「わたしも高宮さんと同じで、お母さんのせいでまともに食べることができなくなったの。高宮さんとは方向性が違うし、苦痛が同じってわけじゃないんだけどね」
継母に虐げられるシンデレラのような声音で、彼女は言う。
もっとも原作と同じく、継母ではなく実母なのだが。
「お母さんはとにかく美しいものにこだわりつづける……言っちゃえば病気なの。少しでも美しいと思えないようなことをしたら、叩かれたり罵倒されたりする」
それこそ美しくないよね、と口角を上げる皆崎さんは、この世のものとは思えないほど美しかった。赤くなった夕日が彼女の横顔を照らす。
「付き合う友人も、食べるものも、着るものも。この高校に通ってるのだって、制服と名前がお母さんにとって耳障りがよかったから。私の意見なんて何にもない」
皆崎さんはパタパタと足を上下に振る。お母さんは、これを見て声を荒げたりするのだろうか。
だとすれば、相当しんどいだろう。
「うちはお金がなかったから泣く泣く公立校にしたみたいだけど、お金があったら名門女子校に無理矢理行かされてたかも。大変そうだし、お金がないっていうのも悪いことだけじゃないかもね」
痛みを見て見ぬふりしている、薄い笑みを浮かべていた。
その表情は、どこで身につけたものなの? 誰かに強制されたものなの?
聞きたいけれど、聞けなかった。張り詰めた空気が声帯を刺す。そのなかで淡々と、皆崎さんの独白は続いた。
「お母さんは自分に都合がいいことしか聞いてくれないの。わたしが『ご飯を食べられない』『美しいものって何』『そんなものに縋らないで』って訴えても、聞いてくれないか理性が死んだみたいに暴れ回る」
皆崎さんはそう言うと、ワイシャツのボタンを外し始めた。ぷち、ぷち、とボタンが外されるたびに白い肌が面積を増してゆく。
何をしてるの、とも言えず、私はただ皆崎さんの手が止まるまで待つしかなかった。
幸いにも彼女の手は第三ボタンで止まり、肩を見せるようにぐいと引っ張った。
「え……?」
美しい彼女には似合わない、紫色が広がっていた。私の身体にも何個かある、『醜い』を具現化したような皮膚。人間の醜さが映し出されたみたいで、殴られることよりも紫色の皮膚を見ることのほうが辛かった。
「最近、もしかしたら受け入れてくれるかもって『ご飯を食べるのがしんどい』って言ったの。これはそのときできた傷」
プールがなくてラッキーだった、なんて皆崎さんは笑う。その笑みの奥には痛々しい苦悩が見え隠れして、私の心臓をぎゅっと掴んだ。
「お母さんはわたしを傷つけたあと、一瞬動きが止まるの」
皆崎さんは遠くを見てつぶやく。
そういえば皆崎さんの家は駅の近所にあると聞いたことがある。もしかしたら家の方向を、お母さんがいる方向を見ているのかもしれない。
「動きを止めたあと、ハッとしたようにわたしを見て、ぎゅっと抱きしめてくれるんだ。ごめんね、ごめんねって何度も言ってぼろぼろ泣きながら」
皆崎さんの表情がくしゃりと歪み、今にも泣きそうなものになる。
私はお母さんに謝られたことはない。しかし想像することはできる。
『お母さんにひどいことをされた』
そうやって周囲に助けを求めたり、愚痴を言うことだって、先に謝られたら罪悪感が湧き出るだろう。謝ってくれたのにまだ追求するのか、許さない自分は性格が悪いんじゃないか、なんて思うかもしれない。傷ついたことは事実なのに。
皆崎さんは、罪悪感と自分の痛みに板挟みになっているのではないか。
歪んだ顔が何を意味しているのか、私にはわからない。それでも寄り添えると信じて、私は彼女に手を伸ばした。
「謝られても、辛いことには変わりないよね」
