私の人生が変わったのは、夏休み一週間前のことだった。茹だるような暑さで、教室にクーラーが設置されていないことに苛立ったことを覚えている。

美玖(みく)ってば、また告白されたんだって? しかも、陸上で県大会優勝してた佐藤先輩!」
「えー、美玖、めっちゃモテるじゃん。まあ、そのルックスだったら納得だけど!」
「そう言われると嬉しいなぁ。凛奈(りんな)ちゃん、すっごくかわいいし。しかもそのシュシュとか、身につけるもののセンスもいいもん!」

 ひとり寂しくサンドイッチを頬張りながら、横目で女子高生らしく談笑をしている集団を見やる。

 その中心にいるのは『姫』と呼んでいる人も多い、皆崎(みなさき)美玖だ。姫という呼び名にふさわしく、クリクリした大きい目やふんわりとしたミディアムの髪、ほっそりとした体躯に加え、いつも表情には愛らしい笑顔が浮かんでいる。

 褒められても下手に謙遜をするわけでなく、さっきみたいに『嬉しい』といった言葉とそれを体現するような表情で返す。教室の雑用も率先してやるし、悪口を言っているところなんて誰も見たことがない。

『容姿もよければ、性格もいい』

 それが私たち2年A組の、皆崎さんへの評価だった。私のような日陰者でも、皆崎さんには好印象を持っている。紛れもなく、クラスの人気者だった。

 皆崎さんは小さい口でパクパク弁当を食べていると、しばらくして「ごめん、ちょっと席外すね」と申し訳なさそうに言った。食べている最中に『トイレ』と言わないのも気遣いの一種だろうか。

 私だったら何も考えずにそのまま口に出していただろう。皆崎さんはすごいな。

 内心で賞賛を送ると、ちょうどサンドイッチを食べ終えた。昼休みが終わる間近になると、トイレが混む。それに用事を済ますには早いほうがいい。まだみんなが昼食を食べている今のうちに行っておこう。

 そんな軽い気持ちで皆崎さんの後を追ったのは、運命だったのだろうか。

 トイレに着き、適当にいちばん奥の個室へ向かう。何となく安心できるし、万が一ギリギリの人が来ても邪魔にはならないから、なんてふわふわした理由だった。

「……え?」

 開けて、驚く。そこには便器に左手をつき、角度の問題で見えなかったがおそらく右手は喉に突っ込んでいるのであろう、皆崎さんの姿があったのだ。

「う、ぅ」

 ボチャ、ボチャ。食べた量は多くないのか、嘔吐する量も少ない。しかし私にショックを与えるのには充分すぎる光景だった。

 ──クラスの姫は昼休み、便器の前で喉に指を突っ込んで、嘔吐していたのだ。

 皆崎さんの苦悶に満ちた声が、私の耳を刺激する。ぽちゃり、と音がしたのは涙だろうか。
 悲惨としか言えなかった。声も出せずに、ただ立ち尽くす。皆崎さんは私に気づいていないみたいだ。時間も相まって、他に来る人はいない。私さえ見てみぬふりをすれば、姫は誰にとっても姫でいられる。

 わかっていたのに、足は動かない。無数の『どうして?』が頭を覆い尽くす。

『あんなに教室でちやほやされてるのに、こんな自傷行為みたいなことをするの?』
『スタイルも元々の顔だっていいのに、吐く必要なんてないでしょ?』
『あんなに恵まれているのに、いったい何のストレスが溜まってるの?』

 半分は妬みや僻みも混じった問い。しかし、最も気がかりだったのは──。

『相談する相手がいないの?』

 というものだった。
 皆崎さんは容姿と人柄ゆえ人望も厚い。食後吐いてしまうなんて悩みも、真摯に受け止めてくれる人は多いだろう。これで見限られることはないはずだ。むしろ、皆崎さんも人間なんだと安心する人も多いと思う。

 例えば、私のように。
 こうやって一人で抱え込んでいるということは、皆崎さんがそう思っていない証拠だ。

『もし皆崎さんを助けられるとしたら、私しかいない』
 普段だったら思わないようなことを確信する。これはきっと、暑さのせいだ。

「皆崎さん」

 いつもどもってしまう声は、すんなりと口から出すことができた。
 皆崎さんは鍵をかけていたはずなのだろう、顔面蒼白に目を見開き、幽霊でも見るような視線を私に向けた。

 ……実際、私の容姿は幽霊のようなものなのだから、仕方のないことか。

「私も吐こうと思ってここに来たの。よかったら、話、聞かせてくれないかな?」
 骨と皮だけだと親に言われた手を、皆崎さんに差し出す。ひさしぶりに出した声は、胃酸で掠れていた。