「今月のバイト代、出たでしょ? 早く出してくれる?」
「あ、うん……」

 家に帰ると、珍しく母親がいた。昼はスーパーで働いていて、夜はスナックで働いているお母さん。
 私はそんなお母さんに、高校生になってから毎日バイトするように命じられていた。バイト禁止じゃない高校はここと荒れている高校しかなかったから、必死になって勉強した日々を思い出す。

 そうやって必死に勉強して進学校に受かり、今でも真ん中くらいの成績をキープしているのに、私が進学できる可能性はかなり低そうだ。進学先が決められていることと、その奥にある歪な美へのこだわりを差し引いても、その点では皆崎さんのことが羨ましい。

『わたしという友達がさ』
 皆崎さんが友達と言ってくれたことが、頭をよぎる。もし皆崎さんが私の現状を知ったら、彼女は何と言ってくれるだろう。

「どうしたの? はやくしてちょうだい。自分の小遣いを1割差し引いて出すから口座は別にするって、お母さん嫌だけど許してあげたよね」

 それは当たり前のことなんじゃないかな。
 口からでかけた言葉を、グッと堪える。今までは反抗心すら芽生えなかったのに、皆崎さんと友達になってから心が自由になってしまったのかもしれない。その提案をしたのだって、いざとなれば通帳を持ち出して家出できるようにだ。これ以上を求めるには不相応である。

『だから大丈夫じゃなくても、嫌なことは嫌って言うよ。なりたい自分になるために』

 皆崎さんの凛とした声が、頭から離れない。ぐわんぐわんと、声が頭蓋骨に響く。
 私はああやって胸を張って言えない。皆崎さんと救うと目標を掲げておきながら、自分は環境にがんじがらめになっている。

 ひどく、自分が惨めな存在に思えた。小学生のとき、そこそこ話していた子から『休日お寿司を食べに行った』と言われたときのようだ。

「わかったよ。今財布出すから……」
 そこで、ハッとする。帰る道中に引き出していたのに、今日は皆崎さんと話していて忘れていた。誰かと会話したことに対する充足感が、辛い現実を忘れさせたのだ。

「ごめんなさい。今日、引き出すの忘れて」
 バンッ!

 勢いよく机が叩かれ、振動でカシャーン、とガラスのコップが落ちて割れる。百均のものだから弁償するにしてもダメージは少ないか。妙に冷静になる。

「どうしてあんたは私の足を引っ張るの! 食費だって、あんたがいるせいで無駄にかかるの。お母さんは必死に働いてるのに、どうしてわかってくれないの⁉︎」

 私が長いことまともにご飯を食べていないことは知っているはずだ。それに普段は自分で買っている。ただ私を罵倒したいだけ。その魂胆が透けて見える。
 お母さんは怒りのまま歩を進め、私の頬をパシンと叩いた。じんわりと痛みが走り、その部分が熱を帯びてゆく。すぅっと精神から感情が乖離する。

「あんたさえいなきゃ、もっと楽に生きられたのに。あんたなんて産まなきゃよかった」
 しくしくと泣き始めるお母さんを、私はどこか他人事のように俯瞰して見ていた。

「あんたのところになんて、生まれなきゃよかった」

 ほろりと、言葉が口から零れ出る。それは理不尽な境遇に生まれてしまった私の、小さな抵抗だった。
 視界がだんだん暗くなってゆく。このまま闇に身を委ねてしまおうか。何も考えずに、ただ虐げられる日々を生きる。皆崎さんと会う前の日々に戻って。

 お母さんは信じられないものを見たかのように、カッと目を見開いた。
「どうして‼︎」
 金切声が耳をつんざいた。お母さんが私の頭を殴り、次に足を蹴る。バランスを崩した身体を、お母さんは床に叩きつけた。もはや痛みすらなく、途方もない虚無が私を支配する。

「もう、死んじゃおうか」

 お母さんの手が、私の首にかけられる。こんなにも、私の首って細かったっけ。小さなお母さんの手の熱が、首を通して伝わる。
 クッと、緩やかに力を込められる。最初は息苦しくも何ともない。徐々に徐々に、遅効性の毒のようにお母さんの手が私の気管を締め付けてゆく。

『大丈夫じゃなくても、嫌なことは嫌って言うよ。なりたい自分になるために』

 走馬灯のようなものか。皆崎さんの声が頭のなかで響く。凛とした声が、メラメラと心を焚き付ける。
 なりたい自分。そんなものはないが、少なくともここで殺されるような存在にはなりたくない。

『高宮さんは苦しい境遇にある人を救える力があると思うよ。どれだけひどいことを言われても、殴られても、それを忘れないでほしいの』

 このまま流されちゃ、苦しい境遇にある人を救えない。今死んだら、皆崎さんだってショックを受けてしまう。私を肯定してくれて、友達だと言ってくれた人を傷つけてしまうではないか。

『また明日』
 別れ際そう言った。初めてできた友達に、嘘はつきたくない!

「離れろッッ!」

 十六年分の反抗を、一瞬にぶつける。

 突き飛ばした母親の身体はあっけなく壁に叩きつけられた。私と同じく、ロクに食べていないのだろう。
 自分でも信じられないくらいの大声が出たことに、びっくりする。母親もやはり信じられないようで、目をパチパチと瞬かせていた。
 そんな母が、何だかひどく惨めに思えた。まるで親に構ってもらえない子供のようで。

「じゃあね」

 一瞬でも長く、この人と離れたかった。それに今からバイトがある。これからお金を渡すつもりはないので辞めることも考えたが、諦めた。ここから離れるためにも、お金が必要だから。
 バイト先に制服なんてないのに、セーラー服のまま家から出る。

 吐き捨てた声は、ゾッとするほど冷たかった。