイビングインストラクターさん、もしかして空野さんのお姉さん?」
「うん、和泉(いずみ)って名前だけど、大学卒業してすぐ家を飛び出して姿を眩ましてあたしにだけ連絡してくるのよ」
 零は苦笑しながらスマホを見せると、空野さんはインスタグラムに自分と一緒に泳ぐホホジロザメの写真を投稿しており、既に話題になってネットのニュースにも上がっていた。
「結構無茶する人だったわね」
「そうなのよお姉ちゃんったら、人生は一度きりだから全力で楽しまなきゃって……色々無茶するのよ」
 零の言葉にこの異世界で二度目の人生を送ってる夏帆には後ろめたい気がした。
 サメに食べられるかもしれないのに躊躇うことなく一緒に泳いだのだ、話を耳を傾けると妹の零の方も中学卒業と同時に、内地から敷島に来て寮で暮らしてるという。
 結構チャーミングでユーモラスな人だったねっと思ってると、LINEの通知が鳴る。
 誰からだろう? スマホを見ると美由からで個人のLINEからでこれは珍しかった。
 零も興味あるのか訊いてくる。
「前の学校の友達?」
「うん、美由ちゃんからなんて珍しいわね」
 いつもは夏帆、妙子、美由のグループチャットだ。
『夏帆ちゃん、転校先って敷島の汐ノ坂高校だったよね?』
『うん、そうだよ』
『あたしね、同い年の従兄がいるの。その子が通ってる学校が汐ノ坂高校なの』
『へぇ~凄い偶然、人って意外なところで繋がってるんだね。実は今日一緒に潜ってホホジロザメと泳いだインストラクターさん、クラスメイトの女の子の姉なんだって』
 夏帆はインスタグラムのリンクを貼ると美由は驚きのスタンプを送ってくる。
『ええ凄い! サメ大きい! 夏帆ちゃんの言う通りかもしれないね、あたしは夏帆ちゃんや妙ちゃんとの繋がり大事にしたいわ』
 夏帆は思わず返事するのを躊躇う、今思えばどうして薄情で冷たい態度で接したんだろう? もうあたしのことなんて忘れていいはずだったのに。
 夏帆は無難な返事で半ば強引にやり取りを終わらせる。
『そうだね、もうすぐ消灯だから』
『おやすみ、消灯後のガールズトーク楽しんでね』
 美由はおやすみのスタンプを送ると、夏帆は自己嫌悪と後悔に苛まれて苦い表情になるのを堪える。
 あの内気な美由ちゃんのことよ、個人のLINEで送ってくるなんてよっぽど勇気が必要だったのかもしれない。スマホを握り締めると、隣で零が香奈枝とお喋りしてるのが耳に入る。
「――香奈枝はアマテラスオープンフェスティバル行く? 私はお姉ちゃんと回る予定、香奈枝はもしかしてあの幼馴染みのイケメン君と行くの?」
「まあ喜代彦には漏れなく優が着いてくるけどね、ねぇ夏帆は――どうしたの夏帆?」
 香奈枝に言われるまで気付かなかった後悔と罪悪感、自己嫌悪に苛まれた苦い表情が堪え切れなくなっていることを。
「えっ? ああごめん香奈枝ちゃん……」
「草薙さん大丈夫? 凄く思い詰めた顔してたよ」
 零の方も心配した表情で見つめると、夏帆は隠し通せないと悟って後悔の念を溢す。
「うん……ただ、前の学校の……内地の友達にもっと遊んでおけばよかったって後悔してるの――」
 入学式のあの日、美由は精一杯の勇気を振り絞って誘ってくれた。断ろうと思えば断ることだってできたはず、もしかしたら妙子もあたしの心の奥底を見抜いてたかもしれない。
「――どうせ一年で転校しちゃうからって、心を閉ざしてた……それでも美由ちゃんと妙ちゃんはあたしを陽の当たる青空の下に連れ出してくれたの」
「陽の当たる青空の下……クサイ台詞!」
 零はニカッと笑って夏帆の頬を指で突き「ひゃっ!」と短い悲鳴を上げ、零が諭す。
「そんな暗い顔で後悔するくらいなら、会いに行けば?」
「そうよ、内地まで遠いけどパスポートなしで行けるんだし、ゴールデンウィークは厳しいかもしれないけど夏休みまでにアルバイトでお金貯めれば飛行機代くらいならいけるんじゃない?」
 香奈枝の言う通りだ、飛行機で七時間はかかるが内地までは国内線扱いだからパスポートは要らない、もしお金貯められたらワンランク上の座席座っちゃおうかな? 夏帆は決意を秘めた眼差しで微笑む。
「いいね、臨海学校終わったらアルバイト探さなきゃ……そして美由ちゃんと妙ちゃんに会いに行くわ!」
「そうそう、でもその前にさ……アマテラスのオープンフェスティバル一緒に行こう! 空野さんはお姉ちゃんと行くみたいだけどあたしは喜代彦と行く約束したわ、まだ誘ってないけど多分優も付いてくると思うよ」
 香奈枝はそう言うと優のあの寂しげな表情が思い浮かび、夏帆は告げる。
「じゃあ、水無月君はあたしの方から誘ってみるわ」 
「……わかったわ、任せる」
 香奈枝は気持ちを汲んだのかそれだけ言って頷くと、零は夏帆を数秒見つめると何かを察したかのように興味津々の目でニタァと笑みを見せる。
「ねぇねぇ水無月君のこと、聞かせてくれる?」
 ああ、これは色々聞かれる奴ねと夏帆は思わず苦笑の形で笑みを返して頷いた。