皆崎さんがそうしてくれたように、私も彼女の手に自分の手を重ねる。夏の温度が嘘のように、その指は冷え切っていた。
「私はどんなことでも肯定してあげるから。私だけじゃなくて、いつも話してる友達も。謝ったら辛いことが消えるなんて思ってる人はどこにもいないよ」
傷ついた心にも届くように、言葉を重ねる。皆崎さんは向こうにやっていた視線を私に向けた。
「そう、かな。わたしの声、聞いてくれるのかな」
「うん。私が保証する」
不安げに問う皆崎さんに、私は深く頷いた。皆崎さんの表情が綻ぶ。私の心も綻んだ。
「ありがとう。……高宮さ」
皆崎さんの言葉が途切れる。どうしたのだろう、と彼女の視線の先を追うと、小綺麗な中年の女性がいた。顔立ちはどこか皆崎さんに似ていて、女王のような風格を醸し出している。
間違いない。皆崎さんの母親だ。
重ねていた皆崎さんの指が、また温度を失ってゆく。夏の湿気がじっとりと肌にまとわりつく。
皆崎さんの母親の目は、ぎょろりと私を捉えている。
──付き合う友人は美しくないといけない。
それはさっき、皆崎さんが言っていたことだ。私は見るからに病気で、とても美しいとは言えない状態である。彼女の目に宿る殺気も、そのせいだと考えれば納得できた。
「お母さん、付き合う友人は考えなさいって言ったよね?」
母親の声に、皆崎さんは俯いて、ひとことも言葉を発さなかった。
「こんな醜い子と付き合って。美玖ちゃんは優しいから見捨てられないのかもしれないけど、美しくないものに価値はないの。どうしてわかってくれないの?」
皆崎さんは黙る。焦点を失った目は『ごめんね』と言っているようにも思えた。彼女の指先は小刻みに震える。
「……どうして、ここに来たの?」
「今日はノー部活デーでしょ。放課後遊ぶのは禁止してるし、どうしちゃったのか心配になったの。家の近くでよかったわ」
皆崎さんの母親はそう捲し立てて、私と重ねていた手を取る。冷えた手が離れ、夏の空気が指を温める。
夕日はもうじき地平線に落ちようとしていた。
「ほら、行くよ。美玖はお茶の水女子大学に行くんだから、早く勉強しないといけないでしょ」
その大学も、お母さんにとって美しいから志望校にされたのだろうか。
母親は皆崎さんの手を引っ張るが、彼女は動こうとしない。徐々に、母親の纏う空気が重くなる。
「ああもう、どうしていつもいつもいつもお母さんの言うこと聞いてくれないの⁉︎」
一層皆崎さんの手を強く引っ張り、彼女はベンチから地面へ叩きつけられた。皆崎さんは光を失った瞳で地面を眺めている。感情を逃した皆崎さんに、母親は怒りのまま言葉を投げつけた。
「こんな醜い子と一緒にいて、しかも反抗して! こんな子じゃなかったのに! あんたのせいよ‼︎」
最後にキッと私を睨みつける。子を殺されたような怒りが、その目からは読み取れた。
──そうか。
そこで納得する。皆崎さんの母親はまだ私に何か言っているようだったが、私も虐待されているおかげで聞こえないふりは得意だ。精神的な痛みにも、物理的な痛みにも強い。
──皆崎さんの母親にとって、子供は『無条件に自分の言うことを聞いてくれる存在』なんだ。
皆崎さんも悟っているのかはわからない。ポッと出の部外者だからわかることも、往々にしてある。
「……ああ」
母親が悲痛な表情を浮かべる。動きが固まった。
「ごめんね、こんな砂だらけで。だけど、こんな子と関わっちゃいけないのはわかるよね? お母さんは美玖のことを思って言ってるからね」
皆崎さんは地面を眺めながら、こくりと頷く。
──だめだよ、皆崎さん。
「それならよかった。もう怒らせないでちょうだいね」
──その謝罪は、謝ってないよ。
