「なーんてね」

 皆崎さんはトイレの水を流し、笑ってみせる。その笑顔はいつもの『姫』だったが、今見ると何だか無味乾燥な表情にも見えた。

「皆崎、さん?」
 纏う雰囲気ががらりと変わったことを察知し、名前を呼ぶ。私を置いていかないでほしい、と訴える。

「今日は、ちょっと気持ち悪くなっただけ。別に悩みなんてないから、大丈夫だよ」
 皆崎さんの声は震えていた。嘘だ──確信する。

「本当に大丈夫なら、そんなに顔が青白くなってないよ」
「焦っちゃってさ。そのうちよくなるよ。……心配してくれてありがとうね」

 にっこりと笑う表情には覇気がない。今まで心のうちを話せるような存在がいなくて、怖くなってしまったのだろうか。気丈に振る舞おうとする意思すらも痛々しい。

 とはいえ、どうするか。

 皆崎さんと秘密を共有できる。そのことが私自身を救うことにも繋がった。他に有効な手段も見つかってない以上、私が普通の人間になるためには皆崎さんの協力が必須だ。それにこんな状況の皆崎さんを放っておけない。

 しかし、皆崎さんは私の手を拒否した。
 姫の望む方法は、何かないものか──?

「じゃあ、私の話を聞いてほしい」
「高宮さんの?」
「うん。私の摂食障害を治す手伝いをしてほしいの」

『皆崎さんは自分のために何かをすることが苦手なのではないか』
 そうかもしれないと考えたから、私のために、と強調して伝える。

『わたしの存在価値は、他人に都合よくいることしかないの』
 皆崎さんの切実な声音を思い出す。私には、まだ皆崎さんがどのような環境に生きて、どのような出来事があってこの自我が確立されたのかはわからない。

 だけど、間違っていることだけはわかった。

 皆崎さんが姫と呼ばれているのは、容姿だけではなく性格もいいから。現に私の容姿を気味悪がったり、侮辱した人は多くいるが、皆崎さんはそんなこと一言も言わなかった。それどころか優しくたしなめてくれたこともあるくらいだ。

 皆崎さんは優しい。だからちょっとくらい自分本位に生きたって、充分みんなから愛してもらえる。
 そのことを、自分の価値を、感じてほしいのだ。

「皆崎さん、私の悪口を言った人に注意してくれたよね。迷惑な話だけど、頼れる人は皆崎さんしかいないの。……放課後でも、学校の空き時間でもいつでもいいから、1日1回だけでも話を聞いてくれないかな?」

 ゆっくりと、皆崎さんに届くように言葉を紡ぐ。彼女はひとつひとつ丁寧に受け取っているのか、こくり、こくりとスローペースで頷く。

「そういうことなら、いいよ。高宮さんが前を向けるように、サポートするね」
 皆崎さんはふわりと微笑んだ。感情が感じ取れない表情ではなく、花が咲き誇るような笑顔。

「ありがとう」
 安心して、表情を綻ばせる。

 こうして、私たちの夏が始まった。