 翌日はまる一日を使ってクラスごとに別れてマスドライバー基地――菊水島国際宇宙基地の見学だった。
 ガイドさんの説明によるとマスドライバーの全長は一五キロ、この島を貫くように長いレールはカタパルトになっていてリニアモーターで単段式宇宙往還機(SSTO)を打ち上げ、ロケットの一段目として加速させるという。
 アマテラス建設時には資材を宇宙に運んでいたが、今は軌道エレベーターでは載せ切れない大容量の貨物や人員、他の軌道エレベーターの建設資材を運ぶのに使われてるという。
 見学を一通り終えると、宇宙基地にある見学者用のホールに二年生が集まって講演会が開かれた。
「――明日の正午に打ち上げられるSSTOには糸川(いとかわ)宇宙望遠鏡が搭載されており静止軌道で展開して放ち、ラグランジュ2に向かいます。そして未知の恒星系――つまり別の太陽系、そしてその周りを回る太陽系外惑星を見つけて観測して居住可能惑星、二つ目の地球発見を目指します――」
 講演をしてるのは特別豪華で担任の米島隼人先生の弟、米島涼(よねしまりょう)だ。
 整った髪に黒縁眼鏡をかけた知性的な顔立ちの美男子で、扶桑皇国出身としては最年少宇宙飛行士だ。アマテラスオープンの日、軌道エレベーターの運搬機(リニアクライマー)に乗って宇宙に行き、静止軌道上にある宇宙ステーションで往還機に乗って月に向かうという。
「――説明は以上です、皆さん何か質問はありませんか?」
 夏帆は米島宇宙飛行士の話しに耳を傾け、横目で見るとここでも敷島電鉄グループ企業のロゴマークを見つけてミミナちゃんもきっと誇らしいだろうなと思いながら、視線を米島宇宙飛行士に向けると吉澤君が勢い良く何度も手を挙げ、スタッフにマイクを渡されると講演とは関係ない質問をする。
「先日交際を発表した声優の草原葵(くさはらあおい)さんとはその後どうですか!?」
「はい、プライベートな質問に関しましては残念ながらお答えしかねます」
 間髪入れず米島宇宙飛行士は笑顔でお断りし、生徒たちは笑い声を上げる。
 先日、彼と声優の草原葵が高校時代から付き合ってることをSNSで発表したのだ。
「最後に、このマスドライバーや敷島本島の軌道エレベーターは、地球と宇宙を繋ぐだけではありません。軌道エレベーター同士を繋ぐオービタルリング計画、月面や火星基地建設や太陽系外惑星探査、そして宇宙に浮かぶ無数の星々……そしてそこに住む人々へと繋ぐ架け橋でもあります。それを実現するのに大切なのは……人と人の繋がりです」
 米島宇宙飛行士の「人と人との繋がり」という言葉に今の夏帆の胸に突き刺さって俯く、内地にいた時は美由と妙子との繋がりを意識してなかった。
 だけど……繋がりはまだ切れてない! 美由ちゃんも、妙ちゃんも、あたしとの繋がりを保とうとしてる、だから……今度はあたしから歩み寄らなきゃ! 夏帆はそう決意するとまずはここにいる友達との繋がりを深めようと決意した。
 その夜、夏帆は夕べの集いが終わった後、消灯前の短い自由時間を利用して菊水島自然の家本館の屋上に行って優をLINEで呼び出し、ベンチで待ってると三分程で汗だくになって半袖シャツにジャージのズボン姿の優がやってきた。
「お待たせ草薙さん、遅くなってごめんね」
「ううん、ここで呼び出したから」
 夏帆は首を横に振るとベンチの左側に座り、上目遣いの眼差しになって座るように促すと優は頬を赤らめて躊躇いがちに「し……失礼します」と右隣に座る。
 夏帆はそっと優の横顔を盗み見する。
 汗ばんだ凛々しい男の顔をしてるが、同時に危険も顧みず二度も自分を助けてくれたとは思えないほど愛らしいと、夏帆は艶やかに笑う。
「そんなに急がなくてよかったのに、凄い汗よ」
「さっきまで枕投げしてたから、抜け出すのに苦労したけどね」
 夏帆は可愛いと胸をキュンキュンさせながら一面に広がるきらびやかな星空を見上げる。
 ここは赤道だから見える星座も帝都とはだいぶ違う、けど前の世界と違うのだろうか? 夏帆は前世でも見られなかった星空に見惚れる。
「星空が綺麗ね、本島や帝都では絶対に見られないわ」
「そうだね、こんな綺麗な星空……いつ以来だろう?」
「……お父さんも一緒だった?」
 夏帆は微笑みながら訊いてみると、優は困惑を押し隠してるかのように困った笑みになって一呼吸置いて重く頷いた。
「うん、父さんも一緒だった。僕と母さん、妹の四人揃った数少ない思い出だね」
「水無月君、お父さんのこと尊敬してるんだね」
「うん、勿論だよ。父さんのこと、誇りに思ってる……なかなか帰ってこないけどね……」
 優は目を伏せる、帰ってこない意外にも何かあったんだろう。
「そうだよね……でも水無月君、親睦会でお父さんが迎えに来た時なんだか嬉しそうというより……なんだか気まずいって顔をしてたような気がするの」
 夏帆は兵予学校の試験に合格できなかったのが、余程お父さんに申し訳なかったのかもしれない。すると優は悔いるような苦い表情になる。
「……実はそうなんだ、僕は父さんの期待に応えられなかったから」
「……兵予学校に落ちたことを?」
「うん、僕は代々海軍士官を輩出してる水無月家の長男だから母さんは勿論、妹や祖父母に親戚、特に父さんは一番期待してた……だけど……それに応えられなかった。父さんの期待を裏切ってしまって、逃げるように敷島に来たんだ」
「水無月君……」
 夏帆は優の心情になんて言ったらいいかわからなかった。だけどあの広報資料館のおじさんが言ってたように今度は海軍兵学校を目指せばいいし、予備役将校訓練課程(ROTC)のある大学に行けばいいと諭していた。
 だけどそれは本当に優が望んでるのだろうか? 優はどこか安堵したような笑みになる。
「でも結果的に敷島に来てよかったと思う。ここにいるみんなは僕を海軍士官の長男ではなくただの僕として見てくれるし……こんなに楽しく過ごせるなんて思わなかったよ」
「水無月君って将来は本当に――」
 夏帆は長い黒髪が潮風に靡く、優の瞳の奥底にあるものを見抜く眼差しで本心に触れる覚悟で問う。
「――海軍士官になりたいの?」
 優は心の奥底に踏み込まれたのか、徐々に表情が苦いものに変わっていき夏帆は謝る。
「あっ、ごめん! 訊いちゃいけなかった?」
「いいよ、気にしないで……」
 優は清々しそうな笑みで首を横に振る、もしかすると誰かに気付いて欲しかったのかもしれない。
「本当は普通の学校に行きたかったんだ。軍の学校全般的に言えるけど兵予学校って全寮制で、毎日軍事教練で放課後の部活に入ることも義務付けられてるし、先輩後輩との上下関係も凄く厳しいからね……本当のことを言うと――」
 優は一呼吸置いて体を強張らせる、今から誰にも言えないことを言うのだろうと夏帆は身構える。
「――海軍には行きたくないんだ。いつか僕が、誰かと結婚して奥さんや子供に寂しい思いをさせるんじゃないかって」
 自分が高校卒業して海軍に入って、それで誰かと結婚してることまで考えるなんて前世なら高校生どころか社会人も考えてない――いや、考える余裕なんかなかっただろう。
「……優しいね、水無月君」
 夏帆は艶やかに微笑み、慈しみの眼差しで優を見つめると彼は頬を赤らめて目を逸らす。
「そんなことないよ……ね、ねぇ草薙さん……もうすぐ軌道エレベーターのオープンフェスティバルだよね? だからその……」
 優の方から言ってきて夏帆は思わず期待に胸を膨らませる、もしかしてデートのお誘い!? 優は躊躇って二の足を踏んだような表情だが目を逸らさず、顔を真っ赤にして声を裏返りながら絞り出した。
「……こ、今度の休み! オープンフェスティバルの下見も兼ねてみんなでアースポートシティに遊びに行こう! この前みたいに……」
 最後のところは萎むような声になり、恥ずかしそうに目を逸らした。
「うん、この前みたいにみんなで遊びに行こうか」
 まあ期待通りいかないわよね、でもこの前の親睦会みたいにアースポートシティは行ってみたいと思ってたのは確かだ。
 軌道エレベーターアマテラスの根本は宇宙への玄関口であり、アースポートはその名の通り地球の港でその周りはメガフロートの街――アースポートシティだ。様々なホテルやレストランに複合商業施設や映画館等のエンターテイメント施設がある。
 他には何かあったな? と考えてると優は精一杯勇気を振り絞るように訊いた。
「あ、あの……草薙さんって、水族館好き?」
「えっ? うん……そうだね、だからダイビング選んだのかも?」
 夏帆はあの海の中の光景に思いを馳せてる間、優はスマホを取り出して素早く操作すると画面を夏帆に見せる。
「草薙さん、ホホジロザメ以外にも大きなサメを間近で見たって聞いたけど、これだった?」
 優が見せた画面にはアースポートシティにある水族館のサイトで紹介してる生物――イタチザメだ。
 ホホジロザメの影に隠れてるがこれも負けず劣らず危険な人食いザメで、目に付いたものを片っ端から口にすることから「海のゴミ箱」とか「鰭のついたゴミ箱」と酷い渾名が付けられてる。
 夏帆は首を横に振った。
「ううん、オオメジロザメだったわ」
「オオメジロザメだね……これかな?」
 優はスマホを操作してまた見せると、あの海で見たあのサメだ。
「この子よ、ホホジロザメを見た瞬間、凄い勢いで逃げちゃったけどね」
「僕も実際に見てみたかったな……きっと大きくて綺麗だったんだろうな」
「うん……水族館では絶対に見られないよ……」
 夏帆はスマホを取り出してアルバムのアプリを開き、美由と妙子と遊びに行った帝都の水族館でシロワニの泳ぐ水槽を背景に三人で撮ってる写真を見せると、優は優しげな眼差しで見つめながら訊く。
「帝都の友達?」
「うん、美由ちゃんと妙ちゃんよ」
「草薙さん、なんか暗い顔してる」
 優の言う通り美由や妙子は心の底から楽しそうに笑ってるが、夏帆はどこか陰りのある笑みだった。今にして思えば本当に自分は捻くれていたと思いながら目を伏せる。
「そうね……あの頃のあたしは心を閉ざしてた。でも、今は違うわ」
 夏帆は凛々しい眼差しで優の瞳を見つめると、優も心を貫かれたかのように頬を仄かに赤らめながら見つめる。
 お互いに見つめ合う刹那の一瞬が長く引き伸ばされ、優の瞳が澄んでいて夏帆は思わず綺麗と心臓の鼓動が速いのにも関わらず心地好く感じた。
「そ、そうなんだ……」
 優は恥ずかしさいっぱいに顔を真っ赤にし、内気な女の子のような仕草で顔を逸らすと夏帆は胸を込み上げるようなときめきに、思わず自分でも驚くような大胆な行動を取る。
「!? く……草薙さん!?」
 夏帆は右手で優の左手を握り、優は否応なしに加速し、脈打つ心臓の鼓動に耐えてるようだが夏帆はそれ以上にドキドキさせながら艶やかに微笑んで見つめる。
「水無月君……今、ドキドキしてる?」
「ええっ!? ……ぼ、僕は……」
 困惑する優だが、夏帆はそれ以上に全身が自然発火して燃えてしまいそうだった。
 ヤダァァァァァァッ!! あたしったらなんてこと言うのよもう!! 漫画やアニメじゃないんだから!! 夏帆は顔を真っ赤にしそうだが、自分自身を止められないのに体が動いて身を寄せてそっと左手で優の胸元に触れる。
「ほら……ドキドキしてる……あたしもよ」
「草薙さん……」
 優の眼差しと吐息が熱を帯びて震え、胸は熱くて心臓の鼓動がはち切れそうなほど速い。
 すると優は胸に触れてる夏帆の左手をそっと包むように握る。
「草薙さん、きっと僕も……同じ気持ちだよ」
 優の真っ直ぐな眼差しに虜にされてしまう夏帆も、熱を帯びていつも以上に妖艶な唇の隙間から出る吐息と一緒に、微かに豊満な乳房が艶かしく上下する。ああ、体が熱い……水無月君と……優君と……繋ぎたい!
「す……すぐ――」
 優の名前を呼ぼうとした瞬間、屋上の扉から轟音を立てて複数の男子生徒たちが悲鳴を上げながら雪崩れ込んできた。夏帆は優とハッとしてお互いベンチの端に移動、距離を取ってソーシャルディスタンス!
 夏帆は扉の方を向くと男子生徒七人が折り重なっていた。
「ええっ!? な、何!?」
「き、喜代彦君たち! ど、どうして!?」
 優も困惑した様子で男子生徒たちを見つめる、喜代彦もいることからどうやら優のクラスメイトたちのようだ。一番下にいる水島がみんなに文句を言う。
「いてててて……見つかったじゃねぇか言わんこっちゃない」 
「お前が見に行こうぜって言うからだよ! まっ本当は俺反対だったけどな!」
 本田がドヤ顔で言うと一番上の三上が呆れた口調で言う。
「その割にはお前ノリノリだったじゃねぇか、真っ先にこっそりついて行ったクセに」
「ちょっと! みんな! 優が――優がぁあああっ!!」
 みんなが責任を擦り付け合ってる間に優は歩み寄り、板挟みにされてる喜代彦は悲鳴が上げる。
「み~ん~な~草薙さん凄~く怒ってるよ~」
 優は口調こそ穏やかに聞こえるが、男子生徒たちは「ひぃっ!」と短い悲鳴を上げる。夏帆からは表情は見えないがきっと凄く怖い顔をしてるに違いない。
「はははははは……そろそろ消灯の時間だ……水無月、先に帰ってるぞ!」
 一番上にいた三上が真っ先に逃走すると、他のみんなも置いてかないでと言わんばかりに泣き言や悲鳴を上げながら逃げ出して辺りは静寂に包まれる。
 優はため息吐きながら苦笑しながら振り向いた。
「草薙さん……僕、もう戻るね」
「うん、おやすみ……水無月君」
 夏帆は頷いてその背中を見送ると、ほんの少しの間だけ余韻に浸って星空を見上げた。
 カラフルに色づく世界、夏帆は自分の胸に手を当てる。
 リモートやオンラインでは絶対に味わえない心地好い鼓動、艶やかな吐息、全身の血液が熱せられ、夏帆の心と身体は一つの色に染まっていた。

 ああ、これが……恋の色なんだ。
 第四章、軌道エレベーターアマテラス

 臨海学校を終えた数日後、土曜日になると夏帆は香奈枝に教えてもらったメモを頼りに汐電とバスを乗り継いで行く。
 これからアルバイトの面接で、銃砲店兼シューティングレンジの江藤銃砲だ。
 扶桑皇国の銃規制は内地と敷島では雲泥の差がある。
 内地の方は前世の日本と変わらずだが、敷島に関してはかなり緩くて登録と許可を貰えばその日のうちに拳銃や散弾銃にライフルが購入できるし、マシンガンのような連射機能を持つフルオート火器や銃声を抑えるサプレッサー、短い銃身のライフルや散弾銃なら特別な許可と審査、税金を払えば購入可能だ。
 バスを降りて歩くとすぐにシューティングレンジ兼ガンショップである江藤銃砲に辿り着き、恐る恐るお店の扉を開けるとドアベルが鳴り、店内に私服の上にエプロン姿の喜代彦がいた。
「いらっしゃいませ」
「おはようございます……アルバイトの面接に来ました」
「おはよう草薙さん、ちょっと店長呼んでくるから待ってて」
 喜代彦はすぐにレジの奥に行って店長を呼びに行く。
 待ってる間に夏帆は店内を見回す、棚には各社製の様々な口径の弾薬、猟銃や狙撃銃に欠かせないスコープ、銃に取り付けるフラッシュライト等のパーツが綺麗に並べられていた。 
 奥に行くと厳重に施錠されたガラスケースの中に、拳銃や軍隊で使われる突撃銃をマシンガンのように連射できるフルオート機能をカットしたセミオートオンリーモデルが綺麗に並べられてる。
 夏帆はここが前世とは違う異世界だと改めて思い知らされ、息を呑むと短い天然パーマに毒蛇ような三白眼の店長がやってきた。
「おはようございます、君が草薙さんだね? 優や山森君から聞いたよ。早速面接しようか」
「はい! よろしくお願いします!」
 夏帆は深々と一礼する、ここに来たのはアルバイトの面接を受けるためだ。
 目的は内地にいる美由や妙子に会いに行くための旅費を稼ぐためで、丁度香奈枝を通じて喜代彦や優がバイトしてる銃砲店でアルバイト募集中だということを知り、申し込んだのだ。

