翌日、おじいちゃんに連れられて向かった先は、地元の競輪場だった。見た目は陸上競技場とあまり変わりはなく、バンクと呼ばれるレース場も一周四百メートルだから、お椀みたいないびつな形をしていなければ、陸上のトラックと差異は感じられなかった。
ギャンブル場という先入観から女の子お断りというイメージもあったけど、実際は子供連れや若い女性の姿もちらほらあり、建物もクリーンなイメージがあって当初の恐怖感はすぐに薄れていった。
といっても、やっぱりギャンブル場には変わりはなく、大半のお客さんがおじいちゃんみたいな年齢層であり、すぐに私はおじいちゃんの知り合いにからまれるはめになってしまった。
「なんか、ちょっとわくわくしてきた」
愛想笑いしか出ない空気の中、なぜか一緒についてきた秀人があっさり周りに溶け込んでいく。練習はどうしたとツッコミたかったけど、今はついてきてくれたことに密かに感謝した。
「今日、美由希と話す機会があった」
おじいちゃんたちが予想座談会に入ったのを見て、秀人が意味深な表情で話を切り出してきた。
「どうせ、私への不満だったんでしょ?」
「なんでそう思った?」
「だって、バトンパスがうまくいかなくなった原因も、オーバーハンドパスならうまくいくのにアンダーパスにこだわるのも、全部私だから」
自虐的に答えながらも、秀人の反応が気になった。美由希の近くに勇也の影を感じてからは、まともに美由希とは話していない。美由希も、きっと私の気持ちに気づいているからこそ、私のわがままに対して自分の意見を言えないのだろう。
だから、私以外の誰かに対しては、自分の気持ちを話しているかもしれない。美由希が今なにを考えているのかについては、私も嫉妬しながらも知りたいところだった。
「千夏の考えと真逆だった」
「え?」
「美由希は、なんとかしてバトンパスを成功させたいと悩んでた。それはなぜだと思う?」
秀人の予想外に、私は首を力なく横にふった。今の美由希の考えを予想できるほど、私はできた性格じゃないことを自分でもわかっていた。
「恩返ししたいんだとさ」
「恩返し?」
「中学の時、美由希は引っ込み思案のせいでいじめられていただろ? それを助けた千夏に今も感謝しているんだとよ。だから、打倒北陵に燃える千夏の力になんとかしてなりたいと本気で考えてた」
秀人の言葉が、私の醜い心の部分にトゲのように刺さってきた。むしろ美由希には恨まれてたほうが楽だったのに、今も陸上に誘ったことを感謝しているなんて言われたら、自分のわがまま加減が急に悪いことにしか思えなくなってしまう。
「ちなみに、美由希は夜に一人でずっと走り込みの練習をしている」
チラッと私を見た秀人が、レース場に集まってきた選手に視線を向けてぽつりと呟いた。
「美由希は、誰かさんと違って自分の役割をわかってるみたいだな。北陵は、第二走者にエースを配置してくるから、美由希はそのエースに差をつけられないように、千夏にバトンを渡すことだけを考えてたからな」
「ちょっと、なにが言いたいの?」
「お、始まるみたいだ」
私の質問を無視して、秀人はさっさとおじいちゃんの隣に移動していく。なんとなくだけど、秀人の言いたいことはわかっただけに、私は再びやるせない気持ちに沈んでいった。
――あ、嶋田さんだ
仕方なくバンクに目を向けた私は、鮮やかな赤いユニフォームを着た嶋田さんをすぐに見つけた。
「千夏、しっかり観ておくんだぞ」
隣にきた私に、おじいちゃんが含みのある口調でささやいた。正直なところ、私は競輪のルールや内容はまったく知らないから、観たところでなにがわかるか不安でしかなかった。
そんな私の戸惑いをよそに、号砲と同時にレースが始まった。まずは、競い合う九人がゆっくりとした流れから一列棒状を形成していく。嶋田さんは前から七番目に位置を取り、嶋田さんの後ろには二人の仲間が続いていた。
「なんか、やけにゆったりだな」
初めて競輪を観る秀人が、ぽつりと感想をこぼす。私ももっと激しいレースかと思っていただけに、淡々と一列のまま進んでいくことに拍子抜けした。
「見た目はそうだが、実際はもう心理戦が始まってる。今回は三つのラインが戦う三分戦だから、ラインの前を走る選手は、互いにどう戦うかのかけひきを水面下でやっているんだ」
私と秀人の感想に苦笑いしたおじいちゃんが、バンクを囲うフェンスに手をかけたまま淡々と教えてくれた。
――でも、そんな風にみえないんだけど
単調に進むレースにあくびが出そうになり、慌て口に手をあてた時だった。
――え? なに?
