夕飯前、落ち着かなくなった私は、とりあえずいつもの町並みをランニングすることにした。

 日が落ちて夜が始まりかけた町並みは、帰宅ラッシュが落ち着いて一時の喧騒から解放されていた。といっても、なにもない田舎町だからこのまま眠りにつくしかないだけに、私はひっそりと闇に沈んでいくこの時間帯が好きだった。

 徐々にペースを上げながら、目的の公園を目指していく。小さい頃から、悩んだり落ち込んだ時には走って解決してきた。頭が空っぽになるまで走ることで気分をリフレッシュし、また次に向かって頑張るというのが私のスタイルだった。

 動画サイトにアップされた嶋田さんのインタビューをイヤホン越しに聞きながら、自分の今と嶋田さんを重ねてみる。嶋田さんには結果を出したい気持ちがあり、その点は私も同じだった。さらにいえば、私も嶋田さんもチームプレイではなく個人プレイでの勝ちにこだわっていた。

 ――え? ちょっと待って

 インタビューで自分勝手なレースを指摘された嶋田さんだったけど、その指摘に対する答えを聞いた私は、慌てスマホの画面に映る嶋田さんに目を向けた。

 ――余命を宣告されたお母さんがいるんだ

 険しい表情を崩すことなく語る嶋田さん。その背景には、余命少ないお母さんへの切実な思いがあふれていた。

 インタビューによると、嶋田さんは母子家庭に育ち、貧しい中でも競輪選手になるという夢をお母さんは支えてくれたという。

 そのお母さんに、最後にどうしても優勝した姿を見せて恩返ししたいというのが、嶋田さんが今回のレースで勝ちにこだわる理由だった。

 ――だから、先行できないでいたんだ

 最後は唇をきつく噛みしめた嶋田さんから、切実な覚悟が伝わってくる。きっと、自分の果たさないといけない役割と果たしたい目標の狭間で、嶋田さんは思い悩みながらも答えを出したんだろう。

 おじいちゃんに頭から煙が出ながら教えてもらった競輪の特徴によると、ラインの先頭を任された若い選手は、後ろの先輩選手を勝たせる為に走ることが多いらしい。そのため、最終周回では一番前に出て先行するけど、強い選手が競い合うレースでは自分が勝つことは難しくなるという。

 その代わりに、先行ではなく『まくり』といわれる後方からの追い上げを選択した場合、自分が勝つ確率が上がる分、後ろの選手が勝ち上がれない可能性も高くなる。

 だから、地元のファンはみんな嶋田さんに先行を期待している。グレードの高いレースでは、やっぱり地元の花形選手たちが勝つことをファンは求めているからだ。

「お、珍しいな」

 公園について一息つきかけたところで、ランニングシャツ姿の秀人が息を弾ませながら声をかけてきた。

「うん、ちょっと色々悩んでたから気分転換に走ってたの。って、秀人こそなにしてんの?」

「なにって、見ればわかるだろ?」

 いたずらが見つかった子どもが開き直るみたいに、秀人が頭をかきながらぼやいた。どうやら秀人も美由希と同じように、隠れて練習しているみたいだった。

「で、なにを真剣な顔をして観てたんだ?」

 無理矢理話題を変えるように、秀人が私のスマホを指さしてきた。

「嶋田さんのインタビューを聞いてたの。嶋田さん、お母さんのために頑張ってるみたいなんだ」

 イヤホンを秀人に渡し、二人並んで再度インタビューを再生する。画面から伝わってくる嶋田さんの切実な思いに、秀人の顔もすぐに険しくなっていった。

「勝ちたい理由としては、これ以上ないような気がする」

「だよね。競輪がチームプレイだとしてもさ、嶋田さんが自分勝手な走りをしても仕方ないと思うんだ」

 ラインというチームを組むからには、役割に徹しないといけないというのはわかる。けど、時にはそうした暗黙の了解を無視して自分を優先させてもいいのではと、私は考えていた。

「あのさ、千夏はどうして自分の勝ちにこだわるんだ?」

「え? 急になに?」

 険しい表情を保ったままの秀人が、なぜか私のことを聞いてきた。そこには普段の軽いノリはなく、どこか緊張した空気があった。

「嶋田さんの肩をもつから、千夏はまだ自分の勝ちを優先させたいと考えてるんだなって思ったんだ」

 ちょっと憂いを含んだ横顔で、秀人が弱く呟く。一瞬、私のことを否定するつもりなのかと思ったけど、秀人なら含みを持たすことなく否定するはずだから、別になにか思惑があるような気がした。