 面接を受けると夏帆はレジの担当になった。すぐに夏帆はエプロンを渡され、まずは仕事場の見学となって喜代彦がまず店の倉庫に案内する。
「ここが店の倉庫、同じ銃でもパテントが切れて色んなメーカーが作っていて、メーカーが同じでも作動方式や表面の材質や仕上げ、口径、サイズ、銃身(バレル)の長さに銃床(ストック)の違い。それに同じ弾薬でも各社で供給されてるから弾頭重量、材質や形状も様々でわからないと思うけど少しずつ覚えていけばいいから」
 喜代彦の言う通りAR15の札が付いた棚を見ると、同じように見えて銃身の長さや銃床の形状等細かいところが仕様が異なり、刻印を見ると確かにメーカーも異なるし安全装置(セーフティ)を見ると《SAFE》と《FIRE》だけのが多くあるが紛れ込むように《SAFE》《SEMI》《AUTO》の三つある物もあって思わず夏帆は興味の眼差しになる。
「これはセレクティブファイアモデルだ、特別な許可が必要なフルオート――マシンガンの連射機能が付いてるんだ。ここはシューティングレンジも兼ねてるからレンタルして撃てる。次はそのレンジに行くよ」
「あっ、はい」
「そういえばスコープの付いたライフルあるでしょ?」
「これだよね?」
 喜代彦に訊かれると夏帆は壁にかけられてあるスコープ付きボルトアクションライフルに目をやる。確かに猛獣を撃つ猟師さんや、映画とかで狙撃手(スナイパー)が使ってる遠くまで見えそうなスコープを載せた銃が色々あった。
「種類にもよるけどこれ――」
 喜代彦はスコープ付きライフルにそっと触れる。
「――八〇〇メートル先の人間を殺せるし――」
 次にテーブルの上に置いて二脚(バイポッド)を展開し、デカイスコープを載せた人の背丈はある巨大なライフルをポンポンと叩く。
「――この五〇口径の対物(アンチマテリアル)ライフルなら二キロ先の人間を真っ二つのミンチにできるよ」
 怖っ! やっぱ銃って怖い!! ってことは手足や頭に当たれば跡形もなく吹き飛ぶだろう、夏帆は思わず訊いてみる。
「もし胴体に当たったら……」
「うん、内蔵ぶちまけて即死なら運がいい方で最悪悶え苦しみながら死ぬね」
 喜代彦の笑みが真っ黒く見えて滅茶苦茶怖い! 思わず背筋が凍りそうになって倉庫を抜け、お店の裏側にあるシューティングレンジに出る。常夏の太陽が眩しく照らすレンジは周囲を高く土盛りされている。
 喜代彦によれば流れ弾が外に出ないようにするためらしい。
 レンジの奥にAR15を持って装備を身に付けたシューターがいた。
 ガンメーカーのロゴキャップを被り、シューティンググラスやイヤーマフをかけ、腰には自動拳銃を差したホルスターやポーチを付けたデューティーベルトを巻き、私服の上に複数ポーチを付けて防弾チョッキを削ぎ落としたもの――プレートキャリアというらしい。
 そのシューターの傍らにもう一人、同じように装備を身に付けた人がいる。
「Are you ready? Stand by……」
 訛りのある英語でタイマーのような物を掲げたと思った瞬間に電子音が「ピーッ!」と鳴り響くと、シューターがAR15を素早く構えた。
「えっ?」
 夏帆が視線を向けた思った瞬間にはもう遅かった。
 AR15のフルオート射撃は猛獣が吼えるような銃声を撒き散らす、夏帆は耳を貫かれて脳内に直に響く銃声に耳を塞ぐ。
「きゃっ!!」
 凄い銃声! こんなの現世は勿論、前世でも聞かなかった!
 一発一発が簡単に人の命を奪う銃弾が放たれる、五秒足らずで撃ち尽くしたかと思うと素早く腰のホルスターに納めた自動拳銃に持ち替えて五発ほど撃つ。
 そして自動拳銃を無駄のない動きでホルスターに戻すとAR15のマガジンを素早くチェンジ、ボルトストップを押して後退し切ったボルトを前進させ、再度フルオートで撃ち尽くすとマガジンを外して各所をチェックするとAR15を降ろす。
 彼はイヤーマフを外して首にかけ、タイマーを持ったシューターと何かを話すと、夏帆に気付いて駆け寄ってきた。
「おはよう草薙さん、いらっしゃい」
 シューティンググラスを外すと爽やかな汗を流しながら鋭い眼差しが露になり、ロゴキャップを脱ぐと風に男の子にしては長い髪が靡いて夏帆は思わず頬を赤らめる。
「お、おはよう水無月君……今日からここでアルバイトすることになったの」
「そっか、一緒に頑張ろうね」
「本格的に働くのは月曜日の放課後からでレジの方なの」
「助かるよ、接客とか苦手だから……僕は裏の方でレンジの清掃やレンタル銃のメンテナンスの方が性に合うからね、明日が楽しみだ」
 優は微笑みながら明日を楽しみにしてるようだ。明日はみんなでアマテラスアースポートシティに遊びに行くのだが、喜代彦が申し訳なさそうに言う。
「ああそれなんだが優、草薙さん、明日来る奴が急用で来られなくなったんで俺が代わりに出ることにしたんだ」
「そうか残念……まぁ喜代彦君が代わりにやってくれるならその人も安心だよ」
 優の表情や口調は建前ではなく本音で言ってるように感じる、そういえば内地にいた時に美由や妙子には本音よりも建前で言うことの方が多かった。
 今度会ったら絶対に本音で接しようと決意しながら一日を江藤銃砲のバイト先の挨拶回りと仕事内容を色々教えてもらい、月曜の放課後からいよいよ本格的に美由と妙子に会いに行くための日々が始まる。

 待っててね美由ちゃん、妙ちゃん、必ず会いに行くから!

 ところが初日を終えて家に帰るため汐電に乗ってシートに座り、スマホを見ると凪沙からLINEが来ていて謝罪のスタンプとメッセージが送られてきた。
『ごめん! 欠員が出て明日、急遽漁船に乗らないといけないことになった!』
『わかったわ、気にしないで! オープンフェスティバル絶対にみんなで行こうね』
 夏帆は返信すると香奈枝も謝罪のスタンプとメッセージが送られてきた。
『こっちも今朝、従兄のお嫁さんの身内に不幸があったから行けない!』
『香奈枝ちゃんも気にしないで、山森君もアルバイトで来れなくなった人の代わりに出るからって』
 夏帆は返信すると香奈枝が送ってくる。
『あたしも聞いた、ミミナと優の三人になったけど楽しんできてね』
『うん、思い切り楽しんでくるわ』
 夏帆はメッセージを送ると凪沙が送ってくる。
『ミミナのことお願いね、あたしの方からも明日来れないって連絡しておくから』
『うん、任されたわ』
 夏帆は返信すると一息吐く、明日は三人でアースポートシティだが今のうちに人気のレストランや水族館、交通アクセスを再度確認しておこう。
 翌日、夏帆は優やミミナと一緒にカモメが鳴きながら飛び交う敷島港からアースポートシティに通じる水上バスに乗って出港、大勢の人々で賑わう客室を出て少数の家族連れやグループがいる屋上デッキに上がり、敷島湾の潮風にキャプリーヌが飛ばされないように押さえながら長い黒髪を靡かせる。
 今日はお気に入りの白いワンピースに空色の上着を羽織り、水色のミュールを履いていた。ミミナの方はカンカン帽を被って南国の海を彷彿される優雅なエメラルドグリーンのワンピース姿に、カラフルなオレンジのミュールを履いてまさに深窓の令嬢そのものな印象だ。
 彼女は夏帆に吹き付ける潮風にかき消されまいと大声で叫んで訊く。
「夏帆ちゃん! アースポートシティに来るのは初めて?」
「うん! 初めてよ! ミミナちゃん来たことあるの?」
「一度だけね! 小さい頃にお祖父様と一緒に来たわ!」
 ミミナは大声で言うと夏帆は近づいてくるアースポートシティに聳え立つ軌道エレベーターを見上げた、やっぱり近くで見ると大きい。
 アースポートシティへの交通アクセスは複数あり、車やバス、電車だとアマテラス海底トンネルや長い連絡橋のアースポートブリッジを通るが、電車の中で今回は敷島港から船に乗ることに決めたのだ。
 後を追うように出てきた優は以前親睦会で着てたのとあまり変わらない服装で、湾の外海の方をボーッと見ていてその姿を視線で追う。
 するとミミナは頬を赤らめながらも、好奇心に満ちた眼差しで夏帆に耳打ちする。
「ねぇねぇ夏帆ちゃん……臨海学校の時に屋上で水無月君とその……逢い引きしてたって本当?」
「ええっ!?」
「夏帆ちゃんもしかして知らない? 夏帆ちゃんと水無月君が臨海学校の時、屋上で逢い引きしてたって噂が流れてるの」
「ああ……それ……本当」
 噂じゃなくて事実だと告げるとミミナは両目を不等号の形にして裏返った声になる。
「きゃぁぁぁああああっ青しゅ~ん!! 夏帆ちゃん! どんなことを話したの!?」
 ミミナは瞳の奥を星団のように輝かせて訊き、夏帆は困惑しながらその時のことを思い出す。
 スマホのLINEで呼び出して一緒のベンチに座って話して星空を見上げて……名前呼びしそうだった。ああヤバイ! 思い出すだけでも死にそう!! 下手すればファーストキスしてたかも!?
「そうね、なんか――」
 あたしが憧れていた青春アニ――そこで夏帆は気付いた。
「――アニメみたいなことをしてた」
 そうだ、前世も青春アニメが好きでそれに憧れていた。
 美由ちゃんも妙ちゃんもアニメが好きで、一緒に深夜アニメをSNSでリアルタイム実況したり、ちょっぴりディープな同人誌をこっそり見せてくれたこともあったんだ。 
「もしかして……恋愛ものの青春アニメみたいなこと!?」
 ミミナは瞳の奥の星団が輝きを増すと、なんとなく美由を思い出して訊いた。
「ミミナちゃんってアニメとか見る方?」
「うん……ちょっと恥ずかしいけど……その……男の人同士の恋愛ものが……好きなの」
 ミミナは一転して恥ずかしげに頬を赤らめて辛うじて聞こえるくらいの声で呟く、これって結構とんでもない爆弾発言じゃない!? 夏帆はそっと顔を近づけてこっそり訊く。
「もしかして……BとLの薔薇色なジャンルの作品?」
「うん……恥ずかしいからみんなには内緒にしててね」
 ミミナは顔を真っ赤にしながら懇願してる、確かに敷島電鉄グループの御令嬢がBL好きの腐女子だってなんたら良くも悪くも話題になるだろう、夏帆は真剣な眼差しで頷く。
「勿論よ、美由ちゃんと妙ちゃんもそういうのが好きだから……」
「ありがとう……そういえば水無月君、どこを見てるんだろう?」
 ミミナの言う通り優はデッキの手摺に突っ伏してどこかを見てる、視線の先には湾の外。
「水無月君は初めて?」
「えっ? 何が?」
 優は目を丸くして見つめると夏帆は溜め息吐いて呆れる。
「もう水無月君……またお父さんのこと、考えてたでしょ?」
 夏帆は唇を尖らせて言うと優は図星なのか目を逸らす。
「わかってた?」
「わかるわよ、水無月君……あの海のどこかにお父さんがいるって考えてたでしょ?」
 夏帆は指摘すると優は寂しさと悲しさが入り雑じった表情で「……うん」と頷いて俯く、危ないところを二度も助けてくれた男の子がうじうじ悩んでるのも放っておけない。
「もう……ほら、前を向いて空を見上げて!」
 夏帆は大胆にも肩をポンと叩いて軌道エレベーターアマテラスに指を差す。
「今日はせっかくのアースポートシティよ! 美味しいもの飲んで食べて、軌道エレベーター見て、水族館見て楽しまなきゃ!」
 優は俯いていた顔を見上げると、夏帆は涼やかで艶やかな微笑みと声になる。
「水族館見ようって言ったの……君だから……ね!」
「……うん」
 優は頬を赤らめながらも、真っ直ぐ夏帆を見つめて頷く。一緒に見上げると、高さ一八五二メートルの巨大な塔が夏帆たちを出迎えるように天高く聳え立っていた。