残り二周の実況が聞こえてきたところで、一気にレースの空気が変わっていくのを感じた。三人一組となった三つのラインが、入れ替わりに激しく前後しながら、突然鳴り響いた鐘を合図にするかのように一気にスピードを上げていった。
「残り一周半になると、ジャンという鐘が鳴るようになってる。そのジャンを合図に、一気に戦いが始まるんだ」
あっけにとられた私に、おじいちゃんが簡単に流れを説明する。なにがなんだかわからないけど、とりあえず目まぐるしい動きの後に嶋田さんが位置したのは、元の七番目だった。
『嶋田、なにやってんだ!』
残り一周になり、頬を殴るような風切り音を響かせて走っていく選手たち。その中で後方にいる嶋田さんに対して、怒号のごとくヤジが浴びせられていった。
その後は、本当にあっという間だった。なにがどうなったのかわからなかったけど、ひとつわかったのは、嶋田さんたちのラインは後方のままなにもできずに終わったみたいということだった。
当然のように、会場からは嶋田さんに対する非難がヤジとなってバンクに降り注いでいく。なにが悪かったのかわからない私は、下を向いたまま控え室に戻っていく嶋田さんに、ただ胸が痛くなるだけだった。
「おじいちゃん、嶋田さんのどこがいけなかったの?」
容赦ないヤジに嶋田さんがかわいそうに思えた私は、とりあえずレースの中身を聞いてみた。
「今のレース、三つのラインが入れ替わりしていただろ? あれは位置を巡って先頭選手が戦っていたんだ。本当なら、嶋田が一番前に出ていかないといけないのを、嶋田は後ろにあっさり下がったんだ」
忌々しく語るおじいちゃんからは、めったに見せない怒りが伝わってきた。どうやらお客さんの予想は嶋田さんが前を走っていくことで、嶋田さんの後ろにいた選手が一着になると考えていたみたいだった。
「でも、なんで嶋田さんは後ろに下がったの?」
「それは、嶋田が自分の勝ちにこだわったからだろうな」
「自分の勝ちにこだわる?」
ぽつりとこぼしたおじいちゃんの言葉が、深く胸に食い込んでくる。勝負の世界だから勝ちにこだわるのは当たり前だと思ったけど、周りはそう考えていないみたいだった。
「競輪はチーム戦でもあるから、ラインを組んだ以上はそれぞれに役割がある。ラインの先頭を任されたからには、ラインで勝つ競争をするべきなんだ。なのに、嶋田は役割もそっちのけで自分の勝ちを優先させた。その結果、他のラインにやられたんだから叩かれて当然なんだ」
私には激甘なのに、おじいちゃんの口から辛辣な言葉が絶え間なく続いていた。レースの内容はわからないけど、とりあえず役割という言葉だけがいつまでも胸の中に響き続いていた。
ギャンブル場という先入観から女の子お断りというイメージもあったけど、実際は子供連れや若い女性の姿もちらほらあり、建物もクリーンなイメージがあって当初の恐怖感はすぐに薄れていった。
といっても、やっぱりギャンブル場には変わりはなく、大半のお客さんがおじいちゃんみたいな年齢層であり、すぐに私はおじいちゃんの知り合いにからまれるはめになってしまった。
「なんか、ちょっとわくわくしてきた」
愛想笑いしか出ない空気の中、なぜか一緒についてきた秀人があっさり周りに溶け込んでいく。練習はどうしたとツッコミたかったけど、今はついてきてくれたことに密かに感謝した。
「今日、美由希と話す機会があった」
おじいちゃんたちが予想座談会に入ったのを見て、秀人が意味深な表情で話を切り出してきた。
「どうせ、私への不満だったんでしょ?」
「なんでそう思った?」
「だって、バトンパスがうまくいかなくなった原因も、オーバーハンドパスならうまくいくのにアンダーパスにこだわるのも、全部私だから」
自虐的に答えながらも、秀人の反応が気になった。美由希の近くに勇也の影を感じてからは、まともに美由希とは話していない。美由希も、きっと私の気持ちに気づいているからこそ、私のわがままに対して自分の意見を言えないのだろう。
だから、私以外の誰かに対しては、自分の気持ちを話しているかもしれない。美由希が今なにを考えているのかについては、私も嫉妬しながらも知りたいところだった。
「千夏の考えと真逆だった」
「え?」
「美由希は、なんとかしてバトンパスを成功させたいと悩んでた。それはなぜだと思う?」
秀人の予想外に、私は首を力なく横にふった。今の美由希の考えを予想できるほど、私はできた性格じゃないことを自分でもわかっていた。
「恩返ししたいんだとさ」
「恩返し?」
「中学の時、美由希は引っ込み思案のせいでいじめられていただろ? それを助けた千夏に今も感謝しているんだとよ。だから、打倒北陵に燃える千夏の力になんとかしてなりたいと本気で考えてた」
