あの人に出会ったのは、心臓破りの坂道を無我夢中で走りきった時だった。

 セーラー服姿で両膝に手を置いて荒々しく肩で息をしている様子が、急病で苦しんでいるように見えたのだろう。『大丈夫?』とかけてきた声は柔らかくて、顔を上げた瞬間に息が止まってしまった。

 スポーツタイプの黒のヘルメットにサングラス。シャープな顔立ちとは対称的に、艶やかなユニフォーム越しに浮かび上がる筋肉質の体躯。特に黒のスパッツに包まれた太ももは丸太みたいで、私のママチャリとは雲泥の差を感じる高そうな競技用の自転車にまたがった姿は、どこか神々しくも見えた。

「あ、大丈夫です」

 急いで息を整えながら返事すると、その人はわずかにはにかんでうなずいた。見た感じ二十代半ばのお兄さんだけど、感じるオーラからはアスリート特有の威圧感があった。

 ――え?

 その人が、小さく手を上げて走り去っていく瞬間だった。

 ――なに? 

 ハンドルに手をかけた瞬間に見せた表情。明らかになにか思い詰めた表情は、夕暮れの空を背にして圧倒的な悲壮感を漂わせていた。

 ただ声をかけられただけなのに、なぜかその横顔が気になった私は、町並みに消えていく背中をただ見つめ続けていた。


 ◯ ◯ ◯


 家に帰ると、幼なじみの高田秀人がリビングでお母さんとくつろいでいた。その姿を見て、秀人にテストの対策を頼んでいたことを思い出した私は、慌て秀人の手を引いて部屋に向かった。

「千夏は相変わらずだな」

 落ち着きのない私に、秀人がため息混じりに呟く。秀人は、私と同じ陸上部で短距離走者だ。小さい時から走るのが好きだった私は、小さくて弱々しかった秀人を連れ回しては、走ることを楽しんでいた。

 それが今では色んなことが逆転している。すらりと伸びた背に、細身ながらがっちりとした体躯。私が知っているだけでも数人は秀人に想いを寄せている人がいるから、いい男であることには間違いなかった。

 そんな秀人に比べて、私は高校三年生ながら小学生に間違われるほどの童顔で小柄なままだった。そこに短くした髪型が相まって、小学生の男の子と思ったと言われるのがオチとなっていた。

「だって、テストも大事だけどさ、今度の大会は最後の大会だから」

 私を非難する秀人をテーブルの前に押し込みながら、言い訳を口にする。テストで赤点取るのはまずいけど、でも、高校最後の大会には特別な思い入れがあった。

「で、バトンパスはうまくいってるのか?」

 私専用の特訓ノートを開きながら、秀人がさりげなく探りをいれてくる。秀人に隠し事は無理だから、私は壮大なため息で答えた。

「どうしても美由希ちゃんとうまくいかないんだよね。それに、そもそも私が第三走者というのも納得いかないしさ、ほんと先生はなに考えてるのかわからないよ」

 口を開いたと同時に、胸にたまった不満があふれだした。高校最後の大会で私が挑むのは、四百メートルリレーだ。しかも、決勝であたることになるのが、これまで一度も勝てたことのない中高一貫の北陵学園だった。

 そのため、中学から悔しさを味わい続けた私と長谷川美由希は、今度の大会で勝つことに燃えていた。私と美由希は、木村長谷川コンビとしてそれなりに知られていて、最後の大会も美由希が第三走者で私がアンカーになるはずだった。

「まったく、直前になって変更するなんて本当におかしいよ」

 考え出したら怒りがわいてきた私は、頭に入らない公式に向かって握りこぶしを叩きつけた。アンカーとして、北陵学園を抜いて優勝することを目標にしていたのに、それを取り上げられたことには怒りしかなかった。

「でもさ、なんで急にバトンパスがうまくいかなくなったんだ?」

 頬杖をついた秀人が、呆れと心配を混ぜた表情で尋ねてくる。その質問に、不意に勇也の残像が頭に浮かび、一気に胸が苦しくなった。

 私と美由希は、中学から打倒北陵学園に燃える仲だ。それだけに、リレーの要であるバトンパスでミスすることはこれまでなかった。

 信頼関係が最も重要視されるバトンパスにおいて、その関係にヒビが入ったのは一ヶ月前のことだった。

 私が想いを寄せる同じ陸上部の佐々木勇也。陸上部のキャプテンであり、中学でもトップクラスだった秀人をさらに上回った走りに、私は密かに恋心を抱いていた。

 そんな私の耳に入った噂話。大会が終わったら勇也と美由希はつきあうかもしれないという話は、完璧だったバトンパスをものの見事に狂わせることになった。

「ま、バトンパスは練習すればいいとして、どうしてアンカーにこだわるわけ?」

 答えたくない私に気をつかってか、秀人がすぐに質問を切り替えてきた。

「見てもらいたいからかな」

 うっかりもらした言葉に、秀人の眉間にシワが刻まれていく。慌てて誤魔化したけど、わけありなのはバレたも同然だった。

 私がアンカーにこだわる理由は、私の走る姿を勇也に見てもらいたかったからだ。できれば、ライバルの北陵学園を抜き去る姿を見てもらうことで、勇也が私に目を向けることを期待していた。

 だから、一番注目の集まるアンカーに私はこだわっていた。みんなの注目が集まる中で、ライバルの北陵学園に勝つことができれば、きっと勇也も私を認めてくれる気がした。

 だから、ただのつなぎでしかない第三走者は嫌だった。もちろん、四人で走るリレーにはそれぞれに大切な役割があるから、ただの第三走者と見下すつもりはない。ライバルと差がつかないようにミスなくアンカーにバトンを渡していく役割は、どの走者とも変わらないくらい大切なことはわかってはいた。

「先生にも考えがあるだろうし、千夏のことを考えての選択だと思うよ」

 不満と苛立ちにむしゃくしゃする中、不意に秀人の弱い声が聞こえてきた。気になって秀人の顔を覗いた瞬間、今日出会ったあの人の悲壮感に満ちた顔が重なっていった。

「あの人と同じ……」

「え? あの人?」

「あ、ううん、ちょっとね。さっき見た人に似てたから」

 いつもは見せない秀人の顔に動揺した私は、追及の目に変わった秀人に負けてさっきの出来事を話した。

「そうなんだ。そういえば、千夏のおじいさんが言ってたけど、この辺りは競輪選手が街道練習で走ってるから、ひょっとしたらその人は競輪選手かもしれないな」

「競輪選手?」

「詳しくは知らないけど、気になるならおじいさんに聞いてみたら?」

 秀人の提案に、私はあの人のことが再び気になりだした。あんなに思い詰めた表情を見るのは初めてだったし、その表情が秀人と重なったことも気になってしかたなかった。

「そうしてみる」

 一瞬迷ったけど、引っかかりが妙に私を急かすように胸をざわつかせたせいで、私は秀人の提案を受け入れることにした。