『――本日は敷島観光汽船アマテラス・フリートをご利用いただき誠にありがとうございました。またのご利用をお待ちしております』
 桟橋に到着すると朗らかなアナウンスに見送られながら夏帆は大勢の乗客と共に水上バスを降りると、持ってきた七インチタブレットにあらかじめインストールしておいたアースポートシティガイドのアプリを起動させる。
 アースポートシティは軌道エレベーターアマテラスを中心として周辺には複数の駅や多数のバス停、複合商業施設やホテル、水族館、MICE施設であるコンベンションセンターが立ち並び、更にはそれを運営する敷島電鉄グループ企業のオフィスやヘリポートがある。
「夏帆ちゃん、水無月君、どこから行く?」
 ミミナは大声で言いながら長いエスカレーターの前に設置された直径三メートル弱程の円形のスタンドの所に駆け寄り、その端に設置された端末をぎこちない手付きで操作すると、アースポートシティの立体映像が表示されて赤い点が現在位置を表示していた。
「ここの丁度反対側にあるショッピングモールに行ってみない?」
 優が操作しながら提案するとAIが複数のルートを算出、アースポートシティ内には環状線の地下鉄に新交通システム(AGT)、最短ルートはここから長いエスカレーターを登って出た所にあるアースポートシティを回る新交通システム(AGT)スペースライナーの駅がある。
「それじゃあスペースライナーで行こうか!」
 夏帆の提案でスペースライナーの駅に向かい、前世で言うならお台場のゆりかもめや横浜シーサイドラインのような列車に乗る。車内は週末と言うこともあって家族連れやカップル、そして夏帆たちのように友達グループで来てる人々もいた。
 南桟橋前駅を発車して窓の外を見ると、世界最大の建造物となった軌道エレベーターアマテラスを背景に、近未来SFアニメで見たことのあるような街並みが広がる。
 夏帆はスマホを取り出して撮影、LINEで送る。
『美由ちゃん、妙ちゃん今日はもうすぐオープンするアマテラスに来てるよ』
 するとすぐに妙子から返信が来る。
『凄い! 近くで見ると大きいんじゃない!?』
『きっと実際に見るともっと凄いと思うよ』
 美由も返信してくると、ミミナも写真に撮ってスマホを弄っていて夏帆は思わず訊いてみる。
「ミミナちゃんは誰に送ってるの?」
「凪沙ちゃんや香奈枝ちゃんにお祖父様よ。特にお祖父様は小さい頃から今でも仕事が忙しくてなかなか家に帰って来れず会えないけど、私といつでも連絡できるようにってスマホの使い方を覚えてくれたの……ほらこれ、お祖父様凄く使いこなしてるわ!」
 ミミナが見せたスマホの画面には絵文字や顔文字を多用し、妙にテンションが高くてこの世界にもおじさん構文あるんだと関心するが、おじさん構文独特のねっとりした気持ち悪さなんて欠片もなく、寧ろ上品で紳士的なスマートさだ。
「……因みにミミナちゃんのお祖父さん何歳?」
「えっ? 七六歳だけどどうしたの?」
「……年齢に比べて結構若いんじゃない?」
「えっ? そうかな?」
 ミミナは首を傾げながらスマホを操作して画面を見せる。写真にはミミナと自撮りした写真で、ミミナの方は控えめに笑顔でピースしてるが一緒に写ってるスーツ姿の白髭に白髪の老紳士は微妙に首を傾け、ウィンクしてピースしてる。
「お祖父様って南九出身だから『わさもん好き』で流行りものとか目がないのよ――」
 ミミナは困ったように微笑みながら写真を何枚か見せる。確かに見た目は年相応だが、中身が若い女性――下手すれば女子高生かと突っ込まれても文句言えずミミナは苦笑する。
「――下手したら香奈枝ちゃんより流行りに敏感かも?」
「面白い人だね」
「うん、スマホを初めて買ってくれた時もこれで離れていても繋がっていられるって、何よりも人との繋がりを重んじる人だからね」
「離れていてもか……」
 ミミナの「離れていても繋がってる」という言葉に夏帆は胸に引っ掛かる気がして、ミミナも少し心配した表情になる。
「どうしたの?」
「ううん、どうしてかわからないけど何か引っ掛かる気がしたの」
「そっか、そのうちわかるといいね」
 ミミナはそれ以上詮索することなく微笑んで頷いた。 
 スペースライナーは三つあるショッピングモールのうちの一つと隣接した駅に停車する、ランチを食べたら水族館に行くが問題はどこで食べるかだ。
 老若男女で賑わうショッピングモールの屋上庭園に行くと、窓際に軌道エレベーターを見上げることができるハンバーガーレストランに入る。
 ミミナ曰く少々高いけど美味しいと言うお店のテラス席に座ると、高さ一八五二メートルの軌道エレベーターが目の前に聳え立つが不思議と威圧感は感じない。
 この前の臨海学校のことで会話が弾み、優は微笑みながら話す。
「――それで喜代彦君、僕が長男だってうっかり漏らしたおかげでこの前学校に来るなり、カッター部の人に入部を迫られたよ」
「大丈夫だった? カッター部の人たちってガタイがよくて押しも凄いし」
 ミミナは心配した表情で訊くと、夏帆も頷きながら一つの疑問が浮かぶ。
「ミミナちゃんは心配し過ぎよ、水産高校の厳つい三人をあたしの目の前で倒したんだから……ところでカッター部って……何?」
 夏帆は気まずそうに頭上に「?」を複数浮かべ、優は頷いてわかりやすくジェスチャーを交えて説明する。
「カッターボート、略してカッターって呼ばれてる手漕ぎボートの一種だよ。昔の大型船や皇国海軍の軍艦とかに載せていた救命ボートで今は水産高校や海軍、沿岸警備隊の基礎訓練用として使われて競技にもなってるけど……カッター部って昔ながらの体育会系でしかも軍隊的、上下関係も凄く厳しい風潮だから人気ないんだよね」
「だから時には強引な勧誘をするのよ。聞いた話しだけど、入部したら辞めさせてくれないし、朝早くから夜遅くまで練習は当たり前、休みも年末年始しかないって」
 ミミナが捕捉すると夏帆は思わずドン引きしてこの世界にはない言葉を口にする。
「うわぁ……それブラック部活じゃん」
「えっ? なにそれ?」
 優が首を傾げると夏帆は思わず「ハッ」として全身から冷や汗を滲ませ、首を横に振って思わず高い声になる。
「ううんなんでもない! ところでどうして水無月君に入部を迫るのかなぁ?」
「僕が代々海軍士官を輩出してる水無月家の長男だからかな? ……それがカッター部の人たちの耳に入ったみたい」
 優は憂鬱気味に溜め息吐く、家柄で見られるなんて前の世界では考えられないと思ったが、自分にも無関係ではないと気付く。
 薄らとだが前世も父は医者で母は看護師の医療従事者で尊敬の眼差しと同時にどこか避けられてるような感じだった。記憶を辿っているとミミナはキッとした表情になって刺々しくも凛とした声なる。
「その気持ちわかるわ、家柄なんて関係ないのに」
「うん……潮海さんもそれで苦労してるんだよね」
「苦労とまではいかないけどね――」
 優が頷くとミミナは苦笑しながら首を横に振る。
「――私を敷島電鉄グループ会長潮海一蔵(しおみいちぞう)の孫娘ってだけで入学式の時に新入生代表挨拶に選ばれたり、生徒会役員に立候補して何れ生徒会長になるように勧められたりしたことあったのよ……親にも電鉄グループの令嬢として恥ずかしくないようにって、家柄やお祖父様は関係ないのに」
 ミミナは俯くと優も同調して頷く。
「そうだよね、僕は僕、父さんは父さん、潮海さんは潮海さんでお祖父さんはお祖父さんなのにね」
「そう! それそれ!」
 ミミナは一番聞きたかった言葉のようだった。子は家柄や親の職業とか選べないもんね――前世で言うなら親ガチャとか言う奴だね、大当たり故の苦悩か? 夏帆はそっと目を伏せて言ってみる。
「それならさ、一度みんなの前でガツンと強く言ってみたら? 家柄や親なんて関係ない。あたしはあたしだって! 水無月君もミミナちゃんも見た目大人しそうだけど本当は強い子だって知ってる。だから――」
 それを前世で自分自身にも言っておくべきだったと、夏帆にはその後悔を不思議と覚えてる気がした。だから、凛とした眼差しで自分自身にも言い聞かせるつもりで二人に諭す。
「――みんなに好かれなくたっていいよ、偽りの自分を演じて多くの人に好かれるより……本当の自分を見てくれる人が一人でもいるほうがずっといいわ」
 沈黙した時間が流れ、ミミナは目を丸くして見つめて夏帆は思わず困惑する。
「えっ? 二人ともどうしたの?」
「草薙さん、なんか今大人っぽく見えた気がする」
 優は澄みきった眼差しを向けて言うとミミナも同感なのか頷く。
「私も、夏帆ちゃんなんか違う世界で生きてきた人みたい」
 違う世界と言う言葉に夏帆は思わず図星だと内心強張る。
 確かに前世の記憶を薄らと持ってるからかもしれないけど、それを言うなら思い出してないだけで水無月君もミミナも同じよと、夏帆は笑って誤魔化す。
「あはははは……そうかしら?」
「そんなわけないよ潮海さん、草薙さんは草薙さんだから」
「そうだよね、例えどこの世界から来たとしても夏帆ちゃんは夏帆ちゃんだから」
 優の穏やかで芯の通った言葉にミミナは頷く。ナイスアシストよ水無月君! するとミミナは慈しむような眼差しで夏帆と優を見つめると訊いた。
「水無月君、夏帆ちゃん……臨海学校の夜に逢い引きした話し、聞かせてくれる?」
「ああ……逢い引きね、どうする水無月君?」
 夏帆はやはり話をもちかけてきたかと優と目を合わせると、困ったように微笑む。
「そうだね……呼び出したのは草薙さんの方かな?」
「うん、凪沙ちゃんやミミナちゃんが言ってたように人との繋がりを大切にしようって言ったから……まずはここにいる友達との繋がりを深めなきゃって――」
 そこで夏帆は気が付いた。しまった! 繋がりを深めようと水無月君を誘ったなんて言ってるようなものだった! 気が付いた時には既に手遅れ、ミミナは聞き逃すわけがない! 両目を丸くして頬を赤らめ、両手を口元でクロスさせて裏返った声になる。
「そ、それで真っ先に水無月君を……」
「く、草薙さん……その……」
 優はあの夜を思い出したのか恥ずかしそうに仄かに頬を赤くして目を逸らし、時折チラ見してる、ピュアな女の子か! 海軍士官の長男坊がそれでいの!? と夏帆はそう言いたくなるほどの愛らしい仕草だった。
 するとミミナは意を決した表情で二人に諭す。
「水無月君! 夏帆ちゃん! 水族館では私のことは気にしないで楽しんで! 私二人のこと、応援してるから!」
 但しミミナの瞳は星団のように輝かせ、明らかに進展を期待してると言う眼差しだった。
 優は縋るような眼差しで見つめる。
「草薙さん……」
 何その上目遣い!? 何その小動物みたいな眼差し!? そんな可愛い目で見つめないでぇぇぇぇぇっ!! 夏帆は思わず見つめて困惑した。あなた、本当に海軍士官の長男坊? 今まで会った色んな子たちの中でぶっちぎりに可愛いんだけど……。