秀人の言葉が、私の醜い心の部分にトゲのように刺さってきた。むしろ美由希には恨まれてたほうが楽だったのに、今も陸上に誘ったことを感謝しているなんて言われたら、自分のわがまま加減が急に悪いことにしか思えなくなってしまう。
「ちなみに、美由希は夜に一人でずっと走り込みの練習をしている」
チラッと私を見た秀人が、レース場に集まってきた選手に視線を向けてぽつりと呟いた。
「美由希は、誰かさんと違って自分の役割をわかってるみたいだな。北陵は、第二走者にエースを配置してくるから、美由希はそのエースに差をつけられないように、千夏にバトンを渡すことだけを考えてたからな」
「ちょっと、なにが言いたいの?」
「お、始まるみたいだ」
私の質問を無視して、秀人はさっさとおじいちゃんの隣に移動していく。なんとなくだけど、秀人の言いたいことはわかっただけに、私は再びやるせない気持ちに沈んでいった。
――あ、嶋田さんだ
仕方なくバンクに目を向けた私は、鮮やかな赤いユニフォームを着た嶋田さんをすぐに見つけた。
「千夏、しっかり観ておくんだぞ」
隣にきた私に、おじいちゃんが含みのある口調でささやいた。正直なところ、私は競輪のルールや内容はまったく知らないから、観たところでなにがわかるか不安でしかなかった。
そんな私の戸惑いをよそに、号砲と同時にレースが始まった。まずは、競い合う九人がゆっくりとした流れから一列棒状を形成していく。嶋田さんは前から七番目に位置を取り、嶋田さんの後ろには二人の仲間が続いていた。
「なんか、やけにゆったりだな」
初めて競輪を観る秀人が、ぽつりと感想をこぼす。私ももっと激しいレースかと思っていただけに、淡々と一列のまま進んでいくことに拍子抜けした。
「見た目はそうだが、実際はもう心理戦が始まってる。今回は三つのラインが戦う三分戦だから、ラインの前を走る選手は、互いにどう戦うかのかけひきを水面下でやっているんだ」
私と秀人の感想に苦笑いしたおじいちゃんが、バンクを囲うフェンスに手をかけたまま淡々と教えてくれた。
――でも、そんな風にみえないんだけど
単調に進むレースにあくびが出そうになり、慌て口に手をあてた時だった。
――え? なに?
残り二周の実況が聞こえてきたところで、一気にレースの空気が変わっていくのを感じた。三人一組となった三つのラインが、入れ替わりに激しく前後しながら、突然鳴り響いた鐘を合図にするかのように一気にスピードを上げていった。
「残り一周半になると、ジャンという鐘が鳴るようになってる。そのジャンを合図に、一気に戦いが始まるんだ」
あっけにとられた私に、おじいちゃんが簡単に流れを説明する。なにがなんだかわからないけど、とりあえず目まぐるしい動きの後に嶋田さんが位置したのは、元の七番目だった。
『嶋田、なにやってんだ!』
残り一周になり、頬を殴るような風切り音を響かせて走っていく選手たち。その中で後方にいる嶋田さんに対して、怒号のごとくヤジが浴びせられていった。
その後は、本当にあっという間だった。なにがどうなったのかわからなかったけど、ひとつわかったのは、嶋田さんたちのラインは後方のままなにもできずに終わったみたいということだった。
当然のように、会場からは嶋田さんに対する非難がヤジとなってバンクに降り注いでいく。なにが悪かったのかわからない私は、下を向いたまま控え室に戻っていく嶋田さんに、ただ胸が痛くなるだけだった。
「おじいちゃん、嶋田さんのどこがいけなかったの?」
容赦ないヤジに嶋田さんがかわいそうに思えた私は、とりあえずレースの中身を聞いてみた。
「今のレース、三つのラインが入れ替わりしていただろ? あれは位置を巡って先頭選手が戦っていたんだ。本当なら、嶋田が一番前に出ていかないといけないのを、嶋田は後ろにあっさり下がったんだ」
忌々しく語るおじいちゃんからは、めったに見せない怒りが伝わってきた。どうやらお客さんの予想は嶋田さんが前を走っていくことで、嶋田さんの後ろにいた選手が一着になると考えていたみたいだった。
「でも、なんで嶋田さんは後ろに下がったの?」
「それは、嶋田が自分の勝ちにこだわったからだろうな」
「自分の勝ちにこだわる?」
ぽつりとこぼしたおじいちゃんの言葉が、深く胸に食い込んでくる。勝負の世界だから勝ちにこだわるのは当たり前だと思ったけど、周りはそう考えていないみたいだった。
「競輪はチーム戦でもあるから、ラインを組んだ以上はそれぞれに役割がある。ラインの先頭を任されたからには、ラインで勝つ競争をするべきなんだ。なのに、嶋田は役割もそっちのけで自分の勝ちを優先させた。その結果、他のラインにやられたんだから叩かれて当然なんだ」
私には激甘なのに、おじいちゃんの口から辛辣な言葉が絶え間なく続いていた。レースの内容はわからないけど、とりあえず役割という言葉だけがいつまでも胸の中に響き続いていた。