皆崎さんはまた頷くと、力のない足取りで母親の後ろについてゆく。首に汗がたらりと滴った。
継母に虐げられるシンデレラのような声音で、彼女は言う。
もっとも原作と同じく、継母ではなく実母なのだが。
「お母さんはとにかく美しいものにこだわりつづける……言っちゃえば病気なの。少しでも美しいと思えないようなことをしたら、叩かれたり罵倒されたりする」
それこそ美しくないよね、と口角を上げる皆崎さんは、この世のものとは思えないほど美しかった。赤くなった夕日が彼女の横顔を照らす。
「付き合う友人も、食べるものも、着るものも。この高校に通ってるのだって、制服と名前がお母さんにとって耳障りがよかったから。私の意見なんて何にもない」
皆崎さんはパタパタと足を上下に振る。お母さんは、これを見て声を荒げたりするのだろうか。
だとすれば、相当しんどいだろう。
「うちはお金がなかったから泣く泣く公立校にしたみたいだけど、お金があったら名門女子校に無理矢理行かされてたかも。大変そうだし、お金がないっていうのも悪いことだけじゃないかもね」
痛みを見て見ぬふりしている、薄い笑みを浮かべていた。
その表情は、どこで身につけたものなの? 誰かに強制されたものなの?
聞きたいけれど、聞けなかった。張り詰めた空気が声帯を刺す。そのなかで淡々と、皆崎さんの独白は続いた。
「お母さんは自分に都合がいいことしか聞いてくれないの。わたしが『ご飯を食べられない』『美しいものって何』『そんなものに縋らないで』って訴えても、聞いてくれないか理性が死んだみたいに暴れ回る」
皆崎さんはそう言うと、ワイシャツのボタンを外し始めた。ぷち、ぷち、とボタンが外されるたびに白い肌が面積を増してゆく。
何をしてるの、とも言えず、私はただ皆崎さんの手が止まるまで待つしかなかった。
幸いにも彼女の手は第三ボタンで止まり、肩を見せるようにぐいと引っ張った。
「え……?」
美しい彼女には似合わない、紫色が広がっていた。私の身体にも何個かある、『醜い』を具現化したような皮膚。人間の醜さが映し出されたみたいで、殴られることよりも紫色の皮膚を見ることのほうが辛かった。
「最近、もしかしたら受け入れてくれるかもって『ご飯を食べるのがしんどい』って言ったの。これはそのときできた傷」
プールがなくてラッキーだった、なんて皆崎さんは笑う。その笑みの奥には痛々しい苦悩が見え隠れして、私の心臓をぎゅっと掴んだ。
「お母さんはわたしを傷つけたあと、一瞬動きが止まるの」
皆崎さんは遠くを見てつぶやく。
そういえば皆崎さんの家は駅の近所にあると聞いたことがある。もしかしたら家の方向を、お母さんがいる方向を見ているのかもしれない。
「動きを止めたあと、ハッとしたようにわたしを見て、ぎゅっと抱きしめてくれるんだ。ごめんね、ごめんねって何度も言ってぼろぼろ泣きながら」
皆崎さんの表情がくしゃりと歪み、今にも泣きそうなものになる。
私はお母さんに謝られたことはない。しかし想像することはできる。
『お母さんにひどいことをされた』
そうやって周囲に助けを求めたり、愚痴を言うことだって、先に謝られたら罪悪感が湧き出るだろう。謝ってくれたのにまだ追求するのか、許さない自分は性格が悪いんじゃないか、なんて思うかもしれない。傷ついたことは事実なのに。
皆崎さんは、罪悪感と自分の痛みに板挟みになっているのではないか。
歪んだ顔が何を意味しているのか、私にはわからない。それでも寄り添えると信じて、私は彼女に手を伸ばした。
「謝られても、辛いことには変わりないよね」
皆崎さんがそうしてくれたように、私も彼女の手に自分の手を重ねる。夏の温度が嘘のように、その指は冷え切っていた。