 ミミナは気遣ってくれたのか、夏帆と優から二・三歩置いて後ろをニコニコ見守るような笑みで歩く。ハンバーガーレストランを出てからはちょっと気まずい空気になりながらも、胸の鼓動がとても心地よい。
 ああ、やっぱりあたしは恋してるんだ、この内気で頼りないけど逞しい男の子に。
 ショッピングモールと隣接してる水族館――アクアリウム・アマテラスに入る。
 世界中から来てるのか人種、言語を問わず賑わっていて明らかに英語ではない言語も耳に入り館内アナウンスも四ヶ国語くらいはあった。
『――本日はアクアリウム・アマテラスにご来場いただき誠にありがとうございます』
 チケットを買って入場ゲートを通るとここでは敷島湾や敷島諸島周辺の水棲生物を展示しており、珊瑚礁の保全や保護活動、軌道エレベーター建設時の環境への負荷を最小限に抑えること等が展示されていた。
 夏帆は大まかに展示パネルを読んでみると、そういえばこの世界には持続可能な開発目標(SDGs)なんて言葉ないことを気付く。
 優は大小様々な色のカラフルな魚が泳ぐ水槽を見渡すと、夏帆は指を差す。
「あっ! これこれ! 菊水島にもいたよ!」
「へぇ~こんなに小さいんだね」
 優はカラフルで小さな魚の群れを目で追うと、夏帆はスマホを構えた。
 実は生き物って撮るのが凄く難しい、気まぐれに動き回りシャッターチャンスはほんの僅かでしかもいつ来るかわからない、おまけに人間の都合なんてどこ吹く風だ。
「う~んなかなか撮れないわね」
 夏帆は撮影した写真を確認して不満げに唇を尖らせる、ぶれた写真をそっと優に見せると彼は愛らしく微笑む。
「ホントだ、生き物撮るのって難しいもんね」
「んもう! 水無月君も撮ってみてよ! 難しいから!」
 夏帆は頬を膨らませると、優はスマホを取り出して構えて凛々しい眼差しになってほんの一瞬だけ息が止まって夏帆の時間も引き伸ばされる。
「あっ……」
 綺麗な瞳、それにやっぱり睫毛長い。
 見惚れたその瞬間、至近距離で優と目が合って更に時間が引き伸ばされ、見つめ合って夏帆は人々の喧騒にかき消されてしまいそうな声で囁く。
「……なんて思った?」
「えっ? その……綺麗な唇だなって」
「優君……キス……してみる?」 
 夏帆は潤んだ唇を艶かしく動かすが、その瞬間に後悔して我に返る。
 な、なんてこと言うのよぉぉぉぉぉぉあたしぃぃぃぃぃっ!! 馬鹿じゃないのぉぉぉぉぉぉっ!! 更に追い討ちをかけるように喧騒の中にシャッター音が響いた。
 ま・さ・か……夏帆は超絶嫌な予感がして全身から冷や汗を噴き出し、首の関節が錆びたかのように金切り音を立てながら聞こえた方に顔を向けると、ミミナがスマホのカメラを構えて満面の笑みで構えていた。
 夏帆は嫌な予感がしてミミナに詰め寄る。
「もしかして写真撮った?」
「うん――」
 ミミナは紅潮した顔をスマホで隠しながら首を縦に振って無邪気に笑う。
「――動画撮りながらね」
 ど、動画ぁぁぁぁぁぁっ!? そういえばこの世界のスマホ……前世に比べて格段に進化してるんだよね……3D投影プロジェクターアプリとかヘッド()マウント()ディスプレイ()を極限まで小型化高性能に進化したスマートギアに繋いで拡張()現実()のゲームとかできたりと早口で考えが過ってる間にミミナが甘酸っぱさを噛み締めた笑みで言う。
「水無月君にね、キスしてみる? って声……聞こえちゃった」
 ミミナの艶やかで裏返った声に、夏帆の心の中に扶桑皇国最高峰の磯城瑞山(しきのみずさん)(標高四二三九メートル)が跡形も無く吹き飛ばすほどの破局噴火を起こした。
 いやぁぁぁぁぁぁぁっ!! あたしの馬鹿ぁぁぁぁぁぁっ!! 頭から水蒸気を噴き出してると、察したミミナが慌ててスマホを鞄に入れて夏帆の両手を包むように握る。
「夏帆ちゃん!」
「えっ?」
 ハッとして我に返るとミミナは凛とした声と、芯の強さを全面に押し出した眼差しで見つめる。
「私、応援してるから! きっと水無月君も同じ気持ちだと思う!」
「う……うん」
 恥ずかしさ満点な夏帆は固く頷くと、優が首を傾げた表情で歩み寄って気遣う。
「草薙さん、大丈夫?」
「うん……なんとか大丈夫」
 真っ赤になった顔を隠しながら頷き、ミミナに目をやると彼女は期待に満ちた目で優に何かを合図してる。すると夏帆の左手に温かい感触がしたと思ったらそれに包まれ、それが優の右手だとわかった瞬間、夏帆の心拍数が危険を感じるほど急加速した。
「み、水無月君!?」
「えっと……その……人、多くなってきたから……はぐれないように」
 優は目を逸らず頬を赤らめながらも途切れ途切れで言う、多分それは口実なんだろうと夏帆は温かな笑みを見せて頷いた。
 薄暗い順路を歩いてると学校の体育館並みに広い空間の一階部分に出て、アクリルガラスの向こう側にはこの世界最大の巨大水槽が広がる。
 水槽には世界最大の魚類である五メートル前後のジンベエザメ数匹を中心にマンタや、様々な種類のエイ、数えきれない程の種類の魚が群れをなして泳いでいて、夏帆は思わずこんな密度、臨海学校の時には見られなかったと眺める。
 優は瞳を輝かせながらジンベエザメに指を差して訊いた。
「草薙さん! 臨海学校で見たホホジロザメ、あのジンベエザメくらいだった?」
「ううん、あのホホジロザメはもっと大きかったわ」
 夏帆は断言する。あのホホジロザメは六メートル以上でここのジンベエザメより大きいのは確かだった、それにしても大きな水槽で前世でも見られなかったもので夏帆は思わず呟く。
「こんな大きな水槽……美由ちゃんと妙ちゃんが見たらどんな顔するかな?」
 夏帆は内地にいた頃を思い出す。美由と妙子より少し後ろを歩いてついて行き、時折会話や撮影に参加する程度で積極的に輪に入ろうとしなかった。

――夏帆ちゃん! ほら見て! 綺麗なクラゲが沢山泳いでるよ!

 沢山のミズクラゲが泳いでる幻想的な水槽の前に、無邪気に瞳を輝かせながら美由は自分に手を伸ばしていた。いや、あれは差し伸べていたのだ。だけど自分がその手を取ることは最後までなかった。
 前世の記憶を思い出してからは後悔ばかりしてるなと、思わず溜め息を吐きそうになるが寸でのところで思い留まる。
 駄目だ! 溜め息なんか吐くな! 後悔するくらいなら反省しろ!
 そして美由ちゃんや妙ちゃんに会ってあの時、握らなかった手を握って今度は手と一緒に心も繋ぐんだ!
 決意を新たにした夏帆に優は首を傾げる。
「草薙さん、どうしたの?」
「ううん、いつか内地の友達をここに連れてこようと思ったの」
 夏帆は微笑んで首を横に振って言うとアクリルガラスに薄らと自分の顔が写る、伏し目がちだった切れ長の瞳が今は凛として見開いていた。
 順路である巨大な水槽の周りを歩いて、今日のお目当てとも言えるサメが展示されてるトンネル水槽前に辿り着くと、その中に入って見上げながら歩いて夏帆は指を差す。
「あのサメ、内地の水族館で見たことあるわ」
「シロワニだね、あんなに怖い顔してるのに大人しいんだ」
 優は無邪気に微笑むと夏帆もニカッと笑みを見せる。
「水無月君だって、大人しそうなルックスに反して気が強いんだから!」
「そんなことないよ、人は……負けたり、死ぬとわかっても立ち向かわないといけない時があるって、父さんが言ってたから」
「やっぱり水無月君のお父さん……素敵な人ね、モテるんじゃない?」
 夏帆はあの厳格なお父さんだけど、ルックスはよく見るとダンディなおじ様だったと思い出す。優は苦笑しながら頷く。
「凄くモテモテだよ、高校の時は大してモテなかったのに士官候補生になってからね……だけど父さんは今でも、そしてこれからも、母さん一筋なんだ」
「お母さんの方は?」
「お嬢様学校と言われた女子校出身で一八の時に卒業前にお見合い結婚して一九で僕を産んだんだ」
 優はなんともない口調で言うが、前世の記憶も持つ夏帆には戦前の日本!? と思わずツッコミ入れたくなるが扶桑皇国は限りなく日本に近い異国だ。歴史も似てるようで異なる歴史を歩んでる。
 こっそり計算するとお母さんは三〇代後半だと思いながら歩きながら横に目をやると、臨海学校のダイビングで見たオオメジロザメが泳いでるが、あの時よりずっと小さい。
 優は視線で追いかけながら訊く。
「このサメだよね? 最初に見たオオメジロザメ」
「うん、でも菊水島で見たのはもっと大きかったわ……この子は二メートルちょっとだけど、ダイビングで見たのは三メートル前後だったわ」
 夏帆は精悍な表情をしていたことを思い出しながら話すと、ミミナも真上を泳ぐイタチザメを見ながら訊く。
「じゃあ、あのイタチザメよりは小さかった?」
「うん、あの子よりは小さかったわ」
 真上を泳いでるイタチザメは四メートルくらいだろう、水槽をスマートに泳ぐがあの時見たオオメジロザメよりは大きいがホホジロザメよりはずっと小さかった。ホホジロザメの方はどっしりとした貫禄がありながらも優雅さがあった。
 視線で追いかける夏帆、ふと視線を感じてると優は静かにうっとりした眼差しで頬を赤らめながら横目で覗いていて、気付かれてないつもりだろうが夏帆にはバレバレだった。
 だから艶やかな微笑みで泳ぐイタチザメを視線で追いかけると見透かしてるかのように、優と視線が合う位置にゆらゆらと泳いで目と目が合おうとすると、優は慌ててオオメジロザメの方へと顔を逸らす。
 夏帆は思わずクスリと笑って耳元で甘い吐息と共に囁く。
「バレバレよ……優君」
「うっ……」
 優はきっと顔を真っ赤にしてるに違いない後ろを見ると、ミミナは堂々とニヤニヤしながら見ていた。
 トンネル水槽を抜けた広場には二〇年前に捕獲されたオスのホホジロザメが展示されていたが、菊水島のホホジロザメに比べて二回り小さいがそれでもミミナは畏怖の念でホホジロザメの剥製を見つめる。
「夏帆ちゃん、臨海学校のダイビングで見たサメってこれだよね?」
 ミミナが駆け寄ってスマホで二・三枚撮影して訊く、かなり大きくてパネルには体長四・五メートルと書かれていたが夏帆は頷く。
「うん、大きいわ――」
 このオスのホホジロザメは規格外の最大クラスだ。
「――オスのホホジロザメとしてはね」
「オスのホホジロザメとしては? もしかして……」
 優は確信した表情でその先を予想してるらしく、ミミナは剥製と夏帆に目をやりながら怯える。
「もしかしてって……何!?」
「菊水島で遭遇したメスは二回り大きいかったわ……ホホジロザメってね、オスよりメスの方が大きいの」
 夏帆はあの後、ホホジロザメの生態について調べて意外だと思ったのがオスよりメスの方が大きい生き物は多く、ホホジロザメもその中の一種だという。
 夏帆が見たホホジロザメは明らかにこの剥製より大きかった。和泉さんがインスタグラムに投稿した写真を解析した人によればあのホホジロザメはメスで体長は六・三メートル、推定体重は二・三トンと最大クラスだという。
 ミミナは強張らせた眼差しでホホジロザメの剥製を注視しながら訊く。
「もっと大きかったの? 食べられるかもって怖くなかった?」
「怖かったわ、でも凄く綺麗であんなに美しい生き物を間近で見られたのが凄く嬉しかった……もう二度と会えないけど、絶対に忘れない」
 夏帆は今もわだつみ海のどこかを優雅に泳いでるホホジロザメの姿に思いを馳せながら断言した。