「そんなに勝ちにこだわることが悪いことなのかな?」

「どうしてそう思うんだ?」

「だって、嶋田さんには優勝しないといけない理由があるんだよ。だから、チームプレイとしての役割はわかるんだけど、それで自分が勝てなかったら意味ない気がして。うまく言えないけど、私も、どうしても勝ちたい理由があるから余計に嶋田さんの気持ちもわかるんだよね」

「千夏の勝ちたい理由ってなんだ?」

「それは――」

 当然の秀人の問いに、答えることができずに言葉が詰まった。私の勝ちたい理由は、勇也に認めてもらいたいからだ。走ること以外に取り柄のない私にしたら、今度の大会はある意味ラストチャンスだった。

 けど、それは自分勝手と言われても仕方がなかった。チームとして北陵学園に勝つには、自分の役割に徹する必要があることもわかっている。アンダーハンドパスが上手くいかない以上、オーバーハンドパスに切り替え、アンカーに北陵と差をつけられないようにバトンを渡すのが私の使命だ。

 そこまでわかっていたとしても、私には決断ができなかった。初めて勇也の走りを見て覚えた胸の高鳴りは、今でも思い出すだけで楽に再現できる。もしチャンスがあるとしたら、それが頼りないわらだとしても、私の気持ちはすがりたいのが本音だった。

「私、勇也に認めてもらいたいんだ」

 迷いながらもついた言葉は、私の本音だった。今までずっと黙っていたけど、秀人になら話してもいいと思ったから、私の気持ちを打ち明けてみた。

「やっぱりな。美由希も勇也のことが好きみたいだったし、千夏とうまくいかない理由となると、恋愛がらみしかないと思ってたよ」

 わずかに顔を伏せた秀人の横顔に、再び初めて会った時の嶋田さんの表情が重なっていく。秀人は笑っていたけど、無理しているように見えて、なんだか落ち着かない気分に陥ってしまった。

「打倒勇也に燃えてる俺に、そんなことよく言えるよな。ま、それが千夏なんだろうけどよ」

「ちょっと、いつから打倒勇也を目指してたの?」

 暗い表情から一転して、いつもの笑みに戻った秀人に安堵しながらツッコミを入れる。確かに秀人は同じ陸上部とはいえ、勇也をライバル視しているのはなんとなくわかってはいた。

「ったく、失礼なやつだな。こっちはずっと負けっぱなしだから、最後の大会で勇也には勝つつもりでいるんだよ」

「ふーん、あ、だから夜も練習しているんだ?」

「馬鹿、夜に練習しているのは、昼間できなかった――」

 私の問いに不満顔で切り返そうとしてきた秀人が、「やっぱなんでもない」と言葉を濁してきた。なにを言うつもりだったかわからなかった私は、慌てる秀人を黙って眺めるしかなかった。

「ま、俺は個人競技にしか参加しないから千夏とは違うけど、俺にも負けられない理由がある。だから、千夏のこともわからないでもないんだ」

「そっか。でも、それにしては私にチームプレイの大切さを押しつけてたよね?」

「別に押しつけるつもりはないさ。ただ、千夏には後悔だけはして欲しくないんだ。それに、千夏がどう判断したとしても、俺は応援するつもりだから」

 赤くなった顔をそむけ、ぎこちない声で秀人が呟いた。変に照れられるとこっちまで調子が狂いそうになったけど、秀人の気持ちはありがたく受け取った。

「ま、美由希も千夏も頑張ってるし、できれば北陵に勝ってほしいだけだ」

 無理矢理話をまとめた感じがしたけど、秀人の言葉にはいつもの温もりがあった。

「ありがと。私も、最後まで諦めずに頑張るから、秀人も勇也に勝つように頑張ってね」

 秀人のおかげで少しだけ胸が軽くなった私は、お礼を込めて秀人の背中を叩いた。

 一瞬、秀人が思い詰めたような表情を見せたけど、最後は秀人も苦笑いを浮かべながら私の言葉に何度もうなずいていた。