「私はどんなことでも肯定してあげるから。私だけじゃなくて、いつも話してる友達も。謝ったら辛いことが消えるなんて思ってる人はどこにもいないよ」
傷ついた心にも届くように、言葉を重ねる。皆崎さんは向こうにやっていた視線を私に向けた。
「そう、かな。わたしの声、聞いてくれるのかな」
「うん。私が保証する」
不安げに問う皆崎さんに、私は深く頷いた。皆崎さんの表情が綻ぶ。私の心も綻んだ。
「ありがとう。……高宮さ」
皆崎さんの言葉が途切れる。どうしたのだろう、と彼女の視線の先を追うと、小綺麗な中年の女性がいた。顔立ちはどこか皆崎さんに似ていて、女王のような風格を醸し出している。
間違いない。皆崎さんの母親だ。
重ねていた皆崎さんの指が、また温度を失ってゆく。夏の湿気がじっとりと肌にまとわりつく。
皆崎さんの母親の目は、ぎょろりと私を捉えている。
──付き合う友人は美しくないといけない。
それはさっき、皆崎さんが言っていたことだ。私は見るからに病気で、とても美しいとは言えない状態である。彼女の目に宿る殺気も、そのせいだと考えれば納得できた。
「お母さん、付き合う友人は考えなさいって言ったよね?」
母親の声に、皆崎さんは俯いて、ひとことも言葉を発さなかった。
「こんな醜い子と付き合って。美玖ちゃんは優しいから見捨てられないのかもしれないけど、美しくないものに価値はないの。どうしてわかってくれないの?」
皆崎さんは黙る。焦点を失った目は『ごめんね』と言っているようにも思えた。彼女の指先は小刻みに震える。
「……どうして、ここに来たの?」
「今日はノー部活デーでしょ。放課後遊ぶのは禁止してるし、どうしちゃったのか心配になったの。家の近くでよかったわ」
皆崎さんの母親はそう捲し立てて、私と重ねていた手を取る。冷えた手が離れ、夏の空気が指を温める。
夕日はもうじき地平線に落ちようとしていた。
「ほら、行くよ。美玖はお茶の水女子大学に行くんだから、早く勉強しないといけないでしょ」
その大学も、お母さんにとって美しいから志望校にされたのだろうか。
母親は皆崎さんの手を引っ張るが、彼女は動こうとしない。徐々に、母親の纏う空気が重くなる。
「ああもう、どうしていつもいつもいつもお母さんの言うこと聞いてくれないの⁉︎」
一層皆崎さんの手を強く引っ張り、彼女はベンチから地面へ叩きつけられた。皆崎さんは光を失った瞳で地面を眺めている。感情を逃した皆崎さんに、母親は怒りのまま言葉を投げつけた。
「こんな醜い子と一緒にいて、しかも反抗して! こんな子じゃなかったのに! あんたのせいよ‼︎」
最後にキッと私を睨みつける。子を殺されたような怒りが、その目からは読み取れた。
──そうか。
そこで納得する。皆崎さんの母親はまだ私に何か言っているようだったが、私も虐待されているおかげで聞こえないふりは得意だ。精神的な痛みにも、物理的な痛みにも強い。
──皆崎さんの母親にとって、子供は『無条件に自分の言うことを聞いてくれる存在』なんだ。
皆崎さんも悟っているのかはわからない。ポッと出の部外者だからわかることも、往々にしてある。
「……ああ」
母親が悲痛な表情を浮かべる。動きが固まった。
「ごめんね、こんな砂だらけで。だけど、こんな子と関わっちゃいけないのはわかるよね? お母さんは美玖のことを思って言ってるからね」
皆崎さんは地面を眺めながら、こくりと頷く。
──だめだよ、皆崎さん。
「それならよかった。もう怒らせないでちょうだいね」
──その謝罪は、謝ってないよ。
皆崎さんはまた頷くと、力のない足取りで母親の後ろについてゆく。首に汗がたらりと滴った。