 水族館を一通り回ると、イルカショーの真っ最中で盛り上がってるスタジアムの真下にある静かな水槽前フロアのソファーで腰を下ろしてパンパンになった足を伸ばす。
「疲れたぁ……結構歩いたわね」
 スマホの万歩計はとっくに一万歩を越えていて自販機で買ったスポーツドリンクを一口飲む。アクリルガラスの向こうにはイルカが鮮やかに水を切り裂いて泳ぎ、時折上の観客席の方から歓声が聞こえる。
 夏帆はジンベエザメが泳いでいた水槽を思い出しながら言う。
「それにしても、あんなに大きな水槽見るの初めてだったね」
「お祖父様が言ってたわ、あの水槽……実は世界最大なんだって!」
 左隣に座るミミナは誇らしげに言うと右隣の優は関心を寄せて訊く。
「へぇ~でもどうして軌道エレベーターの根本に水族館を?」
「そうねお祖母様は水族館が好きで、お祖父様のお話では中学に入った頃にお祖母様と水族館で出会って一目惚れして、中学生の終わりに水族館でお祖母様に告白して高校卒業の日に水族館でプロポーズしたってよく話してたわ」
 うっとり話すミミナに夏帆は試しに質問した。
「もしかして結婚式も水族館?」
「うん! 大学を卒業してすぐにね! お祖父様はいつも話してたわ――」
 ミミナはロマンチックに感じてるようだが夏帆は高校卒業の日にプロポーズして大学卒業してすぐ結婚、前世では考えられないと思う。前世では晩婚化を通り越して三〇代になっても結婚しない、生涯未婚の人が増えたって巷では騒がれてたわね。
「――軌道エレベーターは人類の未来のために、水族館はお祖母様のために作ったって! 私もね……いつか素敵な人と水族館で結婚式を挙げるのが夢なの!」
 ミミナは瞳を輝かせると夏帆は思わず気まずい気持ちになりながらツッコミを入れる。
「そ……その前に相手を見つけなきゃね」
「うん! 私も! いつか運命の人を必ず見つけてみせるわ! 夏帆ちゃんみたいに!」
 ミミナは羨望の眼差しで夏帆と誰かを交互に見ている、言うまでもなく優だと思いながら彼の方に視線を向けると思わず表情が固まった。
「水無月君どうしたの? そんな恥ずかしそうにして」
「あ……あのね草薙さん実は僕――」
 優は速い心臓の鼓動を必死に抑えようとしてるのか胸元を右手で押さえ、肩で呼吸して表情は火照っていて、呼吸も眼差しもかなり艶やかというかもうエロい。
 優は意を決した眼差しで真っ直ぐ見つめながら告げる。

「――草薙さんと隣にいるだけで身体中が凄く熱くて、胸がドキドキして今にも心臓がはち切れそうなんだけど……凄く心地いいんだ! 草薙さんに触れたい! 心を繋ぎたいって!」

 優は純情な乙女のように恥ずかしいことを堂々と言い放って、一瞬のようで長い沈黙が流れ、水槽のイルカたちが水面から顔を出して甲高い声を上げるのが聞こえた。
 真っ先に沈黙を破ったのはミミナで、瞳の奥がハートマークになって興奮のあまり頭から蒸気を噴射、裏返った声が三人だけのフロアに響き渡る。
「きゃあああああああああぁぁぁぁぁ!! 夏帆ちゃん! 今の聞いた? ねぇ聞いた!?」
 聞いてる夏帆の方は恥ずかしくなって顔を真っ赤にして両手で鼻と口を覆って内心叫ぶ。         
 それを恋っていうのよぉぉぉぉぉっ!! 純情な乙女かぁぁぁぁっ!!
 夏帆は優が兵予学校に落ちた理由がまさかこれじゃないよね? と疑うレベルだと感じながら頷いた。
「うん……聞いた」
 優はきっとはちきれそうな速い鼓動に耐えているのだろう、肩で呼吸しながら一途な眼差しで夏帆を見つめる。
「草薙さん……さっきの言葉……」
「ええっ!?」
 夏帆は優の「さっきの言葉」にドキッとすると、ミミナは察したのか軽やかにソファーから立ち上がって明らかに棒読みで演技してる口調になる。
「そ、そうだ! 私アイスが食べたくなっちゃった! さっき来た道に自販機あったからバニラアイス買って食べてくるね~!」
 来た道を颯爽と駆け足気味でフロアを出ていく、ちょっとミミナ! 気持ちはありがたいけどそんな露骨にやらなくても! 困惑する夏帆はその背中を見送るしかなかった。
 優はミミナに背中を押してもらったと思ったのだろう、普段涼やかな眼差しが覚悟に満ちた鋭い眼差しで夏帆を見つめて強く言い放つ。
「さっきの言葉……僕は本気だから!」
「……うん、わかる……あたしもね……臨海学校の時に星空を見上げた時にさ、心が凄く熱かったの――」
 優と見つめ合う夏帆は心の奥底を貫かれた気がして、躊躇わず呼びたかった言葉と本音を口にした。
「――水無月君と……ううん、優君と繋がりたい」
 夏帆はゆっくりと優と掌を重ね、細い指を艶かしく絡めてお互いの顔の吐息を感じる程近づけ、目蓋を閉じながらそっと柔らかな唇を重ねようとした時だった。
「あいびきしてる~!」
 女の子の無邪気な歓声がフロアに響いて夏帆は心臓が跳び出しそうになる、声のした方に視線を向けると、五歳くらいの女の子が瞳を輝かせて見ていた。
「コラッ! もう行くわよ!」
 気まずそうな母親は一瞥して申し訳ないというような表情で一礼し、女の子を順路の方へと半ば強引に連れて行った。
 どうやら上のイルカショーが終わったらしく、家族連れやカップルに友達グループがお喋りしながらぞろぞろとフロアに入ってきては順路の方へと歩いて行く。
「ああ……」
 気まずさと恥ずかしさでいっぱいになったが、やがてそんな自分が笑えるほど滑稽に感じて徐々に笑いが込み上げてきて、やがて堪えきれなくなって笑みが弾けた。
「ぷっ……ふふふふふふふ……あっはははっはっははっ!」
「草薙さん?」
 優はぽかんとした表情で夏帆を見つめ、やがて笑い過ぎて目に浮かんだ涙を拭う。
「ごめんごめん水無月君、なんだか凄くおかしくて……惑わせちゃったかな?」
「ううん、僕も同じ気持ちだよ」
 優は首を横に振って微笑み、夏帆は心を通わせるのが嬉しさで胸がいっぱいだがそういえばミミナが戻ってこない。
「そういえばミミナちゃん戻って来ないね」
「ああ潮海さんなら、そこで隠れて覗いてるよ! 潮海さん! そろそろ出てきたら?」
 優は芯の通った声を隅々まで響かせると、ミミナは恥ずかしそうにフロアの柱から顔を出して悪戯がバレちゃったかのような表情で歩み寄ってきた。
「ああ……やっぱりバレちゃった?」
「バレバレよミミナちゃん、丁度いいところでイルカショー終わっちゃったし」
 夏帆は残念と思いながらもどこか安堵の気持ちが沸く、ミミナは悔しそうな表情で肩を落とした。
「はぁ……残念!」
 大勢の人で賑わうアクアリウム・アマテラスを出ると海沿い二車線の幹線道路に出て循環バスの停留所へ向かう。
 すっかりクタクタで外は夕方だったが、写真や映像でしか見たことのない茜色の夕焼けと南国の潮風に、夏帆は目を細める眩しさと長い髪を靡かせる潮風の心地よさ、一日中友達と歩き回って楽しく過ごした疲れはリモートやオンラインでは味わえない。
 夕焼けに照らされて反射するアマテラスに見惚れて穏やかな笑みを浮かべる。
「綺麗……こんな夕焼け……初めて見るわ」
「……内地では見れないロマンチックな夕焼けだね」
 優も夏帆の隣に立って微笑む。ミミナはまだ諦めてないのか口角を上げたまま音も立てずこっそり横に二人きりにしようと、優は苦笑しながら引き留めるように呼ぶ。
「潮海さん」
「はいいっ!!」
 ミミナは裏返った声で飛び上がりそうなほど背筋をピンと伸ばして止まると、優は訊く。
「潮海さんは人の恋路を見守るのが好きなの?」
「う~んそうねぇなんというのかな? 人の幸せな表情を見るのが好きなのかなと思うの、お祖父様が言ってたわ……人の幸福を願い、人の不幸を悲しむことができる人になりなさいって」
 夏帆には前世でも考えてもいなかった言葉だ。
「人の幸福を願い……人の不幸を悲しむことができる人に?」
「うん、そうすればいい人たちと良い繋がりを持つことができるって……人の幸福を妬み、人の不幸を喜ぶような人になっちゃ駄目だって、そんな人になったら悪い繋がりしかなくなるって」
 ミミナの質問に夏帆はその通りだと思わず感心する。前世でもそうだったがSNSや実生活でも問わず他人の幸福を妬み他人の不幸を喜び、願う輩がいたことを思い出しながら横断歩道で青信号を待ってると、ミミナの言うことに優は頷く。
「そうだよね、悪い考えを持ってたら自分の周りには悪い人しか集まらなくなるよね……そう考えると僕は本当に人に恵まれてるよ」
「水無月君がいい人だからよ、二度も夏帆ちゃんを助けたんだから」
 ミミナは友達の幸せを心から願ってるのか優しい眼差しで二人を見つめる、人に恵まれてるのはあたしも同じだと胸いっぱいになる。内地の学校で入学式の日に手を差し伸べてくれた美由ちゃんと妙ちゃん、転校して友達になってくれたミミナちゃんや凪沙ちゃんに香奈枝ちゃんと山森君。
「草薙さん、潮海さんもうすぐバスが来るよ」
 そして二度も危ないところを助け、あたしに恋のときめきを教えてくれた優君は青になると丁字路の横断歩道を足早に二人の先を歩く、もうすぐ水上バス乗り場行きのバスが来る。
 こんなこと前世では考えることなかったな、夏帆は胸に心地好いものが満たされながら自然と笑みが浮かんで後に続き、優は横断歩道の半分を渡ると振り向いて待ってくれる。
 優の無邪気な笑みが愛らしくて夏帆も艶やかな眼差しで微笑みを返して、独り言を呟く。
「本当に夢みたいな日々ね……」
「どうしたの夏帆ちゃん? 急に?」
 ミミナに聞こえちゃったようだけど、包み隠す必要はどこにもない。
「ここに来てから――ううん、あの日手を差し伸べてくれた美由ちゃんと妙ちゃんと出会えてから夢みたいな日々……なんてね!」
「夢、目覚めたくない?」
「うん、勿論!」
 ミミナと微笑みを交わす夏帆、この瞬間さえも夢みたいだと思いながらふと左に視線を向けた瞬間、時間がスローモーションで引き伸ばされて目を見開いた。
 横断歩道に突っ込んでくるのは軌道エレベーターを巡回警備する無人警備車両(USV)で運転手はいない、その先には優がいる。
 USVの対人センサーが反応して急ブレーキをかける、もしくは回避行動を取ってくれると考える暇も迷う暇なんてなかった、次の瞬間には鞄を放り投げて優の方へとダッシュ!
「優君!」
 夏帆は叫びながら間に合って! と全身の体重を乗せ、優に体当たりして更に安全な距離を稼ぐために両腕を押し出して突き飛ばした。その刹那――青褪めた優と目が合って夏帆は微笑む。

――あたしのことは気にしないで、お父さんこと、ちゃんと向き合えばきっとわかり合えるわ。

 その瞬間、夏帆は全身がくだけ散ると感じる程の強烈な衝撃と鈍い激痛が襲い、意識がどこまでも深い闇の底へとに落ちた。


 息子が事故に遭ったという一報を受けて水無月定道(みなづきさだみち)大佐はすぐに空母信濃から敷島本島を繋ぎ、定期便として使われてるV22オスプレイに乗って一時間程で旧敷島国際空港――現敷島海軍航空基地に到着すると、市内の病院へは軍の公用車に乗った。
「すまないな、急に無茶を頼んで!」
「いいえ、早く息子さんの所へ! 駐車場で止めてロビーで待ってます!」
「ありがとう!」
 白い制服姿の水無月大佐は急な頼みを快く引き受けてくれた運転手に感謝して公用車を降りると、病院のロビーに入って受け付けの人に優の居場所を教えてもらうとすぐにその病棟へと急ぐ。
 その間も、優のことで頭がいっぱいだった。
 妻と少し歳の離れた弟――つまり義弟で優の叔父である弘樹によれば軽傷で済んだが、精神的ショックが酷いらしい、いくら私の息子で責任感や我慢強い優とはいえ交通事故に遭えば心の傷やトラウマだってできる。
「優……今行くからな」
 病棟に向かう水無月大佐の足取りが自然と速くなり、父親として何もしてやれずに寂しい思いをさせてしまったことを改めて悔いた。海軍兵予科学校の試験に落ちた時、ありきたりな励ましの言葉をかけることくらいしか自分は何もしてやれなかった。
 思えば生まれた時から今日まで任務や海軍航空隊の勤務で家を空けることが多く、運動会や授業参観にはいつも妻に任せていた。その分休暇には色んな所に旅行に連れて行き、欲しがってるものを買ってあげたりした。
 だがそんなものは自己満足でしかなかったことを、改めて思い知らされる。
「……すまない、優……もっと向き合うべきだった!」
 水無月大佐は呟きながら救急外来がある病棟に入ると、廊下のベンチに座ってる私服姿の優が見えて思わず安堵しそうになる。
「優! 怪我は――」
 水無月大佐は安堵した自分を激しく嫌悪して思わず足取りが重くなる。
 優の表情と眼差しは今まで見たことないほど罪悪感と自己嫌悪、そして悔恨の念に満ちていた、兵予学校の時以上に酷い。だが、ここで歩みを止めることは父親として許されなかった。
「……大丈夫か?」
 履いてる軍靴が異様に重く感じてると女の子が深刻な表情で声をかけてきた。
「あの! 水無月君のお父さんですか?」
「はい、確かに優の父です」
「私、水無月君のクラスメイトの潮海と申します――」
 このお嬢さんは以前南敷島中央駅で見たことがある。優と一緒に遊んでた子だろう見た目は勿論、言動にも気品を感じて良家のお嬢様かもしれない。
 潮海と名乗ったお嬢様は必死に動揺を抑え、冷静に伝えようとする。
「――実はお友達の夏帆ちゃん……草薙さんが、アマテラスの無人警備車両に跳ねられそうになった水無月君を庇って……意識不明だそうです」
 最後の一言を微かに震わせながらガラス張りの向こうにいる女の子に目を向ける、長い黒髪の可憐なお嬢さんで潮海さんと一緒にいた女の子だ。
「水無月君、お父さんが来たよ!」
「うん……わかってる」
 優は力なく頷いて瞳から光が消えていて、俯いたままベンチから立つがこのまま魂まで抜けてしまいそうで声も震えていた。 
「父さん……僕のせいで……草薙さんが……草薙さんが……」
「優……」
 水無月大佐はこういう時にかける言葉が出てこないし見つからないなんて、ずっと父親らしいことをしてこなかった報いなのか? そうして立ち尽くしてると、潮海さんが涙を浮かべながら優の背中を叩いて叱咤する。
「しっかりしなさい! 男の子でしょ!? 辛いのはわかるわ! 今は夏帆ちゃんが目を覚ますのを精一杯祈るのよ!」
 優に向けた言葉だが自分の胸にも突き刺さる、そうだ。嘆いてる場合ではないと水無月大佐は歩み寄って思い付く限りの毅然とした声をかける。
「優、自分を責めるな。目が覚めたら草薙さんに目一杯感謝するんだ、いいな?」
「うん……わかってる」
 優はゆっくりと首を縦に振ると、水無月大佐は潮海というお嬢さんに一瞥してほんの少し安心した。

――優、素晴らしい友達に巡り会えたんだな。
 第五章、色褪せた灰色の世界

 どれくらいの時間が経ったのかわからない、ぼーっとしていた意識が次第に覚醒し、ゆっくりと目を開けると全身は痛くない。
 それどころか包帯も巻かれてないし、点滴も打たれてなければ、酸素マスクも付けられてない。病院の集中治療室(ICU)ではないことに夏帆はどうしてそんなことを考えるのだろう? 
 その疑問も枕元にあるスマホのアラームが鳴り響いてかき消され、自室のベッドでいつものように起き上がる。
 夢は目を覚ますと忘れるが、物凄く長くて心地よい夢を見ていたことだけは覚えている。
 目、覚めたくなかったな。布団から出ると朝の六時過ぎでマンションの自室からリビングに入る、タイマーでセットされたテレビが既に点いていて朝のニュースが報じられていた。

『――昨日、東京都が発表した新型コロナウイルスの新規感染者数は今年最多の五六四一〇人。全国では感染者数は今年最多の三〇万人を超えておりオリオン株による今年度第三波の猛威は留まるところを知りません。専門家によれば今月中には四〇万人を達すると見て――』
 
 露骨に舌打ちしてリモコンの入力切替を押し、スマホのユーチューブアプリを起動してグーグルのクロームキャストで動画をテレビで見ながら一人、味気ない朝食のパンを食べる。
『弁当のおかずを作って冷蔵庫に入れてます』
 何百回使われてボロボロになったメモ紙、裏返すと既読の印で冷蔵庫を開けるとラップされた弁当箱を取り出した。

――もう嫌! こんな日々耐えられない! 今は我慢って、もう三年になるのよ!!

 昨日電話越しに泣き叫んでいた友達の声が頭から離れない、いつも通り身支度を整えて制服のブレザーを着ると、母が作ってくれたボロボロの布マスクを着けてボソッと呟く。
「……いつになったら終わるのかしら……」 
 こんな息苦しい日々、誰だってもう終わらせたいと思ってるのに。夏帆は問うが誰も答える人はいないし誰も答えられる人なんて、この世にいるわけない。

 思えば三年前、中学二年の終わりにやるはずだった修学旅行や、先輩方を見送る卒業式が中止になってそのまま臨時休校になった時から何もかもが狂い始め、元に戻らない日々が始まった。

 お正月、年末年始を九州熊本(くまもと)阿蘇(あそ)にある父の実家で過ごしていた。親戚のおじさんたちと新年の挨拶をさっさと終わらせてこたつに寝転び、タブレットであらかじめダウンロードしておいたアニメを見て予習していた。
 高校に入ったら、あたしもアニメみたいに放課後は友達と街を歩いてタピオカ飲みながらお喋りしたり、素敵な男の子と出会って甘酸っぱい恋をしたいな!
 夏帆は期待に胸を膨らませてゆっくり微笑む。中学に入った頃からいつの間にかアニメが好きなっていた、特に中高生の恋愛を描いた甘酸っぱくて爽やかで眩しい青春アニメが大好きだった。
 それがきっかけで友達もできたし、そのためなら中学三年の受験勉強だって頑張ってみせる! 大広間で新年の集まりで飲み騒いでる親戚たちの喧騒から逃れるように首輪の鈴を鳴らしながら一匹のキジトラ猫がとことこと歩み寄ってきて画面を覗き込む。
「どうしたのツナギ? 酒臭いおじさんたちから逃げてきたの?」
 夏帆は一時停止させてイヤホンを取り、一四歳になる雄猫――ツナギの背中を撫でると短く鳴いて返事する。来たばかりの頃、小さい夏帆と手を繋いでお昼寝したことからとツナギと名付けたという。人間で言えばもう七〇歳のお爺ちゃんでのんびり屋な猫ちゃんだ。
「どれ? お酒の匂いが付いてないか嗅いであげる」
 夏帆は無邪気な笑みを見せると両腕でツナギを抱き上げて手繰り寄せ、毛並みのいいモフモフの体に顔を埋めてすぅーっと鼻で息を吸う。
 嗚呼まさに至福の一時にツナギは「またかよ」と言いたげな表情とテンションの低い声で鳴く、猫吸いは麻薬並みの依存性があるらしいが本当らしい。実際父の実家に帰省すると一日何回も吸うし、東京町田に帰ると禁断症状を起こしそうになるほどだ。
 不満げに「勘弁してくれ」と言ってるように鳴くツナギに夏帆は唇を尖らせる。
「いいじゃない、もうすぐ東京に帰って春休みまでお預けなんだから……」
 もともとツナギは夏帆の家の猫だった。物心付いた時には家に住んでいて姉弟のように育ったが小学一年生の時に東京に引っ越すことになり、飼えなくなって父の実家に引き取られたのだ。
「ツナギ……東京は楽しいけど空が狭いわ……君を連れて帰りたい」
 東京へ引っ越す日、夏帆は手を引っ張る母親に抵抗して必死で遠くなっていくツナギに手を伸ばして泣き叫んだことをよく覚えてる。ツナギもすっかりお爺ちゃんだ、こうして過ごせる時間も残り少ない。
 もしいつか自分の家を持てるなら、ペットを飼える所がいいし高校入ったらアルバイトしてお金貯めて自分でツナギに会いに行こう、そして残り少ない時間を精一杯過ごすんだと心に誓ってツナギを抱き締めた。
「ツナギ……また帰ってくるからね、元気で待っててね」
 もうすぐ帰ることを察してるのか、ツナギは不安そうな声で鳴く。
 それがツナギと過ごした最期の正月だった。

 学校指定のローファーを履いて玄関の靴箱の上に立ててるツナギの遺影に「いってきます」と、寂しげに言って玄関のドアを開ける。四月の半ばにも関わらず寒い空気に冷たい雨が降っていて、夏帆はもう眉を潜める気にもならず傘を取ってそれを広げる。
「もう……雨が止んでも……夜が明けても……意味ないわね」
 夏帆は忌々しさを感じながら呟きながら傘を差す、結局楽しい高校生活はコロナに奪われた。

――明けない夜はない、止まない雨はない、去らない冬はない、出口のないトンネルはない、そんな言葉……もう聞きたくない!!

 昨日電話で泣き叫んでいたあの子の言う通りだった。
 大人たちに「もうやめて! 聞きたくない!」と泣き叫びたくなるほど聞かされた美辞麗句。結局、高校三年生になっても夜は明けず、雨は降り続け、凍えるように寒いまま、真っ暗な暗いトンネルの中にいる。
「? 一女ちゃん今日は休みなのかな?」
 東急田園都市線南町田グランベリーパーク駅で、いつも中学時代からの友達である峰岸(みねぎし)一女(ひとめ)と合流してから中央林間駅行きの電車に乗るが、今日はいない、昨日のこともあったしこのまま待っても遅刻するから先に乗ることにする。
『おはよう一女ちゃん、昨日は大丈夫だった? 今日は先に学校行ってるね』
 あれだけSNSで騒がれたのに当然のように見て見ぬふりされ、コロナ前と変わらない満員電車に乗る。夏帆は電車の内壁に寄りかかってスマホを見ると既読が付かず、夏帆は胸騒ぎがした。
 中学二年の冬、東京町田市に帰って冬休みが明けた辺りから綻びが現れ始め、やがて大きく広がって灰色になり、色褪せ始めた。
「えっ? 修学旅行……中止?」
 教室で夏帆は呆然と間違いかと思った。峰岸一女から告げられたことに訳がわからず嘘だと祈りながら訊いた。
「それ……本当なの一女ちゃん?」
「私も信じたくない……けどナギちゃん、先生に訊いたら本当だって」
 小柄で外はねセミロングの黒髪に黒縁眼鏡の大人しい小学生みたいに幼げな顔立ちはジャンガリアンハムスターみたいな風貌で、夏帆のことをナギちゃんと呼んでる一女の声が酷く落ち込んでる。
 半年前から一緒に京都を回ろうと約束していた修学旅行が中止になったのだ。
「ニュースやツィッターでも見たよね? 新型コロナウイルスが日本にも入ってきたって……どこに潜んでるかわからないから、中止になったって」
 一女の言うことはわかる、夏帆は虚しく頷く。
「うん、そうか……京都……一緒に行きたかったね」
 中国で発見された新型コロナウイルスが日本国内にも蔓延して国内にも感染者が出回り始め、先輩たちを見送るはずだった卒業式が中止になったと発表された数日後だった。

――卒業する先輩たちみんな我慢してるんだから、君たちも我慢するんだよ。

 先生や大人たちはみんな示し合わせたかのように異口同音でそう言った。
 こっそり口裏合わせしてるんじゃないかと半分疑い、半分確信するほどだったがそれも今だけ、来年はきっと元通りで時期に収まると信じよう。
 やがて臨時休校になり、緊急事態宣言が発令されて母親と買い物の手伝いで外出すると、瞳に映る世界が以前より息苦しく、灰色に色褪せてまるでディストピア小説だ。
 その間は高校生活に向けて受験勉強の合間に一女とLINEやビデオ通話でお喋りして過ごした。
 一回目の緊急事態宣言が解除され、暑くなってきた五月終わりのある日、夏帆は溜まりに溜まった我慢がいい加減限界に来ていた。今両親は家にいないが、一女の家に家族がいないとは限らない。
「ねぇ……一女ちゃん、誰かに盗み聞きされると嫌だからさ……個人チャットに切り替えてくれる?」
『うん、いいよ。一旦切るね』
 夏帆はビデオ通話を切ると、LINEの個人チャットに切り替えて覚悟を決めて提案する。
『今からさ、こっそり会わない? 緊急事態宣言も解除されたし、こっち家に親いないからさ、そっちはどう?』
 夏帆は悪戯を思い付いたキャラクターのスタンプを添えて送ってくると返信きた。
『うん、こっちもいないよ! 珍しく出社したわ』
『直接会ってお喋りしたい、LINEのビデオ通話や個人チャットじゃ味気ないでしょ?』
 夏帆は思うがままの気持ちを送信すると一女も気が乗っていたようだ。
『それじゃあどこで会う?』
『一時間後、南町田グランベリーパーク隣の鶴間公園!』
 そこは近所にある商業施設に隣接した広い公園で、夏帆は久し振りに心が躍らせながら私服に着替え、布マスクを付けると自転車に跨がって近所にある南町田グランベリーパーク隣の鶴間公園へと向かう。
 あそこは一女と何度も遊びに行ってる場所だ。公園近くの駐輪場に自転車を停めると公園に入る、すっかり暑くなってしまったが夏まで続くわけないよね?
 暑い……マスク外したい、夏帆はキョロキョロと見回して人がいないことを確認するとこっそり外してポケットに押し込み、公園に入ると感染症等どこ吹く風と言わんばかりに静かな時が流れ、所々で鳥の囀ずり声が聞こえる。
 都会の空気でもマスクを外して吸うのがこんなに心地いいなんて、幸い人影はどこにも見当たらないと思ってると一女を見つけ、手を伸ばして大きく手を振った。
「一女ちゃん!」
「ナギちゃん!」
 一女は夏帆を見つけると嬉しさをいっぱいにして、駆け寄ってくると夏帆も走り出す。
 ずっと家に籠りがちだったから体力の低下を感じながら息を切らして、足を動かすと肺と心臓が悲鳴を上げて全身から汗が滲み出てきた。
「一女ちゃん! なんか変だけど……久し振り!」
「変じゃないよ! やっぱりこうして会わなきゃ、ナギちゃんがいるって実感ないの……今実感したわ!」
 一女はマスクなんかしてたら絶対に見られない太陽のように眩しい笑みで首を横に振りながらお互いの両手を握り合う。一女の息遣い、ハツラツとした声、そして一女の血の通った手の感触と温もりはリモートやオンラインなんかじゃ味わえない。

 そう、これが人と人との繋がりなんだ!

 一女はマスクしてないが大丈夫だろうか? 夏帆は思わず訊く。
「マスクしてなくて大丈夫?」
「大丈夫大丈夫! 布マスクだから状況に応じて付けたり外してるの!」
 一女は悪戯っ子の笑みでウィンクして鞄から手製の布マスクを取り出して人差し指でクルクル回すと、夏帆も鞄から取り出して見せて同じように笑う。
「実はあたしも、これから暑くなるのにマスクなんて死ねって言ってるようなものよ!」
「それそれ! どこかに座っていっぱい話そう!」
「うん! 勿論!」
 夏帆は頷いて久し振りに一女とお喋りしながら公園内にある自動販売機でジュースを買い、森の中にあるベンチが目に入り、座るとお互いの近況報告から始まって他愛のないお喋りを始める。
「――それでさぁ、ナギちゃんは今シーズン何見てるの? やっぱり『放課後の秘密結社』?」
「うん、よくわかったね」
 夏帆は久し振りに心から笑って頷くと、一女も心から楽しそうに微笑む。
「だってナギちゃん、青春モノとか恋愛モノが大好きでしょ?」
「うん、高校入ったら放課後は一女ちゃんや友達と街でワイワイして、素敵な男の子見つけて……夏の太陽のように真っ赤に燃えるような恋がしたいわ」
「クサイ台詞、アニメの見過ぎ、でも最高じゃない! 来年の今頃はさ、彼氏と四人で一緒に湘南の海に行ったり、都内で遊びに行ったりしてさ!」
「うんうん、いいね! アルバイトして旅行とかにも行こう!」
「勿論よ! 因みにナギちゃんがどんな男の子がタイプ? 私は……大人しくて不器用でも芯が通ってるタイプかな? 髪型や見た目を整えたら美形って感じの!」
 一女は空を見上げながら両足を伸ばして言うと、夏帆は苦笑しながら言う。
「結局イケメンじゃない」
「いいえ、イケメンじゃなくて美少年よ! 少年から大人になろうとする――(中略)――ということなの!」
 一女の熱の籠った長い話しを聞くのも久し振りで、こんなにかけがえのないものだったと改めて実感する。
「み、見つかるといいね一女ちゃん、その時はさ、オンラインじゃなくてオフラインでダブルデートしよう!」
「いいわね! それ! オンライン帰省とかリモートとかで夏の太陽の暑さや、潮風の心地良さ、しょっぱくてひんやりした海の冷たさ、味わえると思う?」
「味わえないわよ、一女ちゃんの手を握った時……これこそが繋がりなんだって」
「そう! それそれ! 離れていても繋がってるなんて言葉、私信じないし、信じたくない!」
 一女は力強く断言する、夏帆は微笑んで頷いた。

 終点の中央林間駅で降りると東急田園都市線から乗り換えて小田急線に乗り換える、コロナの自粛で県境の越境を控えるようにと言われていたが無理な話だ。
 今夏帆がいるのは神奈川県大和市だ、小田急江ノ島線に乗り換えて町田行きの電車に乗って再度東京町田市に入るのだ。
 小田急線に乗ると夏帆は再度スマホをチェックするが、既読は付いてない。
「一女ちゃん……まさかコロナにかかったのかな?」
 昨日一女と電話した夏帆は急に不安な胸騒ぎを覚え、それが徐々に大きくなっていく。
 今世間を騒がせているオリオン株はオミクロン株やデルタ株より更に感染力が強力なタイプでおまけに潜伏期間が一ヶ月と長いのが特徴だという。
 デルタが去ったと思ったらオミクロン、オミクロンが去ったと思ったらまた新しい変異株が出るの繰り返しで今はオリオン株だ。
『一女ちゃん、大丈夫?』
 夏帆はきっと大丈夫、大丈夫だからと自分に言い聞かせながらスタンプと一緒に送信する、だが心臓の鼓動は速くなって呼吸が苦しそうになって泣き叫びたい気持ちになる。
 こんな胸騒ぎを感じたのは高校一年の二学期終わりの頃だ。

 中学を卒業して町田市内の高校に進学したが世間は息苦しいまま、高校入学してすぐにどこから情報が入ったのか、夏帆の父が医者で母が看護師――つまり医療従事者の子と知られ、尊敬の目で見られ、持て囃され、そして避けられた。
 それから半年以上が経って二〇二一年の終わりが近づいた十二月の冬休み前の放課後、別のクラスにいる一女と寄り道せず小田急線に乗って夏帆は思わず愚痴を溢した。
「親の職業って……選べないんだね」
「ああ、そうだね……夏帆ちゃんの親御さん、確かお父さんはお医者さんでお母さんが看護師さんだから街に寄り道して帰るの禁止されたんだよね?」
「うん、コロナ持って帰るかもしれないからって……スタバのテイクアウトも禁止だって」
「うわぁ……溜まんない、親ガチャって言葉が出回るのもわかる気がする……けど、私はそんな言葉使いたくないわ」
 一女は心を強く持とうとする眼差しで言う、因みに夏帆は親ガチャ外れたと密かに思っていて思わず「どうして?」と理由を訊く。
「人生は贈り物だからよ。どんなカードが配られるかわからない、けどそれを生きるのが人生なんだって……これ映画の受け売りだけどね!」
 ニカッと笑う一女もきっと町田駅周辺の繁華街で友達や彼氏とわいわいしたかったんだろう、ほんの少しだけ沈黙が流れて夏帆は少し沈んだ口調で訊く。
「一女ちゃんはいいの? あたしより……友達とか彼氏とかじゃなくて」
「私はナギちゃんと一緒がいいの、ナギちゃん……独りぼっちになって欲しくないから」
「一女ちゃん……ごめ――じゃない、ありがとう」
 夏帆は微笑むがそれをマスクが遮ってる、一女も微笑みを返す。
「どういたしまして、年末……二年振りに熊本に帰省できるんだって?」
「うん! 早くツナギに会いたいわ!」
 夏帆は頷く、ツナギも一六歳で人間で言うなら八〇歳のお爺ちゃんだ。会ったら一番最初に猫吸いしてやろうと今から楽しみだ、都内の感染者も減っていて来年の今頃はマスクなしで過ごせるといいな。
 そんな話をしながら南町田グランベリーパーク駅で降りて一女と約束する。
「それじゃあ帰ったらツナギ君の写真いっぱい見せてね!」
「うん、動画もいっぱい撮るわ! なんならユーチューブやツイッターに上げるわ!」
「いいわね! 楽しみにしてるわ! じゃあね!」
 夏帆は家路を急いでちょっと気が早いが、旅行の準備をしよう。
 駅の近くにある自宅マンションの玄関の扉を開けると、タイミングを見計らったかのようにリビングにある家の固定電話が鳴った。滅多にならないせいか家の奥の奥にあるにも関わらず玄関が響く、こんなに響くんだと夏帆は嫌な胸騒ぎを覚えた。
「誰だろう?」
 夏帆は無性に取りたくなかった、何だろう? 絶対に悪い報せだと本能的に確信して鳴り止むのを待つ、いつまで経っても鳴り止まない。確かこういうのを鬼電と呼ばれていたんだろう、鳴り止むまでの数分が果てしなく長く感じた。
 早く……早く……早く……鳴り止んでよ……悪い報せなんか聞きたくない!
 耳をつんざくような電話のベルがやがて鳴り止むと、夏帆は安堵して胸を撫で下ろした瞬間、鞄の中のスマホが震えてビクッとする。
「もう……うるさい……誰よ」
 夏帆は仕方なくスマホに手を伸ばす、その間にも全身から噴き出る汗が止まらない。スマホを握る手が汗で滲んでいて滑り落とさないように画面を見ると、熊本のお祖母ちゃんからだ。
「もしもし……お祖母ちゃん?」
『あっ、夏帆ちゃん? いきなりごめんね、びっくりしたでしょ? ちゃんと元気に勉強頑張ってる?』
「う……うん、いきなりどうしたの?」
 夏帆はすぐに本題に入るように促すと、重い祖母の口調が更に重くなる。
『あのね……今朝、ツナギが亡くなったの』
「えっ? 嘘……ツナギが? どうして?」
 夏帆の視界がぼやけて気が遠くなってしまう、理由を訊かなかったらそのまま意識を失っていただろう、祖母の声が夏帆と世界を繋ぎ止めた。
『朝起きたらね、いつもの炬燵(こたつ)んとこで眠ったまま冷たくなってたの……昨夜は元気だったから、苦しむことなく眠るように逝ったんだと思う――』
 それ以降、祖母の声を聞き流していて適当に相槌を打つしかなかった。